2025-06-16
一階にあるレオナの酒場の喧騒が、うすぼんやりと聞こえる。ベッドと小さな卓だけが詰め込まれた宿の部屋には俺と、頭を卓の上に預けたまま半分ぐらいは寝ているフリックだけがいる。ベッドに寝かしてやらねえとなあとは思うのに、思うだけで俺はちっとも動かない。
根本的に体力が戻っていなくて、今日は傭兵連中と何やら騒いでいたから疲れきっていて、おまけに奴らに飲まされたのは俺だってちょっと飲むのをためらうような強い酒だ。飲まなかったからって侮るような奴らばかりではないだろうが、あんまり柄がよくなかったのかもしれねえな。
部屋まで自力で戻っただけで万々歳だ。明日は二日酔いでえらいめにあうんだろうな。ちょっと可哀そうだな。
「おい」
グラスに残ったワインをなめながら、小さな頭をぼんやりと眺めていると、頭がすこしだけ動いて低く唸るような声がした。
「大丈夫か」
「水」
まるで遠慮のない要求に、少しだけ笑ってそばの水差しを持ち上げた。こぼされたら面倒だから、と言い訳をしてかいがいしく水をグラスに汲んでやる。なんとか体を持ち上げたフリックはもごもごと礼を呟き、両手でグラスを受け取るとゆっくりと傾けた。
口の端から水が漏れ、喉を伝って落ちていく。それをなんとなく目で追いかけて、服にしみ込んだところで、あまりにも不躾な視線を向けたと気づく始末だ。見られた本人は、閉じかかる目をこするのに夢中で、俺の視線になど頓着しないときたもんだ。
「もう寝たら?」
「寝る」
そうは言うものの、全部酔っ払いの戯言らしくまるで動こうとはしないのだ。無言で差し出されたグラスに水をもう一度注いだ。とりあえず水をたんと飲ませたら、本格的に寝かしつけたほうがよさそうだ。
寝る、と言いながらフリックはゆっくりと話し始めた。
「あいつらが言ってたんだけど」
上がった名前は、俺と昔から付き合いのある傭兵連中だ。妙にフリックを気にして、今日はミューズ中を連れまわして酒やら飯やら散々飲み食いしたようだ。北のほうの出身でざるを通り越して枠の連中だから、付き合いきれねえんだよな。
俺でさえ付き合いきれねえ連中に朝から晩まで引きずり回されたフリックは飲んだ酒精の量を表すかのように真っ赤な顔をしていた。
「お前、本当は北に行くつもりだったんだって」
「……いつの話だ?」
「赤月じゃなくてハルモニアに行くつもりだったって」
ああ、と一つ頷いた。ネクロードのやつを探してジョウストンを駆けずり回り、何の成果も上がらないことに嫌気がさしたのが旅を始めて五年ほどたった辺りだ。じゃあどこへ行くかと思ったときに、第一候補になったのがハルモニアだった。あてもない探し物だ。真の紋章関係だったし、あいつが長く生きているんなら一つの神殿に何か情報があってもおかしくないと思った。
「あったなあ。結局やめたんだけど」
どうしてだったかな。寒そうだったからかもしれない。どうしようかと考え始めた時が冬で、冬に北に行くのが嫌だったから。とかそんな理由だったような気がする。だって何にも理由はなかった。何かしなければならないという焦燥感だけがあったのだ。
フリックは真っ赤な頬で、とろけた目で俺を見ていた。眠たげに一つ瞬きをして、にこりとまるで花が咲くように笑った。
「お前がもしハルモニアに行ってたら」
真正面からまっすぐに見つめられることはあんまりないから、フリックの顔の良さというやつをこうして時々全面に喰らうと本当にビビる。ぞくりとはねた俺の心臓をよそに、細めた目を伏せていう。ランプの灯が顔を照らして、作為のないまつげが頬に影を落としていた。
「俺とお前はこんなとこにいないんだな、と思ったらちょっと面白いな」
赤月に行ったのは南であったかそうだったからで、確かワインがうまいと聞いていたからだ。解放運動に頭を突っ込んだのだって、そこに人が集まると思ったから。
なにか一個違う選択をしたら、今こうして二人でいることはない。
フリックは楽し気に笑っている。その笑みがあくびに飲まれて、細めた目がとろりと閉じる。立ち上がって水の入ったグラスを受け取るのと、立ち上がった俺に寄りかかってくるがほとんど同時だ。
酔っ払い特有の甘ったるいアルコールの匂いがする。暖かい。
俺は一つわざとらしくため息をついて、子供みたいな寝息を立てるフリックの髪を撫でてみた。