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    tamagobourodane

    @tamagobourodane

    書きかけのものとか途中経過とかボツとかを置いとくとこです
    完成品は大体pixivにいきます

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    tamagobourodane

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    自分の世界に帰って異世界のことをかなり忘れちゃってる晶君のところにこれまた色々忘れてるフィガロが「来ちゃった♡」する話 (1/4)
    全編にわたってフィガロがほぼヒモ
    重いけど最後まで手は離さないパターンのやつ


    ※若干心療内科のシーンがあるので、その場所にトラウマがあったりする人は注意してください
    ※模造の城読んだ人はあれの対になるやつなので話の構造はやや似てます




    1.

    『八日未明、〇〇海岸沿いにて、三日間行方不明になっていた男性が発見されました。現在は意識を回復され、ご家族にも連絡が取れたということです。海難事故に遭った経緯に関して本人は覚えていないと話しており、警察は事件性の有無を調査しています――』

     モニター越しに見える濃い青をたたえた海、それに広がる小さな白波、それから少し黄色い砂浜。それらはいずれも晶が良く見知った光景で、彼の住んでいるマンションから十分ちょっとも歩けばその目で見に行くことができる。カメラを通さず自分の目で直接見るそれは、もっと青と緑の濃く入り混じる複雑な色をして輝き、それから人を飲み込むように暗い。
     晶は歯ブラシを口の中で動かしながら、ぼんやりとその映像を見ていた。安価であることだけが取り柄の家具屋で買った、どの単身者の家にもある、白木の背もたれ付きの椅子に身体を預け、日々の仕事で疲れた足を安っぽいフローリングの上に投げ出していた。それから椅子と揃いのテーブルに朝食の食べ残しを載せて――そんな若い単身者にお決まりの光景であっても、晶にとっては自分の稼ぎで住んでいる、自分だけの城の景色だった。
    映像は海の危険性についての注意を喚起し、それから次のニュースへと移ろうかというところでぶつりと止まってしまった。もう何度か見た映像なので驚くこともない。この映像は彼が偶然インターネットで見つけたもので、数か月前のニュースを切り抜いたビデオだった。誰が投稿したのかは知らないが、インターネットの後ろ側には、奇特な人間が何万といるものだ。ちょっとした身近な奇怪譚として自分の遭った事故が扱われているのを見るのは、奇妙な気持ちだった――タイトルは『〇〇海岸の不思議、神隠しの起こる海岸』。

     晶は立ち上がって口を漱ぐと、テーブルの上の残り物を片付け、それから鏡の前でネクタイを締めた。この社会への所属を示す為に役立つ、奇妙なリボン状の何かを自分に巻き付けるという行為には、いつまでたっても慣れない。どうにも綺麗にしめられないし、それを付けた自分は鏡の中で妙に所在無げに見える。
     いや、不安そうに見えるのは恐らくこれから行かなければならない場所のせいかもしれない。気分のいい場所でもないのだから楽な格好でいた方が良かろうと考えた末に、一度巻いたネクタイを外して鞄に入れた。それからスーツの上着を羽織り、鍵を手にする。既に九時を回っている時計を見てため息をつくと、晶は部屋の明かりを消し、それから玄関へ向かった。


     心療内科へ行くことが、所謂普通の人々にとっても珍しいことでなくなってから随分な年月がたつが、それでもこの病院という名前の白い空間に詰め込まれている人々の表情はどこか後ろめたそうであるか、あるいは不安そうだった。大人がほとんどだから、午前の早い時間から仕事を休んでこんな場所に来ていることに対する罪悪感もあるのかもしれない――午前中の心療内科の待合室は、白色の背景に、グレーの人影と、息の詰まるような空気をもって晶を迎えた。入口のガラス戸をそっと閉め、診察券と保険証を受け付けのカード入れの中に差し入れると、彼は一番隅の椅子にそっと身を寄せて座った。彼自身こうした場所に偏見があるわけではなかったが、まさか自分が世話になることになるとは思っていなかったのだ。もっとすり切れるまで努力をする真面目な人だとか、壮絶な過去のあるような、そんな人々の為の物だと思っていた。
     ここへ来たのは、会社の同僚の勧めを受けてのことだった。会社の懇親会に参加した時に、晶がとあるものを酷く怖がったのが原因だった。同僚は本当に何でもないような調子で言った――「そういうの、恐怖症ってやつなんだろ。最近カウセリングとかも敷居低いし、行ってみたら」。不便だろう、苦手なものがあると。そう言った彼の顔からは、何の悪意も感じ取れなかった。根っからの善人なのだ。
    「――真木さん、初診ですよね」
     カードを引き抜いた受付の女性が、隅っこで小さくなっている晶に向かって呼び掛けた。多分カードを入れるところを見ていたのだろう。
    「そうです」と晶が返答すると、彼女はカウンター越しに問診票を差し出して言った。
    「こちらに症状をご記入下さい。担当の医師が参考にしますので」
     のろのろと立ち上がって、台紙に留められたそれを受け取ると、非常に細かい質問が並んでいた。眠れないかどうか、憂鬱な気分になるかどうか――どのくらいの頻度でそういう気分になるか。どの質問も自分にとってはいささか的外れであるように感じた。仕方がないので、みんな五段階中の三にしておいて、症状の欄に次のように書いた。
     ――海に対する恐怖症、事故を起因とする前後の記憶の混乱。

     繁盛しているクリニックなのだろうか、予約の時間通りに来たにも関わらず、名前を呼ばれるまでにはゆうに十五分ほどの時間がかかった。ようやく晶の名前を呼んだ受付の女性は、彼を伴っていくつも並んだブースの一つに向かった。寸分変わらぬいくつもの白い扉はとても無機質で、この場所で人の心が取り扱われようとしているようには、とても見えなかった。開かれた扉の奥には初老の男性がいて、よく見るタイプのオフィス用のデスクに向かって、何か書いていた。先程待合室から誰か出て行くのが見えたから、前の患者のカルテかもしれない。
    「真木さんです」
     そう言って受付の女性は問診票をデスクの上に置き、晶を招き入れると、自分は後ろ手に扉を閉めて出て行った。
     初老の医者はくたびれた白衣をスーツの上に身に着け、これまたくたびれきった仕草でペンを動かしていた。晶がその場に立ち尽くしていることに気付いてすらいないのか、あるいは医者という職業を持つ者特有の無意識の尊大さ故なのか、自分の患者の方に見向きもしなかった。
     数十秒くらいそんな居心地の悪い時間が続いた後、彼は「どうぞ座ってください」と言った。これまた、酷く抑揚のないくたびれた声だった。
     晶が近くのパイプ椅子に手を伸ばしてそれに腰かけると、医者は彼には目もくれずに問診票に手を伸ばして取った。そしてぱらぱらとそれをめくってから、そこで初めて胡乱な目を自分の患者に向けた。
    「――恐怖症ですか」
    「はあ」
     あまりにも文脈も何も無視した診察の始まりに、晶は気の抜けたような声を返した。
    「それと事故前後の記憶の混乱とありますが、何かあったんですか」
     この医者との診察はこういう感じで始まるらしい――そう諦めて、晶は彼の質問に大人しく答えた。
    「――海難事故に遭いました。数週間くらい前のことです。それで、以前はそんなことなかったと思うんですが、海が怖くなってしまって」
    「事故のトラウマですかね……で、この記憶の混乱というのは」
     そこで晶は一瞬口を噤んでしまった。それは事故に遭ってから、晶が誰にも言えずに胸の中にしまって来たことだったからだ。彼の目の前に腰かけている医者は、どう見ても患者に対して親身になって話を聞くようなタイプの人物には見えなかった。そういう種類の医者に対して打ち明けるには、晶の抱える悩みは、少々一般的には信じがたい、荒唐無稽なもののように思えた。
     医者には当たり外れがあるとは聞いていたけれど、と早速自分とは相性の悪そうな医者に、晶は心の中でため息をついた。こうして晶が迷っている間にも、彼は面白くもなさそうな顔をして、晶を見ていた。その視線はまるで人間を相手にするものというよりは、実験用のサンプルでも見ているかのような、そういうものだった。だが相手が自分をサンプルとしてしか見ていないのなら、別に何を口にしたところで構わないのではないか、そう思い直して、晶は口を開く。
    「――どうやって海に溺れてしまったのか、全く記憶がないんです。その代わりにある、海岸に打ち上げられる前の記憶は――不思議な異世界のもので。でもそれも、ひどく曖昧で――覚えていないところが多くて」
    「異世界というと」
     医者の瞳孔はぴくりとも動かない。
    「――魔法や不思議な力が存在する、ここではない世界の記憶です。怪獣映画に出て来るような怪物が普通にいて、魔法使いが存在していて、俺はそういう世界に一年かそこらいたはずでした。でも――海から助けられた時、病院で俺は三日間しか行方不明になっていないと言われて」
     医者は晶の言葉を聞きながら、しばらく黙っていた。だがやがて、言葉を慎重に選ぼうとするように、ゆっくりと口を開いた。
    「――お話を聞いた感じからすると、妄想を伴うPTSDなのかな、という感じはしますが――ただ、問診票を見る限りでは、パニック症状になったりすることはない、と」
     妄想、という言葉に晶は少し気まずいような気分になって、視線を下に反らした。自分でもかなり常識を逸脱したことを言っているのはわかっていたが、それにしても自分が実際に記憶として持っている情報について「妄想」と言い切られるのは、決して気分のいいものではない。
    「パニックというほどのパニックになることはありません。ただ時折、小さなフラッシュバックというか、既視感のようなもので少し混乱してしまうというか、そういうことはあります」
    「なるほど。――海への恐怖はどの程度ですか」
    「そうですね……映像で見たり、少し離れて浜辺から見るのは大丈夫なんですが、波打ち際となるとどうも、もう怖くて――以前、会社の同僚と海に行かなくてはならないことがあって、どうしても海に近付けなくて――そこでカウンセリングを受けようと決めました」
    「生活に差し障るとなると、それは不自由でしょうから」
     医師は至極まともな人間の口調でそう言った。晶に親身になっているわけでもないが、馬鹿にしているわけでもない、ただただ自分の仕事をしているといった調子だった。
    「――取り敢えず、今日はパニックになった時の為のお薬を出しておきましょう。よろしければ数日後にカウンセリングだけの予約も入れられます。行事への参加を避けるために診断書が必要なら、別途費用が必要になりますが、どうしますか」
     淡々と告げられた情報に対して、晶は首を横に振った。
    「――いえ、診断書は結構です」


