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    お花見に行く話

    #しんしぐ

    しんしぐ  予定されていた朝一番に執り行われたオペは何事もなく完遂した。
     いつもどおりの手順で超集中から抜け、うっかりシャツのボタンを掛け違えながらも真也は身支度を整える。忘れ物がないことを一度二度、そして三度と入念に確認し、お疲れさまでしたと先輩医師や看護師と挨拶をかわしながら真也は病院をあとにした。
     正面玄関の自動ドアが開くと同時にやってきた風は、最近とみに春めいているせいかあたたかい。柔らかで新緑のにおいがする優しいそれが、嗅ぎなれた院内の空気を掻き消すように駆け抜けていった。
    「うん、今日もいい天気だな」
     すっかりてっぺんにいる太陽の光を遮るように手を翳しながらよく晴れた広い空見上げ、肺いっぱいに酸素を吸い込んで数分前に手配したタクシーが待っているのであろう正門を目指す。頬を撫でる風と躍るように淡い薄桃色の花弁があっちから、こっちからもやってきては真也の足元で戯れた。
     ――……そうか、もうそんな時期なんだ。
     あたたかくなってきて自然と踊る心の裏腹、この春の陽気のようなモラトリアムのゆりかごから巣立つ日がまた近くなったことに、やはり確かな寂しさを覚えてしまう。そんな想いを抱えたまま通り過ぎる花弁を横目で追いかけていると、何もないアスファルトの地面に足を取られかけたので気を取り直してタクシーへと向かった。
     すっかり顔なじみになったタクシーの運転手にいつも通り東雲学園までと行先を告げ、シートベルトを締めた後は滑らかに走り出す車から窓越しに外の景色を眺めることにする。今日は日曜日で、車越しでも体感できるほどにぽかぽか陽気だ。普段なら比較的スムーズな車通りも出かける人々が多いのだろう、少しだけ渋滞が出来ている。
     緩やかな速度で進んでいく車窓から眺めるいつも通りがかる公園には家族連れがたくさんいて、立派に花を咲かせた桜の木の下で弁当を広げている人々もいる。まさに春らしい光景に真也は優しく口許を綻ばせ、それからほんの少しだけ羨望の眼差しでその光景を見やった。

     それからまもなく渋滞は解消し、真也は早朝ぶりに帰寮してこっそり安堵の吐息を吐く。ただいま、といつも通りに声を掛けるが返事はなかった。
     そういえば朝から生徒会の仕事だっけ、とお互いに予定を書き込んでいるカレンダーを思い出しながら癖でぽいっと廊下へ丸まった靴下を落とす。それから慌てて拾い上げ、脱衣所に向かいランドリーバスケットに入れて入念に手洗いうがいを済ませてリビングに向かうと、テーブルにはラップがかかった皿と小さなスープジャーが置かれていた。
    「わっ、時雨お昼ごはん用意してくれたんだ!」
     飛びつくようにテーブルに向かうと断面が美しく規則正しく並べられたサンドイッチがある。そしてその皿の側にはシンプルなメモ書きまであって、それを読み上げると真也の表情がふにゃりと緩んだ。
     ありふれた内容のメッセージすらも時雨から貰ったものは真也の中では大事な物としてカテゴライズされており、万が一にも汚したり、なくしたりしてしまわないように財布の中にそっとしまい込む。あまり使わない紙幣よりも今日のような彼からのメモ書きで少しばかり膨らんだ財布をひと撫でしてから、急いで、でも慎重にラップを剥がすと皿の上にはタマゴサンドに瑞々しいトマトとレタスにこんがりと焼けたベーコンが挟まったBLTサンド。その隣にはツナとキュウリのシンプルなサンドに、ボリュームのある照り焼きチキンサンドが並んでいた。
    「うわあ、美味しそうっ」
     ふわりと鼻孔をくすぐる照り焼きチキンの甘辛い香りに食欲が刺激され、くうと腹の虫が騒ぎ出す。真也は苦笑してそれを宥めるように腹を撫で、次にスープジャーの蓋を開けた。中にはとろみのあるクラムチャウダーが入っており、ほこほこと上り立つ美味しそうな湯気に相好を崩す。
