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    今日ここまで書いたの!!!

    きみと別れる100日 きみと別れる百日























     あとから思い返しても、そんなことは日常茶飯事。
     毎日といっていいくらいに頻繁に発生していたやりとりだった。
     だからどういうきっかけで、とかそういうものは解らない。反射的に口から飛び出る煽り言葉のバリエーションの豊富さについてはそれなりの自負があるし、そのなかに何かしら、彼の地雷が混じっていたのかもしれない。或いは普段なら気にせずに流せる言葉や揶揄、そのときの機嫌だとか直前にあった出来事が理由で彼にとって一時的な地雷になってしまっていたとか。
     ただドラルクの中では二人の会話はいつものやりとりのつもりだったし、きっとロナルドだってそうだったんではないか、そんな風に思っていたから。
    (きっとそれは一種の甘えであったとも思うのだけれど)
     だから彼を攻撃する言葉という矛を収めなかった。
     彼がその程度で傷つくとは思っていなかったからというのが理由だ。ドラルク側の言い訳でもある。
     もちろんロナルドが精神的に弱っているときだとか疲れ切っているときはドラルクの方もそんな酷いことはしない。「おや」と思って戯れめいたじゃれあいの言葉を引っ込める。そして代わりに気遣いと美味しい食事や居心地のよい空間を提供する。
     逆もそれは同じだ。ドラルクの機嫌が悪いとき、ロナルドはそれを察していい意味で距離をおいて、けれど同じ空間にいてくれる。ときには「おみやげ」といってトマトジュースやブラッドジャムサンドを提供してくれることもある。
     ドラルクもロナルドも基本的にはいつでも機嫌が良い性質で自分で自分の機嫌を取ることが出来る人物ではある。それでも様々な事情で心がささくれ立っているときだってあって意味もなく誰かに攻撃をしてしまうこともある。
     そのときドラルクもロナルドも自覚なく機嫌が悪かった。
     タイミングが悪かったのだ。
     ドラルクは言葉の矛を収めず、ロナルドはそれを躱すことがなかった。
     売り言葉に買い言葉。
     煽り文句に返される軽い暴力の応酬。
     悪友というには二人の関係は甘く、ただの同居人というには近すぎて、家族というにはまだ虚勢を張っていたい関係性だ。
     ドラルクとロナルドの間にあるのは世間一般では恋人という名称がつく関係でもあった。
     だからドラルクには許してもらえるという甘えがあったのかもしれないし、だからロナルドはお互いの距離と立ち位置を勘違いしすぎていた。
     だから。
    (それは全て、過ぎてからの言い訳に過ぎないのだけれど)
    「いつもお前そうじゃん。俺のことなんて暇つぶしのオモチャくらいにしか思ってないんだろ?」
    「よくわかっているじゃないか、ゴリラレベルの知性のクセに。森の賢者はゴリラじゃなくてチンパンジーの方だぞ覚えておきたまえ」
     そんな風にいつもと同じやりとりのあとで、視線を床に向けるとロナルドがぽつりと口にした。
    「別れる」
     その言葉を過去、何回耳にしただろうか。
     出て行けという言葉も死ねという罵倒も、別離を意味する言葉を口にするのはいつもロナルドからで、日常茶飯事のように正面から投げつけられる悪口雑言とそれはセットになっている。
     今回だって前回と同じで彼は翌日には忘れているに違いない。
     だから嘲るように顎をあげてドラルクは嗤った。
    「好きにすればいい、ここから出て行きたまえ」
     いつもなら「此処は! 俺の事務所だっての!」という怒号と共に拳が降ってきて、ドラルクが死んでジョンが泣いてリセットだった。
     なのに今日はロナルドからの拳は飛んでこずジョンは偶然不在だった。
     そのためドラルクは心にもない言葉を口にしてしまっていた。
    「別れる、か。それがいい。所詮、きみは人間で私は吸血鬼だ。別の時間を生きる生き物なんだからうまくいくはずもない」
     別れようじゃないか。
     心にもない言葉をドラルクは笑いながら口にした。
     哄笑めいた声色ならば、それが本意ではないという感情が伝わっていると思っていた。
    「お前は、本気でそう思ってるの」
     此方を見つめるロナルドの瞳には戸惑いがあって、ただそれ以上の言葉を口にはしなかった。
     沈黙が示すのは肯定だ。
     だからドラルクは言葉を続けた。
    「あぁ本気さ。それがいいだろう? きっとそれだけで上手く片付くんだよ」
     そう嘯いたら、胸を張ったままに言えばきっとロナルドが慌てた顔をすると思ってた。
     眉を下げて泣き出しそうな子供みたいな顔をして「どうしてそんなことをいうんだ。そんな顔をするんだ」とばかりに小さな声で呟いて泣いて縋ってくると高をくくっていた。
     だって今まではそうだった。
     気が優しく出来ているくせにカッとなりやすい彼は、反射的に口にした言葉をあとから後悔してドラルクに言い訳めいた言葉を投げてくる。
    (『ちがう、そういう意味じゃない』とかね。ロナルド君は文筆家のくせに喋り言葉が本当に稚拙に出来ているよね)
     最終的にドラルクとロナルドは今日みたいな言い合いのあとにすぐに関係性は元通りになる。
    「俺も、悪かったし」「まぁ私も言い過ぎたかな」という喧嘩両成敗宜しくどちらか悪いとも決着がつかないままに仲直りをしていて、またいつもの日常が始まる。
     だから今日だって同じだと思っていた。
     それこそ、泣き虫に出来ている彼のことだ。すぐに彼は泣く。
    (「別れたくない」って泣いたこと、あったな。何度も何度も)
     また涙を見せるくらいのことがあっても可笑しくないと考えていたのに。
    (きっと青天の霹靂ってこういうことを言うのだろう)
     吸血鬼であるドラルクは青空なんて生まれてこの方、絵画や映像でしか見たことがないけれど。
     一度も見たことのない空を、ロナルドの瞳に重ねて考えていた。
     その瞳は今までドラルクを捉えて、柔らかい光を返していたというのに、今は見たこともないくらいに冷たい色を湛えていた。
    「あぁ、それがいい。これでおしまい、さよならだ」
     口の片端をあげてロナルドは言う。
     彼の瞳にはもう、ドラルクが希い求めた光はない。
    「さよなら」
     もう一度、ロナルドは同じ言葉を口にした。












    「言っておくけど、出て行かないからね」
     喧嘩の翌日、ドラルクは家主であるロナルドに言い放った。するとロナルドは冷たい目線でチラリとドラルクの方を見て、低い声で一言「すきにすれば」と返してきた。
     そのときの彼は夜の退治人の仕事が始まる前、少しでも原稿を進めておこうと考えていたのか事務所のパソコンに向かいロナ戦の続きを執筆しているようだった。すぐに目線がパソコンのディスプレイに戻り、会話はそこで終了となる。
     ドラルクとロナルドの喧嘩で此処まで長期のものは珍しいと自分でもドラルクは思っていた。それだって今までだったら「別れるっていったんだから出てけよ」とロナルドは怒鳴って、それからまた言い合いの応酬になるうちにロナルドの拳が飛んでくる。
     ドラルクは一瞬で砂となり、ジョンは泣く。
     ジョンを泣かせる原因を作ったことや暴力で物事を解決させたことに対する反省があるのか、一度殴ったあとのロナルドは「これでチャラ」とばかりに感情をリセットさせることが多い。
     そこまでくると愉快でないことが好きではないドラルクも大体彼と不仲であることに飽きてきてしまっているから仲直りになる。喧嘩が今まで一番長引いたときだって、翌日にはこんな感じに仲直りをしていた。
     だが、今回は違った。
     ロナルドの低い声に感情は殆ど含まれていなかった。
    「わ、私だってシンヨコに友人がいるし知り合いもいる。オータムに提出するレビューだって書かないといけないし、幾らこのドラドラキャッスルマークⅡがウサギ小屋だといっても」
    「だから。好きにすりゃ良いじゃん」
     朗々と自分がシンヨコに居続けるための理由を述べ終わる前に、ロナルドの声がそれを遮り、会話を終了させた。
     もう声を聞きたくないと言わんばかりの所作に、ドラルクは唇と声帯がなにを奏でるべきか判断がつかなくなってしまった。
    「あ。あぁ、うん。……きみの言うとおり、好きにする、よ」
     同意や相槌は返ってこなかった。
     ドラルクの方さえも殆ど見ず、ディスプレイを追いかけて揺れる青い視線とキーボードを叩く音だけが空間に響く。
    「ジョン、邪魔しちゃいけないね。洗濯でもしようか」
     自分たち二人の間にあるどうにも不穏な空気を察知したらしい賢いアルマジロはドラルクの顔を見上げ、それからパソコンの前から動こうとしないロナルドの様子も見やり「ヌン」と一言、力なく鳴いた。
     針のむしろに立つというのはあぁいうことを言うのだろう。
     事務所の雰囲気は酷く居心地が悪かった。
     いつもなら執筆していても、それが例え締切前で集中していたとしても「テメー邪魔するんじゃねぇよ」「ザコの相手をしているヒマねぇんだよ」と乱暴な言葉を投げかけてくるけれど、自分のことを相手にしないと言わんばかりの対応をされたのは初めてだ。
    「なんだよ、もう翌夜だぞ。一日経ったってのに、まだなにかプリプリと怒ってるのかい、あの子は。困っちゃうよね」
     笑い混じりにジョンに愚痴を言うことで、事態の深刻さから目を逸らす。
     昨日着ていた靴下とインナーは下洗い用のバケツに既に放り込んである。だが覗き込んだその中に、普段なら一緒に入っていることが多いロナルドの派手なパンツも丈の短い靴下も入っていなかった。
    「あれ? ソファに置きっぱなしなのかな? 全くもう、これだからあの五歳児は」
     だがソファの下にも床にも脱ぎ捨てられた靴下は転がっていない。
     ロナルドはああ見えて意外と綺麗好きだ。
     部屋の片付けなどはあまり得意ではないが片付けるという意思は持っているし、見た目を整えることの知識にかけてはまさしく五歳児だが、清潔であることには積極的だ。
     どんなに忙しいときでも風呂には必ず入るし身体を動かす仕事で汗っかきという事柄も手伝って着替えも頻繁だ。べたついた服でいるのが気持ち悪いと以前口にしていたことがあった。
     一度脱いだ靴下をまた履くなんてことは有り得ない。
    「うぅん? どこか私が見落としてるのかな?」
     そんなことを思いながら床を眺めることを諦め、身体を起こす。
     そこで目に入ったのは夕闇に包まれつつある空の下、微かな風に棚引いていたのは彼の靴下や下着、インナーといった彼の身につける衣類一式であった。ロナルドが自身で自分の衣類は洗濯したらしいことをドラルクがようやく察する。
    「へ。え? えー。あ、そうか。彼、一応のこと、一人暮らしちゃんとしていたんだもんね。なぁんだ……」
     窓の外で微かな音を立てる洗濯物を一瞥し、伸びきっていない皺のあとにドラルクは鼻を鳴らして片方の口角をあげる。
     家事というのは専門的に習うことは少ない。
     炊事については市井に料理教室も溢れているため例外だが、掃除や洗濯、アイロンがけや基本的な裁縫なんてものについてはこの国の場合、小学生の家庭科で習ってお終い、あとは自分で学ぶとか親兄弟に教わる程度だとショットとの他愛もない話の中で聞いたことがある。
     実際ドラルクが同居を始めたばかりの頃、ロナルドが干したタオルはしわくちゃで思わずドラルクが干し方から教えたくらいだ。それくらいにあの子は家事が得意ではなくて、けれども他人の言葉を素直に受け入れる気質が功を奏したのか憎まれ口を叩きながらもドラルクが教えたおかげで及第点が取れる程度の作業が出来るようになった。
     それでもあくまでも付け焼き刃みたいなものだ。
     ドラルクがノースディン卿にじっくりしっかり数年掛けて教えられたものに適うわけもない。
     だから、こうやって洗濯物に皺が残る。
     それでもドラルクが教えた皺を取るコツのようなものは彼の干した洗濯物から漂ってきていて「やっぱり彼には私が必要なんじゃないか」と一度鼻を鳴らす。
    「ヌヌヌンヌヌ?」
     いつまで経っても戻ってこない主人のことを心配したのだろう、ジョンがこちらにやってきてドラルクに声を掛ける。
    「あぁ、ごめんよジョン。早速私も洗濯に取りかかるとしよう。え、なに? あー、うん。そうなんだよ。昨日ジョンが出かけている間なんだけど、ちょっとロナルドくんと言い争いっていうか、そんな喧嘩にも満たないような、いつものヤツなんだけど。私、気付かないで何か彼の地雷を思い切り踏んじゃったみたいなんだよね」
    「ヌァ」
     可愛らしいアルマジロは思い切り顔を顰めて、ドラルクを見上げる。
     言外に「昨日喧嘩して、まだ仲直りをしてないの」という雰囲気を読み取ったが靴下の下洗いに集中することでジョンの視線から逃れる。
    「そんなこといっても、いつもなら私が夕方起きるとさ。ロナルドくんが『おはよ』って言ってくるからそれで特段何も言わずに解決してたし、延長戦なら一度彼、私のこと殴っておしまいなのにさぁ。なのに今回は殴りもしないんだよ、どういうことなんだよ」
     半分無視といってもいいくらいの冷たい対応をされたのは初めてだ。
     正直、殴られるよりも胸ぐら掴まれて罵倒されるよりもしんどい。怒りの籠もった目線で睨まれる方がずっとマシだ。
     今まで知らなかったけれど、ロナルドは怒りの沸点は低めではあるものの感情の爆発の先には凪があるタイプだということをドラルクは初めて知った。
     対話の諦めや全面的な拒絶よりはマシとドラルクは自身に言い聞かせるが、あんな凪の感情で接されるのもかなりダメージを負う。今だってちょっと力を抜いたらそのまま身体が崩れ落ちてしまいそうだ。ジョンという自身の圧倒的肯定感を高めてくれる愛すべき使い魔が傍らにいてくれるから身体を保っていられるだけのこと。
    「謝る? 謝るっていってもさ。私、彼が何で怒ってるか解ってないんだよね。そんなんでロナルドくんに謝ったところで余計に怒りに油注ぐと思わない?」
    「ヌヌヌンヌヌァ」
     悲鳴をあげるアルマジロに「私もなんでこんなことになっちゃったのか、ロナルド君に直接聞きたい……」とドラルクは一人ごちる。下洗いの済んだ靴下をドラム式洗濯機に放り込むとべしゃりと情けない音を立てた。
     実際のところ、カッとしやすい気質で沸点は低めに出来ているロナルドだが、その怒りは持続しないし気難しいというには気質が朗らかだ。だからこそ友人も多いし仕事仲間にも好かれている。退治人と作家という二足のわらじを履いていて最近は断り切れずに級友であるカメ谷に頼み込まれ週バンでの連載も抱えていて忙しそうだ。どれも成果主義ではある仕事だが、最終的には退治人としての成果や作品本体の出来は勿論だが、根本的には彼の人格が影響するところも多く、そこが評価されていることもある。結局のところ善良な気質が功を奏しているのであろう。
     敢えて言うのならドラルクがことある毎にロナルドのことを揶揄し馬鹿にすると彼が暴力行為に出るが、それくらいだ。
     伸びをしながら、ドラルクは脱衣所に座り込む。
     ドラム式洗濯機の回る中身を眺めながら足を伸ばした。なんとなく居住スペースにも事務所にも行きたくなかったのだ。
     そしてジョンと会話をしつつ、思考を巡らせる。
    (あの子、そういえば本気で怒ることって少ないのかもなぁ、ストレスも自分でどうにかするもの、みたいに考えていて世の中に怒りをぶつけるとか考えたことすらなさそうだし。それこそ、私のこと殴るくらいしか当てはまらないんだもん。生まれ持った魂の性質が善に寄りすぎているというか。知らないで綺麗な箱入りなんじゃなくて、世の中を知ってて善良であろうという性質がもう、「善」なんだよね。人を笑いながら嬲るなんて絶対出来ないタイプだ)
     一般的にストレスが限界値を迎えそうであったり、心に突き刺さる嫌なことがあったときに近しい他者であるところの恋人やパートナーに肉欲を求めるというのは解らなくはない、とドラルクは極めて客観的視点で考える。
    (なんたってあの子、ストレスや憤りの発露が性欲に向くってことすらないんだもんな……)
     ドラルクは吸血鬼なので人間についてのそういう感情について詳しいことは解らないけれど、心の澱を誰かと抱き合って思考を忘れるということは世の娯楽の一つなのではないかと考える。
     身体を売ることは世界最古の商売の一つであると聞いたことがあるし、どれだけメディアで性欲の発露が可能となった今だって肌を直接重ねる風俗業が完全に姿を消すということは考えにくい。他者の体温を共有し身体を重ねるというのはそれだけ人間の感情について重要な位置を占めるのかもしれない。
     関係性がこじれたカップルがセックス一つでお互いの愛情を確認しなおし、関係の修復と心の安寧を取り戻すこともある。
     適度に身体を動かすことで鬱屈を、負の方向にある感情を快楽で上掛けする行為で精神的な苦痛の手当を自身で行うのであろう。その行為自体が正解か不正解かは問題ではなくて至極この世の中では当然のこととして、自明の理とばかりに成り立っている。
     ただそれだけだ。 
     自分にとって相手に対する執着や愛しさから沸き起こるのとは異なる、そういった衝動についてはドラルクとしては「あぁそういうのもあるのね」くらいの理解だが間違いではないだろう。
     ドラルクに、その辺の感情の理解は難しい。
     吸血鬼の繁殖力の低さと呼応しているのか、はたまた人外であるところの性衝動と食欲がないまぜになっていることからの影響なのか。
     どちらにしても「それ」をしないと心が張り裂けそうなほどの衝動に駆られたこともなければ、誰かと抱き合うことで何かストレスめいたものから一時的な逃避をしたこともない。
     ロナルドとの関係だって、憎からず思っている人間に好かれているのが心地よかったことや思いのほか彼との行為が気持ちよかったので「恋人」という関係に辿り着いただけだ。元から彼のことを気に入っていたのは大きいけれど、別に恋人になりたかったかというと違う。
     ドラルクはただ、ロナルドの側にいたかったのだ。
     どういう立ち位置でも関係性でも良かった。
    なので、自分の性的衝動だとか性癖というのは曖昧なもので、もしかしたらエンタメとして楽しんでいるのかもしれないな、と自分のことを考える。
     好意を持った相手に触れたいだとかの衝動はあるけれど、それがイコールで性欲に合致しているかというと疑問だ。好みの成人指定の動画なんかは持っているけれど、あれは半分コレクションで残りの半分は鑑賞物としてのそれである。鑑賞物なので観賞するときに「セオリー」みたいなものを把握することもままある。仕事で疲れた男を癒やす胸が大きい彼女、なんてシチュエーションはきっと世の中から必要とされているのだろう、掃いて捨てるほど見た気がする。
     そんなわけなので同居人兼、恋人である人物の性的衝動が世間一般のそれとずれていたときに、「あぁそういうタイプもいるんだ」とドラルクは目を見開いてしまった。恋人であるロナルドの衝動は、世間一般によくありがちな嫌なことから逃れようとするときやストレスが過度に掛かっている際に発生するのではなくて、何か喜ばしいことがあったときや目標達成したときの高揚感から発生するらしい。
     これまた世の中のスタンダードから大きく乖離している。
     仕事で依頼人に深く感謝をされたり大きな捕り物に対し仲間に少しの犠牲も出さず無事に終わったとき、作家業の締切を乗り越えたあと。あとは思いがけず、商店街のくじ引きで高価なワインを当てたときもそうだった――残念と言うべきか、アルコールにめっきり弱いこの五歳児の舌にワインが合うはずもなく、なかなかおいしいワインは全てドラルクの腹の中へとしまいこまれたが。
     サイン会の日の夜もロナルドの機嫌はいい。
     前日までは「誰も来てくれなかったらどうしよう」という酷くネガティブな妄想をしていることも多いが、盛況に終わった当日の夜はふわふわとした雰囲気を纏って帰ってくる。アルコールにけして強くないのに珍しくヴァミマでビールを買ってきて飲んでいうこともある。例の如くアルコールには弱いので半分残った缶ビールは翌日のビール煮へと使われることになったが、それはまた別の話だ。
     ファンの人たちと交流が出来た、少しだけど会話が出来たということをファンよりもサイン会の当事者であるロナルドが一番と言っていいほど喜んで、その夜には照れながらも「なぁ。えっち、したい」と素直な言葉をこちらに投げかけてきたこともある。ゲームをしていた自身の横にロナルドはストンと座り込みこちら側に身体を倒してきた。体温が温かくて心地よく、ただそれに対して嬉しいという単語を返すのはなんだか悔しかった。
    「重いよ、自分の体重考えて」
    「お前が死なねぇ程度に、そっちに掛ける重さ調整してるわ」
    「そうかい、ありがとうね」
     イヤミめいた返答をしてゲームをしていたスマホをローテーブルに緩く投げると、頬と耳を上気させた若者の顔を覗き込んで、通った鼻筋の頭に軽く噛みついた。
    「今日は良いことがあったから?」
     そっと頬に手を滑らせて囁いたことをよく覚えている。
     優しくて穏やかな時間だった。
     ずっと、この空間にいたいと思えるくらいに心地よかった。
     ロナルドからドラルクの頬に手を伸ばして、彼はこう言った。
    「良いことがあったら、誰かに振り分けたくなるじゃん」
     好きなやつなら、それは当たり前のことなんじゃないの。
     その言葉をいわれた瞬間に、ドラルクはとろみがかった青い空間に閉じ込められた気分になった。きっと彼はそんなこと、認識してもいなかったんだろうけれど。
     きっと夜は長くて、「ずっと夜ならよかったのに」と、どこかのミュージシャン名みたいなことをドラルクは夜中に何度も思うことになるんだろうと考えていて、実際それは正解だった。
     暑いほどに熱を持つ身体は「生きている」ということを体現しているようで、張りのある肌はすべらかで、触れることが気持ちよかった。
     夜明けはずっと遠くでいいと、何度考えただろうか。
     それがきっと執着でこれが恋なのかと自身の感情を知った。
    「ヌヌヌンヌヌ?」
     今日何度目かの「ご主人様」と自身の名前を呼ぶジョンの声に、ドラルクは現実に引き戻される。あの夜はそんな昔のことではなかったはずだ。
    「あぁあ、一体何があの子の地雷だったんだか」
    「…………ヌンヌ?」
    「いや、ジョン『全部』て。それは流石に、幾らなんでも」
     ドラルクは深々と溜息を吐いた。
     人が怒りを感じていて、その理由が自分にある場合。
     やはり怒っている原因を理解せず、反省の一つもしないで謝罪をしたら「全然反省してない」と言われることは明白だ。
     ドラルクはいつもの戯れで口喧嘩で、お遊びのつもりだった。
     だから余計に解らないのだ。
     一体自分は何を口にした?