     会計を済ませ、処方箋を受け取った後、晶はそそくさとエレベーターに乗り込み、狭苦しいビルから外に出た。外気に触れて、初めて十分な呼吸をすることができるような気がした。それほどに院内の空気は重苦しく、肺にのしかかるようなものだったのだ。
     診察は決して心から好きになれるようなものではなかったが、数回は同じ場所に通った方がいいのだろうと思い、取り敢えずカウンセリングの予約を入れた。近くの薬局で処方箋を渡して薬を受け取ったが、その見た目の物々しさには尻込みさせられた。パニックになった時の為にと言われていたから、症状がなければ飲む必要はないのだろうと思い、鞄の奥深くにしまい込んだ。
     会社へは予定より早く到着し、見知った面々に迎えられた。数日間失踪した挙句入院した結果、無断欠勤を出してしまった過去にも関わらず、晶に対する皆の態度は優しかった。不運な事故で記憶を失ってしまった可哀想な若者、という位置付けなのだろう。復帰した直後は穏やかな人の多い職場で良かった、と胸を撫で下ろした記憶がある。この日もまた、通院の為に休んだ彼に、周りの目は暖かかった。
     いつも通りの仕事をこなして社内を奔走すれば、すぐに退勤時間がやって来た。ほんの少しだけ定時より長めに仕事をして、それから会社のビルを出て、夜の街の冷えた空気を吸った。既に暗くなった空を見上げると、くっきりと丸い月が浮かんでいた――月齢を正確に把握しているわけではないが、恐らく満月なのだろう。どこか胸の奥が騒ぐような気がしてそれから目を反らすと、晶は自宅の方向へと足を急がせた。
     幸運なことに彼の自宅は会社からバスを使って十数分のところにある。実家から引っ越してきた時に仕事場に近い方が良かろうと思って借りたが為の立地だったが、近所に猫を飼っている家が多くて気に入っている。久しぶりに良く猫を触らせてくれるお婆さんの家に猫缶でも持って寄って行こうか、と考えたところで、しかし今日は夜遅いからと考えを改めた。
     その代わりに、なんとなく一駅だけ余分に乗り過ごし、少しだけ人気のない駅に降りた。駅名は「海岸前」。なんとも捻りのない名前だったが、少なくとも乗客を惑わせることはない。タラップを降りて地に足を付けた瞬間、潮の香が鼻をくすぐり、海が近いことがわかった。晶は唾を飲み込むと、やがて夜の暗闇の中ゆっくりと、舗装された道を海岸の方に向かって歩いて行った。
     そろそろ海開きを迎えようとしているビーチの周りには細々と海の家なども立っており、そこへ続く道には屋台のようなものが出ているのも見えた。とは言えこの時間なのでみな火は落としていたし、そもそも少し肌寒かったので、この時間に海辺の景色を楽しもうという物好きも少ない。
     少し土埃の上がる舗装されていない道を通って、それから石畳の階段を降りて行くと、目の前には月夜に照らされた白い砂浜と、それから黒々とした海が見えた。海は満月の光を受けて輝き、反射する月の光はまるで一条の道のように、その水面の上に広がっている。
     宵闇に横たわる海の姿を見て、晶は思わず怯んだ。自分ではコントロールしようのない、足のすくむような恐怖が、ためらいが、身体の内から浮かび上がってきた。少しでもその寄せては返す波の方に近寄ろうと努力して、ほんの二歩か三歩進んで、それで断念せざるを得なかった。以前に来たときはもう少し近寄れたような気がしたのだが、今日より恐ろしく見えるのは、夜のせいか、あるいは満月のせいかもしれない。
     ――どうして来てしまったのだろう、怖いとわかっていたのに、それもこんな時間に。
     自分の行動を自分でも理解できないままに、晶は少しばかり強い潮風の前で震えていた。海難事故に遭い、救助されてから数週間、彼は海を恐怖しながらも、時々、このようにして海岸にやって来ることがあった。来てしまう時は、いつも足が勝手にそこへ向かう――自分の意思で決定してというよりは、本能的に吸い寄せられるように、やって来てしまう。そして時々、まるで誰かが呼んでいるようだったなと感じる。
     晶が徐にワイシャツの首元を緩めると、そこから彼の首にかけられた紐状の物が顔を覗かせた。彼は首元に手をやって、服の下から紐を引っ張り出す――するとやがて、紐の先端に括り付けられた貝殻の様なものが姿を現した。
     その貝殻は、晶が波打ち際で救助された時に身に着けていた、服以外の唯一のものだった。普段アクセサリーなどしない方だったので、自分がそんなものを首から下げていたということを聞かされ、退院するときに驚いた記憶がある。誰かからの贈りものだったのか、あるいは何かいわくのある代物なのか――いずれにせよ、今はそれが混濁してしまっている記憶に繋がる唯一の手掛かりなのだ。
     晶はゆっくりとその貝殻を口に当てると、息を吹き込んだ。物悲しい、けれど美しい笛のような響きが、人気の少ない暗闇の海岸を通り抜けていく。彼は何度か息継ぎをして、自分では近付くことのできない海の方向に、音を投げかけるように繰り返し息を吹き込んだ。――あの黒い海の向こうへ、月の作る銀色の影の向こうに届くように。
     誰にそうするように言われたわけではなかったが、救助されて以降、それは晶のちょっとした習慣のようなものになっていた。時折海に呼ばれたような気がしたら、海岸へ行って、貝殻に唇を当てる。近付くことのできない海を眺める。貝殻から美しい音を引き出す方法は、何故か最初から知っていた――もしかしたら、これは記憶が曖昧になる前の自分が、大切にしていたものだったのかもしれないと思った。
    時折笛の音の向こう、誰かが呼んでいるような気配を感じることもあった。それはある種不可思議で、僅かな恐怖を呼ぶ感覚ではあったけれど、同時に不思議と心を満たされるような気がすることもあった。そういう時、晶は何度も重ねて笛を吹いた。そうすると、どういうわけか安心した――そして時々、男の人影を脳裏に見た。顔も見えない、名前も知らない朧げな人影だ。
     誰も見ていないのをいいことにひとしきり貝殻の奏でる音を楽しむと、晶はそれを大切に胸元にしまって、それから海に背を向けた。ただ波の打ち寄せる音だけが、後に残された。


