ここに天才はいない「む、村雨が、病院のサイトに載る……!?」
獅子神敬一は驚愕した。なんでも、村雨の写真が病院のサイトに掲載されるらしい。
(病院、大丈夫なのか)
撮影日は三日後なのだという。
日付も変わろうという真夜中でも、村雨の食欲は衰えない。獅子神が起きているのを前提として、連絡も寄越さず襲来する男は、合い鍵を渡していなければただの強盗でしかない。好き勝手冷蔵庫を漁る二十八の男が、まさか表舞台に立つ日が来ようとは。
第一村雨に余所行きの笑顔など貼り付けられるのだろうか。無愛想な村雨の笑顔を思い返しても、悪魔のような笑顔しか浮かばなかった。
コンロの上に位置する換気扇は業務用の強力なもので、この時間に調理をしても他の部屋への影響を心配しなくていい。
(こんな時間にハム食ってるヤツなのに)
しかしだからと言って、村雨の要望に応えるかどうかは別問題だ。何を言われてもいないのに、こんな時間から厚切りのハムを焼いてやる自分の甘さを、獅子神は自嘲した。
「思考が漏れているぞ、マヌケ」
獅子神の方へ視線も向けぬまま村雨が呟いた。独り言としては些か大きすぎる声色だった。
「いや、だってお前じゃなくて他にいくらでもいい人間がいるだろうがよ」
「口を開けば開いたで失礼なやつだ。私以外の人間が全員オペだの学会だので埋まっていただけの話だ」
「お前意外と暇なんだな」
「一度耳と脳を診察してやろうか?」
軽口を叩いている間にも、村雨の皿は空になっていた。そう大きな口で食べている印象もないのに、どのような技を使っているのか。皿にはソースの一滴も残っていない。村雨の食に対する敬意は特製ソースを作った身として、料理人冥利に尽きる。
(仮にも総合病院のページだろ? 村雨が居たら患者なんて来ないんじゃ……)
有り得る。村雨の顔からもう、骨折の患者が来ても「それでは内臓を見てみましょう」と言いそうな破天荒さが透けて見える。
清潔感のあるデザインと、親しみの持てる写真。例えるなら医師や看護師が笑顔を向けているような……似合わない。万年隈のある瞳といかにも不健康そうな白い肌、下がり気味の口角に胡散臭い笑顔。目の前の村雨礼二とは対極に位置するような話ではないか。
(患者が来なくなって損害賠償とか求められたり……)
思考を逡巡させる間も獅子神の手は止まらない。食べ終わった食器を洗い、食後のコーヒーまで入れてやる始末だ。ミルクはなしで砂糖は二つ。甘い菓子がないときの村雨の飲み方だった。
「決めたぜ、村雨」
「何を」
「オレがオマエをどこへ出しても恥ずかしくない好感度の高い先生にしてやる!」
一日目、朝までぐっすり寝よう
「隈の濃さは労働環境が悪い印象を与えるからな。オマエ今日からうちで寝ろ。一日八時間くらい寝ろ」
「そうは言っても仕事を終えて家に帰れば帰ったでやることが多い。こう見えて私はこだわりが多い」
「全部オレがやってやるから! オマエはまず睡眠を優先しようぜ」
フラッシュを焚いても加工ソフトで修正しても不自然さが残る。深い深い隈は村雨のアイデンティティだった。しかしそのせいでどこか陰鬱さが憑き纏ってくるのも否めない。
職業柄不規則な生活になるのは仕方ないのだろうが、どうせ村雨のことだ。睡眠を削って悪い趣味に精を出しているに違いない。無機質なリビングの真ん中に置かれた手術台を思い出し、獅子神は身震いをした。
「あとは血行も悪いかもしれねえから湯船に入れ」
「汚れを落とすならシャワーで充分だと思うが?」
「血行良くして温まってすぐ寝んだよ」
「湯船に入っている時間が勿体ないと思わないか?」
「じゃあ入ってる間に俺が髪洗ってやるから!」
「髪を洗われている間は暇ではないか」
「じゃあなんか時間潰すことでもやってやるから」
「……風呂は多少狭くなるだろうが問題ない」
理屈ばかりを並べていても、もうじき腹一杯になった村雨の瞼が重くなるのを獅子神はよく知っていた。今は行儀よく席に着いていても、そのまま帰るのが面倒になって、ソファーで眠る村雨を何度寝室へ運んでやったかは数え切れない。
「それに私は夜眠るときに抱き枕がないとよく眠れない。そんなに柔らかくはなくていいが私より大きくてなおかつ少し温もりのあるものがいい。あなたに用意ができるか」
「用意できる!」
「寝る直前までBGMがないと眠れないが?」
「用意できる!」
はて、本当にそうだろうか。二つ返事の思考は続く問答の煩わしさに流されていたのかもしれない。勢いよく答えたあとで、獅子神は後悔した。この時間にこだわりの抱き枕など買いに行けない。
(村雨より大きくて、温かい抱き枕……)
何の気なしに自分を指さすと、村雨が頷いた。中に骨が通っていても問題ないらしい。
その夜獅子神は、抱き枕になって子守歌を歌って村雨を寝かしつけた。
二日目、血行を良くしよう
村雨が獅子神の家へやって来たのは昨日よりも早い時間だった。
合い鍵を使い上がり込んでくることに、獅子神邸の誰もが違和感を覚えなくなっている。村雨が雑用係の人間に「ご苦労様」などと社交性を発揮しているのを誰が想像しただろう。