     もう我慢できない、と言わんばかりに再び盛大に鳴る腹の虫にせっつかれるようにして真也は居住まいを正し、そっと手を合わせていただきます、と呟いた。はいどうぞ、といつもの穏やかな声が聞こえたような気がしつつ真也はサンドイッチに手を伸ばす。
     まずはタマゴサンドへとひとくちかぶりついた。タマゴとマヨネーズが混ざったこっくりとした美味さの中に、ほんのりとからしの辛さと黒コショウの香りが食欲を刺激してくる。美味しさのあまり次から次へと手を伸ばしたい気持ちを抱えつつ、喉に詰まらせないようにしっかりと味わいながら咀嚼して嚥下した。
    そしてスプーンを手に取ってクラムチャウダーを口に運ぶと、ひとくち含んだだけで丁寧に作られたのがよくわかるほど野菜の甘さとアサリの旨味、ミルクやバターのまろやかさが合わさって口の中が幸せでいっぱいになる。
     時雨の作るごはんはおいしい。新鮮なレタスのシャキシャキとした食感が楽しいBLTサンドを頬張りながらおいしいなあ、と独りごちてしみじみと実感する。真也の頭の中には昨日も見た、大袈裟だよと恥ずかしそうに、でも少し嬉しそうに笑う時雨が浮かんだ。苦手なはずのひとりの食事でも、時雨のごはんを食べるときは彼が傍にいる気持ちになれて楽しい。
     噛み締めるように食べていたはずの皿に並ぶサンドイッチは順調にひとつ、またひとつとなくなっていき、そう時間も掛からずクラムチャウダーまでしっかりと飲み干して真也はごちそうさまでした、と静かに手を合わせた。

     身体の栄養も心の栄養もしっかり摂った後は課題を済ませたり先日ようやく手に入れた医学書を手に読書をしたりして過ごすと、気づけば大きな窓からは穏やかなオレンジ色が注いで部屋を淡く染め上げていた。
     区切りのいいところまで読み込んでしおりを挟み、固まった背筋を伸ばすように顔を上げると同時に部屋のドアが開く音が聞こえる。さっきまで読んでいた本はさっさとデスクに置き去りにして急ぎ足で玄関へと向かった。
    「時雨、おかえり!」
    「ただいま。真也、お疲れ様です」
    「うん、時雨もお疲れさま」
     寮へ帰る前にいつも通っているストアに寄ってきたのだろう時雨の手にさがっているエコバッグを預かりともにリビングまで向かう。
    「ありがとう。サンドイッチは大丈夫でしたか?」
    「全部美味しかったよ! あっという間に食べちゃった。いつもありがとな」
    「それならよかった。……ああ、そうだ真也」
     ミニ冷蔵庫に部屋で使う食材をしまいながら昼食の感想を述べれば時雨は小さく微笑んで、なにかを思い出したように真也の名を呼んだ。
    「どうしたの?」
    「来週、何も予定がなければ大通りの公園に桜を見に行きませんか?」
    「えっ」
    「天気予報も今のところ晴れのようだし、弁当も持って」
     大通りの公園といえば、病院帰りの際にいつも通りがかっているあの公園だ。今日見かけたあたたかな光景が自然とまた浮かんで、真也は目を輝かせて大きく頷いた。
    「行く!」
     思ったよりも大きな声が出て驚いたのか、時雨は少し目を丸くする。そんな彼に真也はごめん、と笑って改めて行きたい、と深く頷いた。
    「……僕も、今日公園でピクニックしてる人たちを見たんだ。それで、時雨と行けたらなって思ってて」
     時雨ってば実はエスパー? なんておどけてみせる。時雨もそれに合わせてそうかも、とくすくす笑った。
    「じゃあ、いつもより頑張らないといけないな」
    「僕も手伝うから、任せてよ」
    「それは心強いですね。それなら真也、さっそくだけど手伝ってくれる?」
     普段は怪我をすると大変だから、と気遣ってくれる時雨のその言葉に真也はわかりやすく期待に満ちた顔で彼の整った顔を見つめた。他人から見れば、さながら尻尾をぶんぶん振りながら主人の命令を待つ人懐こい犬のようだ。
    「なになにっ?」
    「まずは、弁当の中身のリクエストをお願いします」