    2.
     頬を撫でるそよ風、鈍くオレンジ色に落ちていく夕日、それから網の上でじゅうじゅうと焼けている肉の匂い。空には時折ウミネコが鳴き、のどかな夕方を演出する。少しまだ肌寒くはあったけれど、外で寛ぐのが好きな者にとってなら最高の環境だったろう――それが、祝日返上で参加させられる、会社の懇親会でなければ。そして特に晶にとっては、ここが浜辺でなければ。
     安物のプラスチックのコップに入ったビールを持て余しながら、晶はバーベキューセットから遥か離れた場所に腰を下ろし、忙しく立ち働く部長をぼんやりと眺めていた。鍋奉行がいればバーベキュー奉行もいるもの、若者に働かせて自分は肉だけ楽しむのかと思いきや、肉の行く末を支配したいタイプだったらしい。手当て付きとは言え、祝日に出勤を強いられ、精神的にくたびれているほとんどの若者達はそれならば、と遠巻きに座り込んで、出世欲に溢れた同僚に上司の相手を任せていた。特に晶に関しては、皆彼が海に対する恐怖症を持っていることを知っているので、そちらに近付かなくても誰も文句は言わなかった。
     ぬるくなってしまったビールで唇を湿らしていると、派手なTシャツを着た女子社員が近寄って来た。彼女は少しだけしなを作ると、マスカラで彩った睫毛を瞬かせながら首を傾げて言った。
    「――ごめん真木君、今暇かな?」
    「どうかしましたか?」
     晶が尋ねると、彼女は少しだけ声のボリュームを落とす。
    「あのね、なんかお酒が足りなくなりそうなみたいで、買って来いって言われてるんだけど、他の社員さん話が盛り上がっちゃってて頼みにくくて」
    「ああ、いいですよ」
     使い走りかと合点がいって、晶は徐に立ち上がった。大方酔って気の大きくなっている他の同僚には頼みにくいのだろう――なんとなく彼女に同情するような気持ちもあって、晶は立ち上がった。
    「どのくらい必要です?」
    「――うーん。六缶入りを取り敢えず二パックくらいかな」
     プラスチックのカップをゴミ箱に捨てようと左右に視線をうろうろさせていると、ふと女子社員の視線が彼の胸元に注がれた。
    「――真木君、アクセサリーなんかする方だったんだ」
    「え? アクセサリー? ……ああ、これですか」
     彼女の視線の先にあったのは、例の貝殻だった。アクセサリーというにはサイズが大きすぎるような気もするが、少なくとも彼女の目にはそう映ったらしい。
    「これはなんか多分、思い出の品と言うか――なんとなく持ってると安心するので」
    「ふうん、お守りみたいなもの? そういうのいいね」
     目を輝かせて笑うと、彼女はバーベキューに勤しむ集団の方へと帰って行った。晶はカップをゴミ箱に捨ててしまうと、それから砂浜を舗装された道の方へと突っ切り、酒類を扱っていそうな小売店を探して通りを歩いた。祝日ではあるものの、肌寒さのせいか、まだ海を訪れようという人々は少なかった。
     ほどなくして小さなスーパーマーケットを見つけ、そこで頼まれた通りのものを買うと、晶は両手にビニール袋をぶら下げて堤防沿いに引き返した。少し高くなった場所から見下ろす海岸沿いに人の姿はまばらだが、それは恐らく気候のせいだろう。時折波乗りを趣味にしている若者がボードを持って歩いていく姿が見えるが、その多くがもう引き上げるところだった。暗くなりはじめた海には危険が伴うことを、誰もが承知している。
     ふとその時、晶は浜辺に妙なものを見たような気がして足を止めた。白く広がり、打ち寄せる波を受け止めるだけの無人の一角、人気のない寂しい辺りに、黒い影が見えたような気がしたのだ。手すりに身を近付けて目を凝らしてみれば、それは決して見間違いではなかった。大人一人分の大きさの影が、波と砂浜の狭間に横たわっていた。
     海難事故だ――晶は息を呑んで、咄嗟に一番近くの階段を探して駆け下りた。助けを呼ぼうと辺りを見渡したが、運悪く先程すれ違ったサーファーも、既にその姿が見えなくなっていた。浜の端で、少し岩場の影のようになっているその場所は、海の家からも遠くて人の目は届きそうになく、そもそも海開きがまだなので当然監視員はいない。
    次々に打ち寄せてくる波に目をやって、晶は唇を噛んだ――酷く恐ろしかった。海の家のあたりまで助けを呼びに行くことも考えたが、夕刻が近付くにつれて高くなる波が、その間に人影を攫ってしまわないとも限らないと考えた。波音が耳に刺さるように響き、両手に持った買い物袋をやけに重く感じた――足がすくんでその場から動けない様な気がした。けれど自分が助けなければ、数メートル先のあの人影は海の餌食になってしまうかもしれないのだ。
     晶はその場にビニール袋をどすんと放り出すと、大きく息を吸って、一歩一歩波打ち際に向かっていった。人影のシルエットがはっきりし、それが恐らく男性のものであるということがわかる。濡れそぼって、深い藍色をした頭髪が見えた――片手を投げ出し、折り曲げたもう片方の手の上に突っ伏して、その男は身じろぎもしなかった。近くには何か紫がかった本のようなものと、壊れたボールペンが落ちていた。
     足の震えを抑えながら、晶はなるべく素早くその男に近付き、その濡れた背中を叩いた。男の身長はかなり高く、もし彼の意識がないのであれば、晶一人で浜辺まで引っ張り上げることは難しそうだった。だが幸いなことに、晶が何度か「大丈夫ですか」と声をかけると、砂の上に投げ出されたその手がぴくりと動いた。
    「あの、大丈夫ですか? 意識はありますか?」
     声をかけ続けると、男はゆっくりとその顔を上げた。腕の影から現れたその顔を覗きこんだ時、晶は思わず息を呑みそうになった――瞬間、言い知れぬ感覚が頭の中を襲ったのだ。それは胸の奥を掴まれるような、不思議な感覚だった。男の顔は濡れそぼって、砂粒をつけていてさえ整っているように見えたが、何よりも特徴的なのはその目だった。灰色の光彩に、淡い翠色の瞳。普通の人間であれば、まずあり得ないような配色をしていた。
    「――ここ、は」
     僅かに開いた男の口から出てきたのは、そんな言葉だった。そう口にした直後、男は酷く咽たので、晶は慌てて背中に手を回してさすってやった。しかしそうしている間にも波はどんどん高くなるような気がしたので、呼吸が落ち着くのを見計らって、男に手を差し出した。
    「取り敢えず、起きられますか?――波が、高くなってきているので」
     男はぼんやりとその不思議な色の瞳で晶と辺りとを見比べていたが、やがて差し出された手を取って、ゆっくりと足を折り曲げ、水の中からその半身を引き出して立ち上がった。立ち上がって見れば、男の身長は晶よりかなり高く、威圧感のある風体をしていると言って良かった。濡れ鼠になってはいても、ハイネックのインナーとワイシャツ、ベルトで止めたスラックス、それから溺れたにしてはきっちりと足に装着されている靴は、いずれもクラシックなデザインで、それなりの立場にある者のように彼を見せている。
     男はふと今気付いたとでも言うように、傍に落ちていた本と、ボールペンとを拾った――どうやらそれは彼の私物だったらしいが、一緒に流されたのだろうか。
     取り敢えず肩を貸して、買い物袋を放り出した辺りまで男を連れて行くと、晶はもう一度「苦しくないですか」と男を僅かに見上げて尋ねた。男の顔色は溺れた者に相応しく、まだ青白くて唇も震えていて、視線はぼんやりとしか辺りを捉えていなかった。息も少しだけ荒いようだったが、肺に水が入ってしまっているといったような風ではなかった。
    「――この辺なら座っても大丈夫ですよ。あ、あっちの階段の方が乾いてるかな」
     晶は近くの階段を見やったが、男は体力の限界を迎えていたのか、その場に座り込んだ。彼はやや朧げな視線で辺りを見渡すと、それから掠れた声で次のように聞いてきた。
    「――ここは?」
    「ここは、というと」
     唐突な問いに晶が戸惑うと、男は思い出したように「ああ」と呟いて晶を見上げた。
    「――ここはどこ?」
    「どこ、って場所ですか――」
     まるで自分がどこにいるのかわからないとでも言いたげな男の様子に、晶はつい過去の自分を重ねた。事故に遭った直後は意識も朦朧としていて、どうして自分がそこにいるのかさえわからなかったものだ。自然と男に対する同情心のようなものが湧いて、晶は身を屈めて彼と目線を同じくすると、少し柔らかい声で答えた。
    「ここは日本です――あなたは、その――外国の人ですか?」
     男の見た目はあまりにも日本人の平均から外れていたので、晶はそう尋ねた。だが男は「外国」と鸚鵡返しに繰り返しただけで、否定も肯定もしなかった。
    「――にほん、というのは場所の名前?」
    「そうですね、国の名前です」
     男はそこで初めてまとまった長さの文章を口にしたけれども、男の外見から想像されるような訛りは一切感じられなかった。
    「ここには、桜という花や――耳の折れる犬はいる?」
     男の奇妙な質問に、晶は思わず眉を寄せたが、事故直後の人間の思考など混乱していて当然だと思い直し、普通の質問に答えるのと同じやり方で答えた。
    「桜はありますよ、もう今は夏が近付いているから、季節が終わってしまっていますけど。耳の折れる犬は――どうだろう、犬の品種には詳しくなくて……」
    「桜があるなら、ここがそうなのか」
     その男の言葉は、誰に向けられたのでもないような曖昧な響きを持っていた。彼はしばらく何かを思案するように辺りに目を向け、呼吸を整えようとしているのか、肩で息をしていた。だがやがて砂浜に手をついて少し苦しそうにのろのろと立ち上がると、濡れた衣服にこびりついた砂を払い落とすように、空いた方の手でスラックスを強く叩いた。
    「――あ、あの、どこへ行くんですか」
     一歩足を踏み出そうとした男に、晶は慌てて声をかける。男は怪我などは負っていないように見えたが、まだ息も少し荒く、放っておいていい状態には見えなかった。ここに辿り着くまでにも足を引きずっていたというのに。
    「うーん、もっと情報の集まるところ?」
     男はそう言ってどこか感情のない視線を晶に向けてきたが、次の瞬間息を呑む小さな音が聞こえ、男の瞳孔が大きく開いたように見えた。突如色を変えたその瞳に晶は驚いて身じろぎしたが、見られる方の居心地の悪さなど構いもしないのか、男の視線はある一点に注がれていた――恐らく晶の胸元だった。
    「あ、あの――どうかしましたか」
     気まずさから後ずさりしたが、男は視線を外すことはなかった。ひとしきり無遠慮な視線を寄越した後、彼はそれをゆっくりと晶の顔に向けた。
    「――きみはこの街の人なの?」
     晶の瞳に注がれる視線は、先程よりほんの少しだけ温度と色を持っているように見えた。それまでは風景を見ているかのようにぼんやりと揺蕩っていたそれが、今は晶という人間の所在を確認するように、明確な意思をもって注がれている。
    「ええと、はい。この近所に住んではいますけど」
     しどろもどろに答えた晶に対し、男は少し思案するように視線を反らしていたが、やがて晶に向き直って口を開いた。少々困ったような表情が顔に浮かび、それは彼を少しだけ人間らしく見せた。
    「――あのさ、申し訳ないんだけど――助けてくれないかな?」
     声も幾ばくか、感情を持ったものになっていただろうか。突然男が僅かに、しかし確実に態度を変えたことはどこか晶を不安にさせた。無論、男が困っているのは確かだったし、手を差し伸べたからには助けるつもりではあったのだけれど。
    「勿論ですけど……あの、救急車とか呼ばなくて大丈夫ですか? 溺れてたみたいだったので」
     晶の問いに男はきょとんとした顔をした。
    「きゅうきゅうしゃ、って何?」
     小学生でも知っていそうなこの世の一般常識が男の頭の中にないのを見て、晶は思わず仰天する。溺れたショックで記憶喪失にでもなっているのだろうか。
    「ええと、怪我をしたり、溺れたり――そういう事故で健康が危ないなっていう時に来てくれる車です。百十九番に電話をすると……」
    「……でんわ?」
     これは本当に記憶喪失かもしれない。晶は頭痛がするような気がしながらよろよろと立ち上がった。
    「――取り敢えず、気分は悪かったりしませんか? 息が苦しいとか、体調が悪いとか」
     晶が問うと、男はうーんと唸って首を傾げ、自らの胸を見下ろして、とんとんとそこを叩く。
    「――溺れてたことに関しては大丈夫だと思うよ、水も飲んでないし」
    「それなら良かったです。――どうして溺れたのかは覚えていらっしゃいますか?」
     そこで男はやや口籠って、やがて眉を下げて自嘲するかのような表情を作った。
    「――ちょっとぼんやりしてるけど、確か知り合いを探していたんだよ。海のあたりで……それで、気付いたらここに」
    「お知り合いを……ええと、じゃあこの近所のどこかで海に落ちたんですかね……? ご家族の連絡先とかはお持ちですか?」
    「家族? そんなものいないよ」
    「じゃ、じゃあ――おうちがどこかは、わかってますか……?」
    「――うーん、どうだろう。わからない、かな」
    「職場は――?」
    「仕事場のこと? ――ここからはとても遠いところだと思うよ」
     明らかに訳ありそうな雰囲気に、晶はそれ以上何と言葉を次いで良いのかわからずに、ただ相手の顔を見上げた。取り敢えず健康に問題がないのであれば病院に連れて行く必要はないのかもしれないが、先程交わした会話から日本で生きていくのに必要な知識が抜け落ちていそうなことは既に伺えるし、頼れる相手もいそうにはない。一体こういう遭難者の場合、どこへ連れて行けばいいのか。警察なのか――いや、こんな成人男性、警察ですら面倒を見てくれるのか。考えただけで頭が痛くなった。
    「ええと、取り敢えず警察に行きましょうか――いや、びしょびしょだから、取り敢えずどうしよう……まだ海のシャワールームは閉まってるし……うちに行ってお風呂、使いますか?」
     取り留めもない考えを口に出しながらの煩悶の末に晶が導き出した提案は、恐らく通常人が見知らぬ人物に対して絶対にしないものだった。無論晶も全く知らない他人を家に上げたりしてはいけないという常識は持っているのだが、それにしても遭難してすっかり弱っているこの男のことを――それも恐らく記憶喪失か何かを発症しているであろう男のことを、放っておけないと思ったのである。
     常識からは時々外れなければいけないこともある――人には優しくしてやれと物の本にも書いてある。晶がごくりと唾を飲んで男の顔を見ると、彼はどうやらその提案を気に入ったようだった。少しだけ頬に血の気を取り戻して「なんだか申し訳ないけど、いいの?」と僅かに口角を上げて首を傾げる。そうする間にも、相変わらず水滴が髪の毛から滴っていた。
    「そのまま警察に行くわけにもいかないですし、取り敢えず俺の家に行きましょう、すぐ近くなんで――ああ、でも俺、懇親会」
     そこで晶は自分が会社の行事でこの場所に来ていたことを思い出し、彼らがいるであろう浜辺の方を見やった。行事からの途中退場は通常であれば褒められたことではないが、遭難者を見つけたとあればまた話は別だろう。
    「あの、ちょっと連れにひとこと言ってこなければならないので、一緒に来てもらっても大丈夫ですか? 歩けるかな……」
    「大丈夫だよ。――友達と遊びに来てたの?」
    「いえ、仕事で。――肩を貸しましょうか?」
    「いや、もうだいぶ落ち着いたから大丈夫――でもゆっくり歩いてもらっていい?」
     男は少しだけ足を引きずるような歩き方をしていたので、晶は肩の代わりに腕を貸してやって、会社の連中がバーベキューを楽しんでいる辺りまでゆっくりと戻った。
    「――きみの知り合いというのはあれ?」
     浜の向こうにぼんやりと見える小さな人影を見て、男は尋ねて来た。
    「そうですね。バーベキューをしているんです」
    「ばーべきゅー?」
    「――網の上で、炭火で肉とか野菜を焼くんですよ。この季節になると、外でやるんです」
    「それが仕事なんだ?」
    「違います、仕事は別にあるんですけど、あれは仕事を一緒にする上での結束感を高めるというか」
    「ふうん」
     同僚の顔が見えてくる頃になると、向こうも晶達に気付き、肉にかまけていた上司が「おーい、どうした」と声をかけて来た。晶の腕に掴まっている男を見れば、すぐに海で溺れたものとわかったのだろう、若い社員の数人かはざわついて、駆け寄ってきた。
    「おい、遅いから心配したぞ――その人は?」
    「溺れているところを見つけました――あ、これビールです、少し砂が袋についてますが」
    「溺れてたって、大丈夫なのか」
     男の持つ雰囲気のせいなのか、若い同僚たちは駆け寄って来たはいいものの、少し遠巻きにこちらを見るばかりだった。上司だけは辛うじて晶の手からビールの袋を受け取りに来たが、男に話しかけることはなく、ただ晶と話しながら男の方を時折ちらちらと伺うくらいだ。外国人に見えるから、なんとなく話しかけづらいのかもしれないが、それだけでもないような気がした。晶が横を見上げると、男は柔らかな笑みを浮かべて、淡々とその場の面々を見下ろしていた――濡れ鼠にも関わらず悠然、という表現が相応しいその物腰は、やはりごく普通の人間の持つものではない。
    「――ええと、救急車は必要じゃなさそうなんですが、とにかくびしょ濡れなので、こちらが問題なさそうならうちで着替えて貰って、それから警察に行こうと思うんですが――」
    「どうして警察に?」
    「――いや、なんとなく記憶が曖昧っぽいので、どこに連れて行っていいものか……でもいずれにせよ取り敢えず、このまま放ってはおけないので」
     記憶喪失か?警察かなあ、いや役所か?病院じゃないの? なんて若い同僚たちがひそひそと囁き合うのが聞こえた。上司は暫く男を見やってから、やがて晶に向き直る。
    「真木がいいのならその人は任せるけれども――でも一人で大丈夫か?」
    「――うちは近いので、大丈夫かと思います。せっかく皆さんでお肉を楽しんでる時に、勿体ないですし」
    「そうか――じゃあ、取り敢えず目処がついたら連絡を入れてくれ。場合によっては今日戻って来られなくても、気にしなくていいから」
     人のいい上司はそう言ってぽんぽんと晶の肩を叩いて、それからバーベキューセットの方へと戻って行った。――ほら、自分が遭難したことがあるからやっぱり放っておけないんじゃない。真木君、お人よしだから。そんな囁きが同僚達の間から漏れ聞こえて来た気もしたが、晶は特に気にすることなく待っている男を見上げた。
    「――じゃあ、行きましょうか。少しだけ歩きますけど、大丈夫ですか――歩くのが辛いようならバスを使いますから」
     男は晶を見下ろして「うん」と頷いた。


