2025-05-19
ぺちぺちと頬を叩かれた。目を開ければ、細いとはいえランプの明かりが飛び込んできて目がくらむ。狭い、いつもの部屋に小さなランプ。枕元にはここのもう一人の主の姿。今日は帰る予定じゃなかったはずだが。
「……どうした」
ランプの光を背にしたビクトールは真っ黒だ。土と埃と汗と、かすかに血の匂いがする。ハイランドと小競り合いになったのは報告を受けていたが、お互いに適当にやりあってそのまま収束したらしい。帰ってきたのならば、詳細な報告が上がってくるだろう。
帰ってくるなら明日、明るくなってからにすれば良いものを。なにか喫緊の報告があるのなら、こんなところにおらずに軍師に報告へ行くはずだ。
押し黙って、上から俺を見上げる理由にはならない。
「どうしたんだ」
影の中でビクトールが一度口を開き、閉じ、目をつぶって、また開いて、ため息をついた。大きく、肺の空気を全部入れ替えるような、深い深いため息だ。それでもまだ何も言わず、ゆっくりと俺のベッドに腰を下ろした。
外見よりもこいつは随分と繊細に出来ている。それはもう長くなった付き合いで分かり切っているが、対処法まで熟知しているとは言えない。うまい酒もうまい食事も、今ここには存在しなくて、じゃあどうしたらいいかなんて。
起き上がることもせず、かといって置いて眠るわけにもいかず、出来る事と言ったらそばに居てやるぐらいなんだろうが。
どうした、と繰り返しても返事は帰ってこないから、ただ黙って手を伸ばした。ベッドの上に置かれた手を取って、指を絡めるように握りしめる。冷たい手ぇしやがって。
ビクトールは俺を見て、なんだか情けない顔で表情を緩めた。眉を寄せて、目を細めて、口をいびつに上げる。
空いた手に髪を撫でられた。そのままゆっくりと倒れこんでくる。髪をなでていた手を頭の横について真正面から至近距離でのぞき込んでくる目は真っ黒だ。少し目を逸らせば、小さな傷があるのが分かる。
戦場帰りの匂いがする。人を斬った匂いだ。
しばらく切っていない髪が音を立てて俺の頬に落ちる。ランプの明かりが髪の向こうに押しやられた、と思っている間にビクトールに唇を塞がれた。閉じたままの口を開いてほしそうに舌が触れてくるのを受け入れてやる。
握った手をシーツに押し付けるのに、大して力なんて入っていない。舌を絡めたいとかそう言う熱っぽい欲も感じない。なんなのだこれは。
「なんなんだよ」
なにか嫌なものを殺したか。それを俺に話したとて、ビクトールが望む返事は出来ないと分かっているから口にできない。
哀れな奴。
握られてはいない方の手で髪を撫で、そのまま引き寄せてやる。ビクトールが今度こそ、少しだけでも嬉しそうに目元を緩めた。
人のことをわざわざ起こして、気を使わせて。なんなのだお前は。