     IQ三〇〇を越えると自負はしているが、口から出任せの罵倒文句の内容については残念ながら記憶にない。三日前のスーパーの水菜が幾らだったか、ということのがまだ覚えている。
    (たしか八八円の特価だったな)
     いや、そんなことはどうでもいいのだ。
     早くこんなとげとげした空気から抜け出したい。
     いつものような無駄話と言葉の応酬をしながら、時々戯れのようにキスをしたりする生活をドラルクは愛しているのだから。
     脱衣所の床は柔らかくはない。座布団があるわけでもない床に座り込んでいたので、尾てい骨と尻が痛い。いい加減、居住スペースに戻るかと傍らにジョンを伴いドラルクは足を進める。
     夜食の下拵えでもしようかとエプロンを身につけると事務所の方向へと足を向けた。
     あの五歳児の胃袋を握っているのは私だと右手を握る。
     同居し始めた頃、彼から警戒心を取り払うため手料理を振る舞い、家庭の味、温かい料理、陶器の皿に盛り付けられたご飯に飢えていたロナルドはコロッとドラルクの手の中に落ちてきた。今回も、それが効果的なのではないだろうか。何時でも腹ぺこのクッキーモンスターほど単純にはいかないかもしれないが、何よりロナルドはとてもチョロく出来ている。
    「ロナルドくん、夜食のリクエストは何かあるかい?」
     今夜は時間がある。
     ゲームの新作に手がつけられていないがこの関係性を正常に戻すことのが優先事項だ。
     時間があるから、例えば時間が掛かるメニューでもいい。
     ちょっと暑くなってきたからキーマカレーだとか辛めの料理が美味しく感じる季節だ。ロナルドは甘党に出来ているのでタマネギをたっぷりいれてスパイスで調整するとよいだろう。
     事務所で退治人の衣装に着替え、身支度を調えていたロナルドはドラルクの声に振り向く。
     いつもだったら、やたらいい顔に真剣に思案しているという表情を浮かべ真面目な声で「豚のショウガ焼き」なんて答えるというのに今日は投げかけられた声に対して僅かに瞳を動かしただけだった。
    「ねぇ、なにが」
    「いらない」
     返ってきた言葉の内容が理解できずドラルクはぽかんと口を開けた。
     それから耳に入ってきた言葉を模倣して自身で呟き、ようやくロナルドが口にした意味を理解する。
    「えっ、い、いらないって今日は腕の人とご飯食べに行くってこと? それともギルドでマスターが新メニューの試食会するから夜食は食べられないかもしれないって? あとは、えぇと深夜になっちゃうけどカメ谷くんがどうしても飲みたいって誘ってきたとか」
    「全部違うけど。そういうんじゃなく、いらない」
    「胃が痛いとか、風邪気味とか? きみ具合でも悪いの?」
     健啖家であるロナルドが理由もなく食事をしない理由と言えば、そんなものしか思いつかない。
    「てかさ」
     踵を返し、ロナルドはドラルクと視線を合わせもしない。
    「別れたんだから別に俺の夜食作る必要ないだろ。ジョンのだけ作ってあげればいい。そんなところ気ぃ使わなくていいし」
     言葉の後半はどこか自嘲したように笑い彼は出て行った。
     いつもの「いってきます」もなく無言で。
     ドラルクだけではない。
     ジョンにもメビヤツにも声を掛けなかった。
     正直、メビヤツの目が怖い。
     きっとメビヤツはとても怒ってる、いや悲しんでいるのか。自分にロナルドが出かけの挨拶をしなかった理由は全てドラルクにあると思っているらしかった。
    (あながち間違ってもいなさそうだから否定も出来ないんだけどなぁ!)
     都市破壊砲の標的になる前に、ドラルクはキッチンに立てこもることにした。
     ジョンが不安げにこちらを見上げている。
    「ジョン、平気だよ。ちょっとだけ私と彼は、すれ違ってしまっているだけなんだから。すぐに仲直り出来るさ」
     そう口で言うことは簡単だが、思った以上に亀裂は大きく、その要因すら自分は把握できていない。そのことが思いのほか心を重くさせる。
     あの子との口喧嘩なんて散々したことだし慣れっこだ。だから余計に日常の延長戦であったのだ。だから自分が何か地雷を踏んだことは解っても一体何が「それ」だったかが解らない。
     思わず口元を手で覆い、深々と溜息を吐いてしまった。
    「どうしよ、ほんと……」
    「ヌヌヌンヌヌァ」
     ジョンが悲壮な悲鳴をあげる。
     ジョンとしてはドラルクとロナルドの関係性について嬉しく思っていた。以前、ドラルクはジョンからそんなことをいわれたことがある。
     シンヨコという毎日が面白い街で暮らすこともだけれど、城での一人と一匹で暮らしていたときよりもドラルクが大きな口をあけて、声をあげて笑うことが多くなったからだそうだ。
     その分ドラルクは「ジョンだけのご主人様」でなくなってしまったけれど、それは仕方のないことだとジョンは考えている、そう語る使い魔の顔立ちは少しだけ以前より大人びていた。
    「ヌヌヌンヌヌモヌ(ご主人さまもね)」
     時間が経てば、文化が変わって環境も常識も切り替わって世の中は変わる。
     ジョンはそういう風に思っている。
     人も変わる。
     昔はテレビゲームなんて考えられなかったと言っているけれどもまさしくそれである。
     ドラルクはきっとこの数ヶ月、短い数年の間で変わった。
     一八〇年近くずっと側で見ていたジョンにはよくわかる。
     主人は陽気で楽しいことが大好きだ。人間が書く創作物にある吸血鬼という生き物は大抵もっと陰鬱でミステリアスに書かれているけれど、ああいった己の存在に思い悩む、或いは自己肯定を他者に求めるような存在ではない。
     もっと朗らかで楽天家、それでいて自信家で大胆だ。
     それなのに、ここ数年で主人は変わった。少しだけ臆病で物怖じするところが見え始めた。自信家なのは変わらず、ただ少しその場で足を止めて行き先の状況を窺うような所作を見せるようになった。
     かつての自分にも見せた自分勝手の強い、どこか思い込みが過ぎる行動。
     一種、傲慢にも見える挙動は彼が執着を覚える存在、好きな子が新しく出来たからだ。
     そのことについて、ジョンとしては嫉妬は覚えない。
     ジョンがドラルクにとっての一番であるという自負があるからだけども。
     だってロナルドという存在はジョンから見ても可愛らしくて一生懸命で、夜にしか生きることが出来ない存在からしたら陽だまりみたいだった。届かないと解っていても何処か追い求めてしまうものだということは理解できるからだ。それに、これはそれなりに過去誰かと身体を重ねて恋もしてきた吸血鬼の、相当久しぶりの熱情だということも。
     何よりジョンには一八〇年間大好きな主人を独占してきたという自信、もとい余裕がある。
     主人の恋が上手くいくように応援こそ積極的にするが邪魔をするほど無粋ではない。
     それに、きっと変化はいいことなのだ。ジョンはシンヨコが気に入っているしロナルドのことも気に入っている。
     この事務所で同居を始めた当初、ロナルドがドラルクを殺すことに僅かに悲しさを抱くこともあったし今だって主人が死ぬ度に涙は出る。ただその要因であるロナルドに対し怒りや憤りを持つかというとそれは違っていて、だってドラルクが積極的にその要因を作っているのは見え見えなのだ。
     殺されるのが嫌なら殺されるようなことをしなければいい。
     それこそ仕事中や執筆時に邪魔をしたりロナルドのことを変なあだ名で呼んだり、揶揄しなければいい。とても簡単なことだ。
     もっと早くに解決出来る対処法なら一緒に住まなければ良い。
     でも主人はそれをしないというのはつまりのところ自分が好きで殺されに行ってるのだ。なんなら楽しんでいると言ってもいい。
     だってこの吸血鬼はそれくらいに享楽主義で楽天家で楽しいことが好きで、一度なんて停止させるために――必死のロナルドからの要請があったにせよ――自分から稼働中のキャタピラに飛び込むような人なのだ。いや、人ではなくて吸血鬼なのだけれど。
     これは一種のエンタメ。きっとテレビに出ているタレントや芸人と呼ばれる人たちが誰かを笑わせるために自分を滑稽に見せているのと似ている。
     彼らは誰かを笑わせるために本気でやっていて、その誰かに自分自身も含んでいる。
     ドラルクも同じだ。
    「好きな子に、かまってほしいから」
     彼の行動原理はそれだけだ。
     ただこの主人は厄介なところがある。
     好きなだけなら、それでちょっかいを出すことで満足して「あぁ楽しかった」でいい。幾らでも相手の反応の内容など気にせず、なにかしらのリアクションが返ってくることにだけ、楽しさと満足を覚える。
     だが、問題はそのあとだ。
    「好きな子から構われたい」という欲求のままに行動したあとの対象の感情については無頓着なとこが宜しくないとジョンは思っている。
     好きな子を五歳児呼ばわりするのは自由だし、自分たちより遙かに年下のあの子を子供扱いするのは理解できるけどご主人だって恋愛においては随分と子供っぽいところがあると古きアルマジロは思うのだ。ご主人よりもジョンは二〇くらい年齢は若い。けれども彼よりも解っていることもある。子供だって年下だって、ドラルクとの関係が主従だって物事を考える心はあるし、彼が認識しているほどジョンもロナルドも愚かでも考えがないわけでもないのだ。
     ジョンと出会った一八〇年前からドラルクは成長とブラッシュアップを繰り返しているけれども未だに変わっていない部分の一つである。それは高等吸血鬼という種族に起因するものなのだろうけれどジョンとの大昔の一件で十分に反省した部分でもあろうに。
    「ヌヌヌンヌヌヌヌンヌヌヌヌォ(自己完結はよくないですよ)」
    「自己完結はしてないさ。……私だって、あの子との関係はまだ終わらせるつもりはない」
     ドラルクはそういってグラスに牛乳を注ぐと一気に飲み干す。サラリーマンが立ち飲み居酒屋でやるような飲み下し方にジョンが眉を顰めるのを感じたのか、ドラルクは少し居心地を悪くしたようで誤魔化すように首を横に振った。
    「あの子はいらないと言ったけれど、なにかあの子が好きだといった軽食を夜食に作るとしようか。定食めいた一菜一汁のものではなくて、摘まみやすくて手を出しやすいもの、サンドイッチとかそういうものがいいかね」
     冷蔵庫の中身を確認してドラルクは卵を二つ取り出す。
     卵サラダではなくてオムレツを使ったサンドイッチにしよう。あの子は卵サラダも甘めの卵焼きも好きだけれど野菜のみじん切りを混ぜたオムレツも好きだ。なんとなく作ったそれをサンドイッチの具にしたら「おかわりないの?」と食べ終わってから食べ足りないという表情を見せていた。
    「唐揚げもハンバーグも好きなのは知ってるけど、あんまり露骨なものだと私も好物っていう下駄履かせたステージで胡座をかいた結果みたいで悔しいし、あの子だって私の作るご飯に降参したみたいで手を出しにくいだろうし」
     これで、いつもと同じようになんとなくの流れで仲直りが出来るはずだ。
    「ジョン、大丈夫だよ。私はまだ別離という選択を選ぶつもりはないし、あの子の運命から身を引くつもりはない。ジョン、きみとのやりとりで私だって十分に後悔をしたし学んだんだよ」
     白い手袋を外し、片手で卵を割る。
     珍しく一度でヒビは入らなかった。

    ***

     ロナルドが一人暮らしを始めたのは高校を卒業して退治人を始めて三ヶ月くらいしたくらいのことだったろうか。保護者の庇護下を離れたという開放感よりもこのまま退治人としてやっていけるのかという不安ばかりがあったと思う。それでも日々ギルド経由で入ってくる依頼をこなし、仕事も家事も自分で片付けるという事柄には次第に慣れていった。
     だからドラルクとの同居が解消し、一人暮らしに戻ったとしてもどうにかなる。そう思っていたし根拠もない自信はあったけれどもその自信はまさしく「根拠のない」と言うに正しいものであったとドラム式の洗濯機を見つめながら思う。
    「えーと……」
     ロナルドは基本的に一度購入した家電を長く丁寧に使うタイプだ。エアコンのフィルター掃除は定期的にするし、油汚れのひどいレンジフードやコンロ周りの清掃も積極的に行う。潔癖症ではないし家事が得意なドラルクからすれば「片付けろ」と言われる程度にはズボラではあるけれど、それでも全く掃除を行わないというわけでもない。
     兄弟三人で暮らしていた頃から掃除と洗濯はロナルドの担当だった。料理が苦手で協力できない分、積極的に引き受けていた部分もあるけれど部屋が綺麗になることを兄妹は喜んでくれたし、晴れた日に洗濯物を干すのも取り込むときの太陽の匂いも気持ちが良い。
     一人暮らしになったらどうせ住むのは自分だし、とあまり片付けをしなくなってしまったけれど。それでも洗濯物を干すのは好きだった。青空の下に脱水の終わった洗濯物を広げていくのはなんだか気分がいい。指先が冷たくなるのも気持ちよかった。
     ドラルクと暮らし始めてからも昼間寝ているドラルクの代わりに洗濯物を干すのは自分の役目で、ただ暮らし始めて数ヶ月後、半田によって洗濯機が破壊――原因はドラルクが死んで洗濯機の中に閉じ込められたことなので悪いのは半田ではなくてドラルクだ――されてからはその干す役割というものも殆どなくなってしまった。
     ドラム式洗濯機は乾燥機能がついている。
     今までの洗濯機にそんな優秀な機能はついていなかったしロナルドは必要とも思っていなかったがドラルクの言葉に転がされてあっさりと高機能な洗濯機を購入することとなった。ちょうどドラルクのせいで洗濯機が壊れた時、雨が数日降り続いており部屋干しの臭いにロナルドは辟易していた。ドラルクが部屋干し用の洗剤を使うだとか扇風機を使って風を送るだとか様々な対策をし、ある程度匂いの軽減はされた。それでもやはり気にはなった。退治人は立ち動く仕事で服からの匂いが自分の鼻に届くことも多いことも関係しているのだろうが、着ている衣装から部屋干しの籠もった湿気の臭いを感じて気の置けない仕事仲間であるサテツやショットに「俺、臭くない?」と思わず不安から訪ねてしまったこともあった。
    「ドラム式なら乾燥まで一気にやってくれちゃうから臭くなることもないよ」
    「いや、でも高いし……」
     ロナルドが一人暮らしを始めるときに購入した縦式洗濯機の三倍近くの金額が表示されているドラム式洗濯機をシンヨコ駅前の家電量販店でドラルクとジョンと共に眺めながらロナルドが口にしたのは後ろ向きのセリフだった。自分の暮らしにこんな金額の家電を取り入れていいものか。
    「どうせロナルドくんのことだ。こないだみたいな事故が起きないならきみ、十年は使うだろ? 十分、元はとれるんじゃないの? 今後も定期的な洗濯槽の掃除とかするつもりなんだろ?」
    「そりゃそんなの売ってる洗剤をいれて回すだけなんだからやるつもりだけどよぉ」
     腕組みをしながら悩むロナルドの後をしたのはドラルクの一言だった。
    「洗濯からそのまま乾燥しちゃうなら、こないだみたく夕立で全滅、全部洗い直しなんてこともないね」
    「買うわ」
     少し前、干していた洗濯物がゲリラ雷雨によって見事全滅したことが自分の中では地味にショックだったらしい。平日の夜で暇そうにしていた店員を呼び止めて購入をし、それが届いてから洗濯は全面的にドラルクに任せてしまった。今やロナルドがするのは乾燥し終わった洗濯物をジョンやドラルクと共に畳むくらいだ。
     なのでロナルドはこのドラム式洗濯機の使い方がイマイチ解っていない。基本的な操作について取説を確認しようと思うも、そもそも取説がどこに保管してあるのか知らなかった。
     とりあえず洗濯物と洗剤をいれて蓋を閉め「洗」という表記を選択し、スタートボタンを押す。三〇分後、終了を知らせるアラームが聞こえたので蓋を開けたが、脱水が終わっただけの濡れた洗濯物が鎮座していた。
    「あれぇ乾燥されるんじゃなかったっけ」
     独り言を呟きながら操作パネルを見直し「洗」の隣に「洗~乾」という表記を発見して「あ、こっちだったか」と自分の操作が間違えていたことを確認する。
     次回はこちらを選択するようにしよう。
     さて手元の洗濯物はどうしようかとロナルドは考える。脱水済みとはいえ乾燥には程遠い。外の天気を確認すると雲は殆どなかった。この分なら外に乾かしても問題はないだろうと久しぶりに出番になる金属のハンガーを取り出す。こちらの保管場所は一人でやっていたときと同じ場所に保管してあったので問題なかった。
    「……ちゃんと使い方、覚えないと。そうしないとお前にも悪いもんな」
     ドラルクがいなくなっても自分一人できちんと人間らしい生活が出来るように。
     そう思いながらロナルドは水滴がついたドラム式洗濯機の表面を撫でた。
     下洗い用のバケツの中に佇んだままのドラルクのものと思われる靴下を見下ろしながら、ロナルドは自然と言葉が口から出ていた。
    「一人でも平気にならないと」
     その日ドラルクが起きてくるのはいつもと同じ時間で、いつもと同じ雰囲気だった。そのことにロナルドは安心をしながら上手く距離を取れるように早々に事務所を出ることにした。
     今日は依頼人の来訪予定もなかったし元々ギルドにいって情報交換をするつもりだったのだ。ちょうどいい。それに最近は個人的な依頼が立て込んで多忙なこともあって街のパトロールを誰かに任せてしまうことが多かった。埋め合わせというわけでもないが日々変化する街の様子を把握しておくことは重要な仕事の一つだ。
     ギルドでパトロールを引き受ける旨を伝え街を歩きながらドラルクのことが頭に過ぎる。
     喧嘩をした回数は数え切れない。何度目かで馬鹿らしいと回数をカウントすることはやめてしまった。
     そもそも自分たちの関係は同居人から友人になり、そこから恋人へと変異した。今までの口(くち)さがない口論はふざけた煽りあいの延長でなかったし真面目な言葉遊びでしかなく舌戦を引っ込めるにはもう自分たちの距離は近すぎた。けれどもそれを悪いとは思わない。友人から恋人と関係性に変異はあっても一緒にいることが楽しいだとか同じ時間や感情、体験を共有したいという感覚はかわらなかったからだ。
     ただ今回の別れ話は今までの「よくある」というもので簡単に収束できるものではなかった。
