また明日で終わる今日早く終わらせたかった。
だから手を挙げた。
新学期は決めることがたくさんあり、その度にクラスは水を打ったように静かになる。
今日は委員決めだった。
図書委員、放送委員、風紀委員…単にやってみたいか、引き受けることで自分に利がある人間が次々に手を挙げ、存外スムーズに決まっていったが、緑化委員は最後まで人が決まらなかった。
我が校の敷地には緑が多く、校門を入ってすぐの場所に大きな花壇があり、校庭にはプランターが等間隔で置かれ、さらには温室もあるらしい。
もちろんこれらを管理する人間はいるが、これらの維持に関わらせられることは想像に難くない。
つまりは面倒な委員会という印象が強いのだ。
石像のようになったクラスメイトを尻目に手を挙げると、自分に刺さる、石像たちからの視線。
ややあって担任が気づく。
「…ああ、やってくれるのね。ええと…」
「獅子神です」
礼を言われながら、黒板にカタカナで名字を書かれる。
獅子神が挙手したことによって、石像たちは人間の姿に戻り、小康状態だった委員決めはあっという間に終わった。
それから数日後、委員会のメンバーの顔合わせがあり、活動の説明がされ、獅子神は温室の担当になった。
彼女をはじめとした温室担当は、上級生に連れられて、初めて温室の中に入った。
校庭のさらに奥、学校のエアポケットのような場所にひっそりとある温室は、ほとんど誰も来ないようだ。
引き戸を開けると、まだ寒い外気温とは違って暖かい。
その環境で育つことができる花々が咲いているなかに、テーブルと椅子がいくつか並んでいた。
ここにいる者のほとんどが初めてここに訪れたため、手入れの行き届いた温室に感嘆の声を上げた。
獅子神もこれほど見事な温室は珍しく思い、キョロキョロと辺りを見回していると、後から入ってきた委員会の上級生に意識を戻される。
委員会としての仕事は、掃除用具を使って地面の掃き掃除をしたり、ガラスの汚れを落としたりといった内容だった。
花や木の世話は管理会社が行なっているので必要ないそうだ。
任されたら任されたで面倒だが、緑化委員という名前なのに緑に触れないのか…と、獅子神は拍子抜けした。
肩透かしを食らったのは他の人間も同じようで、それを身をもって感じたのは、掃除の日が回ってきた時だった。
昼休みに獅子神が温室に行くと、自分以外誰もいなかった。
しばらく待ってみたものの、誰も来る気配がしない。
「まぁ、面倒だよな」
来るアテのない者を待つのを諦め、獅子神は温室の隅にある掃除用具入れを開けると、ほうきとちりとりを持って温室内を歩き始める。
地面は前回来た通りだ。掃除する必要がなさそうだと思いながら、時折落ちている落ち葉をサッサとちりとりで集めながら奥まった場所へ進んでいくと、
ベンチが置いてある場所に人の足が見えた。
慌てて近寄ると、ベンチにはこの学校の生徒が仰向けに横たわっている。
黒髪を肩で切り揃えた、丸眼鏡の女子生徒。
スカーフの色は臙脂。学年によってスカーフの色が異なるので、獅子神より上級生だ。
規則正しい寝息と、腹の上で組んだ両手が僅かに上下しているところを見ると、急病人ではなく、単に寝ているようだ。
「……驚かせやがって」
「遂に人が来るようになってしまったか」
起こさないようにそっとその場を離れようとすると、寝ていたはずの彼女の目がぱちりと開いて、獅子神の肩が跳ねる。
「こんなところで寝ないでくださいよ」
「私は毎日欠かさずここへ来て仮眠をとっている。あなたの方がイレギュラーだ」
「…てことは、先輩がいる間誰も来なかったってことですか」
ベンチから起き上がった先輩は、ああ。と返事をしたが、あくびが混じって、あふ。としか聞こえなかった。
知らない方が良かった事実に、獅子神はなけなしのやる気がなくなっていくのを感じた。
「真面目に委員会活動をしているのはあなただけだ。殊勝な事だな」
「もうやる気ないッスけど」
獅子神は掃除用具入れに戻ってほうきとちりとりをしまうと、別のベンチに座り、置いておいたカバンから小さな包みを出した。膝の上に置いて結び目を解くと、少し小ぶりな弁当箱が姿を現す。
「親が持たせてくれるのか」
いつの間に獅子神に近寄っていた先輩が弁当箱を覗き込んできた。
