「本を読もうと思う」
目の前のソファでぐうたらと横になっていた男――オーウェン・フェアバンクスと名乗る彼が、唐突にそう呟きながら体を起こした。「なんだって?」自分の耳が信じられず思わず聞き返すと、彼は神妙な面持ちをして、何やら考えるように顎に手を当てた。適当と不誠実を掻き混ぜて形にしたような男が一体何を言っているのか。考えてもどうせ何も出ないぞ、と思いながらとりあえず続きを促すと、世紀の大発見をしたような勢いで人差し指を立てる。
「俺には教養が足りてない」
「その通り」
正解、と指さしてそう返すと、ムッとしたように俺を睨む。お前が言ったんだろうが、と睨み返すが、相手もそう思っているようで、特に反論はしてこない。
「いやさ、俺この世界のこと何も知らなすぎて、女の子との会話の引き出しが少ないわけよ」
引き出し、と言いながら、彼は空中で何かを引っ張るようなジェスチャをする。さしたる興味はないものの、その棚は女性と喋る時専用の棚なのか?と問いたくなる。
「まあ本じゃなくて体験してみても良いんだけどさ、俺って戦えないだろ?俺の冒険譚には自動的にお前らがくっついてくる羽目になる」
渋々護衛してやっているのになんだその言い草は、と苛立つが、苦笑いする相棒の顔を思い浮かべてなんとか耐える。今朝も、俺とオーウェンが2人で留守番だという話になると困ったように笑って「フェリス、オーウェンに優しくね」と告げて依頼をこなしに出て行った。ここで喧嘩を吹っかけてしまっては、相棒に要らぬ心労をかけてしまうだけだ。
深呼吸して心を無にする努力をしていると「嫌になっちゃうだろ、モモタロウじゃないんだからさ」と彼が続ける。誰なんだ。相手にわからんもんで例えるな。非力なくせに部下の功績を自分の手柄にする感じの、嫌な司令官的な人物なのか?
いや、どうどうどう、落ち着くには確か数を数えると良いと聞いた、1.2.3.4――……まで数えたところで「聞いてんのかテメー」と不機嫌そうな声がする。クールダウンしている最中に新たな火種を注がれては冷めるも何もない。10秒経過したが、俺は尚も新鮮に苛立っていた。
「まあ、それは良いんだよ」
良くねえよ。と思いながら、先ほどオーウェンが淹れたばかりの珈琲に口をつける。思ったより熱くて舌先にピリッと痛みを感じ、腹が立つ。
「とにかく広げたいんだよ、会話の引き出しを」
「でも、お前、まだスムーズに文字読めねえだろ」
「それなんだよな」と頷いて、彼もまた珈琲を一口啜る。やはり熱かったようで、一瞬僅かに顔を歪めた。鼻で笑うと、抗議するような目線が俺に向く。
異世界から来たらしい彼とは(俺はまだ正直、得体の知れないただの不審者だと思っているが)不思議、としか言いようがない力によってこうして会話でのやり取りができている。一方文字に関してはその不思議な力も適用されないようで、どうやら上手く読解することができないようであった。仲間の1人であるイカルガという男が「脳の司る部位が違いますからねぇ」などと何やら納得して楽しげにしていたが、俺には何のことか全くわからない。
その話をした時以来、彼はそのイカルガセンセイに教えを乞うており、少しずつ読み書きができるようになってきているようだが、まだ一音一音拾って単語の意味がわかるぐらいで、スラスラと読解できているところを見たことがない。書字に関しては未だからきしのようだ。
エオルゼア全体の識字率は正直さして高くもない。俺は兄がそういうのが好きだった上に、実家の豆農家に何か役に立つかと学んでいたことがあり読める、というだけで、センセイ曰く巷の人間で文字を満足に読めるのは人口の半分以下だとか。故にその辺りに掲げられた看板は、大文字と小文字が入り混じっていたり、絵で表されていたり、割と自由な表現がされているのが常だ。まあ、文字で綺麗に表したところで受け取り手に伝わらなければ意味がないので、集客できればそれで良い、ということなのだろう。
「正直なんでもいいんだよ、童話とかさあ、子供向けの教科書だっていい」
「――基本のキ、いろはのいも知らないんだから」と続けながら彼はテーブルの上のポポトチップスに手を伸ばす。「こっちの常識らしきことを、いちいち聞いて女に馬鹿にされるのは懲り懲りなんだよ」
女を抱けるなら土下座も厭わない、ような印象があったが、一応こいつにもプライドというものが多少なりとも存在していたのだな、とぼんやり思う。心底どうでもいいけれども。
静かな部屋に、ポリポリと菓子を咀嚼する音が響く。
童話ねえ、と復唱したところで、最近聞いた情報が頭に浮かぶ。
「そういえば、今度センセイが、難民の子ども相手に絵本だか紙芝居だかの読み聞かせ会を企画しているとかなんとかアレクが言っていた気がするが、お前聞いてないのか」
イカルガ・ツヅリという男は、他人の食事を観察して記録をつけているような極めて変わり者の学者ではあるが、こと教育に関しては熱心で、先ほどのように仲間に読み書きを教えたり、時折子ども相手の朗読会の企画などもしているという一面もあった。聞けば地元では私塾のような取り組みもしているとか。付き合いもそれなりに長くなってきたが、読めない男だと、思う。
「まじかよ、アイツ何でそういう大事なことに限って俺に言わないの?」
そして目の前にいるこの男は、イカルガの観察対象の1人になっていた。そのため一緒にいる場面を目撃することも多く(先程の学習場面以外は、多くは一方的にイカルガがしつこく話しかけ、オーウェンが逃げる場面だが)話を聞いているものだと思っていたが、反応を見るにそういうわけでもないらしい。つくづく良く解らない関係性だ。
「興味ないと思ったんだろ」
あるいは、壁の外に出るから、危ないと思ったか。オーウェンはなんだか拗ねたように口を尖らせ、何やらぶつぶつとイカルガへの恨み言を唱えている。さては拗ねたか。仲がいいのか悪いのか。
「まあ、本人に訊いてみたらどうだ?一本任せてもらうのも良いかも知れない。読みの練習にもなるしな」
何故俺がこの2人の仲をとり持たないといけないのか不明だが、一応そう提案すると、オーウェンは小さい声で「そうする」と返事した。空になったコーヒーカップを流しに持っていくため立ち上がり、彼の腰掛けるソファの隣を通ろうとする。コイツは確かに馬鹿だが、変なところが素直で憎めないんだよな、と思いながら、彼のカップも運んでやろうと手を伸ばしたその矢先、オーウェンがニヤニヤ笑いを俺に向けながら言った。
「っつーかお前も、知ってたくせに呼ばれてねぇんだ。顔怖くて子ども泣くもんな」
秒数を数える間もなく、伸ばした手でそのまま頭を叩く。静かな部屋に、短く悲鳴が響いた。