     死ね、殺すという言葉より別れるという言葉の発生頻度が低いことに加えて、ドラルクが口にした「どうせ違う時間を生きる存在」という言葉がロナルドにはひどく突き刺さってしまったのだ。それはロナルドがついぞことあるごとに考えてきたことだったからだ。
     自分は彼よりは先に死んでしまう。寿命だけの話ではない。退治人は身体が資本の仕事だし、世間一般の仕事と比べると怪我や事故に巻き込まれる確率は高い。それに比例して死亡率も。
     病気で死ぬ前に退治人としての仕事中に死ぬ可能性は十分にある。
     それでも自分はドラルクの暇つぶし程度であろう時間、きっと四〇年くらいだろう、その時間を共有するつもりだったし人生を共に歩む、楽しむくらいの感覚でいた。自分が死んでからもこのシンヨコで出来た吸血鬼の友人各位とそこそこ楽しく暮らせるだけの土壌と環境は遺してやれるはずだ。けれどそれは自分の思い込みで思い上がりでしかなかった。
    「どうせ違う時間を生きる存在」といわれてどう否定すればよかったのか。生き物として違う生物なことは根源的な違いなので否定できるはずもない。
     それは明らかな事実でしかないのだ。
     ロナルドはドラルクよりも先に逝く。
     何があろうがそれは最初から決められた運命でしかない。
     すぐに死ぬ吸血鬼のドラルクは貧弱で圧倒的弱者でしかないが、死んだあとに即生き返るという点に注力していうなら不死身といってもいい。それはドラウスや古の吸血鬼たちがいう「竜の一族の末裔」「強い血統の高等吸血鬼」である証でもある。
     その彼が自分から「住む時間軸が違う」と言った。
    「だから別れよう」と言った。
     それならロナルドはどう返せばよかったのか。
    「いやだ」というのは傲慢が過ぎる。
     自分が先に彼をおいて逝くことが確定しているのにロナルドがそれを願うことはドラルクを縛ることになる。そうでなくてもあの種族はやたらと契約と習性に縛られている。
     虚弱体質ではあるものの古く高貴な血筋のドラルクはなおさらだ。陽の下での活動は難しく、認可されなければ部屋に入ることすら出来ない。己の意志一つで動き回れる、その気になれば過去の存在を記憶から捨て去れる人間とは違う。そもそも自分が彼の人生に介入することが間違えだったのではないだろうか。
     一緒に過ごすことが心地よかった。
     無自覚な恋をして、それは「恋」であると友人に指摘された。
     気付けば足を踏み外して恋という穴に落ちた自分をドラルクは穴の底で待っていて困ったような笑顔で「仕方ない」とばかりに細い指をこちらに差し出してきた。
    「私はきみという存在を知りたいんだけど」
    (もうとっくにお前、俺のこと知ってるじゃんか)
    「そうじゃなくてさ。きみの持つ、扉の向こうに入りたいって言ってんの」
     ドラルクは誰も知らない扉という表現をしたが、そんな扉なんてロナルド自身知らなかったしわからないままに承認した。
     誰かと深い仲になるのは多分高校生のとき以来だった。あのときは二時間で終了したので深い仲になることもなかったが、あのときの彼女との関係が続いてたのならそういう展開もあったのかもしれない。
     初めて一緒に過ごした夜、ロナルドがピロートークめいた会話のように高校生の頃のエピソードを呟くと「きみね、知らないみたいだから教えてあげるけど他の人の話なんてするもんじゃないよ」と苦虫をかみ潰したような顔をした。そのときの会話のやりとりでなんとなく、本当になんとなく、言葉で確認したわけではないけれど(あぁ、こいつは他の人間か吸血鬼か、誰かと身体を重ねたことがあるんだ)ということを知った。
     自分の体温よりきっと二度くらい低い体温で触れられることも、知らない快感を植え付けられて出したことのない声が口から流れ出るのも全部初めてで全部気持ちよかった。触れられるのが嬉しかった。頭の中が真っ白になるくらいに「きもちいい」と言う感情だけで押し流されて後ろから穿たれて絶頂することを覚えた。それを与えてくれるのが彼だということが嬉しかった。彼のいうところの「扉」というものが何を意味しているのかを自分は未だに理解できていないけれど、彼と過ごす時間は怒鳴り合ってても大概が楽しかった。
     きっと彼もそうだと思ってた。
     だけれど共に過ごすことが楽しいという現在進行形の感情とは別の話で、種族の違いを持ち出されたらロナルドはどうすることも出来ない。ドラルクは末席とはいえ竜の一族の一員なことはロナルドだって理解している。ノブレスオブリージュではないが彼ら古の吸血鬼が持つ社会的な責任だとかいうのもきっとあるのだろう。今はドラルクの祖父である「御真祖様」が健勝で父のドラウスやミラもいる。甘やかされた孫息子が気まぐれで人間を恋人にしているくらいは面倒事の範疇ではないと認可してくれているだけで、もしかしたらそれなりの血筋の同族との縁談なんかがあるのかもしれない。口にしないだけで許嫁がいてもおかしくない。
    (俺が知らないだけで)
     別にそれはいいと納得はしている。
     そういう話が出たら、素直に自分は彼から離れるつもりだった。どちらかというと自分がダウナーな思考に沈みやすいという自覚はある。泣いて縋ってしまうかもしれなくて、けれどそういうのは彼が好む『ロナルド』ではないと思うから。別れ話が出たときには笑顔で「へぇ、結婚式には友人として呼んでくれよ」くらいの軽口をたたけるくらいに笑顔でそう言おうと思っていた。
     これまでの喧嘩にも「別れる」という言葉が出たことはあった。
     でも大抵の場合はドラルクが「は? なんで?!」とそれを打ち消すので安心していたのだ。
     きっと暫くはこの平和で愉快で、思考が闇に沈む夜はやってこないと。
     話すことに疲れて「おやすみ」という言葉を伝える相手としてドラルクがいて、彼が作る食事を口にして。
    (そういえば、三ヶ月で身体の細胞は骨以外は切り替わるんだっけな)
     ならばきっとこの身体はドラルクが作った食事で構成されているといって過言ではないんだろう。髪も皮膚も。粘膜も血液も。
    (そんなことが一瞬嬉しくなるなんて、俺は本当にバカじゃないのか)
     きっとあの言い争いは偶然で、けれどもドラルクから出た「種族の違い」というのは彼が常々考えていた事柄なのだろう。もしかしたら別れ話を切り出すタイミングを図っていたのかもしれない。何時くらいからなのだろうか。ドラルクは自分の側にいるのが不快になっていたのだろうか。それとも単純に居心地は悪くはないけれど今後のことを考えての言葉だったのだろうか。
    「おや、ロナルドさん?」
     パトロール中ではあるが見知った人の多いシンヨコだ。声を掛けられることは幾らでもある。呼びかけられた方を振り返れば、友人である半田の両親の姿があった。聞けば食事の帰りだという。たまには二人きりで食事でも、と半田が両親に食事券を送ったらしい。半田が両親思いで二人きりで過ごせる時間をよく提供していることはロナルドも知っていた。
     吸血鬼である明美と人間である白は息子である桃も「物心ついてから喧嘩しているのをみたことがない」「珍しく言い争いかと思ったら、単なる戯れの痴話喧嘩だった」と言いきるほどの仲の良さだ。種族の違いはこの二人には大した障害にならなかったのかも知れない。
    「すみません、パトロール中でしたね。つい声を掛けてしまいまして」
     頭を下げる白は笑顔だが、謎の圧力があり思わずロナルドは身構えてしまう。何か不審な事象でも見かけたのかと尋ねると夫婦は揃って首を横に振り否定を示した。
    「いえ、そうではなくてロナルドさん何かありましたか?」
    「とても厳しい顔をされてたので気になってしまって」
     パトロール中であることは一見して解ったが、あまりにもきつい表情をしていたことから明美が心配をし、二人は息子の友人でもあるロナルドに声を掛けてきたらしい。
     二人の言葉に思わず息を飲み、それから慌てて笑顔を浮かべる。
    (市民を守るため、安心させるためのパトロールで何をしてんだ俺は)
    「すみません、えぇとその。次の新刊に収録するエピソードについて思い返していたら厳しい戦いだったな、と思わず表情が。不安にさせてスミマセン。今日は月も明るいし、いい夜ですね」
     声は緩やかにペースは遅め。いつもの声よりも少しだけ低く、けれども声色は明るく。目元を和らげて口角をあげる。
    「えぇ本当に! 桃ちゃんが紹介してくれたお店のコースも美味しかったし、ロナルド様にもお会いできましたし、いい夜です」
    「では、いい夜を。あの、半田くんにも宜しくお伝えください」
     言わずともあの人たちは帰宅するなり息子に自分のことを伝えて、そのことをRINEなどでロナルドに直接半田から報告があるんだろうけれど、と思いながらも挨拶をすると「失礼します」とお辞儀をしながら白が言った。
    「もちろんです。ドラルクさんにも宜しくと」
     耳に入る単語に一瞬顔が固まりそうになったことにロナルドは息を飲む。別れ際でよかった。多分、気付かれてないはずだ。
    (なんで、アイツの名前)
     少し落ち着いて考えれば半田夫妻がロナルドに会ってドラルクの名前を出すのは当たり前のことだ。二人はロナルド・ウォー戦記を愛読してくれているしその中ではドラルクはロナルドの相棒のような書かれ方をしている。実際にこの街で暮らしていてロナルド本人が今日のようにパトロールに出ている姿を目にすることもあるし、ドラルクが面白がってパトロールに着いてくることも少なくなかった。
     だからロナルドに会った二人が偶々同席していないドラルクの名前を出すのはごく普通のこと。
     息子の友人であるロナルドの、顔見知りである同居人への単純なる気配りで挨拶の範疇。
     そう自分に言い聞かせながらロナルドはシンヨコの街を闊歩する。
     パトロールに出ていなかった期間はそんなに長くないつもりだったが、ところどころで道路の拡張が行われていたりビルの改装工事と、街は息をするように生まれ変わっていく。照明はあるものの工事のせいで道幅が狭くなり人通りが少なくなった箇所などは人目につきにくいことから下級吸血鬼の発生に気付かず大量発生に結びついてしまうこともある。
    (小まめにギルドか吸対で担当を決めてチェックをするべきかもしれないな)
     今のところは問題はなさそうだと確認をしていると細い路地の向こうに見知った緑色と赤色の後ろ頭が揺れているのが見えた。
    「サギョウくん? ヒナイチも」
     ロナルドに呼ばれた頭二つがこちら側を振り返る。
     二人は呼ばれた時点でこちらの存在を補足していたらしく振り返る際に驚く顔もしなかった。 流石というべきか、半田も含め吸対は全体的にこんな性能の人間が集まっているのかと驚きながらもそれを顔には出さないようにしてロナルドは挨拶のつもりで片手をあげた。
    「お疲れ様です。そちらもパトロールですか」
    「あぁ、こっちも一応。あそこのビル、改装? なんか工事なの?」
    「工事ではなく取り壊してマンションが新しく建つらしい。道路の拡張もそれに伴ってのことだな。市役所の土木課や税務署だのには随分前に連絡が来ていたんだが、警察所属の吸対には上手く伝わっていない状態でな」
     吸血鬼絡みの犯罪や事故など市民の避難が必要な案件が発生したときの避難経路の作成ができていないのだとヒナイチが鼻を鳴らしながら言う。お役所にも何かと縄張り争いみたいなものがあるのだろう。緊急の仕事が増えたと彼女には珍しく、不機嫌そうな様子を隠そうともしない。
    「副隊長、今日昼間にこの関係で連絡系統どうなってるんだって長丁場の会議からの残業なんで疲れて不機嫌なんですよ」
    「サギョウ! 別に私は疲れてない!」
     昼間からの会議というのならヒナイチはきっと本当なら今日は夜、夜勤である人間に引き継ぎをしてさっさと帰れるはずだったのだろう。それが上層部が命じた緊急対応をしなければならなくなった。不機嫌になって当然だ。
    「ロナルド、今日ドラルクは一緒じゃないのか?」
    「え」
    「ドラルクがいるならジョンにあげるクッキーの一枚でも持っていて私に分けてくれるんじゃないかと期待したんだが……」
     ドラルク特製のクッキーがヒナイチはお気に入りだ。
     ドラルク本人に用事があったわけではないと解るも、ロナルドは自身の心臓が一度大きな音を立てた気がした。そんなロナルドの様子に気付かない様子で、サギョウが手元のタブレットを操作しながらヒナイチを制止する。
    「副隊長、別にロナルドさんだって四六時中ドラルクさんと一緒にいるわけじゃないですから。たしかにお二人って大体一緒にいるイメージがありますけど。ギルドの方も忙しいでしょうし、引き留めちゃダメです。クッキーならあとでコンビニで僕が買ってあげますよ」
    「部下に驕られるのはなんか、腹立たしい……」
    「副隊長って十九歳でしょう? 僕より全然年下だから驕られるのはセーフじゃないですか?」
    「えぇえーそれは、それはどうなんだ……?」
     優秀な補佐役宜しくサギョウはこちらにぺこりと頭を下げて「副隊長、行きましょう。まだ確認箇所あるんです」と上司であるヒナイチを伴ってその場を辞す。
     この場所は工事現場に通じる通路のため、行き止まりになっている。
     ロナルドもそのことを確認し、場を離れようとしたが先程何の気なしに言われた言葉が突き刺さり、生温い唾をゴクリと飲み込んだ。
    (いつも一緒にいる、イメージがあるのかぁ……俺とアイツ……)
     そんな存在と自分は今、別れようとしている。
    (しているじゃない。別れたんだ。別れた。別の道を歩むと決めた。いい加減腹を括れよ、俺)
     未練たらしく涙が滲むのを感じてロナルドは目尻をグイと指先で払った。
     ギルドにパトロール結果の報告書を提出して事務所へと帰る。
     ドアの向こうにはあの吸血鬼の姿はなく、そもそも誰かがいる気配がなかった。今日は少し疲れている。早じまいするかと居住スペースに足を進めるとドラルクは外出中らしく姿がない。置きっぱなしの棺桶やパソコンがあるので、彼はまだこの部屋に戻ってくるつもりがあるということが解って一人で安心した後に、それを否定する。
    (一人の生活に慣れないといけないんだ。昔みたいに自分一人で、やろうと思えば出来ただろ)
     昔は一人でもそれなりに生活できていた。今みたいに手触りのよいタオルや磨かれた洗面台はなかったけれど人間一人としてとりあえずではあるものの生きることは出来ていたはずだ。
     いつもの癖で冷蔵庫の前に足を進めると、冷蔵庫のドアに張られた付箋がある。
     ドラルクからロナルド宛の連絡事項だ。
     あの吸血鬼はヌーチューバーだし自分のチャンネルも開設しているし、パソコンだの最新機種のスマホを使いこなすだのといった現代に即した存在だというのにこういう連絡手段については妙にアナログな方法を好む。
    『冷蔵庫の中にサンドイッチがあるよ』
     可愛くない自身の似顔絵付きだった。
     別れると言ったのに、いつもと同じような心遣いをするドラルクに対して瞬間的な憤りを抱く。
    (あいつ、一体なんのつもりで)
     ただ思い返せば最初にロナルドに食事を作ってくれたときとドラルクの中の感情は同じなのかもしれない。
     彼は元々料理が得意で、何の気なしに夜食を作ってくれた。
     最初のそれはきっとジョンの食事を作るからついでに作ってやろうという感情だったに違いない。一種、料理の作業という延長線上のものだったのだろうし実際彼の食事を口にし始めた時期と恋人となった時期には大きなズレがある。
     そのことを思うと単純に恋人であろうが同居人であろうがドラルクはロナルドに対して自然体で食事を作るのかもしれない。冷蔵庫の中の夜食に大きな意味はない。
     それは理解していても、ドアを開けて彼が作った食事を口にしたらドラルクへの感情を断ち切れない気がした。自分たちはそれぞれ別の道を選んだと理解はしていても、まだロナルドはあの吸血鬼と過ごす時間の心地よさを否定出来ない。あれは過去のものだと納得できていない。
     世の中の人は大体恋人関係になった人が時期をずらして複数いて、その数人のあとに結婚するとか聞く。ならば何人かの人と付き合って恋人関係になってから別離の道を選んだということで彼らは過去の恋人達のことを何の気なしに話題にあげる。
     友人や知り合いに戻った者、連絡は取っていないが共通の知り合いがいるので否応なく近況は知っているという者、行き先は全く知らないし気にしないという者、新しい恋人は出来てようやく過去の別れた恋人への未練を断ち切れた者。それから決別はしたけれどいつまでも過去の恋人のことをふとしたときに思い出してしまう者。
     彼らはどれくらいの時間で感情に決着をつけて新しい道を歩み出すことが出来たのだろう。
     名前を他者の口から聞いただけで不安定になるような時期からどれくらいで脱することが出来たのだろう。
    (俺、どれだけ情けないの)
     腹は減っているが、目の奥が熱くて胃が緩く違和感を覚える。
     ともすると浮かぶ涙を指先で払って、冷蔵庫の付箋紙に下手な字で返信を書く。
    『ジョンの分にして』
     退治人衣装を脱ぎ捨ててシャワーだけ浴びると、ろくろく髪も乾かさずロナルドはソファベッドへと潜り込む。膝を抱え込んでなにも考えずに感じないように目を閉じると意識的に眠りに落ちる。夢なんて見たくもなかった。
     ロナルドが眠りに落ちたほぼ一時間後、ドラルクとジョンは事務所に戻り、暗く照明が落とされた居住スペースに一人と一匹は顔を見合わせた。ロナルドはあくまでも人間なので今までも夜の住人であるドラルク達が外出している場合、先に寝てしまうことは今までもあったけれどその際はRINEで「先に寝てる。おやすみ」と連絡してくることが殆どだったし、或いは帰ってくるまでは起きているつもりだったのか明かりをつけたまま寝落ちているという様子だった。
     吸血鬼なので夜目は利くし、狭い部屋で立ち動くにも困るわけではないが、この様子はドラルクが認識していない数時間でずいぶんと自分たちの関係が拗れてしまったことを示していた。
    「これだから人間の世界のスピードは速すぎて困るんだよ」と世の中のスタンダードに恨み言を呟き、それからソファベッドで寝ているドラルクよりも随分年下の恋人――彼は別れたつもりかも知れない、というかそのつもりのようだが、こちらはその気はサラサラない――――の表情を見やる。泣いたのか目の端が赤く腫れていた。
     泣き虫な上にすぐに目や顔を擦るからこうなる。
