愛しい人「どうして? 和真さんが買ってくれたのに!」
寝室の床に叩きつけられ、ぐったりと横たわるたい焼き型クッションに駆け寄ろうとした私の腕を掴み引き止めると、和真さんはムッとした顔で答えた。
「そうだな。君はそいつを買ってから、片時も手放さずに抱えているな。その上、眠る時まで一緒とは」
「そうですよ、だって大事ですもん」
「……私よりもか」
「はい?」
思わず首を傾げてしまった私を見て、和真さんは決まりが悪そうに視線を逸らして手を離すと、ふんとそっぽを向いてベッドに寝転がってしまった。
ええ、と今さっき言われた言葉と彼の態度を分析しようとする。
私よりも、そいつが大事なのか、なんて。まるで恋敵に嫉妬してるみたいじゃない? と考えたところで、みたいじゃなくて、事実そうなのでは? と思い至る。
「……和真さん、たい焼きくんにヤキモチ焼いたの?」
「…………」
この無言は無視じゃなくて、きっと肯定だ。
思えば、たい焼きくんを買って帰ってから、私はずっとあの子を抱きしめていた。お風呂に入る時以外、ずっと。
いつものお泊まりなら、ソファーで二人並んで座ってまったりお茶を飲みながら、和真さんの肩に寄りかかってテレビを見たり、話をしたりしているうちに、何だか良い感じの雰囲気になって……それからベッドに、なんて流れが定番で。
――今日はそうならなかったけど。私がたい焼きくんばかり構ってたから。
和真さんからのプレゼントが嬉しくて、大好きなたい焼きを模したものが可愛くて、ずっと抱きしめてへらへらと笑う私に、彼は呆れていた……と思っていたけど。
眉間に皺を寄せて小さく息を吐いていたのを思い出すと、たぶん、あの時からちょっとムカムカしてたんだろうなぁ。
床に倒れているたい焼きくんをちらりと見て、ごめんね、今夜は床で我慢してね、と念を送った後。和真さんの傍にごろんと横になると、背中にこつんと額を当てて、「和真さん」と名前を呼んだ。
無反応な背中を、腕を回してぎゅっと抱きしめると、「……あいつの方が抱き心地がいいんじゃないのか」なんて不貞腐れた声で言うから、私は気分が良くなって「もう。クッション相手に、そんなにヤキモチ焼かないでください」と笑みをのせた声で囁いてしまう。
まだ私が生徒の朝日奈さんで、和真さんが教師の篠森先生だった頃。彼がこんなに短気で嫉妬深くて大人気ないとは知らなかった。それどころか、私に好意を持ってくれているなんて微塵も感じさせてくれなかったのに。
卒業して、付き合えて。立場も関係なくなって、感情を隠す必要も遠慮も要らなくなった今は、こんな風に態度に出してくれる。それが嬉しい、なんて。
でも、そんな彼を可愛い、と思っても、間違っても口にしちゃいけない。和真さんの機嫌をこれ以上、損ねたくないし。
「どうしたら機嫌をなおしてくれますか?」
「……」
頬を擦り寄せると、数秒してから無言でごそごそと和真さんがこちらを向いた。まだ表情はムスッとしているけど、目を細めてこちらを見つめる眼差しには、嫉妬じゃなく別のものが潜んでいる。その瞳が何を求めているかくらいは、鈍感な私にだってわかる。
「……だれよりも、和真さんが一番、大好きです」
だからそう言って、微笑んでキスをした。一瞬の触れ合いで離れた後、すぐさま和真さんがまた唇を重ねてくる。そのまま体勢を変えて被さられて、さらりと降りてきたクリーム色に世界が覆われた。
滑るように頭を掌で撫でられ、角度を変えて何度も噛み付くようにキスされた。舌先で唇を突かれて、開けばより口付けが深くなっていく。
初めに仕掛けたのは私だし、こうなることも予想できていたけど、だからといってずっと余裕でいられるわけじゃない。唇を離す頃には私は息が上がっていて、ぼうっと和真さんを見つめるしかできなくて。彼は満足そうな笑みを浮かべて見下ろしていた。