そのくせ、獅子神には横柄な態度を取る。食後に皿を下げられるようになったのは随分な進歩で、獅子神の教育の賜物とも言えよう。
食欲が満たされれば他のことはどうでもよくなるらしい。ソファーを陣取った村雨はビタリとも動かなくなり、早々に眠りの世界へ旅だってしまった。
「おい、村雨、もう風呂すぐに湧くから」
力の抜けた人間は重い。ソファーから引きずり降ろす肌の白さに、獅子神の胸がざわついた。半開きの口元へ寄せた耳には確かに、村雨の吐息が届いている。安堵を覚えたのも束の間、急に閉じた口元へ獅子神は慌てて身を引いた。ガチと歯のぶつかる音が聞こえる程の勢いだ。一歩遅ければ獅子神は目の前の医者に治療を受ける羽目になっていただろう。
「……シャワーでいい」
「ほら、髪の毛流してやるから」
「あなたも一緒に入るのか」
「? うん、まあ」
脇の下へ手を入れ、村雨の体を引きずり降ろす。客人以上になった男には、如何せん獅子神の扱いも雑になる。村雨の足が床へ鈍い音を立てて落ちた。
眠さの残る村雨の声はいつもよりも低く、促す獅子神への返答も、不機嫌なのかそうでないのか不明瞭だった。
自分が全部やってやると言った手前、獅子神も引っ込みはつかない。
「何をしている、さっさとしろ」
勝手知ったる獅子神の家。バスルームへ向かう村雨は、後ろをついてくる獅子神を怪訝な顔で見つめていた。
「はいはい、ほら、さっさと服脱いで入れ」
「だからさっさとしろと言っている」
村雨の台詞を言いたいのは獅子神の方だった。こちらは袖を捲って待っているというのに、脱衣場に仁王立ちの医者が許さない。
「オマエが入らないと頭洗えねえだろうが」
「あなたが脱がないと風呂は始まらないだろうが」
──もしかして、一緒に入れってことか?
何の気なしに自分を指さすと、村雨が頷いた。風呂が多少狭くなっても問題ないらしい。
その夜獅子神は、村雨の頭を洗いながら、最近の株価動向について解説しつつ入浴した。二人で入るにはやはりバスタブが狭い。
リフォームが必要かもしれない。
三日目、指先を整えよう
パチ、パチ、パチ、と軽快なリズムが鳴る。短く爪を揃えた後は、ヤスリで滑らかに削る徹底ぶりだ。
目線の高さに指を揃える村雨を見て、獅子神は言った。
「それは自分で整えるんだ?」
「私は細部まで気を抜かない」
獅子神が用意する夕食の量は、大家族のそれに相当する。雑用係の賄い件、いつ来るか分からない来訪者の分、それから、いざという時の作り置き。一日三食賄いつきの職場という贅沢な字面が、獅子神の家だった。
夕食の用意の時間に村雨が居るのは新鮮だ。リビングに陣取っているが、獅子神の様子を窺っているのは気配で分かる。
皿を並べろだの、カトラリーを用意しろだのを言えば文句を垂れながらもすぐに動く。これはこれで可愛らしいところで、穏やかに流れる時間は好ましくもある。
「髪とかは俺に洗わせるのに」
「これが一番重要なのだ」
確かに、写真に残るのだから見る人間は指先を見る可能性もある。しかし元々村雨の指は、贔屓目で見ても細長く美しいものであったし、とりわけて今日行うべき行為でないよう獅子神には思えてしまう。
「爪とか気遣ってんだな」
「ストレスを溜めないことも表情に影響するとは思わないか?」
「いや、うん、それはそうだろうけど」
村雨と獅子神には時折会話の噛み合わないことがある。村雨の物言いに含まれた裏を読もうとして、結局読めずに獅子神が諦めることも少なくない。
だが、獅子神の本能が訴えていた。この話はきっと流しておくべき話ではないと。
「明日撮影だろ? ストレス溜まってんのか?」
「抱き枕があって、髪を洗われて、それでもなにもせずにいられるほど私は枯れていない」
「んん?」
「爪を整えるのは、あなたを傷つけないためだ、マヌケ」
ゴト! 獅子神の手から、今まさに用意しようとしていたサラダボウルが落ちる。幸いにも頑丈な素材で割れはしなかったが、拾うのを忘れてしまうほど獅子神は呆けていた。
「落ちたままだぞ」
呆れた様子で拾いに来たのは村雨の方だった。白い村雨の腕が並べば、獅子神の肌の火照りは丸わかりだった。
──このあとめちゃくちゃセックスして八時間寝た。
「はあ!? オマエ、写真てこれ、手だけじゃねえか!」
およそ一ヶ月ほどして掲載された写真を見て、獅子神は声を荒げた。村雨の写真写りが気になって、毎日のように病院のサイトを巡回していたのは秘密にしている。
患者と思しき老人の車椅子に沿わせた、白く細く長く、爪が滑らかに整えられた指。獅子神に覚えのありすぎるものだった。
医師の顔はフレームに収まっておらず、獅子神でなければ気が付かないに違いない。
「だから言っただろうが、これが一番重要なのだ、と」
言った。確かに言ったが腑に落ちない。
「なかなか悪くなかったぞ、あなたが甲斐甲斐しく私の世話を焼くのは」
恨めしげな視線を寄越す獅子神へ、村雨がニヤリと悪魔のような顔で笑んだ。
血色良く隈も消えたその顔がまた、獅子神には腹立たしくて仕方なかった。