     明日起きたとき、目覚めたあとに瞼の重さに泣いたことを後悔するだろうに、と揶揄する感情が浮かび、そこから原因を作ったのは自分かとドラルクは思いあたる。
     ただ拗れた因子もそもそも彼が怒って、いや悲しんでいる理由がどこにあるのかドラルクはまた辿り着けていない。謝ることも出来ず、ロナルドの感情が落ち着くのを大人の余裕で待っていようと思っていたがこれは得策ではないのかもしれなかった。
    (悪手だったかねぇ)
     ソファの端に座り、普段はピンと伸びた背中を丸めて幼児のように眠る昼の子を見下ろして夏の月色をした巻き毛に指を絡める。
     窓の外では洗濯物が湿気た夜風に揺れていた。

    ***

     ロナルドとドラルクが相棒としてコンビを組んでいることはシンヨコで暮らす数多の人が知っている。けれども二人が恋仲であることを知る人は少ない。
     二人と近しいごく一部の友人達は自分たちの仲を知っていて、彼らは自分たちの関係を付かず離れずで見守ってくれていた。
    「わかれた?!」
     シンヨコは新幹線が停まるだけの虚無と呼ばれて久しいが、人が住む住宅地や居住地としてはそれなりに優秀だ。だから昼間のファミレスはランチタイプ以外も賑わっていることが多い。
     ピークタイムは過ぎたとはいえ、昼過ぎの落ち着いた時刻を狙ってやってきた幼児連れの家族連れやマダムのお茶会の賑わいのおかげでショットの大声はさして響くことはなかった。だがショットは自分の声の大きさに驚き、気恥ずかしいという表情を浮かべそのあとは声を顰める。
     一応のこと同席してるのが世間様にもよく顔が知られている相手だと思ったらしい。
     皆、夜の仕事が始まる前の時刻で私服だ。
     退治人衣装を着ているときよりは地味とはいえ身長や容姿もあってロナルドは目を惹く存在だ。そのうえさらに大柄なサテツが同席してる。
     ショットは「この二人のせいで何をしないでも目立つ集団になる」ということをよくよく理解している。衣装は着ていないもののちょっと見ればこの街の退治人連中だとわかるので、それなら尚更のこと私的な会話を周りに聞かせるのは宜しくない。
     近くの席で叫び声をあげている女児にショットは心の中で礼を言った。
    「いやいやいや、お前それいつもの殴って殺したとか。そういうのなんだろ」
    「じゃ、なくて」
    「だって普段からじゃれあいでお互いに煽ったりするような気の置けない雰囲気でさ。それこそ思ってたのと違うとか今更いうこともないだろうしオレなんでそんな展開になってんのか全然わかんない。だってお前とアイツだろ。どっちも浮気だの出来るタイプでもないし他に好きな子が出来たとかでもないんだろ、その言い方だと。世間だと時々聞くのは恋人としてはいいけど共同生活する相手としてだと価値観や金銭感覚違っていてダメだったから別れたみたいなこともきくしアイツたしか実家太いんだよな、だから確かにそういうことが発生するかもだけどもうその辺のトラブルは今更とっくに経験済みって感じだろうしさ」
     ショットの言葉に俯きながらロナルドは次にいうべき言葉を探していた。
     コンビ解散というのも芸人やアイドルでもないのでなんだか妙だし、かといって恋人関係が破綻したというのも変だと自分とドラルクの関係を改めて考える。
     相棒、相方というのがちょうどいいのだろうか。
     恋人と他人に言えるほど睦まじい関係を築いていたとは思えない。
     今回の別離のきっかけはちょっとしたことから発生した喧嘩ではあるものの、その根底にあるのは喧嘩した原因は一切関係のない事柄だからだ。
     自分はそう言葉を紡ぐのが苦手な口下手なタイプではなかったはずで、けれども言葉は出てこずに言い淀む。静寂がしばしその場に留まり意外なことにそれを打ち壊したのはショットではなくおとなしいサテツだった。言葉を選ぶような所作もなく、彼は静かに言う。
    「あの人と『そういうこと』じゃなくなった、ってこと?」
    「なんでどうして」と動揺を見せるショットと対照的に今まで無言で聞いていたサテツだったが具体的な名称を言わないで表すあたりが優しい彼らしい。
     ロナルドは思わず相好を崩す。ただそれは力ない苦笑に近いものにしかならなかったが。
    「まぁ、そういうこと」
     ロナルドが肯定を示すとサテツとは眉を顰め「いつもの痴話喧嘩でなく?」「ほんとに?」と同じような質問を何度も繰り返す。
     すべて肯定をしたロナルドに対してショットが頭を横に振り理解できないという仕草をみせた。
    「だってさぁおまえら二人でいるときすんごく楽しそうじゃん、喧嘩っつっても戯れてるみたいな雰囲気だし。それになんての? それが本当にフツーっていうか『そういう風にいることが当然』みたいに見えるんだよ。だから喧嘩の延長戦ならちょっと冷静になってみるとかさ」
     ショットの言葉は尤もだ。いつもだったら怒り心頭のまま「本当にアイツ信じられねぇ」と愚痴めいた言葉の中に「もう別れた方が良いんじゃないかな」という言葉はよく混じっていた。
    「俺は冷静だよ。最初は頭にきてたことがきっかけだったけど今はもう落ち着いてるし。向こうはずっと一定って感じだから冷静とかじゃなくて。もしかしたらずっと考えてたのかもしれないなって思って。そしたらなんか俺がぎゃーぎゃーいうのもどうなのって思って」
     淡々とロナルドは言葉を探しながら返す。自分の感情は落ち着いてはいるがそれを言語化までは追いついていなかった。だが、今の感情に激昂するような高ぶったものはない。
     あるのは静かな凪だ。
    「その『別れる』って話はドラルクさんから? それともロナルド?」
     別れ話を切り出したのはどちらだったのかとサテツが静かな声で問う。
    「俺から」
    「あぁ、やっぱり」
     過去にも「別れる」とロナルドが言い出したことをきっと二人は思い出しているんだろう。
     あのときは大量発生した下級吸血鬼の退治で疲れ切って帰ってベッドに飛び込んだらジョンの悲鳴が聞こえた気がして大慌てしたことがあった。原因はドラルクが自身のヌーチューバーチャンネルのドッキリ動画に使うとかいうことでベッドにヌーヌークッションを大量に仕込んでいたからなのだが、下級吸血鬼の掃討に直前は提出原稿の締切で睡眠時間がカツカツだったことも手伝い、ロナルドの怒りが爆発した。普段なら一発殴って不貞寝してお終いになったのだろうが、寝ようとすると大量に突っ込まれていたせいで片付けたつもりが残っていてどこかしらで「ヌー」という音がするのでなかなか眠ることが出来なかったこともある。それをゲラゲラ笑いながらドラルクがカメラを止めずに撮影を続けていたことが一番大きな要因だ。
     その時も怒りは二日ほど冷めやらず、ギルドで偶然居合わせた二人に「もうアイツと一緒に暮らすのやだ。別れるべきかな」とロナルドは怒りが醒めやらぬ思考のままぼやき、二人は顔を見合わせていた。
     目は口ほどにものを言うとはよく言ったものでそのときの二人は「そんなバカなことを」「今更一人暮らしにお前は戻れるのか」と言わんばかりの顔をしていたし、今さっきの「別れる」と言ったときも同じような顔をしていた。
     ただ表情が険しくなってきたのはロナルドの言葉があのときのような怒りから発露した一時的なものではなくてもっと根が深い理由に結びついてしまっているということを察したかららしかった。
    「俺のはいつもの喧嘩からの延長の勢い任せの言葉で。けど殺すとか死ねとかじゃなくて、なんであのとき俺は『別れる』って言ったのか、自分でも解んない。けどどこかでそういう結末がいいって思ってたのかもしれない。でも普段だったらアイツは笑い飛ばしてた。『そんなこと出来もしないのに』って」
     ロナルド自身の言葉はそのとき高ぶった感情から吐き出されたもののことが多い。
     だからいつもの切り返しであるところの「なんで別れるとか言っちゃうかなぁこの五歳児は!?」「はいはい、きみ私のこと大好きなんだから別れるなんて出来ないのにね」という言葉が返ってくるに違いないとドラルクに甘えていた部分もある。
    「アイツ、今回はそうじゃなかった。『それがいい』って言った。普段なら笑い飛ばすのに。アイツ、言ったんだ。『そもそも種族が違うんだから。生きる時間が違う』って」
     今まではそんな風に言われて、ロナルドが「うるせぇな! 好きに決まってんだろ! そうだよ!」と怒鳴って殺して完結していた。
     周りから見たら単純なる痴話喧嘩でさぞ茶番劇だったろうし自分も相手もその茶番を楽しんでいると思っていた。ただそれはいつのころからか自分だけが愉快だと思っていたらしい。
     それならもうおしまいだ。
     ポツポツと自身の感情を言葉にすると実感が湧き上がってきて、表情が崩れそうになる。もうとっくの昔に大人だ。反射的な驚きや動揺が原因でなら兎も角、大人が人前でさめざめと泣くなんて故意ではないが人様を怪我させてしまったときや葬式くらいでないと許されない。
    「ロナルドはさ。本当に何もなかったことにしたいの?」
     サテツの問いかけは優しい。
     答えが出るまで返答を待ってくれる。言葉を畳みかけるようなことはしない。ショットは何かを言いたそうな表情を一瞬浮かべたがロナルドの言葉を待つか、という考えに至ったのか、小さく口を開けて深呼吸はするもその唇が音を紡ぐことはなかった。
    「別れたく、ない。はなれたくもない。もっと話したり色んなものみて、今までみたいに下らない話をたくさんしたい」
     俯いたロナルドから発される声は少しひしゃげていた。俯いて声帯が潰れているからなのかもしれないし泣き出す直前のように喉を詰めてしまっているからかもしれない。
     痛々しいほどの声は最後に涙色が混じりかけて子供のように鼻を啜る。
     泣いてなんかいないというように薬指で目の端に浮かぶ雫を払いのけた。
    「あのさ、俺もそんなに恋愛経験がたくさんあるタイプじゃないからあんまり役に立つ言葉は言えなくて申し訳ないけど。でも別れたくないなら言わないといけないと、俺は思う。別れたくないって言葉にしないときっと向こうも『自分ってこの人にとってそんなもの』って諦めちゃう部分も、あるんじゃないかな」
     サテツは自身の言葉をゆっくりと話す。
    「いわなきゃ伝わらないことも、あるから」
     両手の指をテーブルの上で組んで静かに話す彼は優しい。周りの皆がそう評価する。その大柄な体格とパワーファイター系の退治人であるという肩書きに似合わず可憐な性格の持ち主であることもあり、ロナルドの失意に寄り添ってくれる。伝えてダメだったなら仕方がないけれど、一緒にギルドでご飯でも食べようと言葉にせずに眉をさげて彼は言う。
    「俺はその辺の恋愛とかのことはわかんねぇけど。ただ俺は好きだよ、お前らがそうやって毎日の目の前の騒動に怒って笑って騒々しい夜に歩いているのがさ。ちょっと前の独立したばっかの頃みたいに悔しいくらいにスカした同僚じゃなくなっちゃったけど、昔と同じように一緒に焼肉食べに行ったり隣で歩いてくれるお前のが俺は好きだぜ」
     言いながら気恥ずかしくなったのか目線を逸らしたショットはカフェラテの入ったグラスにガムシロップを二つ追加してスプーンで掻き混ぜながら話を続ける。
    「ドラルクが来てからじゃん? お前が生きるための歩幅っていうの? それを緩めて、今まで側にいたヤツらのことちゃんと認識して、それから自分の歩いてきた道を振り返った。オレらの年齢でそんなことをやるのは早い、若いんだから傍若無人に突っ走れみたいにいう年嵩の人もいるけど、そんなんしてたら振り返って誰もいない人生になるかもしれねぇじゃん」
     いざ落ち着いて立ち止まれる年齢になった頃には家族にも友達にも見放されてるの考えるとそれってすごく怖いのに、自分のことじゃないからって好き勝手言うよなぁと片頬をあげて皮肉めいた笑みをショットは浮かべる。
    「感謝とか人との繋がりとかって、そういうをこうやって口に出して言葉にするとまるで詐欺グループのセールスみたいに聞こえちまうけど、今目の前に隣にいる人を認識し直すのって大事でさ。ロナルドはそういうのが無意識だろうけど上手いタイプで、ドラルクが来てからは余計にそういう部分が見えやすくなった。なんだろうな、余裕が出来たとか? 家事とかやってくれるってのはあるかもしれないけど、オレとしては単純にストレス軽減も大きいと思うぜ」
    「ストレス軽減? 逆だろ、アイツ来てから面倒事やトラブルや変態の案件増えるばっかりでうちの事務所、最近ほんとに吸血鬼退治事務所なのか俺が不安になってくるレベルなんだけど」
    「じゃ、なくて」
     行儀悪くティースプーンでロナルドの顔を指しながらショットは続ける。
    「人によるけど、人に下らない話をするのがストレス解消になるタイプって世の中にはいて、だからお前昔にブログやってたんじゃん? 宣伝も兼ねてるだろうけど誰かに何かを伝えたくて、だったんじゃねぇの? けど今は帰ったらドラルクがいるから、ちょっとした話も出来るだろ。他愛もない街で見かけた今日の変態の話でもいいし、新しい店がオープンしてたなんて話も出来る。ブログに書いたらアウトだけど、家庭内で話題にするくらいならギリ許されるくらいの不謹慎な噂も。会話一つがストレス解消になる人間もいる。お前はそれだったって話。で、まぁここからはエゴだけど。俺は二人にはあんまり別れてほしくない。アイツ来てからお前はすごく朗らかになったし、アイツ愉快なヤツだから別れた流れでシンヨコ離れちゃうと残念だしな」
     グラスの中でスプーンと溶けた氷がカランと音を立てる。
     大きく息を吸ってソファに凭れると「けどこれはオレのエゴだから、気にするなよ」と彼は繰り返して言った。
    「お前が別れたくないってのが本音なんだったら、サテツがいうみたく一度ちゃんと伝えるのがいいと思うよ」
     かつてロナルドがドラルクへの恋心に気付かずにいたとき「お前、それはもう恋なんじゃないのか」とからかい半分で指摘したのはショットだった。恋愛から程遠く、だが少女漫画を嗜む彼は思いがけずロナルド本人とショット以外の誰もが気付いていた真相に突っ込んでしまったことに大層動揺しつつも「全部うまくいく、そうなったらいいなって思う」と真剣な瞳で言ってくれたことを今もロナルドは覚えている。
     だから余計にこの二人に「別れた」ということを言うのは辛かった。
     そして出来るだけ早くに伝えないといけないとも思った。
     時間が経てば経つほどに、ドラルクとは別離という結果になり終焉を迎えたということを報告しにくくなる。それに同時に彼らへの信頼を軽んじたように思われたくはなかった。
     サテツの言う、もう一度感情を伝えてみるという提案はきっと正しいのだろう。もしかしたら彼は以前恋人や友人とそうやって関係を修復したことがあるのかもしれない。
     だけれどもロナルドはその言葉を口に出来る自信はなかった。
    「俺がさ。あいつに『本当に別れたいなんて思ってなかったんだ』って撤回っていうのかな、わかんないけどそういうことを言ったとして。あいつがこないだ言ったのと同じで『きみと私は違う時間を生きるんだから』って拒絶されたら、さ。今まで無頓着だったけどアイツと俺、家柄とか種族とか立場とか、そういうの全部違ってたんだって気付いたんだ。別れる理由に事欠かないくらいたくさんあった。そういうたくさんのことを理由って言われたら俺、なんていえばいいのかな……。わかんないんだ、そんなの難しすぎて」
     感情一つで自分と彼は手を取って、目の前の日常が楽しすぎて目が回るほどの喧噪だった。あまった時間でなにをしようと悩むことは殆どなくなった。誰かとやってお礼を言われたりすると家事一つでさえも楽しかった。
     きっと世の中の人はお互いの手を取る前に自分たちのバックボーンなんかを考えるのだろうとロナルドは思う。自分がそれをしなかった愚か者なだけだ。
     相手のことしか気にしない、二人の世界だけで生きていくという人たちならそれでも上手くいくのかも知れないが、如何せん自分は社会の中で暮らしていて家族や友人、仕事仲間や依頼人というたくさんの人に支えて貰って生きている。ドラルクがどう感じているかは不明だし、あのワガママ放題に育てられたご子息は、自分が望むのなら実家と両親の力で大凡のことが可能になるだろうと認識している時点であの吸血鬼も社会という世界の中に組み込まれている。
     ドラルクはロナルドのことをロマンチストだと揶揄するし自覚はあるけれど、ロナルドだって全部を捨てて自分たちだけで生きていこうとは思えない。
     ロナルドよりリアリスト寄りの思考の持ち主であるドラルクなら余計にそうだろう。
    「……ごめん俺、無神経だった」
     サテツの言葉に、ロナルドは顔をあげて無理に笑顔を作る。
     大事な友人には先に自分たちの関係が変わったということを伝えておきたかっただけなのだと説明を続けた。
    「や、そういうんじゃねぇから二人は気にしないでほしくて。ただ最初に伝えとこうって思っただけなんだ。アイツもしばらくはシンヨコにいるっていってるし、ショットはまた遊んでやって。きっとアイツも喜ぶから」
    「じゃあまたギルドで」という言葉を残し、テーブル上の裏返した伝票を持ってレジに向かう。
     気心の知れた友人達のがっかりしたような顔を見ると心が沈む。
     まだ瞳の表面に残る涙を瞬きで吹き飛ばしながらロナルドはシンヨコの街へと足を進めた。
     自分が認識している以上に周りの人々は自分とドラルクをセットのように考えている部分があったのだと痛感しながら街を歩く。私服で歩くと少しだけ街に溶け込める。
     いつもが馴染めてないというわけではないが、目立つという意味で馴染んではいけない。それに勇猛に見えなければならない。
    (兄貴はもっと強くてかっこよくて頼れる退治人で街のみんなに愛されてたもんな)
     身長が伸びただけでは兄には追いつけない。
     もっと、ただ佇んでいるだけでかっこいい存在にならないといけない。
     そういえばドラルクが来る前の自分はもっと兄への憧れが強くて格好つけていたような気がする。立ち振る舞いや言葉使いも兄であるヒヨシや映画の主人公を意識していた。だが、あのすぐ塵になる吸血鬼が来てからそのかっこつけもうまく出来なくなってしまった。
     何しろひっきりなしに死んだりトラブルに積極的に介入したりトラブルをこちらに押しつけたりしてくる。当然こちらは慌てたりトラブル収拾を引き受けたり怒ったりする。
     怒鳴る回数と声をあげて笑うことは格段に増えた。そのうちに格好つけて歩くことを忘れてしまった。