     先程寄ったスーパーマーケットでハンドタオルを買って、応急処置として男に身体を拭かせると、晶は彼をバスに乗せて帰途についた。男の持っていた数少ない荷物は、買い物用のビニール袋の中にすっぽりと納まった。幸いなことにバスの中は空いており、立ってさえいれば、全身が濡れた客が立っていても、少々変な目で見られるくらいで済んだ。
     マンションに着いたときは既に夕日がかなりオレンジ色に沈んでいて、部屋の中は暗かった。スイッチを入れて明かりを付けると、晶の小さな部屋がつまびらかに照らされる。男はバスに乗った時からずっと、物珍しいものでも見るようにあちこちを見回していたが、晶の部屋が明るくなるや否や、好奇心の色をその瞳にうつした。
     冷えた身体にはシャワーだけでは寒かろうと大急ぎで風呂を入れ、タオルなどを用意してやってからリビング兼ベッドルームに戻ると、男はちょうど電源の入っていないテレビを眺めているところだった。
    「――すぐにお風呂が入りますから、ちょっと待ってください――あ、温かいものでも飲みますか?」
     薄型のモニターをまじまじと眺める男に、晶は電気ケトルに水を注ぎながら尋ねた。
    「お茶とかがあれば、欲しいかな」
     男はそう答えて微笑んだ。もてなされることに慣れているのか、人の部屋に上がった時の遠慮というか、居心地の悪さみたいなものは彼から微塵も感じられなかった。
    「――ここがきみの家なの?」
     男はカウンター越しに電気ケトルがこぽこぽと音を立てるのを興味深そうに眺めながら言った。
    「そうですよ。――お茶、何がいいですか?」
    「……きみのおすすめならなんでも。ここには一人で?」
    「そうです、俺一人で。実家は遠くにあるので――ハーブティーにしますね、どうぞ」
     鎮静効果のあるというカモミールをブレンドしたティーバッグを選び、晶はそれをカップに浸して、カウンターの上に置いた。ありがとう、と礼を言って男はそれを受け取る。
    「取り敢えず、お風呂に入ったら、警察に行きましょう。――その、記憶が多分、曖昧なんですよね?」
     男から一般常識が全く欠落していたことを思い出しながら、晶はなるべく柔らかな表現を心がけて尋ねた。
    「うーん、さっきから何度か聞いたけど、その”ケーサツ“ってなに?」
     男は少し困ったように笑って首を傾げた。これも知らないかと晶は頭を抱えたくなったが、辛抱強く答える。
    「警察っていうのは、犯罪者を取り締まったり、迷子を保護してくれたり、そういう場所です。――ええと、あ、でももしかして行き先とか、あったりするんですか?」
    「ううん、そんなものはないよ。――でもその警察って多分、俺の役に立ってはくれないと思うな」
    「どうしてですか?」
     やけに断定的な男の物言いに、晶は怪訝な顔をする。
    「――警察であろうが、役所であろうが、俺がどこの誰かなんてわからないだろうから」
     曖昧に笑うその姿はまるで何でも知っているとでも言わんばかりの落ち着きようで、さっきまで波打ち際に倒れていた遭難者のものとは思えなかった。
    「ええと……でもあの――俺には、それ以外に手助けのしようが思いつかないのですが……」
     しどろもどろに答える晶を、男は奇妙に圧を持った目で見下ろして言った。
    「――うん、だからきみ自身が俺を助けてくれない?ちょっとだけ、ここにいさせてくれないかな」
     わけありなんだ、見ればわかると思うけど。眉毛を情けなさそうに下げて、自嘲気味な笑みを浮かべ、彼はそう言った。
    「お金もないし――まあご想像の通り、俺にはこの国の言葉の多くがわからなくてさ、実を言うと多分、文字も読めない」
     それは俗に言う、にっちもさっちもいかないというやつではないのか。晶は心の中で叫びながら困惑をそのまま表情にのせた。
    「――でもそれなら余計に――警察に行った方がいいと、思うんですが――多分日本の方ではないんでしょうし――それにしては言葉がお上手ですけど」
    「……多分その警察とかいうところに行っても、彼らには俺の戸籍を見つけることすらできないと思うよ――あ、戸籍この国にもある?」
    「ありますけど、それは――」
     しかし戸籍も見つけられないとはどういうことなのか、不法移民とか、そういった類のものなのか。混乱する晶に、男は少しばかり哀れっぽい調子で「お願い」と畳みかけた。
     元より頼まれると弱い性格である、しかも自分と同じように海で遭難していたとあればどうしたって同情心はわいた。けれど数時間前に砂浜で出会った見も知らぬ男を自分の家で世話するというのがどんなに常識から外れたことかというのもわかっていた。
     その時、湯沸し器のアラームが音を立てて、風呂の準備ができたことを知らせた。晶は考えることを一旦放棄し、ため息をついて男を見上げた。
    「――わかりました、取り敢えず今日は警察に行くのをやめましょう。お風呂がわいたみたいなので、お風呂に入ってあったまってください」