     真也につられるようにして楽しげな表情の時雨から提示されたお手伝いの内容は、弁当を作るにおいて一番に決めることで、とても重要なものだ。真也は一転して真面目な顔つきになり、顎に手を添えてうーん、と唸りながら思考を巡らせていく。
    「まず卵焼きでしょ、あとウインナーと……」
    「タコさんにする?」
    「そう、タコさん! それと唐揚げが食べたいな。この間作ってくれたやつ、すっごく美味しかったから」
     柔らかくてジューシーな肉汁が溢れる唐揚げを思い出して、また腹の虫が小さく疼く。真也のリクエストに時雨も顔を綻ばせて、うん、と頷いた。
    「塩麹のやつか。あの時は真也いつもよりいっぱい食べてくれましたね」
    「へへ、次の日のお弁当にも入ってて嬉しかったから、今度お花見するときも入れて欲しいな。あっ、あと肉じゃがも!」
    「はい、もちろん喜んで。それじゃあ次。主食はパン? ごはん? どっちにする?」
     魅力的な選択肢にまたも真也は深く考える。パンならサンドイッチ、ごはんならおにぎりとそこまで絞れて、けれどこんな残酷な二者択一はそう簡単には決められなさそうだ。
    「時雨のおにぎりもサンドイッチも美味しいから悩むなあ」
    「ふふ、じゃあ両方にしようか」
    「えっ、いいのっ!?」
     うんうんと最難の選択を迫られているのかというほどに悩むその姿をおかしそうに小さく笑いながら眺める時雨から、少しの時間を置いて追加で提示された救済措置に真也はぱっと顔を上げ、目を丸くさせる。
    「いいですよ。おにぎりの具は鮭と昆布におかかでどうですか?」
    「うん、最高だな! じゃあサンドイッチはタマゴとハムキュウリと……今日の照り焼きチキンのサンドが美味しかったから、それも入れてほしい」
     時雨の作る料理は本当に美味しくてあれもこれもと好きなおかずを挙げたくなるけれど、お弁当箱の容量は有限だ。真也は好きなおかずの中でもより厳選しながらラインナップしていく。
    「ーー……わかりました。では、腕によりをかけて作らないと」
     真也が並べるリクエストをインプットして、時雨の頭の中ではもすでに弁当箱のレイアウトと当日の手順が組み立て始められているのだろう。
    「やった、週末が楽しみだな!」
    「桜、あまり散ってないといいけれど」
    「最近あったかいからね。でも、大丈夫だよきっと。早く日曜日にならないかなあ」
     時雨と過ごす学校での時間も楽しくて好きだけれど、その先にもっと楽しみなことが待っているとなると気持ちがそちらに向かうのは仕方のないことだ。浮かれる真也に時雨は小さく笑った。
    「もう、気が早いな真也は」
    「だって、時雨と出掛けられるのが嬉しいんだ。それにお花見なんてこの時期にしかできないしね」
    「それは、そうだけど」
     真也の場合浮かれすぎていつもよりもドジが三割増しになりそうだ、と言うのも少し酷だろうか、とワクワクしています、とわかりやすく顔面に書かれている真也を見て時雨は口を噤む。
    「時雨もさ、いっぱい楽しもうよ。……って、準備をほとんど任せちゃってる僕がいうのもなんだけど」
     あはは、と眉を下げて頬を掻く真也に時雨は緩く首を振ってその言葉を否定した。時雨にとって真也という存在がいなければ桜を見て花見をしたい、などと思わなかっただろう。
    「……そんなことないよ。俺も、週末が待ち遠しいな」
     普段は自ら多忙を求める時雨だが、この時ばかりはなんのトラブルも、実家からの連絡もありませんようにと平穏を願わずにはいられない。
     はにかみながら楽しみだと呟いた時雨に、真也も嬉しそうに笑って夕飯の支度を手伝うために腕まくりをして二人で寮共有のキッチンへと向かった。
     
     ✽ ✽ ✽

     強い衝撃で真也は目を覚ます。
     ベッドから落ちての起床にも手馴れて、いてて、とぼやきながらしたたかに打ちつけた尻を擦りながら起き上がった。
    「おはよう、しぐ――……あれ?」