     みんなから憧れる存在からは遠のいてしまったけれど皮肉なものでロナルド自身は少し息をするのが楽になった。深く眠れるようになった。頭痛の回数が減った。以前よりも原稿を書くことが忙しくなって締切に追われるようになった。
     時間の経過と共に自然と縁が切れると思ってた友人たちと何故か因縁は深くなる一方で、定期的に食事や遊びに出るようになった。事務所と現場の往復で寝るためだけに必要だと節税対策を兼ねて事務所兼自宅にしたはずなのにそこに住み着く居候は増えるばかりだ。
     事務所に連絡もなく押しかけてくる吸血鬼の友人も出来た。
     煙草の量が減った。その分エンゲル係数があがった。舌が肥えてしまって大抵のものは「美味しい」と判別し、それこそ二日間部屋に放置したマグカップのコーヒーを飲み干していたロナルドはどこにいったのだろう。
     煙草が保管してる場所はわかってもライターがどこにあるのかわからない。煙草を求めてヴァミマで買うと店長か店番の武々夫に「禁煙失敗か」と揶揄られるので別のドラッグストアに足を踏み入れる。そういえば店長とだって当初はそんな親しく会話をしたことはなかった。せいぜいが天気などの世間話と新製品の売り込みくらいだったんではないだろうか。
     ロナルドは数分前にショットに言われたことを思い出す。
    「ドラルクが来る、ちょっと前のお前」のことだ。
     実際あの頃はやや近視眼的になっていたとも思う。
     仕事をしていたこととフクマと出会ったことくらいしか記憶にないのだ。なんなら定休日にも働いていた。事務仕事は今よりも慣れていなかったこともあり時間ばかりが過ぎていた。そんな折りにブログを見たフクマから連絡をもらった。近所の喫茶店で飲んだ珈琲の味は覚えていない。
    「ブログのまとめ本と上からは言われているのですが、きっとロナルドさんは一般の小説を執筆した方が面白そうですね。実録小説みたいなイメージで、また細かいことは何も決められていませんが挑戦してみませんか」
     そう言われて小説家としてデビューすることになった。
     その頃はあまり半田も押しかけてくることもなかった気がする。半田も新卒で県警に採用されたばかりの頃だったはずなので警察官のカリキュラムは知らないが吸対配属になる前で警察学校などで忙しかったのかもしれない。事務所に嫌がらせしに押しかけてくる率が格段にあがったのは彼が県警の吸対配属となってからのことだ。
     見知った気安い友人ではあるが、いい加減あの嫌がらせだけはどうにかしてくれないかと辟易するけれど自分も何処かで楽しんでいる部分があるのかもしれない。そんなことを考えながら目当ての店の前に佇む少年、サギョウの姿をロナルドは見つける。
     緑色の髪というやや特徴的な容姿をした彼は実際のところ成人済みの社会人なので少年というには年嵩で、青年といった方が正しいのは重々ロナルドとしても承知しているのだが自分よりも一〇センチほど小柄な体躯と目が大きく全体的に子供めいた容姿、短髪な髪型や私服であることも手伝って大学生に入ったばかりの年齢に見えてしまうことがある。
     だがサギョウはヒナイチよりも年上だ。先日の副隊長と隊員としてのやりとりを見ると良い意味での年上の部下としての振る舞いが出来る聡い人物だというのがロナルドの印象でそれは以前と変わらない。
     なによりあの半田の後輩というのがすごいと思う。友人ではあるが、よくもあんな人物の後輩として振り回されつつもときには制御出来るなんてなかなか常人では不可能だ。尤もストッパーとしての役割は果たせていないようだが。それでも「サギョウが激怒したとき、あの半田が黙って言うこときいていた」とヒナイチがいうように半田が自身が嫌われたくないと願い評価しているだけの能力がある、少なからず信用を置く人物であることは知っている。
    「ごめんな、せっかくの非番に呼び出したりして」
     片手を挙げて挨拶をすると、眺めていたスマホから目を上げサギョウはぺこりとロナルドに向かって頭を下げた。
    「お疲れ様です。別に気にしないでください。今日は現場もなかったし」
    「現場? 非番でも現場検証とか?」
     吸対は非番でも現場検証などの仕事でもしなければならないのかと思いつつロナルドがオウム返しに言った言葉にサギョウは二度ほど瞬きをしてから首を横に振る。
    「あー違います。ええと特段予定もなかったって意味です。それより暑いですし店入りましょう。なにかお話なんでしたっけ?」
     言いながら入り口のドアをサギョウを示す。ゆったりと配置された席配置やパンケーキが売りのこのカフェは人気があるが平日の午後ということもあって席に座っている客は疎らだ。
     店員の声に従い、奥まった席にロナルドは足を進めた。一番奥の席は空席で、だが隣の席ではサラリーマンは広げた新聞を眺めている。
    「ロナルドさん、喫煙席はこっちですけど」
    「え、あぁ、えっと。サギョウくんは吸っても平気な人?」
    「別に僕は気にしませんけど。ロナルドさん、吸う人じゃなかったですっけ? 禁煙中です?」
     昨今の嫌煙事情に伴いガラスのドア越しに設置された喫煙席スペースをサギョウが示す。明るいスペースだが、そちら側に座る客は一人もいなかった。
     煙草についてはここ暫く吸っていない状態だったので正直どちらでもよかったが、カフェという場所もあって先程ショットやサテツといたファミレスよりも随分と静かだ。
     大声でなくても、話している内容を近くの席の人物に聞かれるのは避けたかった。
     自分の立場柄、他人にあまり聞かれたくない話題なこともあり、ロナルドはガラスの向こう側の席を選んだ。無人のスペースなら他人の耳も気にならない。
    「最近はあんまり吸っていなかったし、ジョンと来ることが多いからいつもの癖で」
     禁煙席に座りかけていたことを言い訳のように言ってから、喫煙席に腰をおろした。
     目の前にある安っぽいアルミ製の灰皿が妙に懐かしい。そういえばドラルクと別れたから、彼が嫌がる煙草を吸ったっていいじゃないかと昨日煙草とライターを購入したのに封も切らずにポケットの中に入れたままだ。いっとき禁煙を始めたばかりの頃はあんなにライターに手が伸びたのに今はいつでも吸えると思うと不思議なことにまだ吸いたいという気分にはなれていない。
    「ロナルドさん、何飲みます?」
    「えっと。甘くて冷たいの」
     サギョウの問いかけにいつもドラルクに返す感覚で答えてから、今目の前にいるのはサギョウであると認識し直して背筋を正す。
     彼は友人の後輩だ。それも出来の良い後輩であることは半田経由で知っている。あまりにも適当な返事は相応しくない。だがサギョウはロナルドのあまりにもアバウトな返答も意に介さなかった。
    「あー甘くて冷たいヤツですね。あ、チョコミントのドリンクありますよ期間限定で。チョコミントお好きでしたよね。これとかどうですか?」
    「じゃあ俺はそれで」
    「えーと僕はコーヒーゼリーラテにしようかな。あ、店員さんいた。すみません」
     ガラスの向こう側を歩く店員に手をあげて合図をするとサギョウはロナルドの分もまとめてオーダーを済ませる。気の利く後輩というのはこういう人物を言うのだなぁとロナルドは何とはなしにぼんやりその様子を見つめていた。半田が「アイツが撃ち損ねたのを見たことないな」というくらいに実力があるのも、エースであるところの半田に逆らえるくらいの自負がある人物であることもよく知ってはいるけれど、その辺はこの視野の広さや思考力の余裕が関係しているのかもしれない。
    「あ、あのサギョウくん。ゴビーは」
     いつでもあの吸血鬼めいた不思議な生き物はこの青年の近くにいるイメージがあったが、今日はあの特徴的な姿は見当たらない。聞けば今日は夏日になるので大事をとって家に置いてきたのだという。
    「あ。あ。そう……」
     話のきっかけが終わってしまった。
     どこから切り出すか、と悩むうちに店員がオーダー品を運んできてまた話のきっかけを作れない。そのことをサギョウは把握したようで一口ラテを飲むと首を左右に軽く倒し肩をほぐすような動きをしてから姿勢を正して座り直した。
    「今日、なにかお話があって僕のことをロナルドさんは呼び出したんですよね。先輩、あ、半田先輩や副隊長にではなくて、僕に」
     こちらを見据える目線は涼やかで静かだった。
     聡い子だとは思っていたけれどロナルドが考えていたよりもずっと彼はロナルドに「自分」が呼び出されたことを考えていたらしい。それは当然のことで高校生時代からの友人の半田、或いは直接ドラルクと吸対との縁が結ばれるきっかけとなった共有の友人関係にあるヒナイチなら兎も角、サギョウはロナルドにとってそんな友人の「後輩」「部下」であって、幾ら顔見知りで共有の知り合いではあっても直接の友人関係というには少し距離がある。なのでサギョウとしたら「なぜ僕が呼ばれた?」という疑問符があがって当然なのだ。
    「あの。それは、一番冷静そうというかトラブルシューティングに長けてそうというか、メンタルが強そうだと俺が判断したからです……」
     ロナルドの言葉にサギョウは微かに唇を噛んで小さく首を傾げた。話の内容が読めないといった様子で「はぁ」という同意とも反意ともつかない相槌を返す。どういうことなのかと推察しているのだろう、やや人形めいた瞼を震わせてから首を捻りつつサギョウは言う。
    「僕としてはこの街の退治人のエースみたいな人にそうやって誉めていただけるのは大変嬉しいですけど、トラブルシューティングってのは半田先輩の奇行の尻拭いですし、あの人あんなにめちゃくちゃなのに仕事は出来るんですよ。その後輩をやってるので『マジでアイツふざけんなよ』感が膨らんで、メンタルそれなりに強くないとやってけないっていうか。というか僕、狙撃手なんですね?」
    「うん、知ってる。いつもライフル担いでるし」
     半田がその腕前を絶賛していたこともヒナイチが頼りにしている後輩であることも、ヒヨシが射撃の国体会場で腕前に一目惚れして口説き落として県警を受けさせたことも知っている。
    「あ、よかった。僕、退治人の方々に会うのって基本平和なときと事務処理での書類の受け渡しだけだから覚えて貰えてないんじゃないかなって思ってたんですけど」
     言い換えれば、それは平和でないときに自分が一種の切り札になるという自負があるという言葉だ。サギョウ自身は無意識で言っているようだが卑屈な人物、それこそくそし君などなら「なにそれ自慢なの自慢だよな」と食ってかかりそうな言葉ではある。
    「たしかに半田やヒナイチより現場での関わりないけど、俺は覚えてる」
     狙撃手がいるというだけで戦略は広がるし、自分たちも戦いやすくなる。ただ目立ってなんぼの退治人と狙撃手は売りが違うだけだ。
    「はは、それはありがたいですね。話戻りまして、狙撃手って待機時間長いし集中してないといけないし責任は重いし同僚からは超絶嫌われるのがセオリーみたいなところあるしでメンタルボコスコにやられるんですよ。まぁ僕はいうても日本の警察なんで、軍隊みたいに超絶嫌われるってこともそんなないんですが。もしかしたら嫌われてて僕だけ知らないかもですけど」
     途中で馴染みのない関西弁を交えたのは冗談めいた雰囲気を含ませるためだろう。サラサラとサギョウは軽やかに笑い話のように言うが、けして軽薄な言葉ではない。
    「昔は狙撃手とセットでスポッターっていう観測手がいてその人が狙撃手のメンタルケアも兼任していた部分があるらしいんですけど技術革新のおかげで一人でパソコンでシュミレートしながらの狙撃が可能になったのもあって自分のメンタルくらい自分で面倒見ろよみたいなノリなんですよね。県警ってひどくないですか? 公務員っていったってこれだからマジで割に合わないとこあって。あぁそんなんどうでもよかったです。そんなポジションなのでメンタルは自己修復するところありますしトラブルとかは結構対処出来るのかなとか思います。流石にクリスマスに一人だけ仕事みたいな日にはやさぐれるときもありますけど」
     半分は愚痴めいた言葉だったが、先程と同じようにサラサラと声は流れて情報だけがロナルドの耳に残る。
    「半田先輩も奇行は酷いですがロナルドさんが絡まなければマトモですし、それに奇行はするけど言葉は通じるし意思の疎通は可能なので」
    「けど言葉通じて、そのうえ意思の疎通も可能なのに奇行に走るってののがヤバくね?」
    「ハハッ! たしかに」
     ロナルドの指摘にサギョウは無邪気な顔で笑う。
     そういう笑顔を見せるとますます年齢が幼く見えて、この青年はヒナイチよりも年上だということをうっかり忘れそうになる。凄腕の狙撃手であることは明確で、ただ同時にこの人物は単純に聡くて賢い。それから冷静で自分の精神を安定させる方法もきちんと自分で認識している。
     そうロナルドは判断した。
    「今日呼び出したのは、半田やヒナイチには直接言いにくいことがあって。それをサギョウくんから伝えて貰えないかと思っていて」
    「え、ああ良いですよ、それくらいのこと。あと内容如何によりますけど、僕記憶力そんなに容量ないので難しいこととか複雑なこととか覚えられないです」
     先程の半田に対するロナルドの評価が彼の中の笑いのツボに入ったのか、未だに笑いを噛み殺したままのサギョウに対して出来るだけ感情を籠めずにロナルドはいう。
    「ドラルクと別れたんだ」
     その言葉を聞いた途端、サギョウの表情から笑みは一切消えた。
     彼は一度右上の虚空を眺め、その黒目がちな瞳がぐぅるりと上半分に弧を描くように動いて左側斜め上まできたところで真顔になり、ベルトバッグの持ち手を掴むと無表情のまま立ちあがる。
    「すみません僕帰ります今の言葉聞いてないです何も聞かなかったし知りません僕此処の支払持ちますねお疲れ様です失礼します」
     帰られて堪るかとロナルドはその手首を思わず掴む。見た目より随分骨ががっしりとしていて驚くがロナルドの握力を籠められてもサギョウは動じなかった。さすが普段五キロ近いライフルを背負い行動し、訓練を受けているだけあって膂力は一般人とは比較にならない。
    「頼む。話だけでも聞いてほしくて」
     ロナルドは力をこめることはしなかった。
     この青年の腕も手首も指先も、吸対の武器であることは十二分に承知しているからだ。ヒナイチや半田に加え、尊敬する兄がこよなく慈しむ有能な部下の一人でもある。
     五秒きっかり経ってから、サギョウは「聞くだけ、聞きます」と言い、席に戻ってくれた。眉を顰めあからさまに機嫌の悪そうな表情を浮かべて、掴まれた左手首を数度開いたり閉じたりを繰り返してから腕をくるくると回してから鼻息荒く「フン」という息を吐き、そこからロナルドに向き直る。顔をあげたときにはいつもの平静な吸対の彼だった。
    「聞くだけですからね。メッセンジャー役になったとは言ってないですし、やりたくないです。てか、それって本当のことなんですか? それこそスポーツ紙の記者が掴まされるガセネタじゃないんですか」
    「本人が言っててガセネタって普通、ある?」
     思っても見なかった切り返しに思わずロナルドは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になってしまう。
    「だってよくあるじゃないですか。付き合ったと思ってたのは片方だけで相手は遊び感覚とか」
    「俺が話したのは別れ話なんだけど」
    「あぁそっか……別れ話……ロナルドさんと、え」
     その人形めいた瞳をサギョウは三度ゆっくりと開いた。
     ロナルドは次にサギョウが言葉を発するまでぼんやりとその瞼の皮膚に透ける血管を眺めていた。緑がかった毛細血管が浮いている。
    「え、は? ちょっと待て。あれ? お? はぁ?」
     最後の「はぁ?」は今までロナルドが聞いたサギョウの発した声の中で一番くらいに素っ頓狂な響きだったと思う。あと、凄くうるさい。大声である自覚のあるロナルドの怒鳴り声と同じくらいうるさかった。
     殆ど叫び声に近い声をあげながらサギョウは勢いよく立ちあがり、バッグが横から滑り落ちる。インテリアは凝ったものではあるが、そこまで高級ではなかったのだろう椅子が立ちあがった勢いで転倒して大きな音を立てる。
     幸い壊れることはなかったが、あまりにも大きな音だったため店員が慌ててやってきて何があったのかと倒れた椅子を起こしながら「お怪我はありませんか? お洋服に染みなどは出来てませんでしょうか」とこちらの様子を尋ねてくる。そこまできてようやくロナルドはサギョウが立ちあがった勢いでテーブルの上の水入りのグラスが一つ倒れていることに気付く。
    「すみません。大丈夫です。拭くものだけ貸してもらってもいいですか? すみませんでした」
     水の量は残りが少なかったことからテーブルの上にも大した被害はなかった。大きな音と声を立てたことをサギョウが店員に謝罪を繰り返し、同じようにロナルドも立ちあがって店員に頭を下げる。
    「サギョウくんの服とか鞄に水、掛かってない? 平気? スマホも無事?」
    「へ、へいきです。なにも被害はないです。いや僕の鞄とかどうでもいいんですよこの場合!」
     先程よりはかなりボリュームを抑えた声でサギョウはロナルドに怒鳴る。
     それから椅子に深く座り直して足を開き、肘を膝の上に載せると其処を視点に頬杖をつく。深々と細く長く息を吐きながら彼は視点を床にまでおろして瞳を閉じた。
    「えー。ちょっと。やっぱ最初に聞いた言葉は正しかったし僕の言葉の解釈も正しかったということは理解してるんですけど意外と海馬優秀じゃん、ついでに最初の時点で脳がこれ以上聞くことを拒否してたんだなぁそりゃ拒否もするよな当然あと信じなかったのは正常バイアスってヤツだなぁ。OKOK、理解理解。いや、理解じゃないんですけど。どういうことですか、マジで」
     嵐の日のように瞬きの速度で変わるサギョウの表情と早口で小さくブツブツ呟く言葉をすべて聞き取ることが出来ない。そのうえ急に被疑者に対し問い詰めるような所作に切り替わったのでロナルドは言葉を投げた側なのにも関わらず、目を見開いて適切な言葉を脳内で探す。
    「え。えぇとサギョウくん」
     名前を呼びかけるも、その後が続かずにロナルドは瞳を左右に動かして「えぇ」とか「あー」といった意味のなさない言葉を口にする。正直、真っ当な言葉が浮かぶまでの時間稼ぎだ。
    (もしかして判断ミスだったか? あのメンツの中じゃサギョウくんが何事に対しても一番冷静な応対が出来るタイプだと俺は思ったんだけども!)
