お嬢とじいじ⑥赤子の泣き声が聞こえた。もう二時間は泣き続けている。夜も一時を回っていた。彼がここで一番広い部屋に軟禁されている間に察したところによると、真島はどんなに早くとも五時より前に帰ることはない。彼は音を立てぬように帰ってくるとシャワーに直行し手早く身を清めるとすぐさま寝室に引き込んで赤子を妻から取り上げる。夜通し頑張った彼女を少しでも寝かせるため、居間か外へと赤ん坊を連れ出しているようだった。数時間寝た母親がずるずると寝床から這い出て来て赤ん坊を受け取ると、真島はそのまま居間でつっぷして寝ていることもあるようだ。佐川が朝のコーヒーを飲みに出ると彼がソファの足元で洗濯物に囲まれながら死体のように転がっているのを時折見かけた。
ある晩のことだ。赤ん坊の声は僅かな時間なり途絶えていた。母親はきっとこの隙に泥のように眠っていることだろう。この家に来てまだ一か月にも満たないが、彼女とはほとんどまともな会話をしていなかった。夜泣きのことを再三謝られ、気にするなと応える以外には。実際、子供が如何に泣こうがそれで眠れなかろうがさほど気にはならない。佐川には何もすることがなく、規則正しく眠る必要性すらなかったからだ。そういう意味でここは、刑務所よりもよっぽど劣悪な環境と言えた。
佐川は低い唸り声を上げながら台所へと這い出していた。どうにもこのような底冷えのする日には、背の古傷が軋むのだ。ムショの中ではシーツを噛んで耐えるしかなかったが、ありがたいことにここはシャバだ。いつしか彼は真島が台所の棚にウィスキーを隠し持っていることを知っていたから、こんな夜は酒で紛らわすことが出来る。探り当てた湯飲みにきゅっと琥珀色の液体を少量注ぎ込むと喉奥に流し込んだ。焼け付く熱さがまっすぐに胃に落ちていく。久々の感覚に視界がぐらついた。
湯飲みを置いて、ちゃぶ台に突っ伏す。キシキシと背を這うような痛みが続いた。
「…う…ッ」
ほぎゃ、ほぎゃ。
やがてこの痛みに呼応するように向こうで赤子が泣き出した。
「あ…っ…」
はっとすると、居間に仄かに灯していた明かりが赤子を抱いた母親の胸元を僅かに照らしていた。赤ん坊は泣き続けている。
「…すまねぇな、すぐ…」
気まずくなって立ち上がろうとするが、動いた拍子に背が軋んで息が出来なくなる。佐川はぎりりと奥歯を噛みしめ足を踏ん張った。
「どうしました、無理しないで…」
佐川は応えなかった。赤子には何が起こっているかわかってはいないだろうが、泣きながらも脂汗を浮かべて立ち上がれずにいるよく知らぬ男に目をやった。
「何でもねぇ、放っておいてくれ」
「そんなわけにはいきません」
しかし思いのほかきっぱりとマキムラマコトは言ってのけた。驚いて見上げると、彼女の意志の強そうな顔とかちあう。
「夫の守りたい人を私も守りたいんです。私に出来ることは少なくても、やれることはあります」
マコトは赤ん坊を片手に抱いたまま、佐川の痛む背をそっと撫でた。
ぞっとした。
「やめてくれ、奥さん」
佐川は些か声を荒げた。
「あんた…頭おかしいよ」
マコトは片腕で子供を抱き直す。
「あんたも子供も、真島ちゃんの意地の犠牲になってるだけだ、わかんねぇのか」
佐川はがくりと腰を下ろして、マコトの優しい手を振り払った。
「極道の世界を甘く見ちゃいけねぇ、あいつはあんたらを守るために骨の髄までしゃぶられるぞ。だがあいつはへこたれねぇ。大事なモンのためなら何だって出来るやつなんだ、きっとやり遂げる。…だがあんたはどうだ、子供はどうだ。無理だろ…。こんな生活、長くは続かねぇぞ」