眼鏡から伸びるグラスチェーンが肩をくすぐり、獅子神は少し身じろぐ。なんだこいつ近ェな。
「自分でつくってますよ。さすがに時間なくてほとんど作り置きですけど」
二段重ねの弁当箱の上蓋を開けると、肉団子、いんげんの胡麻和え、卵とにんじんの炒め物が彩りよく盛り付けられているのが見える。下の段には白米が詰められていた。
「見事なものだな」
「先輩は?もう食べたんですか?」
隣に座った先輩にゼリー飲料の空容器を目の前で振られて、獅子神は目を丸くした。
「そんだけ?午後大丈夫なんスか?」
「質問が多いな。充分だ」
先輩がそう言った瞬間に低い音が響いた。
紛れもなく、今充分だと言った先輩の腹が鳴る音だ。ふたりは思わず顔を見合わせる。
「…足りてないじゃないスか」
「……あなたの弁当を見たせいだ」
先輩は不貞腐れた表情で目を逸らされ、獅子神は思わず笑ってしまった。
「他人の食べ物無理とかでなければ、どれか食べます?」
「肉をくれ」
獅子神は箸で肉団子をつかむと、先輩の口元に近づける。
かぱりと開いた口は目の前の肉団子をひと口で食べた。
肉団子をもぐもぐと咀嚼している間、複雑な顔をしているのに気付き、獅子神は「口に合わなかった…?」と不安そうに尋ねる。
「いや、美味い。豚肉を予想していたが違った」
「それ鶏団子で、鶏ひき肉安いからよく作るんスけど、下味しっかりつければタレなしでもおいしくて、弁当にも入れやすいし…」
そこまで一気に喋った獅子神はしまったと口を閉ざす。
「すみ、ません。一人で盛り上がっちゃった」
「あなたの言う通り、タレなしでも美味しかった」
獅子神はその反応に安心したのか、花がほころぶように微笑んだ。
その後、獅子神は促されるまま弁当に入ったおかずについて話しはじめた。
話を聞いてくれている彼女が手に持っているぺらぺらになったゼリー飲料がずっと視界の片隅に入っていた。
ひと通り話し終わった後、獅子神は思い切って話を切り出した。
「…あの、先輩は昼休みはいつもここにいますか」
「村雨だ。大体はここにいる」
村雨先輩と言いかけて、村雨で良いと制される。私とあなたの間に上下関係をつける必要はないとも。
獅子神はわかったようなわからないような顔をした後、そう言えば名乗ってなかったなと「オレは獅子神です」と告げた。
「あの、余計なことかもしれないんですけど、お弁当作ってきたら、食べます?」
獅子神の申し出を聞いた村雨は、今までさほど変化がなかった表情を初めて驚きに染めた。
村雨の反応を見て、会ったばかりの人間が言うことではなかったと、獅子神の胸に後悔の念が生まれる。
「願ってもないことだが、手間ではないのか」
「ひとつもふたつも変わらねー…です。詰めるだけだし。大丈夫」
「代金を支払おう」
「えっ、オレ、勝手に押し付けるだけなんで」
「……あなた、家計が苦しいのではないか」
今度は獅子神が驚く番だった。
「まあ…バイトでなんとかやってますけど…」
「弁当を有償にすることで、あなたが掛け持ちで始めたガールズバーのバイトを辞めることができる」
「な……んでそれを」
「私の通っている塾の近くに店があるからだ」
特に触れていない懐事情に加えて隠れてやっていたバイトにも言及され、獅子神は思わずバツの悪い顔をしてしまう。
「お、オレのバイトはいいんだよ、テメーにそこまでやってもらう訳にはいかねーよ」
「あなたはあなたの想像以上に人の印象に残りやすい。あの辺はここの学生もうろつく。誰かに見つかる前に辞めたほうが良い。だからこそ」
村雨は獅子神に顔を寄せてくる。
「私と契約したほうがより良くなるぞ、獅子神」
この場にはふたりしかいないのに、村雨が声をひそめて提案すると、獅子神はぐぐ、と低く呻いた。
その小さな声は、獅子神の牙城を崩すことに成功する。
「よろしくお願いします」
「決まりだな」
2人の話がまとまるのを見計らったかのように予鈴が鳴った。温室は校舎から少し離れているので、すぐに戻らないといけない。
「もう時間だ。ではまた明日ここで」
「あ、待って…村雨」
自分を呼ぶ敬語の取れた声に内心ほくそ笑みながら、村雨は振り返る。
「お弁当箱って持ってる…?」
放課後、彼女達は再び会うことになった。