風呂場だ。湯気がたっぷりと立つ、寒い夜。人の輪郭も定かではなくなる中でも、隣にいる奴ぐらいは分かる。
遠くから湖の波の音がして、近くでは暖かい湯が揺れる音がする。視界は霞む。輪郭が揺らぐ。
「だいぶ治ってきた」
うっかり閉じていた目を開けた。隣で、フリックの奴が軽く腕をあげた不自然な体勢をしている。二の腕の真ん中辺りに白く、治りかけた傷痕があった。この間の小競り合いでやらかしたものだ。魔法でふさいだ傷口はもうすっかり綺麗で、このまま跡も残さずに消えるのだろう。
なんとなく眺めまわして、首をかしげる。
「お前、あんまり傷痕ないよな」
腕を下ろしたフリックが、バカにしたように唇を引き上げた。
「お前みたいに突っ込めばいいと思ってないからな」
「うるせえよ」
楽しげに笑う顔にも伸びる首から肩にかけても、目立つ傷は1つか2つ。今は湯に隠れる腹に、命を奪いかけた物が1つ。
だいたいそれぐらいだと思う。上げた腕にさえ幾筋も傷痕の残る自分とは違う。
背後から手を伸ばした。
「う、っわ!」
フリックが派手な水音を立てて距離を取った。伸ばした指が所在なく残る。俺は笑みを作った。
「敏感過ぎねえかその反応」
「急に触んなよ!」
指先で撫でた背中に傷が残っているはずもないが、それでも気色悪そうに回した手で撫でる仕草に、趣味の悪い笑みが深くなる。
「ぞわぞわする」
「そりゃあいい」
「なにがだよ……」
もう出る、と立ち上がった背中には傷ひとつない。気にする仕草で指が這うのがおかしくて、声を立てて笑った。
「何もついてねえよ」
「気になるんだよ」
今だけだとしても、男の肌に触れた証明が残っている。その事実にひどい満足と焦燥を覚えている事など、まだ知られてはいけないのだ。
爪のひとつでも立ててみれば良かったな。去っていく背中に赤いあとさえもないのを見ながら、ビクトールは淡く後悔した。