     ロナルドの心情を知ってか知らずか、サギョウはもう一度深く溜息を吐いてから俯いたままに頭を振る。それから「あーもうなんなんだよ」と独り言を呟き、鞄の中を探ってから目的のものが見当たらなかったのか舌打ちをした。
    「ロナルドさん、煙草持ってます?」
    「へ? あ、あるけど」
    「一本分けて貰えません?」
     ポケットから未開封の煙草とライターを差し出すとサギョウは片眉をあげて「新しいの、開けちゃっていいんですか」と問い、ロナルドの了承を待ってからパッケージに手を掛けた。手慣れた様子で一本咥え、火をつけると深々と煙を吸い込む。
     煙を堪能しながら彼は片手で灰皿を手元に引き寄せる。さもうまそうに一本の煙草をフィルター近くまでを灰にして、彼は箱とライターをロナルドの方に向け「ありがとうございます」と礼を言いながらこちら側に押しやった。
    「……吸うんだ、サギョウ君」
     見慣れているのが吸対の制服姿であることや彼の容姿や印象も相まって喫煙するとは思っていなかったのでロナルドは驚きを隠せずに返された煙草をポケットに戻しながら言うと、左手の人差し指を口の前に立てて彼は少年めいた顔のままにニヤリと笑った。
    「先輩にはヒミツで。あの人、煙草嫌いなんで」
     鞄からフリスクを取り出して数粒噛み砕きながらサギョウは言う。
    「普段は吸わないんですけどね。世の中的にも嫌煙ムードマシマシですし吸対って制服白いじゃないですか。ヤニついたら目立ちそうだし。普段から吸わないとダメって人は電子タバコにでもした方がいいと思うけど、僕は四六時中吸わないとダメってタイプでもないし、なんなら一週間二週間吸わない時期もあるくらいなんで。誰かが吸うのは気にしないけど、僕は人前では吸わないようにしてますから」
    「じゃあ今は?」
     ロナルドが目の前にいる状態だったが、と問うと肩をすくませて見せた。
    「思考回路が色んな意味でブチ切れそうだったんで緊急対応です。ロナルドさんもご協力いただきありがとうございます。で、さっきの話に戻りますか。僕もある程度落ち着いたので。端的に言うと、ドラルクさんとはパートナーの関係ではなくなったと」
    「まぁそうなんだけどサギョウ君の言い方、もう少し」
    「仕方ないじゃないですか。男女関係でも戸籍いれてるわけでもないんだからそれくらいしか今のところ言い方がないんですよ。兎も角、お別れしたと。ふぅん、仲良しそうに僕から見ると思ってましたんで、率直にいうと残念です」
     サギョウが残念と思っているのは本当のことらしく、サギョウは眉をさげてがっかりした様子で溜息を再度吐いた。それでもロナルドからの報告を聞いた当初は酷く動揺はしていたものの少しの時間で彼は落ち着きを取り戻した。やはりロナルドの見立ては正しかった。落ち着いて話が出来て、事情を伝えることが出来る。
    「それでなんだけど。俺から半田たちにそのことを直接言うのはハードルが高くて。半田とヒナイチに、サギョウくんの方から伝えて貰えないかなって思っていて」
     恋心こそ指摘されたのはショットだったが、いざドラルクと恋人という関係になったことに最初に気付いたのは半田だった。
     当たり前と言えば当たり前で、あの人物はロナルドの事務所内をメビヤツを使い堂々と盗撮しているような男だ。いくらメビヤツがいるのが事務所側で居住スペースではないとしてもドラルクが事務所でゲームに興じたりロナルドとの雑談をすることも少なくない。距離感が以前より近い、と指摘されあっさりと事は露見した。
     半田はそのことに対して特段何か言うことはなかった。ロナルドとドラルクの顔をそれぞれ見てから「そうか。なら、よかったな」とだけ口にして、その日は特段嫌がらせもせずに帰っていった。もしかしたらあの「嫌がらせをしなかった」というのが半田なりのお祝いなのかもしれないが、その日以降、たびたびドラルクと半田はタッグを組んでロナルドに嫌がらせをしてくるので堪ったものではなかった。
     考えてみれば半田はダンピールである。人間の父と吸血鬼の母の間に生まれた。夫婦仲は非常に良くロナルドが数日前出くわしたように成人済みの息子がいるくらいの年月を共に暮らしているのに愛情は未だ冷めやらないようだ。そんな二人を見て半田は育っていて、少なからず彼は世間からの偏見や差別の視線を幼い頃から感じとり、憤りを同時に抱いていた部分があるらしい。
     なのでドラルクとロナルドの関係については概ね賛成をしているような感覚がある。なんなら去年、ドラルクの誕生日をすっかり忘れかけていたロナルドに「今月末、ドラルクの誕生日だろう」とリマインダー宜しく指摘してくれたのは半田だった。
     推測になるが、彼はロナルド達が自分の両親のように末永く、仲睦まじい関係になることを望んでいてくれたのかもしれない。その期待を裏切ってしまったという自覚はある。だから面と向かって「ドラルクと別れたんだ」と伝えるのは恐怖が先に立つ。
     ヒナイチは、ロナルドとドラルクが恋人になったときに我が事のように喜んで盛大に祝ってくれた。何が良いのかわからなかったと言いながら結婚でもないのに大きな箱のプレゼントをしてくれて、中身は何故かバスタオルとパジャマだった。使うものだから別に構わないが、年頃の女の子の思考はわからないね、と二人でそのパジャマを着て夜を過ごした。シンヨコが吸血鬼と人類の共生を目指す街であり、その行政に自身の兄である本部長が関わっていることもあるのだろうがヒナイチは吸血鬼を取り締まる立場ではあるが近しい存在と感じているようだった。
     どこかロナルドとドラルクのことを家族のように思っているようだったし、自分たちも彼女と一緒にゲームに興じたり仕事を片付けたり食事をしているときに、友人よりも近しい何かである感覚を抱いたことがある。言葉にして確認はしていないが彼女もそう思うことがあったに違いない。そう思うと別離の報告は積極的にはしにくい。せめて、出来るだけ優しく伝わればいいとロナルドは思うのだ。
    「結論から言いますね。いやです」
     笑顔ではなく、平坦な表情でサギョウは拒絶を示した。
    「そこをなんとか」
    「いやですよ。先輩についての推察とかロナルドさんが言ったままです。きっと先輩、二人が別れたことを知ったらめちゃくちゃ落ち込むのは確定。ついでにそれをなんで僕経由で聞くことになったんだってことで余計に落ち込みますよ。あの人ロナルドさんには嫌がらせするけど、ロナルドさんには友人と認識されていたいっていう謎思考の持ち主なんですから。『ロナルドにとっての自分は友人じゃなかったのか、信頼されていないのか』ってなるでしょうね。あれだけ執着してるのはロナルドさんも重々解ってるじゃないですか。多分これは吸対職員とシンヨコギルドの所属退治人とシンヨコの市民の一部に知られていることなので今更ですけども」
     聡い後輩はしっかり者で、意思も硬かった。ロナルドが何度頭を下げようが、空気に流されることもない。
    「副隊長もなぁ。そもそも下ネタの概念が『ちんちん』ていう人ですよ。少女漫画や恋愛ドラマを好むタイプじゃないし、その時間あったら訓練や仕事してるような真面目な人ですけど、でも身近な共有の知り合いで仲の良いカップルが別れたらショック受けるのは誰でも同じでしょう? なんなら僕だって結構今ショック受けてますし」
    「え? そうなの? 凄くサギョウくん対応が冷静だから」
    「めちゃくちゃ動揺してますって。人前で思わず煙草を吸うくらいには」
     きっと此処が居酒屋ならサギョウはビールジョッキを煽っていたんだろう。だが残念というか昼間のカフェなのでアルコールの提供はない。
     殆ど氷が溶け、水と混ざったラテの残骸を煽ると青年はテーブルに両肘をつき指を組む。ショックを受けたというのは事実らしく、手持ち無沙汰に組んだ指先だけが行き先を探すかのように揺れていた。
    「じゃあ近日中にドラルクさんは出て行くとかですか?」
    「や、シンヨコには住み続けるから出て行く気はないって」
    「てことは、あの人が住めるレベルの城とか作るのか? 元になる資金は兎も角シンヨコどころか港北区に範囲広げても難しくない? 作れるの? そんな土地空いてないでしょうに」
     独り言めいた言葉を呟くサギョウはなにか勘違いをしているようにロナルドは思う。きっと彼は「どこかシンヨコの別の場所に引っ越す」と思っているようだけれど、ドラルクは言っていたニュアンスはそういう意味合いではなかった。
    「城とかは別に作らないと思うし、だから土地は必要ないと俺は思うけど」
     ロナルドの指摘にサギョウは先程と同じ片眉をあげるだけの表情を見せる。それから推論が結果に辿り着いた様子で言葉を紡いだ。
    「あぁドラルクさん、次に住むところは洋館スタイルの邸宅とかにするとか言ってました? それならたしかに今現在ある物件とかあるかもしれないですね。僕ちょっと不動産には詳しくないのですぐには解らないですけど、ちょっと距離あるけど元町のエリアとか」
    「いや、そうじゃなくてドラ公、うちの事務所から出て行く気はないって。友人もいるしオータムの依頼もあるしジョンはシンヨコの町内会の皆さんと仲良しだから……って、いって、た、んだけ、ど……」
     後半の言葉が辿々しくなったのは、穏やかな少年めいた好青年に見えるサギョウの表情がロナルドの言葉が進むにつれ、次第に禍々しいものへと変異していったからだ。思わず声を掛けると、地底のさらに奥から響きそうな低い声が返ってきた。
    「僕、絶対に伝えませんからね。下手に関わって嘘吐きみたいになるのも嫌だし、言った言わないのトラブルになるのはもっとイヤですし」
    「ん、うん……俺もダメ元でサギョウくんに頼んだ部分あるし、タイミング見計らって自分で」
    「じゃなくて!」
     人のいない喫煙スペースにサギョウの声が響く。反射的に大声を出してしまったとばかりにサギョウは自身の口を押さえて居たたまれないと表情で顔を伏せる。それからいつもの静かな落ち着いた声で話す。
    「これは僕のお節介ですし、話半分に聞いてほしいんですけど。副隊長と先輩に今のこと、報告する前に一度落ち着いた方が良いと思います」
     ちょうど昼時にも同じようなことをサテツやショットに言われた。
    『別れたくないなら、ちゃんと伝えないと』
    『一度、落ち着けって!』
     その言葉は真実だと思うけれど、真実程怖いこともない。
     伝えた上で別れたいと言われたらどうすればいいんだろう。
     落ち着いた上で、感情の整理が出来なかったら自分はどうすればいいのか。
    「その辺は僕も解んないですけど。平常心でドラルクさんと挨拶したり、同居人としての世間話が出来るくらいに感情が落ち着いてから先輩と副隊長にロナルドさんから『ドラルクさんと別れた』ってことを報告するの、遅くないんじゃないかなって僕は思いますけど。僕からはお二人のことは何も言いませんし、今日ここで顔を合わせたことは誰にも言いません」
     
     栃木の山風は強い。
     今の季節は気にするほどでもないが冬に吹く風は思わず窓の外を覗いてしまうほどだ。
     山は多いが山だらけのこの国の中ではこの場所は山深いというほどでもない。交通機関がそれなりにあるし、二時間も歩けば人里どころか巨大なショッピングモールに辿り着く程度の山の中にドラウスは城を構え穏やかに暮らしていた。
     古き吸血鬼、由緒正しき竜の一族の次代当主と呼ばれるドラウスが生まれ育ったルーマニアのトランシルヴァニアや近隣のヨーロッパ諸国ではなく何故極東のアジアの島国に暮らしているのかと言われれば「愛する妻の出身国だから」という理由で事足りる。
     ただ最愛の妻は仕事に奔走していて常に世界中を飛び回っている状態なのでなかなか顔を合わせて過ごすということが出来ないのは残念だ。それでも帰る場所がある、そこには自分を愛してくれる、待っている存在がいるというのは妻にとって心の安寧に繋がっているようなのでドラウスもこの場所に城を建造した甲斐があるという者だ。
     昔より現在は世界が狭くなったと人間達はよく言うが、それを感じるのは吸血鬼も同じだ。いや、吸血鬼たちは「人間達の世界が躍進を遂げた」「ようやく科学技術で我々と同じところまでやってきたか」と感じているのが正しいか。不死や強靱な肉体、変身能力という吸血鬼の持つ特性をまだ人間達は手に入れていないしそもそもの遺伝子構造的に難しいのだろうが、飛行機などといった科学技術の結晶は人間を吸血鬼と同じ高さで飛行されることを可能にした。
     昔から電信技術は人間のが長けていると認めざるを得ない。必要がなければ開発されることはない。吸血鬼同士は手紙を使い魔に託して送付させるようなことをつい最近まで行っており、それで事足りていたのだ。人間だってほんの少し前までは郵送という技法に連絡手段を頼っていたはずなのに、気付けば世界にはインターネットという編み目が張り巡らされていた。
     最初は「好かない」とスマホやネットに対して拒絶反応を示していたドラウスも親友や息子と気軽に連絡を取りたいという邪な理由で電子メールやRINEなどを取り入れた。
     やってみると確かに便利だった。だが個人的には相手の声を聞きたいと思うこともドラウスはある。情報のやりとりや連絡だけでないコミュニケーションを取りたいと考えることもあるではないか。情報伝達を表題にしているだけで実際はコミュニケーション目的なこともある。
    (べ、別に俺はポールとコミュニケーションを取りたいと考えているわけではないのだが!)