     風呂場の扉に嵌ったすりガラス越しにちゃぷちゃぷと湯の音が響くのを聞きながら、晶は男のびしょ濡れになった衣類を取って、そのまま洗濯機の中に突っ込んだ。液状の石鹸を入れ、ぐるぐる洗濯槽が回り始めたのを確認して、彼は部屋に戻ってクローゼットを開けた。  
    ――男は服をあれしか持っていないようだったから今日のところは何か貸してやらなければならないだろうが、果たして自分の持ち物の中に、彼の身体に合うものがあるかどうか。
     まあ絶望的だろうなと男と自分の足の長さの違いを思い出してため息をつき、仕方なく以前プレゼントされたまま使ったことのないバスローブを引っ張り出した。風呂上がりにこれを着てワインでも楽しんで、と友人から引っ越し祝いに貰ったのだが、そんな優雅な夜を過ごすことはないまま今日まで来てしまった。
     洗面所に戻ると、まだ男は湯を使っているようで、時折水面をかき混ぜるような音がちゃぷちゃぷと響いた。とんとんとすりガラスをたたくと「はーい」と、若干間延びした返事が聞こえる。
    「――ここ、着替えを置いておくんで――羽織るだけのタオルみたいなやつですけど、俺の服はあなたに合わないので」
    「ああごめん、俺のやつ洗濯してくれたの?」
    「――あまりにもびしょ濡れで、海の塩まみれだったので……」
    「そっか、ありがと――ところでさ、あの、これどうやったらお湯出るの?」
     ため息をつきながら薄目を開けて男にシャワーの使い方を教え、ついでにバスローブを押し付けて居間に戻ると、既に窓の外は薄暗くなっていた。これはもうバーベキューもお開きになっているだろうと思い、スマートフォンを取り出してテキストメッセージを打つ。ほどなくして、上司からは「お疲れさん」とねぎらうようなメッセージが返って来て、晶はほっと胸を撫で下ろした。いかに温厚な者の多い職場とは言え、やはり行事の欠席などには敏感になってしまうのが日本人の悲しい性なのだ。
     そう言えば夕飯の材料になるようなものはあるかと思い立って冷蔵庫を覗いていると、風呂場の方から音がして、バスローブを身体に巻き付けた男が出て来た。青ざめていた顔色は上気して少し良くなり、表情全体に生気が戻ったように見えた。バスローブはやはり彼の身体には小さ過ぎたのか、長い足が覗いてしまっていたが、部屋の中で過ごすには問題の無い程度だった。
    「――いいお湯だったよ、ありがとう」
     タオルで髪をごしごしとこすりながら上気した顔を綻ばせる彼は、有り体に言えば美しかった。さっきまで青ざめた顔で濡れ鼠になっていたということもあってそこまでとは思わなかったが、身ぎれいにした状態の男の顔は、一般的な人間の平均を遥かに超えて整っていた――それこそ波打ち際で女子社員が黄色い声を上げなかったことが不思議なくらいに。目元の翠色の光はさっきまでよりずっときらきらと明るく光って、対する者の心を捉えようとするかのように淡く瞬く。
    「ああ、ええと――ゆっくりできたなら良かったです」
     その視線の魔力から逃れようとするかのように目を反らしながら、晶は半ばたじたじとなって答えた。
    「うん、冷えてたから随分元気になったよ。――きみは入らないの?」
    「俺は寝る前でいいので。――あ、ところでお腹は空いてますか?」
     晶の問いに男は一瞬目を見開いてきょとんとした顔をしたが、やがて表情を和らげて子供のように笑った。
    「え、何、きみが作ってくれるの?」
    「大したものはできませんけど――簡単なスープとか、お粥とかなら。消化にいいものの方がいいのかな」
    「俺はそんなに量はいらないけど、きみが食べるなら同じものでいいよ」
    「――俺はさっきバーベキューでお肉をだいぶん食べちゃったので……あ、でもお野菜を食べた方がいいのかな」
     男の顔立ちからして日本人ではないようだから、取り敢えず米は避けようと思い、野菜を小さく切って、固形スープとベーコンと共に鍋に入れた。調理をしている間中、男はタオルを頭に被ったまま、興味深そうに晶の手元を見ていた。
     吹きこぼれないように鍋の中身を時折かき混ぜながら、晶はふと今まで男の名前を一切聞いていないことを思い出した。
    「――そう言えば、お名前を伺ってなかったですけど――自分の名前はわかってますか?」
     鍋から晶に視線を移して、男は少し考えるような間を置いてから「勿論」と答えた。
    「フィガロっていうんだ。それが俺の名前」
     簡単でしょ、と男は言った。やはり日本人ではないのだなと頭の隅で納得しながら、晶も同じように答える。
    「俺は晶って言います」
     男はどういうわけか少しばかり眉を寄せて難しそうな顔をしていたが、やがて「うん、よろしくね」とだけ答えた。
     その晩は簡単な食事を二人で取って、客用の布団を男に出してやり、同じ空間で眠った。奇妙な夜だった――丸い月だけが、夜空にぎらぎらと輝いていた。




    3.