するりと彼の指が頬を撫でて、首筋から鎖骨をなぞり、私の胸元へ降りていく。ぷちり、とパジャマのボタンがひとつ外されて。
「君が欲しい」
愛しい人に、低く掠れた声で望まれれば断ることはできない。こくりと頷いてまた唇を寄せる。
――さっきまでクッションにヤキモチ焼いてたのに。
子どもみたいな嫉妬をするくせに、こんな時は主導権を明け渡さずに大人なキスや続きを期待させる仕草で煽るのだから、私の恋人は本当にずるい。
けれど。脱いだ服を床に放る時、わざわざたい焼きくんの目の上に被せるようにして落としていたのは、やっぱりちょっと可愛いなと思ってしまった。
・・・
「んぅ……」
昨夜の行為が尾を引いているのか、今朝はベッドから起き上がるのがとても億劫だった。先に起きた和真さんが何か声をかけて来た気がするけど、寝ぼけていたからよく覚えていない。私はいわゆる二度寝をしたらしく、むくりと起き上がった頃には9時を過ぎていた。
床に落とされていたはずの衣類は綺麗に片付けられていたし、そこで一晩を明かしたはずのたい焼きくんも、昨夜見た場所にはいなかった。
――和真さんがどこかに持っていったのかなぁ。まさか捨ててはいない、と思うけど。
かなり拗ねてはいたけど、さすがにそこまではしないはず。でも少しだけ不安になりながら、着替えを終えて寝室を後にした私は、リビングで信じられない光景を目撃する。
「おはよう。体は大丈夫か?」
「はい。おはようございま、……えっ?」
ソファーに座る和真さん。カフェオレを飲んでいる姿はいつも通りの朝の光景だけど、その懐に抱えている存在が驚愕で。
「た、たい焼きくんと、仲直りしたんですか……!?」
そう、懐にいたのはあのたい焼きくん。和真さんは、彼を床に叩きつけたり、脱いだ服を被せて視界――といってもたい焼きくんはクッションだからそんなものはきっとないけど――を奪ったりして、敵対視していたはずなのに。
私が知らないうちに、仲良くなった……? のなら嬉しい、けれど。
「フ。仲直り、という表現が正しいかは分からないが。まあ、こいつも利用価値があるとわかったからな」
「りようかち……?」
可愛いフォルムのたい焼きくんを抱えながら、なんだかご機嫌そうな和真さんが難しいことを言っている。私の頭にはクエスチョンマークがいっぱいだ。
「何か食べるだろう。パンでいいか?」
「はい……」
「わかった。少し待っていなさい」
そう言って立ち上がり、キッチンへと向かう和真さんからたい焼きくんを手渡された。
疑問が解決しないままで私は首を傾げ、たい焼きくんを目の前に掲げて眺めながら、ソファーに座る。ふわふわの感触は昨日のままで、とくに彼に変化が起きたという訳でもなさそうだ。
「うーん?」
――よくわからないけど、仲直りしたなら良かった。この調子なら次は一緒にベッドで眠れるかもしれないね、たい焼きくん。
心で語り掛けながら、ぎゅっと抱きしめて顔を埋める――と、そこで昨日との違いに気がついた。
「……これ、」
ふわりと感じたもの。まるで、そう。昨夜ベッドで和真さんの背中を抱きしめた時のような、いい香り。そして連想するように思い出されてしまう、その後の展開と眼差し。
「――えぇと」
まさかとは思うけど。和真さんがさっきまでこの子を抱きしめていたのは、自分の香りを纏わせるためだったの……? 私がたい焼きくんを抱きしめる度に、和真さんを思い出さずにいられないように?
思い至った考えに「ええ?」とまた声がこぼれてしまう。間違っているかもしれないけど、なんというか、もしそうだとしたら。
チーン、とキッチンからトースターの音がする。まるで正解の効果音のようにタイミングがいい。
「ずるい……かわいい……」
彼の香りが残るたい焼きくんに顔を埋めて呻きながら、やっぱり和真さんはだれよりも愛しい人だと噛み締めるのだった。