アメニティ なに飲む?と聞かれて、お構いなくと返す。遠慮するな。と言われて、じゃあ、水でいいです。と言うと酷く驚いた顔をしていた。
「水でいいのか?本当に?炭酸水もジュースとかもあるし、いろいろあるぞ」
「や、別にこだわりとかねーんで」
落ち着かない。普段座らない質のいいソファーはふわふわしているし、窓がでかすぎてどこかから丸見え何じゃないかと不安になるが、この階はと同じ建物は隣にはない。広がるのは昼の都会の町並みと、遠くの山々。
「じゃあ、コーヒーか紅茶か選べ」
「今から入れるんでしょ。時間もったいねーでしょ」
「気にするな。こういうところはそう言う時間を楽しむ場所だ。ちょっとこっち来い、伴」
坂ノ上さんはそう言って、ソファーに座った俺の腕をひいてミニバーに引っ張ってこさせる。
一晩過ごすだけなのに無駄に広くて、かといって変に私物を置けば浮く、奇妙な空間。さっき気付かれないように調べたらこの部屋、一泊五万円かららしい。いつものラブホなら諭吉出したらお釣りがくる。
十四時のチェックイン。夕食はホテルの和食レストランでしよう。ドレスコードは気にするな。と坂ノ上さんは言っていたが、俺はできるだけこましな服を選んできた。それで正解だった。
ミニバーの冷蔵庫には瓶に入ったオレンジジュース、緑の瓶の輸入物っぽい炭酸水、酒もいくつか揃っていた。
「金、かかるでしょ」
「そういうのはちゃんと部屋代に入ってる」
「へぇ」
俺の目にはテレビで見たことのあるコーヒーマシンが映る。たぶん、これもお値段がはるやつで。
「伴?」
坂ノ上さんは首を傾げる。
「じゃあ、コーヒー飲みたいです」
マシンを指さして言うと、坂ノ上さんはよし!とマシンにセットするコーヒーカプセルを握る。
「分かった……で、これどうやるんだ?」
「あんた張り切った割にそういうとこありますよね」
たぶん、ここまで丁寧な場所には説明書がつきものだ。物色すると、ミニバーの壁に立てかけてあるファイルを見つけて開く。坂ノ上さんに指示を出して、二人分のコーヒーを入れると、部屋の中が香ばしい、胸が落ち着く匂いで広がった。
「晩飯、何時でしたっけ」
こぼしたら弁償、高くつくだろうソファーでコーヒーを飲む。熱いけど、美味い。
「二十時だな。館内の探検でもするか?意外になんでもあるぞ」
俺の隣で坂ノ上さんもコーヒーを飲む。仕事上がりのワイシャツ姿。ネクタイを外して、セットした前髪が少し解れているのに、どこかこの部屋に似合う。
「なんかショップみたいなのありましたね」
「ジムもあるぞ。リラクゼーションのサービスもある。バーもあるがそれは夕食後に行こう。あ、あと」
「?」
「プールがある」
「プール?」
思いがけない設備に俺は瞬きして聞き返してしまった。坂ノ上さんはふっとほほえんで「気になるのか」と言ってきた。
「気にはなりますが、水着なんて持ってねーです」
なかなか冷めないコーヒーで火傷しないようにちびちびと口を付ける。
「そう言うときのためにな。これがある」
坂ノ上さんはコーヒーの入ったカップを持ったまま、デスクにある電話をとる。受話器を取るだけであちらと繋がるようだ。
「すみません。調べてほしいことがあるんですが
。ここのショップに水着の取り扱いはありますか?館内プールを使いたくて……」
坂ノ上さんは耳に受話器を重ねながら、コーヒーを飲む。
その薬指に残った跡を俺は見逃さない。
数日前、俺になんにも言わずに外してしまったそれを、俺は見逃さない。そこにあったものの価値はこの部屋何泊分だったのだろう。いや、そう例えるのは少し、下品か。
コーヒーをちびちび飲むような俺。なれないソファーでおどついてしまった俺。
そんな俺との一晩を選んだこの人をやっぱりおかしいとは思う。
「伴、水着、あるらしいぞ。買いに行こう」
電話を切った坂ノ上さんは俺を見て笑う。どうだ?と言うように。
「ふつうの買ってくださいよ。変なやつは履きませんから」
カップを置いて、坂ノ上さんについて部屋を出る。
一泳ぎして、それから、どうなるか、なんとなく予想はできている。
それでも、今は舌に残る苦味に、砂糖を入れればよかったという程度の後悔しかしていない。