     妙に強い光が目蓋を通り越して目を射るような気がして、晶は思わずベッドの上で目を閉じたまま顔を覆った。意識は既に覚醒していたけれど、まだ布団の中は温くて、もう少しだけそのままごろごろしていたかった。今日は休日、それも土曜日じゃなかっただろうか、それならあと一時間はこうしていたって――そう考えたところで、はたとあることを思い出し、身体の向きを変えて目を開いた。眩しい陽光と共に、それを窓際で眺める男の姿が目に飛び込んで来た。昨日まではこの部屋に影も形も存在しなかった男――海岸に打ち上げられていた、出自すら定かではない赤の他人。いつの間にカーテンを開けたのか、部屋の中は朝日で照らされていた。その光をまるで後光みたいに背負って、男は晶に向かって微笑むと、「おはよう」と挨拶をした。
     明るい日の光の下で見る男の容姿は、薄暗がりや人口の明かりの下で見るそれより、余程人間離れして見えた。濡れていた時はもっと黒っぽく見えた頭髪が、今は淡い藍色に見え、不思議な色の目もずっときらきらと輝いて見える。やはりとても普通の人間の持っている色彩ではない、晶はそう思った。
    「――おはようございます――すみません、朝弱くて」
     家の主は自分であるのに何故か謝って、重い身体になんとか力を入れて起き上がると、晶はベッドの上で伸びをした。あちこちの骨が小さく軋んで、まだ俺達は覚醒していないぞと訴える。大きく欠伸をすると、窓際の男は愉快そうに笑った。
    「お休みの日は長く寝ていたい方?」
     男が聞くので、晶は苦笑して頷いた。
    「そうですね――平日が忙しかった時は特に。でもそれで何もできない日になって、後悔するんですけど」
    「じゃあ俺はきみの休日を救ってあげられたわけだ」
    「――これから何をするかにもよりますけどね。あ、タオルとかいりますよね、洗面所に案内しますよ」
     なんとかベッドから床に着地し、スリッパをつっかけて男にタオルなどを用意してやると、晶はベランダに出て、男の服が乾いているかどうかを確認した。少し強めに脱水をかけたせいか、一晩で洗濯物はきっちり乾いていた。季節も良かったのかもしれない。
     服を渡してやり、自分も顔を洗って身支度を整えてしまう頃には、ぼんやりとしていた晶の頭も大分覚醒していた。思考がはっきりすると共に、昨日の出来事や交わした会話、それから今日自分が向き合わなくてはならないことが頭の中に蘇って来て、ため息が出そうになった。
     ――あの男、フィガロは恐らくこの家に居残ることを希望しているのだ。
     果物にヨーグルト、それからゆで卵に食パンだけの簡単な朝食を二人準備し、二つのティーカップを並べると、晶は賑やかしの為にテレビを付けた。洗面所から戻って来ていたフィガロがそれを見て目を丸くしたが、説明を求めてくることはなかった。その反応からすると、恐らく見たことのないものだったのだろうが。
    「朝ごはんにしましょう」と声をかけると、フィガロは大人しく食卓の方にやって来て席に着いた。本来の自分の服を身に着けているせいか、バスローブにくるまっていた時よりは幾分年を経て見える。
    「俺の分まで用意してくれたの?」
     目を丸くして尋ねてくる姿に、晶は苦笑した。
    「俺だけご飯を食べるわけにはいかないでしょう――はい、お茶もどうぞ」
     茶色の液体にミルクを注ぐと、晶はそれを一口唇につけて、それから大きく息をついた。それはこれからこの男と話す上での、準備運動のようなものだった――重要なこと、話しにくいこと、そう言ったことを切り出すとき、人は大きな労力を必要とするものだ。特に晶のようなお人よしで、他人の都合ばかり考えてしまうような人間にとっては。
    「――あの、朝ごはんを食べながらで構わないんですけど」
    「うん?」
     ようやく口を開いた晶に、フィガロは自分もティーカップに口を付けながら首を傾げた。
    「体調がきちんと回復していたらでいいですから――ここへ来た経緯とか、フィガロさんのことをもうちょっとちゃんと、教えてもらえませんか」
     晶の質問に対し、フィガロは少し思案するかのように口を噤んだ。しかしそうしている間にも彼はまっ直ぐに晶を見つめ、その言葉の意図を読み取ろうとでもするように観察していた。他人の家に転がり込んで世話になっている彼の立場からすれば、少しばかり気まずそうな様子を見せてもいいのに、彼の表情にそういう要素は一切なかった。物怖じしない性格なのだろうか――自分の要望が叶えられることが当たり前の環境で生きて来たのだろうか。とにかく、目の前の生き物はそういう絶対的なポジションにあったことのある人間だと、晶は本能で直感して少し緊張を感じた。
     しばしの沈黙の後、フィガロはゆっくりと口を開いた。
    「それを説明したら、この家に置いてくれるの?」
     返答に困る質問に閉口して、晶は苦笑した。
    「――そういうわけじゃないですけど……あなたのこと何も知らないのに、しばらくいさせてくれと言われても、お答えのしようがないですから」
     交渉の経験の少ない晶には、それが相手にとっていくらでも付け込む隙のある曖昧な答えだという自覚が薄かったが、彼の前に座っている男は当然その穴を見つけたのだろう。言葉を選ぶようにゆっくりと話し出した。
    「――人を探していたんだよ。もう言ったと思うけど」
    「そう仰ってましたね」
     相槌を打つと、男は少しだけ遠いところを見るような表情をして続ける。
    「その子のことは正直、名前も顔も覚えてないんだ、ただ彼と何をしたとか、どんな子だったかというのはとても良く覚えていて――それで俺は、その子のことを探していた。多分、その時に海に落ちたんだと思うけど、気付いたらあそこにいてね」
    「――覚えていない相手を探してるんですか?」
     思った以上に突拍子もない話だったので、晶は目を見開いた。
    「それは溺れたショックで忘れたとかではなく?」
    「いや、溺れる前からその子の顔も名前もわからなかったよ――それははっきりしてる」
     顔も名前もわからない相手を探すというのは、一体どういう状況なのか――晶はそれを想像することもできずに、ただ口籠った。そんな晶の心を知ってか知らずか、フィガロは続けた。
    「名前も覚えてない相手だ、正直探すべきかは悩んでた――無駄だろうってね。でも、多分もしかしたらと思って、うろうろしてたんだろう。その後のことは覚えてないけれど、きみが知ってるようにあの浜辺に流されたから」
    「その人は……この近くにいるんですか?」
     まさか太平洋を挟んで反対側から流されたなんてことはないだろうから、この近くで人探しをしていたということになるが、それなら一体どこを探していたのか。晶が尋ねると、男は曖昧に笑った。
    「わからないよ。いるかもしれないし、いないかもしれない。でも可能性が一番高いのはここだ。だからここにいられる間は探したいと思っていて――けど、俺には身を寄せるところがなくてね」
     雲を掴むような答え方に、晶は困惑した表情を返すよりほかなかった。そもそも顔も覚えていない相手を探すだなんて、それ自体が荒唐無稽な話にも思えた。しかしフィガロの表情からは嘘をついているとか、誤魔化しているという雰囲気は微塵も感じられず、むしろどちらかと言えば真剣と言って良かった。いや、真剣であるからこそ彼はある種の狂人なのかもしれないが、それにしては喋り方が理路整然とし過ぎている。
    「――どこから来たとかは、聞かせて頂けないんでしょうか」
     晶の問いに、フィガロは困ったような笑みを浮かべた。
    「どうしてもそれを言わなきゃダメ? 多分言ってもわからないと思うんだ――とても、遠いところで、そう簡単には帰れないところだよ」
    「話したくないことなんですか?」
    「――できれば。でも犯罪に関わってここに来たとかではないから、安心して」
     密入国者ではないということを言いたかったのだろうか。男が先程から浮かべている表情は、見た目こそ躊躇いや困惑を示していたが、有無を言わせない何かがあって、晶にそれ以上その件について聞くことを許さなかった。
    「俺さ、文字も読めなければ、正直この国のこともよくわからないんだ。海岸で、きみみたいな親切な人に助けてもらえたから良かったけど、そうでなかったらもっと困ったことになっていたと思うし」
     フィガロは妙に声色を柔らかくしてそんなことを言ったが、彼の言っていることが事実に当てはまらないだろうことは晶にも既にわかっていた。多分この男なら最初に会うのが誰であろうと、上手く乗り切っただろう。そういう雰囲気を持っている。
    「だから――本当に申し訳ないとは思うけど、もう少しだけきみに助けて欲しくて。――ここに暫くいさせて貰えないかな?」
     そして昨日と同じ台詞だった。もう少しどころではないその要求に、晶は頭を抱えたいような気持になった。大人一人余分に家に抱えれば、当然経費は増えるのだ。この男に現代の日本で収入を得る能力がないことは火を見るより明らかだったし、そもそも大きいとは言えないこの部屋で良く知らない男と二人、共同生活を送れるのかどうか全くもって自信がなかった。
    「――あの、でも――」
    「ひと月でいい」
     それは難しいです、と言いかけた時だった。晶が何を言おうとしているのかがわかったのだろう、男はすかさず言葉を重ねて来た。
    「――いや、ひと月よりはきっと、ちょっと少ないだろう。頼むよ、俺はその子のことを探したいんだ――でも警察とやらのお世話になってあちこちたらい回しにされたら、きっとそんなこともできなくなる。家政婦でもなんでもするからここに置いて」
     男の声はいささか切羽詰まったようなものではあった。それが演技か真かはともかく、その声色を作らせる後ろにある動機は真剣そのものなのだろう。晶は男の視線の圧力に耐えられなくなって、目線を外した――自分だって生活に余裕があるなら助けてやりたいのだ。ただ部屋をたくさん持った、生活に余裕しかないような高額納税者ではないというだけで。
     ふとその時、晶の目にテーブルの上に置いておいた貝殻が入って来た。昨日寝る前に外してそこに置いたものだった。奇妙な異世界の記憶を持って海で発見されたとき、晶が持っていた、ただ一つのもの。
     その薄茶色に走る模様を眺めながら、晶はぼんやりと、医者に妄想だと断言された異世界の記憶のことを思い出していた。そこで晶は、目の前の男と同じように、突然見知らぬ土地に放り出されたのだ――確か、エレベーターか何かに乗ったら、そこに辿り着いてしまったとかで。晶はそこでは役目のある者だったから誰も彼もが優しかった――皆行き場のない彼の面倒を見てくれた。けれど、そうでなかったら――一体どうなっていただろう。
     恐る恐るフィガロの方に視線を戻すと、彼は黙ったままその瞳に静かな懇願をたたえて、晶を見ていた。もし自分がこの男を助けなければ――と想像した。要領の良さそうな男だから、行き先に困ることはなさそうにも思えた。
    ――けれどもし、誰にも助けてもらえなかったら。
     ひと月、という時間のことを想像した。短い時間ではないが、耐えられないほどの時間ではないかもしれない。フィガロという男がどんな人物かはまだ未知数だが、少なくとも人に著しいストレスをかけるタイプにも見えなかった。少々図々しいと言えばそうだが、恐らくその程合いをコントロールできるタイプだ。――通帳の残高は、どのくらいだったか。食費が三万円増えたとして、非常に厳しいとは言えるけれど、でもやっていけない額ではない。
     駄目だったら、その時に出て行って貰えばいいのだから――晶は頭の中で自分にそう言い聞かせた。馬鹿なことを言うんじゃない、素性の知れない他人だぞ――そう脳内で叫ぶ声も聞こえたが、困っている人を放り出すのも気分が悪いだろう、とどこからともなく反論の声が上がった。――どうしようもないお人よしだからな――そんな、自分の声だか、あるいはかつて聞いた他人の評価だか、はっきりしない声が脳裏でこだました。
     晶はため息をつくと、まっすぐフィガロを見つめて、それからゆっくり口を開いた。
    「――そういうことならひと月であれば――大したお構いはできませんけど、ここにいて頂いて大丈夫ですよ」
    「本当に?」
     フィガロはその顔にぱっと喜びの色をのせて、身を乗り出した。やや子供っぽいその様子に、晶は思わず苦笑した。
    「ええ――問題が起きない限りは。もし途中で大きな問題が起きたら、出て行って頂くようにお願いするかもしれませんけど」
    「問題なんて起こさないよ、して欲しくないこととか、そういうのがあったら今のうちに言って」
    「――まあそれはおいおい。一緒に生活してみないとわからないこともあると思いますし」
     相手の勢いに少々気圧されながら視線を反らし、晶はふと朝食が全くの手付かずであることに気付いた。
    「取り敢えず――朝ごはん、食べましょうか。これから共同生活になるんですし」
     冷えて硬くなっているであろうゆで卵を皿の角に打ち付けながら、晶は言った。
     フィガロの方もまた朝食の存在を思い出したらしく、目の前のヨーグルトに視線を落とした。食事は共同生活の基本だ――そしてどんな人間関係も、大抵これを共にするところから始まる。あるいはその起点において食事は必ず重要な意味を持っている。
    「そうだね――よろしくお願いします、かな? いや、お世話になります、だな」
     居住まいを正し、慌てて言い直したその様子がやけにしおらしく見えたので、晶は思わず笑ってしまった。少なくとも、つまらない食事の時間にはならないのではないかと思えた。
    「はい、よろしくお願いします――フィガロ」