     隣にあるベッドにあるだろう膨らみは、真也の予想とは裏腹に真っ平だった。昨晩一緒のタイミングでベッドに入ったから多少の寝具の乱れはあるが、布団ごと落ちた真也のベッドの比ではない。耳を澄ませてもバスルームやトイレから物音も聞こえてこず、となれば、と真也は時雨の居場所へ向かうために元気に跳ねた寝癖もパジャマ姿もそのままに部屋を出た。
     廊下を出れば食欲を誘ういい香りがして、やっぱりと確信に確信を重ねながらキッチンへ向かうと見慣れた黒いエプロン姿がある。
    「時雨!」
    「ああ、真也。おはようございます」
    「うん、おはよう! っじゃなくて、時雨、昨日寝てないだろ」
     名を呼ばれ、包丁を動かしていた手を止めて真也を見やる時雨は柔和な笑みを浮かべながら常と変わらず挨拶してくるものだから、真也もつい反射で返してしまった。
     はっとして慌ててほんのりと主治医の顔つきで指摘すると、時雨は困ったように少し眉を下げて微笑む。
    「俺が寝付けないのは、いつものことでしょう?」
    「それは、そうだけど……」
     一度寝てしまえばなかなか起きられなくなる時雨は時々眠りにつくことが難しくなり、そういう日はこうしてまんじりともせず朝を迎えている。真也はそれに気づいてからというもの、自分のもてる知識全てをもって不眠の改善に努めてきた。しかし僅かな緩和はすれども、今現在も残念ながら著しい効果は得られていない。
     時雨本人は昔からなので、となんでもないことのように言ってのけるが、医療従事者としての立場からは、はいそうですかと簡単に頷いては終われなかった。思わず真也がしょんぼりと表情を曇らせると、連動するように時雨も申し訳なさそうな顔をして目を伏せる。
    「すみません、そんな顔をさせたいわけじゃなかった。……恥ずかしながら、今日が楽しみでなかなか眠れなかったんです」
     まるで遠足前の子供みたいでしょう、と苦く笑う時雨の顔を真也はじっと覗き込んだ。色違いの綺麗な瞳に自分の顔が映っている。時雨もまたまっすぐに見つめ返し、真也の視線から逃れることはしなかった。
    「――そっか、それならいいんだけど」
     時雨が本当に無理をしていないのかを探る大きな鳶色の瞳でじいっと見つめた後、やがて答えを得た真也は小さく笑いながら頷いて、時雨もそれに釣られるようにして表情を和らげた。
    「ありがとう、真也。では、納得したところで身支度をしてきてください」
    「はーい。あっ、僕が手伝えること残ってる!?」
    「もちろん。一緒におにぎりを握ろう」
    「やった。じゃあ着替えてくるな」
    「はい、いってらっしゃい」
     駆け足で戻っていく真也の動きに合わせてぴょこぴょこと跳ねる赤毛を眺めながら、時雨はウインナーに切り込みを入れていた手を再び動かしていった。

     それからまもなくして着替えた真也が戻ってきて、時雨が前もって用意していたという赤いエプロンを真也に着せ、二人で並んでおにぎりを握る工程に取り掛かった。真也が手に取っても大丈夫なように炊いたご飯はあらかじめボウルに移して粗熱を取ってある。
     丁寧に洗って消毒した掌にご飯を取り、軽く広げてから用意した具材を適量取って包み含んだ空気を閉じこめるように形を整えていった。仕上げにくるりと海苔を巻いてやれば、時雨の掌には見事な正三角形のおにぎりが乗っている。
     手本を見て真也も消毒をしたあと自分の掌にごはんを取って具をのせてぎこちなく握っていくが、時雨よりもうんと時間をかけて出来たのは彼のようなまさしくおにぎりというよりも、ところどころから中身の具材が顔を覗かせる歪な形をしたボールのようだった。
    「……できたっ」
    「ふふ、真也のおにぎりはなんだか可愛らしいね」
     真也の掌のみならず、なぜかその頬にまでついた米粒をさりげなく取りながら時雨は柔らかく顔を綻ばせた。
    「そう? 時雨のはすっごくきれいな三角! おにぎり屋さん開けちゃうね」
    「そんな、大袈裟だよ」