     来月にちょっとしたパーティーが行われる。
     ドラウスが取り仕切る、竜の一族が参画している財団主催のチャリティーが目的の大々的なものではない。本当にちょっとしたものだ。招待客は一族とそれに近しい人物程度になるだろうから会場には顔見知り、身内しかいない。気安いものだ。ゴルゴナ(妹)が書いた論文が雑誌に掲載されたからそのお祝い、というのが理由である。先日、本人に祝いの連絡をしたら「そうね。祝われるならこんな電話一本でなくて盛大に、がいいわ」というリクエストにより一族の集まりとなった。単純に誰もがそろそろ一族の集まりがあってもいい頃だ、最後に集まったときから久しいなと思う時期だったことも大きい。
     一見すると物静かに見える妹だが、けして淑やかな気質ではない。好戦的ではないし自分たち古の吸血鬼が持ちがちな選民意識は薄いが、気は強く思ったことはすぐに口にする苛烈さがある。
     人間との共存共栄をスタンスとしている竜の一族のなかでも融和主義の色が強く、人間が作ったものを楽しんで取り入れる。ドラウスとそう年齢は変わらないのにRINEを使いこなし自動車の運転を嗜む。人間が作るものに対する拒否反応がないのだろう。妹はあれだけ血で血を洗う争いの歴史を生きても吸血鬼と人間への希望を持ち続けているのかも知れない。
     そんな妹なので好奇心が刺激されればどんな相手でも近寄っていく。人間に対してだって面白い生き物だと思えば積極的に寄っていくので、大昔はドラウスはよくヒヤヒヤしたものだ。
     妹は数年前にドラルクが連れてきた人間、ポールのことを大変に気に入っていてドラルクにも「また連れてきなさいな」と声を掛けたり一族の集まりでポールの姿が見えないと「残念ね」と顔を曇らせていたことがあった。
     今回のパーティーは細やかなものではあるが主役は妹だ。その妹にがっかりさせたくないのは主催者、ホストとしての心配りであるし兄心でもある。
     なのでポールに直接予定を聞くことにした。あの青年は何かと忙しいらしい。自分が彼の事務所を訪れるとき不在のことも多いし、ドラルクに何の気なしに聞けば「ほんとお人好しに出来てて採算取れるか微妙な遠方からの依頼も引き受けちゃうんですよね。だからいつも走り回ってる」という答えが返ってきた。
     となると、ポールの予定を最初に押さえた方がいい。
     ドラルク経由でポールの予定を聞いてもよいが、ドラルクだって流石に自分ではない人物のスケジュールを全て把握しているわけもない。直接ポールに聞く方が話が早い。
     スマホを耳に当てて、五回目のコールでポールは「はい」と電話に出た。
    「あぁ、ポールか。今電話してもいいだろうか」
    「えぇと、大丈夫だけど。少し、ちょっと待って。あ、折り返した方がいい?」
    「いや、きみの都合が今悪くないなら私は待つが」
    「ごめん悪い、ちょっともうすぐギルドだから」
     後ろに喧噪が低く聞こえる。どうやら彼は外出中らしかった。
     城の窓から見える空は既に夕闇に包まれて月があがる最中だ。
     彼は退治人という仕事柄、吸血鬼の退治中だったのかと思案しながら通話口にポールの声が戻ってくるのを待つ。喧噪の向こうで微かに「おや、おかえりなさいロナルドさん」「お疲れ様ですマスター」という男の声が聞こえ、ざわつきが大きくなってからガタンと大きめの音がした。
     おそらくポールが椅子に腰を掛けた音だ。
    「ごめん、お待たせしたな」
    「待つほど待ってもいないさ。仕事中に悪かったな」
    「いや、今日はもう退治も概ね終わってるんだよ。あとは報告書だけだから大したことない。それより俺に電話って? アンタの息子ならきっと事務所でゲームしてるぜ。今日雨だし」
     どうやら新横浜は現在進行系で雨が降っているらしい。先程彼はドラウスに「ちょっと待って」と言ったのはスマホが濡れるのを避けるためだったのかと合点がいき小さく首肯をする。
    「実は今日電話したのはドラルクではなくポールに用事があってなのだよ」
    「俺に?」
     不思議そうな声をあげたポールに端的に事情を説明する。パーティーに是非来てほしいのだが、予定はどうだろうか、もし既にこの日程は難しいというものが二ヶ月先くらいまでで決まってしまっているのであれば事前に教えてもらいたい、その日程を避けてこちらで会場の選定をする、なに気にしないでいい、主賓が妹だし招待客は一族と一族に近しい友人親類だけだ、以前のように賑やかに楽しむことにしよう御真祖様が同席するかは今は不明だが。
     そこまでドラウスが話したところで「ちょっと、ちょっと待って」とポールが声を挟む。
    「あのよドラウス。パーティーに招待ってのは凄く嬉しいし、俺のことをそんな買ってくれてるのは嬉しいんだけど。その。あのー」
    「どうした?」
     ドラウスは言葉の途中で遮られたことにやや驚いていた。普段のポールはこういう言葉の投げ方をしない。雑談なら兎も角、連絡や確認事項についてはこちら側の言葉が終わるまで待つ。それを途中で遮るということはそれだけなにかこちらに伝えるべき事柄でもあるのか。或いは、いま現在ポールの置かれている状況としてドラウスの言葉を切らなければならない事象が発生しているのか。
    「凄く言いにくいんだけど、俺、ドラルクと別れたんだ」
     ドラウスは目の前に稲妻が落ちてきたときと同じような衝撃を受けていた。電話越しではドラウスの衝撃も知らず、ポールが拙い言葉で断る理由を話し続けている。
    「別れたのは少し前で、だからドラルクもそっちにいう機会がなかっただろうし。ドラウスがそのことを知らなかったのは仕方ない。俺は気にしないから……あ、あのさ。誘ってくれたのは本当に嬉しいんだぜ? それは本当のことだから」
     時間が経過して自分がドラルクの友人としての立場に落ち着けたら、また誘って欲しい。
     ポールはそう言い、話は終わった。
     ドラウスは言葉は聞き取れていたし内容も把握できていたが、言葉を発することも出来なかった。相槌すらなく、なんなら相手が終話を押した後の電子音が聞こえるまで呼吸も止まっていた気すらする。
    「…………は?」
     別れたと聞いた気がする。
     ドラルクとロナルドから「ロナルドくんと恋仲になったんです」「ドラ公、じゃなく。ドラルクさんとお付き合いしています」という報告を聞いたのは数ヶ月、いや数年前だったろうか。
     最初は驚きから反射的に「許さんぞ!」と言いかけ、だがその前からドラルクがあの人間に懸想していることを打ち明けられていたことを思い出しドラウスはその口をつぐんだ。
     人間は自分たちより早くに死んでしまう。そのことを息子は十二分に理解していて恋をした。それならば親である自分が出来ることは未来の何処かで伴侶としたロナルドを死という運命が息子の手の内から奪い去ったときに嘆き悲しむ息子を慰めることだけだ。
     幸いなことにポールは驚くほど「善」の存在だった。暴力的で粗野で口が悪く品がないところは擁護することは出来ないが、それを打ち消すくらいに善性の持ち主だったと言っていい。それは自分たち吸血鬼と人間との間にかつて勃発した争いや諍いを記憶している吸血鬼が「もう一度くらい人間のことを信用してもいいのではないか」と思うくらいに。
     二人は種族の違いはあるものの、一緒にいることが幸せそうに見えた。幸せである以上に、穏やかで安定しているように感じた。家族というには色々なものが足りなすぎているのかもしれないが、その定義は何処にあって何が正しいのだろうか。
     ドラウスには二人が寄り添うのは当然の帰結だと思えたのだ。
     ミラはドラルクたちの言葉の前に二人の関係性がそういうもので察していたようで息子の言葉を驚きもしなかった。「私は知っていたので」と言い「トラブルがあったら力になろう。彼に渡しておいて」と自身の弁護士としての名刺を退治人に渡していた。
     彼は自分やミラに対する季節の挨拶を欠かさない。年賀状、お中元、暑気見舞い、お歳暮、父の日と母の日。ルーマニアではあまり馴染みのない風習について妻が解説してくれた。
    「お世話になった人に贈るの。あとは実家を出た子が、親に対してとかも」
     ならばあまり上手いとは言えない字で健康を願う言葉と吸血鬼が好みそうな贈り物を選んでくれた。きっと二人は一緒に、贈り物は何にしようかと考えたのだろう。
     自分たちはポールの両親になることは出来ないし彼も自分やミラのことを親とは思っていないようだったがナチュラルに自分の家族と考えていると知り嬉しく思った。
    「あの子ってば私の誕生日は忘れかけるのに」とドラルクが一度ぼやいたことがあった。その不満には両親への嫉妬が含まれていることを察して、あとでドラウスとミラは二人で笑い合ったものだ。
     ドラルクは自立したいい大人だ。それは十分に理解している。彼の選択については尊重するつもりだ。
     だがドラルクはドラウスの息子である。二〇〇歳を越えようが親元を離れてようが、あの子はいつまで経っても自分とミラの息子であることに変わりはない。
     息子の幸せを願わない親がどこにいるだろうか。広い世の中にはいるのかもしれないが、ドラウスの認識する世界にはそんな人物は存在しない。いたとしても認めない。
    (ドラルクの幸せが俺の幸せ!)
     反語を脳内で叫び、スマホの液晶に指先を滑らせるとドラウスは親友の名を選択する。彼はドラウスの無二の親友でドラルクの家庭教師でもある。何故かドラルクとはあまり相性がよくないようなのだが師弟なのでお互いに去勢の張り合いもあるのだろう。
    「あぁ、もしもし? ドラウスか」
     いつでも穏やかなノースディン卿の声が耳に入る。
     声だけで人を安心させるのが上手い親友に、ドラウスは目下伝えられた重大事項を報告することにした。

    ***

    「うーん、あのゴリラがハンガーストライキか。彼が食べないとなるとどうしようかねぇ。ジョンだってそんな食べるわけもないし」
     ドラルクは冷蔵庫に頭を突っ込み、未だ手をつけられていない食材を見ながら思案をする。
     ロナルドが別れると言い出した翌夜からドラルクの作った食事を食べようとしない。これなら食べるだろうと踏んで作ったオムレツのサンドイッチもバターチキンカレーも渾身の油淋鶏ですらロナルドはチラリと視線を向けただけで食いつくことはなかった。油淋鶏がかろうじて彼の食欲をくすぐったのか一度視線を逸らしてから二度見したが、ロナルドの言葉は相変わらず「いらない」「俺はいい」「ジョンにあげて」の一辺倒で全く食べようとしない。おかずだけでなく炊いた白米もこのままでは悪くなってしまうと冷凍したので、冷凍庫に山のように白米のストックが出来てしまった。今年の冬、鍋の時期の締めに雑炊を作るときに使用する冷や飯に困ることはなさそうだ。
     サンドイッチやカレーはジョンや武々夫、家庭の味に飢えているショットの腹の中に収まり、油淋鶏についてはロナルドが食いつくこと前提で大量に作ってしまったこともありギルドやVRCに差し入れまでした。マスターや待機していた退治人、夜勤のセンター職員たちは大喜びだったのでよかったが、流石にそろそろ差し入れする先もなくなってきた。
     足の速い食材は慌てて加工し作り置きとして冷凍したが、冷凍庫のキャパシティは前述の白米と作り置きのタッパーでパンパンになりつつある。
     平たく言って色々な意味で潮時だ。
     あの喧嘩をしてから、そろそろ十日が経とうとしていた。
     その間のロナルドについてハンガーストライキかとドラルクは先程揶揄したが、全く食事をしていないわけではない。ただドラルクの作る食事を食べないだけだ。ドラルクの食事を食べないとなると外食かテイクアウト、コンビニなどの選択肢になる。ゴミ箱にカッップラーメンの容器や弁当のトレー、ファミレスのレシートが捨ててあったのも見かけた。一応、身体が資本の仕事をしていることもあり最低限の食事はしているようだが、あの様子だと夜食も食べずに眠りに就いているように思えた。
     ドラルクとロナルドの間に最低限以上の会話はない。挨拶も普段はドラルクが夜に起きてくると向こうから「おはよ」という言葉を投げてきていたのに今は物音に顔をあげて視線をこちらに向けるだけだ。無言で視線を合わせてくるので沈黙に堪えきれずドラルクから「おはよう、いい夜だ」と言えば「あぁ、うん」とやる気のない生返事しか口にしない。ドラルクが起きると早々にロナルドはパトロールやギルドに出かけてしまうしこんなときに限って依頼人が来るにはドラルクが起きる前の時刻ばかりだ。
     ドラルクもロナルドとの無言の時間を同じ空間で過ごすのが辛くて最初の数日積極的に外出し、同じ空間にいないようにしたのは選択肢を間違えていたと過去の自分を罵る。
     あのせいで余計に自分は無言で彼と過ごす時間に苦手意識を持ってしまったし、ロナルドはドラルクが居住スペースにいると早々に風呂に入ると寝床に潜り込み寝てしまう。一度、ワザと音を出したままゲームをしていたら良い感じに殴り殺されるだろうかと挑戦してみるも「俺寝るから、ゲームするなら向こう行って」と事務所側にドラルクを追いやられただけだった。
     RINEも既読はつくし、返事が必要な連絡事項については返事は来るがそれだけだ。「了解」の二文字のみの返答が何度続いたんだろうか。
    「今日はちょっと業くんとアキバに」と顔を合わせたので予定を伝えると「そう」とだけいってそれ以上の言葉はない。
     必要以上に整った容姿の持ち主に無表情で応対されるのは正直、恐怖を感じる。
    (あの子、今まで基本的に表情くるくる変わるしよく笑うし怒るから気付かなかったけど、黙ってるとなまじっか顔が綺麗で人工物めいているからか表情がないと凄く怖いんだけど。なんか、視線合わせると背筋がゾワッてする)
     畏怖られることもB級ホラー映画も好きだが、怖いことが好きなのとは異なる。
    「ヌヌヌヌヌン」
    「うん、ロナルドくんのことね……。解ってるよ、ジョン。あーもうどうしようかな」
     冷蔵庫がピーピーとドアが閉まっていない旨を伝える音を鳴らしてくるのでドラルクは「あーハイハイ締めればいいんだろ、解ってるよ」と呟き冷蔵庫を閉める。
     それと同時に鳴りはじめたスマホの音に驚いて一瞬ドラルクは死んだ。液晶が映すのは、今まで表示されたことが殆どない名前だ。この機種にしてから連絡が、それも電話で連絡があるなんて初めてかもしれない。
     一体何を画策して連絡してきたのか、と思うも電話に出ずにいて、以前のようにシンヨコにフラっと押しかけてくる方が自分はイヤだ。少し熱くなったみぞおちの上に手を置くと努めて平静な声で通話ボタンに指を乗せた。
    「はい、なんですか。師(せん)匠(せい)。私も何かと忙しい身ですので無駄話でしたら手短に。こちらはロートルの歯ブラシヒゲと異なり色々予定がありますので」
     液晶に浮かぶ「ノースディン卿」という表記にすら思わず反射で眉を顰めてしまう。
    「憎まれ口はこの際無視してやる、不肖の弟子よ」
     正面切った悪口雑言にびくともしないのが、この師匠の腹立たしいところだ。思わずダイニングの椅子に腰掛けながらドラルクは舌打ちをする。
    「お前あの人間と別れたのか?」
    「……別れ? は?」 
     寝耳に水とはこのことだ。
     きっと今の自分は昔話で言うところの「狐につままれたような」「狸に化かされたような」顔をしているんだろう。冷笑卿の言葉が意味することが理解できず、ドラルクはスマホのスピーカにしてテーブルに投げ出すと口を開けて天井に視線を飛ばす。
     脳内は状況が理解できず、だが一方で何故どうしてという疑問とここ暫くの状況を読み込み直し、シュミレートすることに忙しい。
    「いや、お前達が別れていないのならいいんだ」
     どうやら師匠はドラルクの的を得ない返答について「思ってもいないことを質問されたので驚いての言葉」だと判断したらしい。それはドラルクにとっては幸運だった。何よりも今は情報が足りない。足りない状態で、あんな敵か味方か解らないような存在に自分の弱みを見せるとまたどこかでこちらを馬鹿にするネタにするに決まっている。
    「あの。つかぬことを伺いますが、師匠は何処でそんな話を?」
     これが電話でよかった。ある程度、声色は作ることが出来る。例え今のドラルクの顔色が普段の顔色から三割マシで真っ青になっていたとしても、額と脇から冷や汗がびっしょり雫が浮かぶほどにかいていたとしてもそれを気付かれることはない。
    「どこ、と言われると今いるのは私の屋敷だが、そういう話ではないことは解っているさ。連絡が来たのだよ、お前の父君から。だがどうにもドラウスの話は要領を得なくてな。中身がさっぱりと解らなかったので、当人であるお前に聞いた方が早いのではないかと考え、確認をすることにしたというわけだ」
    「あぁ、そうですか……。お父様とは連絡は取っていましたが、暫く直接の会話をあまりしていなかったもので、一体何を勘違いしたのか全くもって不明なので、私にもなにがなにやら」
     三十六計逃げるに如かずと、すっとぼけることにしてドラルクは震える唇から紡ぐ声を出来るだけ落ち着けて答える。
     ノースディン卿は数年間ではあるがドラルクの教育をした家庭教師だ。ドラルクの癖や性質もよくよく理解している。言葉だけのやりとりなら逃げ切ることは可能だが、その言葉のやりとりに少しでもひっかかりを感じさせたらその時点でゲームオーバー。
     その時点でうっかりすると自分と彼の賑やかしくも、ひそやかで穏やかな暮らしに竜の一族が介入してくる。こんなアホみたいな痴話喧嘩の収拾に一族郎党突っ込まれてみろ。
     まさしく末代までの恥になる。
    「あの、私の方からちょっとお父様に何を勘違いしたのか聞いて」
    「ドラルク。動揺すると言葉がいつもよりも丁寧になるところは昔から変わらないな。やはり、あの人間とは」
    「だから別れてねぇっつってんだろ! こーのロートルスカシポンチ! 墓石の上で埋葬される順番待ちでもしてろ!」
     思い切り怒鳴るだけ怒鳴り、終話ボタンを押した。
     大声を出したから喉が痛くて死にそうだ。冷や汗のせいでシャツブラウスが身体に張り付いて気持ちが悪い。額からも汗をかいたので顔を洗いたい。
    「お父様? え、なんで?」
     子供の喧嘩に親が介入するなとはよく言うが、流石に恋人との喧嘩に介入されることがあるとは思わないではないか。そもそも別れてもいない。ちょっとした喧嘩が長引いているだけの話だ。
     自分は出て行く気もないし、ロナルドも無理にドラルクを追い出すこともない。
     彼だってドラルクが看板一つ、壁に掲示していなかっただけで事務所に入ることが出来なかったというエピソードを覚えているだろう。あれを外してしまえば、もうドラルクはこの事務所、ドラドラキャッスルマークⅡに入ることは出来ないのだから。
    「いや、そもそもなぜ別れるなんて話になってるんだ。クソ師匠がお父様から聞いたって言ってたけど、その話の出所は?」
     IQ300を自負するが、状況が全く読めない。ドラウスに直接連絡をして聞いてみるかと考えるが、付き合いが長くドラウスのコントロールが上手いノースディン卿が「混乱していて要領を得ない」というくらいだ。ドラルクが問いただそうが結局回答が貰えない可能性もあるし、単純に面倒臭いことになりそうだった。
    「あーどうするのがベストか……」
     今の時間は宵入り端だ。
     普段なら事務所にロナルドがいる時刻なのでプライドもなにもかなぐり捨てて直接「なにがわるかったのかまだ解ってないけど私が悪かったから仲直りをしてくれ!」と土下座をして無理矢理に喧嘩を終息することも出来た――今の関係だと全スルーされてドラルクが失意で死ぬかもしれないが、あのお人好しでチョロい若造なのでワンチャン狙える――が、今日は運悪く定休日でそのうえ彼はオータム編集部に打ち合わせに出かけている。ロナルドに電話し会話することも出来るが謝罪については電話よりも直接顔を合わせて行った方が上手い方向に展開することは誰もが知ることだし打ち合わせ中は基本的にロナルドは電話に出ない。例外はギルドや吸対からの緊急要請だが、ドラルクからの連絡なら黙殺されて終わりだ。今の拗れたこの関係だと、うっかりしたら折り返しの連絡すらないかもしれない。
     口元を押さえてドラルクは思案する。自分の置かれている状況が解っていないことがドラルクにとって恐怖だった。何より手を繋いでいたはずの存在が気付いたら砂芥のように指の間から滑り落ちていたような喪失感。