     朝食を片付け、家の中の一通りのことについてフィガロに説明した後、晶はふとスマートフォンのアラートからカウンセリングの予約が入っていることを思い出した。他に選択肢がなかった故に今日の予約を取ったのだが、それにしてもどうして土曜日なんかに、と自分で後悔する。ふと鞄の奥底にまだこの間処方された薬を入れっぱなしだったことを思い出して、それを取りだしたが、自分がそれを口に含む未来は想像できなかった。
    「――それって何?」
     食卓の上で出涸らしの茶を飲んでいたフィガロは、晶が取り出したそれを目ざとく見つけて尋ねて来た。特に秘密にする必要もないので、晶はそのまま素直に答える。
    「お薬です」
    「どこか悪いの?」
    「――身体が悪いというか――ちょっとした恐怖症があって、それでパニックを引き起こした時の為にって渡されたんですけど、飲んだことはないですね」
    「恐怖症、か。聞いても良ければ、一体何に?」
     晶はそこで少し戸惑ったが、やはり素直に答えることにした。
    「海です。海が怖いんですよ、俺」
     フィガロは晶の答えに少しばかり驚いたような顔をした。
    「――海が怖いって、じゃあ俺を助けてくれた時どうしたの」
    「それはまあ、緊急事態だったので、怖かったですけどなんとか。でも普段は波打ち際に行ったりすることはできませんね」
    「それはなんというか――悪かったね、ありがとう」
     フィガロの礼に、晶は首を横に振った。
    「でも、なんでまた海が怖いの?――ああごめん、聞いても良ければだけど。突っ込み過ぎたかな」
    「それが自分でも良くわかっていなくて――なので突っ込み過ぎも何もないような感じなんです」
    「わかってないの?――普通怖いなら理由がわかっていそうなものだけど」
     不思議そうな顔をしてフィガロは眉を寄せた。
     晶はどの程度目の前の男に自分の事情を話すべきか迷った。彼が海に打ち上げられるまでの記憶は非常に曖昧で、語れる部分もまた、精神科医に「妄想」と一刀両断される類のものだ。けれど、フィガロ自身もまた記憶の空白を持つ人物ではある――普通の人よりは、彼の方が晶の話を理解してくれるのではないかと、そんな思いが頭を掠めた。
    「――俺、記憶がないんです。あなたと同じように海で流されて、それ以前の記憶が曖昧なんですよ。多分そこで何かがあったんじゃないかと思うんですけど」
    「え、きみもなの。じゃあお揃いかあ」
     お揃い、というこの話題にあまりにもそぐわない言葉を使われて、晶は思わず笑ってしまった。
    「お揃いなんていいもんじゃないですけど、でもそうですね、あなたと同じ浜辺に打ち上げられてたんですよ、俺も。それで親切な人に見つけてもらって」
    「――だから俺のことも助けてくれた?」
     フィガロの問いに、晶はちょっと考え込んだ。
    「うーんそうですね、無意識にはあったかもしれませんけど、でも何より流されたら困ると思ったので」
    「――きみ、多分ここではお人よしの部類に入るだろう」
     まるで見透かそうとでもするかのようなフィガロの視線と物言いに、晶はちょっとだけ居心地の悪いものを覚えた。人の家に居候させろと言っておいてその言い草はなんだと思わなくもなかったが、晶の目の前で落ち着き払っているこの男には、口にするべきこととそうでないことの判断が付かないらしい。
    「たまに言われることはあるけど――でも普通だと思いますよ」
    「そうかな。――きみの仕事仲間? 彼らは俺を見ても話しかけもしなかったじゃない? みんな見世物でも見るように、こっちをちらちら見てたのに」
     フィガロが思ったよりもずっと詳細に自分の同僚達を観察していたことに気付かされ、晶は舌を巻いた。彼はあの時救助されたばかりで具合も悪かっただろうに、そんな観察をするだけの余裕がどこにあったのだろうか。
    「よく見てるんですね」
     思った通りの感想を口にすると、フィガロは肩を竦めた。
    「そりゃ、嫌でも気付くさ。――でも溺れる前の記憶が曖昧って、なんで溺れたかもわかってないの?」
    「いいえ、全く。そこは記憶から完全に抜け落ちていて」
     晶は首を横に振った。
    「じゃあ、残ってる記憶の中で、一番その直前の記憶は?」
     今度こそ晶は全てをこの男に語るかどうか、考えなければならなかった。実際に記憶の中に存在するものを妄想と切り捨てられるのはそれなりに堪えるものだ。晶の躊躇いを見て取ったのか、フィガロはするりとさりげなく、更に言葉を差し挟んだ。
    「――あ、聞かない方がいいことだった?」
     余人においそれと打ち明けるような話ではないことはわかっていた。けれど、赤の他人であればこそ零したくなることもあった。あの幻のような日々の記憶については、家族にも親しい友人にも話したことはないのだ。
    「おかしな記憶があるんです、あり得ないような――妄想と言われるような。だから薬を出されたんですよ」
     手短に告げてフィガロの様子を伺ったが、その表情に一般的な反応に良くありがちな、腫れ物に触るような風はなかった。哀れなものを見る目もしなかったし、軽蔑するような目もしなかった。ただ彼は興味深そうに、純粋な好奇心だけでその瞳を満たして晶のことを見据えていた。
    「――あり得ない記憶の中身を聞いても?」
     彼は案の定そう尋ねて来た。不思議とその調子には、晶に話してみてもいいと思わせるような何かがあった。
    「異世界にいたっていう記憶です」
    「異世界っていうと――ここではない世界ってことでいいんだよね? どんな?」
     フィガロが当然のように異世界という概念を受け入れたことに、晶は驚いた。普通はここで眉を顰め、それがどんな世界だったかなんて質問はしないものだ。自分が訳ありだと、他者の事情に関しても色々あると思えるようになるのだろうか。
    「夢のようにぼんやりしていて、あまりはっきり覚えているわけではないんです――でも、魔法とか、ドラゴンとか、そういうものが存在する世界で――俺はそこで賢者様って呼ばれてたんです。別に何ができたわけでもないんですけど、異世界から来たというだけで持ち上げられて」
     そこまで説明したところで、晶は「ね、変な夢でしょう」と照れ笑いをして誤魔化した。けれどフィガロの方は全く一緒に笑ってはくれなかった――むしろその表情は真剣そのものだったと言ってもいい。その視線は皮膚を抉るのではないかと思うくらい強く、まるで晶の目の裏の骨まで突き通そうかとでもするようだった。
     気まずさとその眼差しのもたらす圧迫感に耐えられなくなって晶が目を反らすと、ふとテーブルの上に置かれた小さな時計が目に入った。針は既に彼がカウンセリングの予約の為に、出かける支度をしなければならないことを示していた。
    「――あっ、あのフィガロ――話の最中に申し訳ないんですけど、俺そろそろ出かける準備をしないといけなくて」
     これ幸いと予定があることを持ち出した晶に、フィガロは「ああ」と我に返ったように言って、彼が発していた圧迫感はすっと消えた。
    「どこに行くの?」
    「その――病院に行かなきゃいけないんです。カウセリングと言って、話を聞いてもらうんです――何が精神的な不調の原因になっているのかみたいなことを調べて貰えます」
    「それって医者みたいなもの?」
    「――まあそうですけど、お医者さんは別にいるんですよ。分業なので――ああそう言えば、もし俺が病院にいる間どこかで待っていて貰えるのなら、一緒に買い物に行きましょうか?」
     晶の提案に、フィガロは目を丸くした。
    「買い物って、何の?」
    「――多分、あなたの為の洋服が必要なので。俺のはみんなあなたには小さいから」
    「え、俺の?」
     フィガロは一瞬面食らったような顔をして、その不思議な色の目を大きく見開いてから、やがてくしゃりと相好を崩した。
    「なんか面倒を見てもらえるのって嬉しいなあ」
     その台詞は大の大人にあるまじきものだったが、そうやって笑う彼の表情は妙に子供っぽくて可愛らしかったので、晶は結局文句の一つも言えずにそのままになった。