彼女は黙って聞いてる。
「それに赤ん坊は今が特に大変な時期だってのに、俺みてぇな奴を招き入れるなんて正気の沙汰じゃねぇ。──あんたはもう、真島ちゃんに厭だって言えなくなってんだ。ヤクザやめさせた負い目で。自分を殺そうとした男と一緒に住まわされても文句の一つも言えなくなっちまってんだ、違うか、おい」
マキムラマコトはゆらゆらと赤ん坊を揺らした。子供は未だぐずっている。
「あなたに」
ゆっくりと彼女は言った。
「あなたに何がわかるの」
仄かな灯りに照らされながら、二人は睨み合う。
「私は自分を殺そうとした人を愛して結婚したんです。あなたなんて怖くない。何を言われたって負けないし、あの人やこの子と同じように、あなたのことだって愛せる」
「馬鹿なこと言いやがって。あんたは自分の旦那飼い殺した上で人殺しまでさせようとした男を赦せるってのか!」
マコトはぎゅっと唇を噛んだ。
「それは──赦せません」
赤子はおくるみの中から母親の目線を求めて声を上げる。
「赦せない。私を守るために李さんは爆発で大怪我をしたし、兄は酷い拷問を受けて身体を壊して未だに遠くの病院にいます。赦せるわけない。お金と権力のためだけに、沢山の人の命や生活を滅茶苦茶にしたヤクザのことなんか」
「それなら…!」
「それなら、何ですか」
母親はしっかりとした口調で告げた。
「私はあなたを赦しません。でもあの人の大事な人のことを同じように大事に思います。一緒に暮らして、同じものを食べて。もうあの人の人生の一部になっているあなたに、私の人生の一部にもなって欲しいんです。勿論この子の人生の一部にも」
二人は同時に赤子へ目を落とした。注目をこちらにひきつけたことに自信を得たのか、子供は目いっぱいに泣いて己の存在を誇示している。
「あとあなたをここへ住まわせることは私から言い出したんです。あの人は強いから私とこの子とあなたの三人くらいは余裕で守れちゃいます。それにお蔭であの人がいない間の男手が出来たから、いざという時はあなたがこの子の盾になりそうですしね」
ぱちん、と母親はウインクして見せた。呆気にとられた佐川はやがて「けっ」と吐息だけで笑う。
「あんたやっぱり頭おかしいや」
くいとグラスを傾ける。
「あの真島吾朗が惚れこむだけのことはある」
「ありがとう」
堂々とした態度で、マコトは応じた。
「お前さんもとんでもねぇお袋をもったもんだな、お嬢」
お嬢という呼び方をマコトは気に入ったようで赤子の頬を優しくつついた。
「ほら、泣き止んで。じいじにニコってしてあげて」
お蔭でじいじという呼び名のことも受け入れざるを得ない。
「いや、好きなだけ泣きゃあいいさ。こいつはあんたと真島ちゃんが苦しい頃に、泣こうにも泣けなかった分を代わりに泣いてくれてんだろ、存分に」
はっとして母親は顔を上げじいじを見つめた。
「そっか…」
とんとん、と娘の背を叩く。
「そうなんだね。…ありがとうね、沢山泣いてくれて…」
じわりと目尻に涙を滲ませながら彼女は微笑んだ。
「優しいね…ありがとうね…」
マコトは娘の頬にキスをして、佐川に真島吾朗の娘を撫でるようにと申し渡した。佐川は何度か固辞したが受け入れられず、遂にそっと、指先でちょいちょいと頭を触った。
「もう抱いたりはしねぇからな」
怖くて仕方ねぇ、と佐川は唸る。
「ヤクザの元組長さんにも怖いものがあるんだ」
マコトは目の下にクマを湛えたまま、それでもにやりと微笑んで見せた。
「そりゃあるよ。イイ女と、そいつの産んだ赤ん坊だ」
その日以来、ゆっくりと佐川は二人の生活の一部になっていった。