     互いのおにぎりを褒めながら手を動かし、ひとつ、ふたつ、と正三角形と歪んだボールが出来あがっていく。時雨がそれを交互に小ぶりの三段重の下段半分へと詰めればしきりを挟んでおにぎりとサンドイッチが半分ずつの段が完成した。
    「やっぱり、時雨みたいにきれいに握れなかったな」
    「俺は味があっていいと思いますよ。食べるのが楽しみだ」
     見本のようなおにぎりに挟まれている自身が握った歪なおにぎりを眺めて苦く笑う真也を励ましながら、時雨は側にあった菜箸を手に取る。
    「はい、弁当作りを一生懸命頑張ってくれた真也にご褒美です」
     時雨のもう片方の手が添えられたまま黄色い塊が口元に近づいてきて、真也が反射的に口を開けると口内はほんのりと温かくて優しい味で満たされた。
    「え、むぐっ……ほへ、はまふぉやひ、っ!」
     もぐもぐと咀嚼しながら不明瞭に話そうとする彼に時雨はもう、と小さく肩を竦めて言い聞かせる。
    「こら、食べたまま喋らない。喉に詰まりますよ」
    「ん、ごめっ……この卵焼きネギも入ってるんだね、美味しい」
    「なら良かった。作りすぎてしまって少しお弁当に詰めきれないおかずがあるから、それを軽い朝ごはんにしようか」
    「うん、いいね。朝ごはんも楽しみ」
     粗熱を取った重箱を重ねて風呂敷で包み、入りきらなかったおかずと時雨があらかじめ朝食用に作っておいたおにぎりはタッパーへ。真也はずっしりと時雨の愛情が詰まった三段重を抱きかかえ、万が一にも転んで落としてしまわないように、いつもよりうんとゆっくりとした歩調で部屋へと戻った。
     それから二人で軽い朝食を摂ったあと、週明けに提出の課題だとか、週末にまとめてする部屋の掃除だとかこまごました家事を済ませてから部屋を出る。

     空模様は澄んだ青空が眩しい、文句のつけようもない晴れ。気温は平均的で心地いい。風は弱すぎず、強すぎずちょうどいい。
     目を眇め広大な青空を見上げる真也が楽しみでたまらなかった週末は、この上なく花見日和だった。
    「んー、いい天気! 気持ちいいな、時雨っ」
    「そうだね。桜もまだちゃんと咲いているし、よかった」
     寮の周辺の桜もこの天候を歓ぶように咲き誇り、柔らかい風が吹ければ小さな淡い花弁が降り出した雨のように舞う。真也はうずうずとした様子を隠すことなく、風呂敷を持っていない方の手で隣の時雨の片手を掴んだ。
    「うん。早く行こっ」
    「わっ、真也待って!」
     駆け足にはならないものの、少し早くなった足取りに時雨は少し驚いてそれからくすくすと笑って真也についていく。
     いつもより軽やかな足取りのおかげか、公園までの道のりは短く感じられた。辿り着いた公園は日曜日ということもあり家族連れの姿が多いものの、ちょうどよく隅に植えられている桜の木を見つけると、根元に早速レジャーシートを敷いて腰を落ち着ける。周りの桜よりもまだ若いのか幾分か小ぶりな樹だが、その枝についている花は他のものと引けを取らないほど立派だった。たっぷりと咲き誇った花のおかげで眩しい太陽光もほどよく遮られ、淡い木漏れ日が二人を優しく照らしている。
     時雨が水筒に詰めて持参したお茶を受け取って喉を潤した真也は頭上に視線を向けてほう、とひとつ小さく息を吐いた。時折ひらりと落ちてくる花弁がシートや膝の上へ辿り着き、時折頬を撫でて落ちてくるものだから少し擽ったくて目を細める。
    「……桜、綺麗だな」
    「ええ、本当に。いい場所が空いてて良かった」
    「うん。せっかくなら桜を見ながら時雨のご飯食べたいし!」
     真也がそう言って笑うとまるで最初から予定されていたかのようにぐうう、とその腹の虫が大きく鳴いた。もちろんその鳴き声は時雨の耳にもしっかりと届いていて、色違いの瞳が驚き瞬いたあとおかしそうに細められる。
    「……ふ、ふふっ、さっそくですけどお昼にしようか」
    「……えへへ。うん、おねがい」
     珍しく笑いのツボにはいったのか口元に手を添えたまま肩を震わせる時雨の提案に、真也も恥ずかしそうに顔を赤らめながら小さく頷いた。
