春の山菜ドスティ春がやって来た。
春告鳥の鳴き声で目が覚める。本当はまだ眠いが、今日は折角の休日だ。隣で寝るビームのまろい頬を少しでも堪能したい。掌で触れるともっちりとした弾力が返ってくる。
その温かさにラーマは心の中に春の陽気が差し込む気分だった。ビームを起こさないようにそっとベッドを抜け出す。
そして着替えると毎朝の習慣であるランニングの為シェアハウスを出た。
朝はまだ肌寒いが、周りの景色が季節を感じさせてくれる。
風に揺れる花、微かな梅の香り。
住宅街を抜ければ小さな公園があって、そこには桜の木が植えられており、花の開き具合を観測するのが最近のラーマの密かな日課だ。桜の花を初めて見た時はそこまで感動しなかったものだが、ある日定食屋からの帰り道ビームが桜の花に目を輝かせて以来は、綺麗な花だと思えるようになった。
そもそも、考えてみれば、ビームと食事を共にするまでは日々の仕事の忙しさに追われて、日本の風景というものを楽しむ余裕すらなかった気がする。
ラーマはほんの少し蕾が綻び始めた桜の木に、満開になったらビームと花見でもしようかと口元を緩ませた。
シェアハウスに戻ると、ビームはまだ少し夢心地のままか「お帰り、そんでもっておはよう」とラーマへ告げてきた。
ビームはラーマより朝が強い。にも関わらず珍しく遅く起床したのは、動画サービスで最近お気に入りのオリジナルドラマを夜中に一気見したせいだ。
毎日少しずつ見ればいいだろう?とラーマが苦笑すれば、休日の前の日の夜に一気見しねぇとラーマと一緒に過ごせる時間が減るだろ、とさらりと返されてしまった。
共に暮らすようにななったが、それでもITエンジニアのラーマと工場勤務のビームは生活リズムが違う。それでもビームがラーマと料理を食べたり普段の会話を大切に感じている事が伝わりラーマはこそばゆい気持ちになる。もしビームとシェアハウスに住んでいなければ、孤独感に耐えられず休日の過ごし方も読書だけになっていたに違いない。
「朝食は?」
「パンを喰っただけだ」
ビームはのそのそとした動きで眠気覚ましの珈琲を淹れている。フルーティーな香りの香ばしい匂いは最近出来たコーヒーショップの春ブレンドというものだ。
ビームはごく自然に二人分のマグカップに注いでラーマへ差し出してくれる。ラーマはマグカップを受け取るとビームの瞳に良く似た濃い褐色をゆっくりと飲んだ。
「なら今から朝食作るか?」
「う~ん、折角ならブランチにしねぇか?オレ、掃除と洗濯やるからラーマが飯作って欲しい」
無自覚だろうがビームは甘え上手だ。そして恐らくラーマよりずっと交渉事が上手い。ラーマもまた冷蔵庫の中の食材を確かめながらそうしよう、と答えた。
掃除と洗濯を赤の他人に任せるなんてビームと出会う前は想像出来なかった。姉に囲まれて育ったラーマはいつだって洗濯は別だったし、自分の部屋に勝手に母親が入って来る事すら嫌悪感を覚えた程だ。
ビームはラーマのプライベートも配慮しつつ、部屋を掃除してくれる。気づけば床に散乱しがちな本も元の棚へ戻すし、余計にあちこち引っ掻き回さないから安心して任せられる。
だからこそ居心地がいいのだろう。過干渉気味な家族と違ってビームはラーマへ深入りしてこない。だからこそラーマもまたビームへ家族について聞く事はしなかった。
しっかり者の弟が居たらこんな感じなのだろうか、とラーマは買い置きしておいた食材を取り出した。
近所のスーパーで置かれていた春の山菜フェアでつい手を伸ばしてしまったのは、菜の花、タラの芽、春キャベツ。
ラーマはスマートフォン片手にインターネットで菜の花のレシピを検索してみる。やはり定番はおひたしのようだ。