    「メビヤツなら、もしかして」
     あの兵器はロナルドに懐き、いつの間にか自我を持った。ドラルクが持ち主のはずなのに今では全面的にロナルドの味方だ。この喧嘩めいた状況の中も一方的にロナルドの味方をしており、事務所側にドラルクがいると焼き払ってやろうかとあの大きな一つ目で睨みつけてくるが、だからこそロナルドがメビヤツに何か、愚痴めいたものを零していた可能性もある。
    「メビヤツ、あの若造はなにか」
     帽子置きになっている兵器の高さに合わせるように跪いてドラルクが尋ねたところで、ノック音が響く。思わず飛び上がるが、死ぬほどの驚きではない。定休日のはずだが、と思いながらドラルクはドアへと向かった。
    「なんだ、ロナルドくんうっかり定休日の札かけ忘れたのか……、と腕の人、とショッさんじゃないか。今日ロナルドくんならオータムとの打ち合わせで東京に行っているぞ」
     ドアの前にいたのはロナルドの同僚である退治人二人だ。二人とも私服なので退治中やパトロールついでに立ち寄ったということでもないらしい。
     ドラルクの言葉に対して二人は「ロナルドの不在は心得てる」といった様子で二人で視線を合わせ、示し合わせて頭を振った。
    「今日来たのはロナルドに用事があったんじゃなくて、ドラルクさんに話をしたいって思って。で、ショットもそう思ってたって言ってて。それで来たんだ」
    「私? とりあえず、どうぞ。ロナルドくんはいないけどお茶くらいは出すよ」
     冷蔵庫からアイスティー、先日焼いたクッキーを皿に幾つか並べると自分用に牛乳をグラスに注ぐとそれらをまとめてトレイに乗せソファに座る二人の前に差し出す。
    「いただきます。じゃなくて」
    「あのな、本来はオレらが介入する話じゃない。それに、そういうのはルール違反だし失礼だっていうのは重々承知してての話なんだ。だからこれはロナルドは全く関係してない。だからアイツがオレらに頼み事したみたいに思われたくはない。アイツはただ、オレとサテツに報告して、それ以上のことは言ってない。そのこと前提で聞いてほしい」
     サテツの言葉を引き取るように、ショットが静かに話す。真剣な様子なのは一目でわかったのでさすがのドラルクも空気を読んで、緩く頷く。ショットは一気に話したから喉が乾いたのだろう、一口だけグラスの中のアイスティーを飲み下す。
    「ドラルクの中では、もう完全に終わっちゃったことなのか?」
    「終わっちゃった、って。申し訳ないけど主語がないまま察するには今のショッさんの言葉は全体的に主語も目的語も曖昧過ぎて、なんの話をしているのかも解らないんだけど。二人は一体何を私に言いにきたのだい? ロナルドくんじゃなくて、私にって」
     あまりにも張り詰めた雰囲気の空間は居心地がよくない。
     笑いを交えた言葉を返すことでドラルクはこの部屋の空気を緩める。牛乳のグラスを手に取り二口ほど口に含んだ。
    「ロナルドと別れたっていう話」
    「ボヘブバホッゴ……え?」
     牛乳を吐き出しながら死んだ。飲み下している最中に噎せて死んだことならあったが、口に入った瞬間に耳にした言葉で死んだのは初めてだった。自身の身体が再生しつつ牛乳を吸収していくのを感じながら、ドラルクは先程ノースディン卿の電話のときにも感じた冷や汗が額に浮かび思わず額から前髪を後ろへと撫でつける。
     衝撃は未だ醒めやらず顔の表情筋が固まり、再び死にそうになる身体を必死で引き留める。
    「なにそれ」
     この国に来てから五〇年は経つ。ドラルクは母が日本出身の吸血鬼であることもあって自身の日本語は馴染み深いが、思わず昔馴染みの悪口雑言のスラングが口から飛び出そうになりながら一応のこと日本語であるところの四つの音で返事をした。
    「なにそれ、って。イヤそれを聞くとオレらも結構『なにそれ』なんだけど……。あの、えぇと。ちょっと前にな。聞いたんだよ。お前達が別れたって」
    「は?! 誰から?! ぜんっぜん別れてませんけども!?」
     現在進行形で喧嘩中のため「仲睦まじく暮らしていますけど」とは言えないが、別れたなんて馬鹿げた話だ。誰がそんなことを吹聴しているというのだ。
     そもそもが自分たちが近しい関係であり、同居生活をしているということはシンヨコ市民の大半と作家としてのロナルドのファンと退治人仲間と家族とドラルクの一族連中と一部のドラドラチャンネルの視聴者が知るところだ。
    (あれ、そうすると私たちの同居を知っている人って凄いたくさんいるのだなぁ)
     相棒として認識している人は多いが、それ以上に近しい場所にいる関係にあると認識しているなんて近しい中でも極々一部、それこそショットやサテツといった同期の仲間や家族くらいしか知らないはずだ。
     ロナルドはそういったことを積極的に外で発言することはない。
     面倒事は避けたいドラルクもそれは同じだ。
    「誰から、って。ロナルドから『別れた』ってオレら報告されたんだよね」
    「はぁぁ!? 若造!? あンの五歳児何やらかしてるんだよ! それともあれか、別れたいから外堀から埋めてプロパガンダ宜しく雰囲気的に別れましたよね自分たちみたいにする気か!?」
    「そこまでロナルド頭よくないと思うけど」
     サテツが指摘をするがドラルクはその言葉を右耳から左へと受け流して、グラスの中の牛乳を一気に呷る。別れたと言って回っているのは、ロナルド本人だということはもしかして先程のノースディン卿が言っていた事柄には彼が関わっているのか。
     たしかにドラウスとミラはドラルクとロナルドの関係について知っている。ロナルドは生来の真面目に出来ていることもあってか、恋人になってからそう時間が経っていないときに「ドラウスとミラさんに、ちゃんと俺たちのことを言っておきたい」と言い出したのだ。ドラルクとしては「え。いいよ、そんなの。言うと何かとお父様とか面倒臭いし」とロナルドの提案を一蹴したが、そのドラルクをロナルドは顔を真っ赤にしながら平手打ちして殺した。
    「おま、お前は俺だからいいけど! 俺はお前なんだぞ!? 」
     全く意味の解らない言葉であった。
     曰く、ドラルクは由緒正しい高等吸血鬼だし、親からも大事にされているのだからきちんと挨拶をしておいた方がいい、ということだった。両親は既にロナルドのことを知っていたので大した反対もなく承認されたし、口にこそ祝福を言わなかったが父は自分とロナルドの関係を喜んでいたようにも見えた。
     だからこそ別れたことを知り、取り乱して旧知の親友であるところのノースディン卿に泣きついたのか。
    「お父様に『別れた』と言うとかロナ造の癖に頭が回るじゃあないか。一番面倒臭い展開になるところに爆弾を放り込むとはなかなかやるな。だが、私はどうかな。私はそんな展開は認めないし絶対に許さない。別れる? 馬鹿げた話だ。周りの堀を固めようとその堀はゆくゆくは私の味方になる展開なんだからな!」
     グラスをローテーブルに叩きつけるが、非力なので少しばかり大きな音を立てるだけだった。
    「あのさぁ。話、最初に戻してもいい?」
     ショットがアイスティーにガムシロップを二つほど注ぎながら言う。目線はガムシロップの雫の行き先だけだ。
    「ロナルドがドラルクと別れたって言ってたんだけど」
    「別れてない! ちょっと喧嘩してるけども別れる気はない! その展開だと君たちの認識で、私が一方的に悪いみたいになっちゃってるんだろうけど、あの子だって悪いんだぞ。何について怒ってるかも言わないで対話拒否みたいな対応してハンガーストライキめいたことまでして!」
    「ハンガーストライキ、ってご飯食べなかったのか?」
     大食漢のサテツが目を見開いて言う。ロナルドもサテツほどではないがよく食べる。
    「食べてはいたんじゃないの? 外食とかテイクアウトとか色々食事の方法はあるし。ただ、私のご飯食べなかったってだけの話。おかげで食材の消費スピードは変わっちゃうし冷凍庫はパンパンだよ」
    「あーそれでこないだのバターチキンカレー」
     何故突然カレーを食べないかと誘われたのか不思議に思っていたことに合点がいったとショットが手を鳴らす。その節はご馳走様でしたというショットにドラルクは「こちらこそ食べて貰えてよかった」と気にするなと顔の前で手を振った。
    「ったく、あの五歳児ってば何がイヤで駄々こねてるのかねぇ」
     困ったものだと苦笑するドラルクに対してショットとサテツは顔を見合わせて、最初と同じやや真面目な表情になる。
    「ドラルクはロナルドと別れたつもりはないし、別れるつもりもないのか?」
    「……うん、ないね。手放すつもりは毛頭ないよ、あんな上物」
     足を組み、腕を伸ばすと掌を二人に見せながらドラルクは言う。
     本人がそういう展開を望もうが、私は認めない。
    (非人道的? 結構結構、だって私は人外だからね)
    「そ。ならいいや。あー、これだけ言っとく。ロナルドは『別れたくない。もっと一緒にいたい』『でも種族の違いとか家の格式のこと言われたら立ち位置が違いすぎる。だから離れるしかない』って。ロナルド泣いてたよ」
     ショットの言葉にドラルクは顎を反らし、上を向いていた顔が自然と下を向くのを感じていた。
     何を傷つく必要がある、きみは昼の子だ。
     太陽に愛されている。
     私の手を取ったところで何を恐れることがあるの。
     そんな風にロナルドのことを思っていた。
    「泣いてたんだよ」
     ショットは重ねて言う。
    「高等吸血鬼ってこの辺に出てくるヤツらは皆アタマがポンチなアホばっかだけど。それでも人間よりも上位互換に出来てるじゃん。身体の丈夫さも頭の良さも。それを無駄遣いしてる感もあるけどよ。それ見るとオレら人間ってマジで愚かしい脆い生き物とも思う、数ばっか多いだけ」
    「それは、そんなことも」
     ない、とは高等吸血鬼であるドラルクには言えなかった。それは傲慢にしかならない。
    「先に逝く自分が、ドラルクの時間を縛っていいのかって。思ってたみたいだった。それはお互い様だから気にすることないってきっと皆言うけど。だって人間同士だって同じ話だろ?」
     サテツがポツポツと話す。
    「きっと人間同士だって吸血鬼同士だって同じように家柄とかで悩むことはあって一緒なんだけど。人間と吸血鬼だとそれが少しばかり多くなっちゃうんだよね」
     昼の子と夜の住人。
     生物としての特性。生き方。性質。
     老いていくこと。
     置いていくこと。
     先に逝かれること。
     世界に遺されること。
    「どれだけ強くても、勇猛でも有能でも。アイツはお前よりは先に死んじゃうし。お前みたいに生き返ることもない。二度と戻ってこないっていう喪失感をお前に与える。永久に消えない縛りを残す」
     ショットがいうことは、きっとロナルドが「別れた方が良いのではないか」と自分を追い込んだ理由だ。彼はそういわないし、ロナルドも言葉に出すことはなくて、けれども友人同士考えていることが言葉にしないでも伝わっていることはある。
     それは父にも言われたことだった。ドラウスは心底からドラルクのことを心配していた。
     未だに能力と生命力の枯渇が見えない御真祖様もかつて先に逝った人間の友人のことを思い出して黄昏れていると囁かれる。そんな偉大な存在でも死という運命に連れ去られた友人の存在を忘れることは出来ない。断ち切ることは不可能だった。
     父は、きっと未来のドラルクがそうなることが見えている。だから懸想していることを打ち明けたときに「賛成できない」と言った。恋人になったことを報告したときは色々言いたそうな表情をしつつも祝福をしてくれたのは、父の心境の変化ではなくてロナルドという存在がドラルクに対してよい影響を与えているのが見えたからだ。享楽主義は変わらないが以前よりも自分は良い意味で人間社会と繋がりながら生きるようになった。
    「別れるつもりはね。ないんだよ。この先傷つくことは、あの子に一目惚れしたときから解ってたから。人間に触れるのは太陽に近づくようなものだと遙か昔、家庭教師に懇切丁寧に教えられて、けれども私は出来の悪い生徒だったもので身につかなかった」
     太陽の下で輝く青年に恋をした。
    「それならよかった。ちゃんとドラルクさんと話せてよかった」
     サテツがにこりと微笑む。
    「ロナルドって基本的にダウナーだから、家柄とか生物とかの障害を一つ見つけたら全部見つけちゃうようなところがあるんだよね」
    「ほんとはオレら、別れるって聞いたけどロナルドが別れたくないって言ってるし、めちゃくちゃメンタルぐちゃぐちゃだし、勢いで別れるとか言ったりしてない? なら、やり直しとかあったりしない? ってドラルクに言いに来るつもりだったんだけどな。そもそもドラルクは別れたつもりないとか、とんだ人騒がせじゃんな」
     ショットがクッキーに手を伸ばしながら笑う。
     だがドラルクはショットの言葉に耳を止める。
    「メンタルぐちゃぐちゃ?」
    「あぁ。アイツの顔、結構酷かったぜ? ドラルク気付かなかったか?」
     一緒に暮らしているが此処しばらくはマトモに顔を眺めてはいなかった。最近はロナルドは表情が希薄だったし、あの整った顔が無表情で自分を見つめているとき居心地が悪くなるのだ。
    「それ。アイツ疲れたりしてるとどんどん感情を消していくところあるだろ。無にするのな。あと睡眠時間が凄く長くなるとか」
     普通、心を病むと眠れなくなると聞くが、とドラルクが指摘をすると「そういう人もいるだろうけど、ロナルドは逆」とショットがいう。
    「多分、自己防衛システムみたいな? 無表情と同じだろ」
     ショットがいうように、たしかにロナルドは最近帰ってくるとすぐに寝るような生活をしていた。今までは事務仕事を済ませたり、読書といった自分の時間を過ごし、ロナルドが寝る一時間くらい前に寝床に入ることが多かったが、ここ暫くは仕事を早く切り上げて帰ってくるなり寝ていたように思う。
    「落ち込んでいるのが見えるうちはまだいいんだよ、ロナルドって。その向こう側があるのがこえーんだよ、アイツ。別にメンタル強くもないのに、自分は強い、平気って思い込もうとしているところとか。だから別れてなんかいないって伝えて美味い飯で甘やかしてやって」
    「私、五歳児のメンタルケアまで任されるつもりないんだけど」
     幾ら恋人とはいえ流石に其処までの責任はないだろうとドラルクは唇を歪めて笑う。
     だがその皮肉めいた笑みはサテツの一言で形(なり)を潜めることとなった。
    「ドラルクさんはロナルドにメンタルケアして貰ってるのに?」
     それは事実だった。あのきらきらしい生き物が自分の手元にいて、自分の発言で笑い怒り、自分の作った料理を口にして目を輝かせる状況に歓喜しない吸血鬼がどこにいようか。それも自分たちがけして手には出来ない太陽を具現化したような人間が微笑みかけて手を握ってくれる。彼は自分たちが常々飢えと乾きを感じている、生命力を凝縮したような存在だった。
    「その辺は恋人なんだしお互い様ですよ」
     サテツの浮かべる無垢な笑顔には降参するしかない。
    「わかったよ。私が悪かった。彼もちょっと悪いけど。今回、色々と対処が遅れて周りに迷惑を掛けたのは私が悪いよ。あの子も悪いけど。思い込みが激しいったら!」
    「ヌヌヌンヌヌヌヌ」
     ご主人も大概、自分の立場に胡座をかいてるし思い込みが激しいと揶揄してくる可愛いジョンの額を軽く指先で弾く。ロナルドが帰ってきたらちゃんと誤解解けよ、と言い残して二人は去っていった。二人とも今日は非番であるらしいのに、友人のためにやってくるなんて愛されているなぁと、恋人のことを思う。
     さて、盛大な勘違いを自分たちはそれぞれしていたということは把握した。問題は数少ない自分たちの仲を知る人たちにロナルドが現在進行形で色んな意味で間違えている報告をしてしまっている。別れたと報告はしているが、ロナルドはドラルクと別れたくないようだし、ドラルクはそもそも別れたつもりがない。
    「…………なんでこういうときに限ってでないかなぁ、お父様は」
     ノースディン卿経由で聞いた話については推測になるけれど、どこかでなにかの方法でロナルドがドラウスに別れたことを報告した。そんなところまで真面目に出来ていなくていいと思うのだけれど、父は盛大に混乱しているというところだろう。
     まあ彼が帰ってくればおそらく落ち着くべきところに自分たちは落ち着いて元通りになる。連絡がつき次第、内情は伝えるつもりだが。
     思ったところに再びノックの音が響く。今日は定休日だというのに何かと来客が多い日だ。
    「こんばんは、宅急便をお届けに参りました」
     いつもの宅配業者の青年が笑顔でドラルクが購入した新作ゲームとロナルドが注文したらしい品を手渡し、一礼して戻っていく。比較的通販を使うことが多いのはドラルクの方で、ロナルドは通販でなければ購入できないものでくらいしか使用することはない。
     それこそ事務所の宣伝用に過去、製作したノベルティくらいか。
    「なんだろうね、あの子あんまり通販使うこともないのに」
     あまり大きくない箱の内容として書かれているのは「電気部品」という表記だった。配送元の会社名に心当たりがあり、ドラルクは牙をむき出しにしてニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。
    「ねぇジョン。通販が届く日にうっかり打ち合わせなんかいれている方が悪いと思わないかい? 普段通販をよく使う私が、これが私の荷物だって勘違いして開けちゃっても別に何にも可笑しな事じゃないよね?」
    「ヌ、ヌヌヌンヌヌ、ヌア(え、ご主人様、それは)ヌ」
     調子外れな鼻歌を歌いながらドラルクは事務机においてあるペーパーナイフを手に取る。中身については察しがついていている。箱の中身を覗き込む、ドラルクは一層笑みを深くした。

    *** 

    「すみません、遅くなりました。編集会議が長引いてしまって」
     東京千代田区。出版社が立ち並ぶ一角の喫茶店でロナルドは担当編集であるフクマを待っていた。お代わり自由の珈琲を注文していてよかった。待ち合わせ時間より一時間近く待つことになってしまったからだ。しかしその待ち時間のおかげで読書をすることが出来たのでよかったと思う。ロナルドは自分のことを特段文才がある作家だと思わない。だから学ぶことが大事だ。世の中でヒットしている作品は何かしらの理由があって人が手に取り支持を叫ぶのであろうことは解っている。だから出来る限り好みであるか違うかは別として、話題になったりベストセラーといわれている作品は必ず一度は読むようにしている。
     だが最近は読む時間がなかなか取れずにいたのだ。何故か解らないけれど妙に眠くなってしまってしまい、仕事中はどうにか意識をしっかり持っているのだが、それもときには仕事を早上がりさせてもらうくらいに眠くなってしまうことがある。そんなことがあってから睡眠時間はいつもよりも長く取るようにしているのに、常に睡眠不足のように頭に靄が掛かっていることが増えてしまっている。集中力が欠けたりぼんやりしてしまうことが増えて、無表情になりがちだ。
     仕事を詰め込みすぎると、表情が消えがちになることは大昔にマスターと師匠であるヴァモネに指摘されてから注意をしていたし、最近はそう忙しいというわけでもないのに。これが続くようなら病院に行くべきなのかもしれない。
    (まだ今のくらいだったら気合でどうにかなってはいるけど)
     そんなわけで今の待ち時間はロナルドとしては読もうと思っていた本の読書時間になった。
     フクマの後ろから「待てぇまだ勝負はついてないですよフクマァ!」とボロボロになりながら叫んでいるサンズの姿が見えるが、メガネをしたスーツの青年に引きずられていった。
    「あの、サンズさん大丈夫なんですかね」
    「ロクモンくんに任せておけば心配ありません。彼女はもっと強くなる。強くなって貰わないと困るのもありますが今後もっと強くなる。そして私にまた挑んでくる。楽しみですね」
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