     二人で準備した――といっても九割は時雨が用意したのだが――三段重を広げていく。
     一番上には真也がリクエストしたおかずの卵焼きやタコの形をしたウィンナーなどに加えて、からりと揚がったきつね色のエビフライやころんとした形が可愛らしいミニハンバーグ、ブロッコリーや人参などを使った鮮やかな蒸し野菜にカップに入ったコールスローサラダ。
     二段目には二人で握ったちぐはぐなおにぎりと、具材のバリエーションが豊かで四分の一にカットされて食べやすくなっているサンドイッチ。そして三段目には、デザートのカットフルーツ。皮ごと食べられるぶどうやカットされたメロン、パイナップルに紛れるうさぎの形をした林檎。カラフルな草原を喜ぶように跳ねるうさぎのようだった。しっかりと保冷剤を当てているから、覗き込めば少しばかりの冷気を感じられる。
     さらに時雨は小ぶりのスープジャーを二つ取り出し、一つを真也に手渡した。
    「わっ、スープまであるの?」
    「うん。シンプルにわかめと玉ねぎの味噌汁にしてみました」
     時雨の言葉に真也がいそいそとジャーの蓋を開けると、ほっこりと白い湯気が立ち昇った。次いで味噌と出汁のいい香りに目を細める。
    「いい匂い……味噌汁も美味しそう」
     きらきらと輝きを放っているような素敵な昼食に真也が目を奪われている隣で、時雨が手拭き用のタオルや取り皿などをてきぱきと準備する。それに気づいてまた時雨ひとりに準備させてしまったと真也は申し訳なさそうにありがとう、と声を掛けると時雨は小さく微笑んで取り箸で彼の皿に満遍なく弁当の中身を盛っていった。
    「どうぞ、真也」
    「ありがとう、いただきます!」
     手を合わせて用意された割り箸を張り切って割ると、綺麗に割れることなく真ん中から横に割れてしまい箸として使い物にならなくなってしまった。
    「やっちゃった……」
    「大丈夫。そういうこともあろうかと、ちゃんと予備も用意してあります」
    「さすが時雨だな、ありがと! じゃあ今度こそいただきますっ」
     くすくすと控えめに笑う時雨から予備の割り箸を受け取り、今度こそ慎重に割ると綺麗に割れたので真也はこっそり胸を撫で下ろす。
    「はい、召し上がれ」
     うきうきとしながら取り皿に盛られたおかずの中から、まずはリクエストの一部である唐揚げを頬張った。揚げて時間が経っているのに肉は硬くなっておらず、それどころか噛めば揚げたてのようにジューシーな肉汁まで溢れてくる。それを味わうように咀嚼して、真也はきらきらとした眼差しでブロッコリーを口に運ぶ時雨を見やった。
    「うん、すっごく美味しい!」
    「それなら良かった。たくさんあるから、よく噛んで食べてください」
    「うん! んむっ……わっ、この肉じゃがも中まで味がしみっしみで美味しいし、コールスローもさっぱりしてていくらでも食べられそう。……あ! このエビフライ、ちょっとチーズの風味がするかな? いつもより香ばしくて美味しい」
    「エビフライの衣に粉チーズを入れてみたんです。美味しく出来て良かった」
     ひとつひとつ丁寧に作られたとわかるおかずを口に運んで味わってから真也が感想を述べると、時雨は食べながら喋らない、と柔らかく注意をしながらもほっとしたように頬を緩ませてまた箸を動かす。
    「このハンバーグもシャキシャキしてるね、これは……玉ねぎ、いやれんこん、かな?」
    「さすが真也、正解です。アクセントになってちょうどいいと思って。……ん、真也のおにぎりも具がたっぷりで美味しいよ」
    「本当? しょっぱくない?」
    「ええ。どこから食べてもちゃんと具材があるし、この美味しさは真也が頑張ってくれた証だね」
     誰がどう見たって隣に並ぶおにぎりとは比べ物にならないほどに不格好なおにぎりを、美味しい美味しいと口に運んで微笑む時雨の姿に胸が甘く締め付けられるような感覚が駆け巡る。人はこれを感動と呼ぶのだろう、と真也はじいっと時雨を見つめた。
