日曜日 午前9時半
水滴が窓をパラパラと軽快に叩く音を聞きながら、俺は自分のくせっ毛と悪戦苦闘していた。
「ああっ、クソ!」
俺は苛立ちを隠さずに鏡の中の自分に向かって吐き捨てる。ヤケになって櫛をひたすら通すが髪の毛はいつも以上にしぶとくうねり、俺の貧乏揺すりを加速させる。
ベッタリと体にまとわりつくような水気のある空気もそれを助長させ、気分は絶不調。俺は癇癪起こすのを通り越してもはや泣きそうだった。
「どうしたんだ赤也」
俺の不機嫌を察したのかひょこり、と洗面台に姿を現した真田さんはすっかり身支度をおえているうえに、羨ましいというより怒りたくなるほど真っ直ぐでサラサラな髪の毛のままである。全く、なぜ髪が湿気に負けないのか教えて頂きたい限りだ。
「あんたは良いっすよね、雨の日でも苦労しなくて!」
八つ当たりのように(実際八つ当たりだが)声を荒らげると、ピンと来たようで真田さんは呆れたようにため息をついた。
「なぜそこまで髪型にこだわる必要がある。俺には余り変わらないように見えるぞ。」
それにお前が出発ギリギリに起きるからそんなに焦る羽目になるのだろう、と付け加えられた正論は一旦無視して俺は食ってかかる。
「嘘でしょ、見てくださいよこのくせっ毛!てかこれから俺と何するかわかってます??デートっすよ、デート!!今カッコつけないで、いつカッコつけるんすか。」
そうだデートだ。それも遊園地デート!!なんとも恋人らしい響きに予定を決めた日から指折り数え、楽しみにしていたのである。
そんな日に限って雨とは…全く神様はいい趣味してると思う。
「一緒に住んでるのだからカッコつけるもつけないも今更の話だろう。」
「分かってないな〜、これだから真田さんは…。」
きっとこの苦労、幸村(元)部長なら分かってくれたに違いない。
あの人も雨の日は機嫌が悪くて部内の空気が張りつめるので梅雨は憂鬱だった。
「いっその事縮毛矯正かけちまおっかな~」
思い出浸りつつ、これからも雨が降るごとにこんなんじゃうっとおしくて堪らないと顔を顰める。
「縮毛矯正?」
訝しな声が後ろから飛んできた。
真田さんには縁もゆかりも無さそうだし、知らなくて当然である。俺は櫛を通す手を止めて、説明するのにわかりやすそうな言葉をぐるぐる探した。
「えーと、あれっすよ、髪の毛サラサラで真ーっ直ぐになるやつ。2万ぐらいかかるんすけど、この最低最悪の髪質と付き合ってくストレスに比べたら全然安いもんすよ~」
口ではそう言ったが全然安くは無い。
バイトのシフトを増やして生活費を切り詰めればなんとか捻出できるかも、なんて夢想しつつ再び鏡をのぞきこんだ。
その時、後ろで腕を組んで話を聞いていた真田さんが眉をひそめたのに気づく。
「ん、真田さん?」
おーい、という呼びかけも虚しく、ずんずんと俺の真後ろまで歩みを進めたかと思うと、いきなり真田さんは俺の頭をわしゃわしゃと撫で回し始めた。
「ギャーー!!ちょっとお何するんすか!!」
ここ数分間の悪足掻き、もとい髪の毛との格闘を無にするほどの見事なかき混ぜっぷりに思わず絶叫する。手を掴んで辞めさせようと足掻くが、なまじっか力が強いため腕が頑として動かない。日課の筋トレの成果がよく現れている頑強さである。
「これでまた振り出しっすよ!!つか俺の話ちゃんと聞いてたっすかぁ?」
涙まじりに必死に訴えかけると、真田さんはようやく手を止めた。俺が追加で抗議の声をあげようとした瞬間、それははっきりと耳に届いた。
「俺はお前の髪が好きだ」
「なっ、」
櫛を洗面台に落としたカラーンという軽快な音が鳴る。
「…ほ、ほら、真田さんは簡単にそういうこと言う!俺の苦労も知らないでさぁ、大変なんすよ、この髪の毛セットすんの」
思っても見ない言葉に動揺しながらなんとか言葉を紡ぐ。どうしたんだよ真田さん、変なものでも食ったのか?いつもは恋愛表現になるともにゃもにゃしてる癖に!今日に限って言葉がなんだか、ストレートすぎる。いや、聞き間違い?暴投ってこと?
「知っている。なんとも世話が焼けるようだな」
真田さんは驚くべきことに少し笑ってそう言った。確信犯の笑みだった。俺は言葉が出てこなくて口をパクパクさせた。
間抜け面が鏡に映る。すぐ隣の悪い笑みを浮かべたままの真田さんも。
すっと俺の耳元に口が寄せられる。身体が強ばってちょっとの空気の揺らぎを耳の裏に感じる。よそ行きの香水の香り。すっかり自分の体温で温まった洗面器を思わず握りしめる。
「そんな所がお前と同じで好ましい」
「〜〜ッ!そんなこと言われたら縮毛矯正なんて一生かけれないじゃないっすか」
振り向いてそう喚くと、真田さんはそれが狙いとばかりに得意げに頷き、先に玄関に行っているぞ、と洗面台を後にした。
俺の顔は依然として真っ赤である。
真田さんのああやって急に恐ろしいことを言ってくるのが心臓にとことん悪い。
俺は収まらない心臓の鼓動を聞きつつ、彼が鳥の巣状態になっている鏡の中の自分を呆然と見やった。
「てかどうすんだよこの髪…。」