ラーマも定食屋でそれを口にした時、独特の苦味に中々慣れなかったが、ほんのりと感じる菜の花の香りに気付いてからは食べられるようになったものだ。
だが、今日はメイン料理に合わせたものにしたい。
ラーマは悩んだ結果、菜の花とアスパラガスを刻んで塩で茹でこぼす事にした。
その間に卵も茹でながら、鍋を随時確認しつつミニトマトをカットしていく。
茹で上がったアスパラガスと菜の花をざるにあけて冷水で冷ましながら器へとベビーリーフを敷いていく。そして茹で卵の黄身と白身を細かく刻み、アスパラガスと菜の花、その上に茹で卵を盛り付けてシーザーサラダドレッシングを和えた。
次はメインの芽キャベツだ。
芽キャベツは柔らかい為、外側の葉だけ取り除いて根元をカットし十時に切り目を入れてラップで包んで電子レンジにかける。バター、おろしニンニクとおろし生姜を鍋で炒めればいい匂いがしてくる。そこにカレー粉、コンソメ、塩、砂糖、パプリカパウダー、たっぷりの水トマト煮と芽キャベツを入れて煮立たせて、仕上げにバターと生クリームを加える。隠し味に菜の花オイルも足しておこう。
最後に残ったタラの芽だが、カレーに合わせるのであれば本来はアチョールだが、やはり天ぷらだろう。たっぷりの菜の花オイルを高温にして、溶いた天ぷら粉をタラの芽と桜海老に纏わせる。
油が跳ねないように慎重に油の中に入れれば、じゅわっと音を立てて沈む。花衣をつけるように菜箸で天ぷらを揚げれば、パチパチと鳴りながら油に浮かぶ天ぷらは白い衣の向こうに薄らと鮮やかな緑と桜色が見えて目でも楽しい。
丁度キッチンペーパーで油分を落としているタイミングで洗濯物を干し終えたビームがベランダから戻って来た。
「すげぇカレーのいい匂いがする…腹減った…」
まだ少しぽやぽやとしたまま腹を撫でさするビームにラーマは口角を緩めた。
「もう少しで出来るから待ってくれ」
ラーマは春らしいパステルカラーの皿に揚げたての天ぷらを移した。ビームもカレー器を手にそわそわと鍋の蓋を空ける。
「おおっ!このゴロゴロと入ってるのは芽キャベツか!?」
「ああ。好きな分取るといい」
ビームはラーマの言葉に芽キャベツ多めに取るのかと思えばわざわざラーマと均等になるようにカレーをご飯にかけていく。こんな風にさり気ない気遣いが出来る所がビームらしい。
「ほら、ラーマも」
すっとラーマの分のカレー器を差し出される。
「そう急かすな」
ラーマはささやかな幸せを噛み締めながらカレーを盛り付けた。
アスパラガスと菜の花のミモザサラダは、菜の花の苦味をアスパラガスの甘味と茹で卵が程良く中和してくれている。
余ったアスパラガスは胡麻和えにして正解だった。
芽キャベツのカレーの合間に箸を伸ばすと食が進む。
タラの芽と桜海老の天ぷらはシンプルに抹茶塩で食べる事にした。口へ運ぶと程よい苦味と桜海老の旨味と風味が広がり春を感じさせる。
「なぁ、桜が咲いたら花見に行かねぇ?」
料理を堪能し後片付けを始めたビームが徐に口を開いた。
「奇遇だな。私も君を花見に誘うつもりでいた」
ラーマは驚きで瞳を丸くした。するとビームはラーマの方へ回り込み肩を寄せるようにしてスマートフォンの画面を見せてくる。
「本当か!?オレ、花見しながら一斗缶ビリヤニ食べるってのがやりたくて!この店、桜鯛のビリヤニがあるらしいぞ!
」
目を煌めかせて語るビームにラーマは画面を見ながら固まった。10人分のビリヤニ。食べ切れるのだろうか。
ラーマの心配をよそに、ビームはその店の一斗缶ビリヤニの予約システムの話を続けている。ラーマは仕方ないな、と肩を竦めながら、後でSNSの在日インド人コミュニティに助けを仰ごう、と内心決意したのだった。