    「……自分が作ったものを誰かが食べてくれるって、こんなに嬉しいことだったんだな」
    「え?」
    「生まれて初めて、おにぎり作ったんだ。ごはんを握るだけだけど、やっぱり僕には難しくて、出来たのはすごく不格好。でも、時雨がそれを美味しいって言ってくれて今すごく……嬉しいんだ」
     この春の陽気のせいだけではない、心がぽかぽかとあたたかくなる。このいとおしい感情を隠すことなく時雨に告げると、彼はひとつ瞬きをしてそれからふわりと蕾が開く花のように微笑んだ。
    「……俺も、いつも同じ気持ちだよ。真也が米粒ひとつ残さずに俺の作った料理を幸せそうに美味しいって食べてくれるとすごく嬉しくて、明日は何にしようかなって考えるのも楽しいんです」
    「うん、だって時雨のごはんは世界でいちばん美味しいからね」
     時雨の手料理を口にするまで、真也には手料理なんて碌に食べる機会が与えられなかった。だから余計にたとえ冷めていても、食べれば心があたたかくなる時雨の手料理が大好きで。都合が合わずに食べられないときはわかってはいるけれど、どうしたって寂しくなってしまう。これが俗に言う、胃袋を掴まれるというやつなのだろう。
    「あはは、真也はいつも大袈裟だね。……でも、うん、君に褒められるのが一番嬉しいかな」
    「へへっ、僕時雨のごはんならいくらでも食べられるよ」
    「もう……くれぐれも、食べすぎないでくださいね」
     あとよく噛んで、と何度も諭された言葉に何度も前科のある真也もうん、と頷いてから次々とおかずを口にし、間にサンドイッチやおにぎりも挟みながら時雨のたくさんの愛情にたっぷりと舌鼓を打った。

     そうして、すっかり空っぽに近くなった重箱の前で真也は手を合わせた。
    「ごちそうさまでした!」
    「はい、ありがとうございました。すごい、本当にほとんど食べてしまったね」
    「あはは、さすがにちょっと……うーん、だいぶお腹苦しいや……」
     食後のほどよく温かいお茶を啜りながら、満足げな真也はシャツの上から少しばかり膨れた腹を擦る。時雨の愛情がいっぱいに詰まっているから、多少苦しくても幸せだと顔を綻ばせた。
    「ふふ、俺は嬉しいですよ。ありがとう、真也。……それなら夕食は軽めのものにしようか」
    「うん、お願い。……あ。あれ、あったかい素麺が食べたいな」
    「ああ、にゅうめん。いいですね、作り置きの副菜もまだあるはずだし」
    「食べたばっかりなのに、夕飯も楽しみになってきちゃった」
    「今週はジョギングの量をいつもより増やさないといけないね」
     とんとん拍子で夕食のメニューを決めて満足げな真也だったが、時雨の現実を突きつける一言にうっ、と言葉に詰まって肩を竦める。
    「そうかも。でも時雨の料理で太るなら、それは間違いなくこの世界でいちばんの幸せ太りだよ」
    「はは、物は言いようだ」
     そんな他愛もない話をしながら小休憩をぽかぽか陽気の中で楽しんでいると、真也の足元に柔らかなゴムボールがてん、てん、と細かく弧を描くように弾んでやってきた。なんだろう、と二人して顔を見あわせて首を傾げていると、ボールを追いかけるように可愛らしい声まで聞こえてくる。
    「おにいちゃーん! そのボールとってー!」
    「うん、いいよー!」
     真也はゴムボールを拾い上げ、とてとてと小走りでやってきた男の子にしゃがんでそれを手渡した。ボールを抱えて嬉しそうに笑う子供に真也も気をつけてね、と微笑むとおにいちゃんありがとう、と小さな手をぶんぶんと振られる。
     それに手を振り返してあげながら見送ると、遠くの方で待っていた父親に頭を撫でられて嬉しそうにはしゃいでいる男の子がいた。
    「あはは、ちっちゃい子って可愛いね」
    「うん、……そうだね」
     真也にきょうだいはいないが、職業柄子供と接することもあり、他の医師や看護師よりも年齢が近いせいか懐かれることも少なくない。時雨には血の繋がりのない、時折わがままに頭を悩ませるけれど確かに大切に思う弟がいる。遠くなった男の子に自然とそれぞれ重ねながら、どちらともなく小さく微笑んだ。
     時雨が唇に笑みを乗せたままシートに座り直した真也を見やると、柔らかく細められたその瞳は優しい羨望の色を含んでいることに気づく。
     時雨が真也の生い立ちが一般人のそれとは大きく異なり、より複雑だということを彼の口から改めて聞かされたのはまだ記憶に新しいことだった。ずっとずっとひた隠しにされてきた真也の一番柔らかいところに触れることを許された時、時雨はこっそりと喜びを感じたものだ。
    「でも、ちょっと羨ましい、っていうのかな。僕にはああいう風に親と遊んだ記憶はないから」
    「……真也、」
    「……あ。ごめん、えっと、」
     そんなつもりじゃなくて、と慌てる真也に時雨は慈しむように眦を緩めた。シートについているその手に時雨はそっと自分の手を重ねると、真也は口を噤んで時雨を見やる。
    「ううん、大丈夫。俺も、……俺も同じようなものだから」
     記憶の奥底にある優しい母と逞しい父。もう触れられない、懐かしい安寧。どこまでも果て無く広がる青空を見上げ、時雨は僅かに目を細めた。
     かつては両親がいる普通の生活を過ごせていたらと何度も何度も夢想をした。今も夢に見ないといえばそれは嘘になる。それでもそうして望む生活では今この場に、時雨の隣に真也はいなかった。どんなに変わってしまったってその先には寄り添ってくれる存在が、真也という存在が隣にある現実にようやく気づけた時、時雨はひとつ前向きな強さを得た。
     真也はそれ以上取り繕うようなことをなにも言わず小さくひとつだけ頷いて、それからあっ、と思い出したように口を開く。
    「明日の昼休み千里くん達とサッカーする約束してるんだ! 時雨も一緒にやろうよ」
    「真也が突然グラウンドに突き刺さらないならいいですよ」
     運動をすればなぜかよくグラウンドに頭から埋まってしまう彼を思い出してからかうようにそう言えば、真也はきょとんとしたあと苦笑して空いている方の手で頭を掻いた。
    「……うーん、それは……結構難しいかもなぁ」
    「あはは、冗談だよ。突き刺さっても俺がすぐに抜くから心配はいりません」
    「でも時雨にはカッコいいところ見せたいし、僕頑張るからな!」
    「では楽しみにしています、真也のかっこいいところ」
     意気込む真也に時雨は明日はいつもより持ち物が多くなりそうだ、と笑って頷く。

     それからまたぽつりぽつり、とただ緩やかに流れる時間に身を任せて頭上の桜のように話に花を咲かせていると、ふと真也の肩に重みが増した。時雨? と名を呼びかけようとしてその重みの正体に気づいた真也は、ふっと唇に小さな笑みを乗せる。
     柔らかな木漏れ日が幾重もの桜の花弁を透かして降り注いでいるせいなのか、時雨の銀糸はほんのりと桜色を帯びていて、そよそよと心地の良い春風が時折擽るように髪を揺らした。穏やかな陽気と、すぐ傍で聞こえてくる小さくても規則正しい寝息に真也は彼を起こしてしまわないように大きなあくびを噛み殺す。
     ひらり、と舞い落ちた小さな花びらが時雨の長い睫毛をいたずらに淡く擽っていき、思わず息を潜めた。そのおかげなのか多少睫毛は僅かに揺れ動いても規則的な寝息は途切れることなく、真也はこっそりと安堵の息を吐く。
     できることならこのままずっと寝顔を見守っていたいけれど、舞い落ちる桜が頬を撫でていく感覚がまた優しい眠気を連れてきた。

     ――……おやすみ、時雨。良いゆめを。

     心の中でそう唱えれば聞こえているはずもないのに、時雨の薄い唇が小さく動いたようにも見える。少し驚いた真也はそれから柔らかく顔を綻ばせて、心地良いあたたかい風に誘われるようにしてそっと目を閉じたのだった。
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