     案の定フィガロはスマートフォンどころか、所謂昔の携帯電話すら持ち合わせていない上に、その使い方すら理解していないようだったので、家を出てしまうと連絡手段がない。仕方なく、晶は彼を病院の近くまで連れて行くことになった。少ないながら現金を持たせ、マンションの住所を書いた紙を渡して、万が一迷子になっても戻って来られるようにしてやりながら、まるで子供の面倒でも見ているようだと思った。もしあの異世界の記憶が現実だとしたら、そこにで出会った人々も、自分に対して同じように感じていたのだろうか――そんな朧げな思考が頭を過ったが、乗るべきバスの時間が迫っていたことで、それはやがてかき消えた。
     バスで目的地近くまで移動した後、晶はフィガロにシンプルな物の揃う衣料品の量販店を教えてやった。晶の病院から通りを二つほどしか挟んでいないので、余程の方向音痴でなければ迷うような場所ではなかった。買い物が終わったら、病院の前で待つか、あるいはその横の喫茶店で待っていて欲しいと言うと、フィガロは小さい子供のように大人しく頷いていた。
     手のかかる大人と別れてエレベーターに乗ると、消毒薬と埃の混ざったような匂いがした。扉が開けば目に入って来るのはあの白と灰色の世界で、休日だというのに病院の待合室は繁盛していた。以前と同じように受付で保険証を渡そうとすると、「カウンセリングには保険が適用されませんので」と返却された。以前と同じように部屋の隅の椅子で身体を小さくして待っていると、エレベーターから白衣を身に着けた男が降りてくるのが見えた。彼が受付嬢に話しかけると、どういうわけか彼女は少し怯えたように応対し、それから男は無数のブースの立ち並ぶ方へと消えて行った。
     しばらくすると、受付嬢は晶の名前を呼んで彼の順番が来たことを告げた。
    「真木さん、ご案内します」
     以前と同じように無機質に並ぶ白いドアの前を通り過ぎ、以前よりは少し奥まった場所に位置する部屋に案内された。開かれた扉の奥は医者の部屋よりは少し小さく、机と椅子があるだけだった――恐らくカウンセラーの為の部屋なのだろう。机の向こう側には先程待合室で見かけた白衣の男が座っていて、晶を見るとほんの少し目元を緩めて微笑んで見せた。これといった特徴のない顔立ちで、年の頃は四十代前半といったところだろうか。特にしゃれっ気もない少しだけ白髪の混じった髪の毛を無造作に跳ねさせて、縁なしフレームの眼鏡をかけていた。
    「――どうぞそこに座って」
     男の口調は気安かった。受付嬢が出て行ってしまうと、晶はゆっくりと勧められた椅子に座ってよろしくお願いします、と頭を下げた。
    「こちらこそよろしく」
     男はそう言って、自分の目の前に置かれた書類の束らしきものに視線を落とした。
     ブースの中は狭く、数日前に医師と顔を合わせた時より更に圧迫感があるような気がした。ざわついた心が表情にまで出てしまっていたのだろうか、カウンセラーはふいに顔を上げて首を傾げた。
    「もしかして、こういうところは初めて? ――心配しなくていいよ、ここではきみの話したいことを話せばいいから」
     少なくとも彼の物言いは医師のそれよりはずっと親身なものだったので、晶は少しばかり身体の緊張が抜けるような気がして、深く息をついた。
    「実は、初めてで――どういう風にカウンセリングが進むのかも、経験がなくて」
     しどろもどろに晶が申告すると、男は人の良さそうな笑みを浮かべて言った。
    「それは俺が進めてあげるから大丈夫。ええと、きみの問診票はもらってるよ。――あるはずのない曖昧な記憶があって、海が怖いんだっけ?」
     男の視線が書類の上を滑ったが、文字があまりにも小さかったので、晶からは見えなかった。
    「そうです――ここへ来たのはそもそも、海に対する恐怖心を克服したいというのが理由で」
    「なるほどね。海に入ることができないって書いてあるから――相当怖いんだろうね、これは。溺れた時に余程怖い思いをしたのかな」
    「――わかりません、何せ溺れた記憶もなくて、ただ砂浜にいたっていうだけなので――苦しかったとか、痛かったとかそういう記憶もないんです」
    「じゃあその恐怖の原因になっているものがきみにはわからないんだね」
     カウンセラーは興味深そうに瞬きをして、晶を見た。
    「そういうことになります」
    「――なるほど。じゃあ浜辺で目を覚ます前の直前の記憶って、一体どこで終わっている?」
     短期間のうちに何度同じ事柄に対する躊躇いを経験するのだろうと思い、晶は思わず苦笑した。だが一度もう何の関係もない赤の他人に話してしまった後だったので、その言葉は比較的すんなりと口を次いで出た。
    「異世界の――記憶です。色々な記憶の順序がごっちゃになって、虫食いのように曖昧で――直前に何があったか、とかは言えないんですが、とにかく魔法もドラゴンも存在する、ここではない世界にいたという記憶、それが多分、事故の直前のものです」
    「――それはどのくらいの期間についての記憶?」
    「それがおかしいところなんですけど、1年間分くらいの記憶がまばらに残っていて――でも俺が行方不明になってたのは、ほんの三日くらいのものなんです」
     カウンセラーは晶をまじまじと見てから、やがて手元の書類に何かをメモした。大方症状についての記録でも取っているのだろう。
    「――行方不明になっていた間、どこにいたのかとかはわかっていないんだね?」
    「それはさっぱり。実際に溺れっぱなしになっていたのなら、俺はとっくに死んでいるでしょうし――だから余計に存在しないはずの記憶のことが気になってしまうのかもしれません」
     男は思案するように腕を組んで、その上に顎をのせて天井を見上げた。自分の指を上下させてリズムを取りながら、やがて晶に視線を戻して口を開く。
    「――きみがいなくなっていた三日間の間に、実際に何が起きたのかということはわからないわけだ。それできみに残された手がかりはその記憶だけ。それだったら、その記憶を辿ってみるしかないんじゃないかな?」
     カウンセラーの提案に、晶は驚かざるを得なかった。彼が自分の語る記憶を「妄想」と断定しなかったことには既に気付いていたが、その内容に深く立ち入ろうとするとは思わなかったのだ。
    「――多分、俺の妄想なのに?」
     晶が聞き返すと、カウンセラーは笑った。
    「妄想だろうが実際にあったことだろうが、きみの頭に残ってる出来事であるということには変わりないからね。それは全く違う現実が変化したものなのかもしれないし、あるいは実際に起きたことなのかもしれない。俺は見てもいないものを否定する主義じゃないからさ」
    「――先生とは全然違う立場をお取りになるんですね」
    「ん? ああ、きみの担当医のこと? まあそれは人それぞれだから。いずれにせよ、俺は手がかりになる物を使わない手はないと思うんだよ、一番大事なのはきみが恐怖を克服して生活に支障をきたさなくなるようにすることだからね」
     カウンセラーの物言いは合理的かつ冷たさを感じさせない不思議なものだった。晶は少しだけ部屋の中の圧迫感が消えたような気がして、肩の緊張を緩めた。医師とは気が合わなさそうだったが、この男とならば治療に臨めるかもしれないと思った。
    「取り敢えずきみさえ良ければ、話せるところからでいいから話してみない? 記憶のことだけでなくてもいい、気になることとか、症状のこととか、一緒くたにして気にせずに――そこから何か手がかりが掴めるかもしれないよ」
     男の提案に晶は無言で頷いた。とは言え、それは彼の言うほどに簡単な作業ではなかった。晶の頭の中の「異世界の記憶」は確かにそこにあるものの、いつもぼんやりと霧に包まれていて、虫食いだらけだった。ある時ある思い出がぽっかりとそこに浮かんだかと思えば、しかし登場人物の顔は一切浮かんでこないし、前後関係もわからないと言った調子だったのだ。
    「――整理して話すことは難しいかもしれません。本当に曖昧で――断片的なものなので。でも、覚えているのは俺がそこにエレベーターで行ったっていうこと、それと、そこで異世界から来た人間として大切に扱われていたということです。魔法使いと呼ばれる人達が俺の面倒を見てくれて、それで、俺は賢者と呼ばれていました」
     晶の話を男は時折メモを取りながら黙って聞いていた。晶が言葉を切ると、彼は続けろというように顎をしゃくって促した。
    「――時折、その世界のことを思い出すことはあるんですけど――大体は何か“任務”と呼ばれるもので魔法使い達と遠出をして、危険な目に遭うというものです。彼らは、いつも何かと戦っていて――ああ、そうだ、多分、一年に一度来るという災害と戦っていたんだと思います。その影響で例えばご近所の牛が狂暴になったり、普通の花が暴れ出したりするので、彼らはそれを解決する為にあちこちに出かけて、俺はそれの手助けというか――付き添いのようなことをしていました」
     そこまで一気に話してしまってから、晶は目の前の男の様子を伺った。相変わらずそこには困惑も軽蔑も、晶に話すことを躊躇わせるようなニュアンスは一切なかった。
    「――変な話でしょう?」
     晶が思わず尋ねると、男はくすりと笑って見せた。
    「なかなか楽しい世界みたいだなってことはわかったよ。変だとは思わないけど。それで?」
     促されるままに晶は何とか頭の中から映像を引き出そうとした。
    「――ええと……そう、彼らは――そう言えば、普通の人間とあまり仲が良くありませんでした。だからしょっちゅう揉め事になっていた気がして――でも、彼らしかその災害を防げる者がいないので、俺は彼らと人間の仲を時々取り持たなければなりませんでした。災害っていうのはたしか――やたら大きな月で。ああ、あと気になることがあって」
    「何?」
     男はそこでペンを止めた。
    「これは――症状の話に戻るんですけど。月の出ている晩、特に満月の晩になるとどういうわけか、異常に海に行きたくなることがあるんです――怖いはずなのに」
    「へぇ――それはなんというか、面白いね」
     興味深そうに相槌を打って、男はじっと晶の目を見つめた。
    「変ですよね。月がきれいだと、なんていうか――誰かが呼んでいるというか、何かあることをしなきゃいけないのに、それが思い出せない気がするというか――とにかくすごく変な感じがするんです。それで頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしようもないような気になる夜があって――そうすると怖いのに、勝手に海に足が向かっていて」
    「――でも海に行ってもきみは近付けないんじゃないの?」
     その問いに晶は少しだけ躊躇ってから、少し声を小さくして答えた。わざとそうしたのではなくて、気恥ずかしさからぼそぼそとした声しか出なかったのだ。
    「――近付けないけど、でも行けるとこまで行って笛を吹くんです」
    「笛?」
    「貝殻でできた笛です。俺が波打ち際で見つかった時に、唯一身に着けていたもので、なんとなくその記憶に繋がる唯一のものな気がして」
     それを打ち明けるのが気恥ずかしかったのは、その行動が、晶自身が異世界の記憶を実際にあったものと考えているという証になるからだった。けれどカウンセラーはそれを指摘することもなく、ただペンを走らせる音だけが部屋に響いた。続けろ、ということなのだろう。
    「――大抵、海へは仕事があった後に行くので真っ暗なことが多くて、そうすると海面に月が映るんです。それで銀色の道ができるんですよ――そこで笛を吹いていると、余計に怖くなって―――でも、ある人のことを思い出しそうになることもあります。結局思い出せないんですけど」
    「――ある人?」
     そこで男は視線を上げた。
    「異世界で出会った人の一人のことです。――どうして海を見てその人のことを思い出すのかわかりませんけど、多分海に縁の深い人だったのかもしれません」
    「――呼んでいるっていうのはその人が呼んでると思う?」
     その問いに、晶はちょっと考えて首を横に振った。
    「それもわかりません。その人のことに関しては度々そういう人がいたと思い出すのに、記憶が特に曖昧で。思い出せないからこそ気になるのかもしれませんが。その人も確か俺の周りにいた魔法使いの一人だったと思います」
     カウンセラーはしばらくペンを動かしていたが、やがてペンの背で自分の顎をなぞりながら晶と手元の紙とを見比べた。何かを熟考しているといったような風だった。
    「――きみの恐怖の対象は海なわけだ。だけど、奇妙に引き寄せられることがある。そしてその海をきっかけに誰かのことを思い出すことがある――この三点を併せると、その誰かに関する記憶がきみの恐怖症の鍵になってると考えるのが自然だと思うんだけど」
     彼の指摘に晶はすぐに答えることができずに、ただ黙って視線を返していた。彼の言い分には納得できるところが多かったけれど、なんとなくではあるが、その人物に関する記憶を掘り返すそうとことは、躊躇いと小さな恐怖を生んだのだ。
    「――でもその人に関する記憶は、本当に曖昧なんですよ」
    「話しているうちに思い出すこともあるかもしれないよ。試してみたら? きみさえ辛くなければだけど」
     カウンセラーは気安い調子でそう言って、「辛くなったらそこでやめればいい」と付け加えた。晶は相変わらず戸惑ってはいたが、彼とて奇妙な海への恐怖症からは解放されたいと思っていた。仕方なく言われるままにそっと記憶の発掘を試みた――靄のかかる脳内にそっと手を差し入れる感じで。
    「――話せるところから、ばらばらに話しても大丈夫でしょうか?」
    「問題ないよ」
    「……その人は確か、なんというかとても――人付き合いの上手な人だったはずです。いつも色んな人に囲まれていて、とても強い魔法使いだったはずです――。なんというか、人心を掌握するのが上手な人で……ああそうだ、俺に対しても篭絡したいとか面と向かって言ってきたんだった」
     靄のかかったような思い出の中、いくつかのシーンが具体的な形を取った。口に出して話そうとしてみると、まるでそれは土の中死んだと思っていた植物が息を吹き返すように、小さな芽を出し、実像を伴った。けれどそのどの映像の中でも男の顔は見えなかった。
    「――多分俺はその人のことをちょっと怖いと思ってたんじゃないかな……俺は立場のある人間だから、俺の心を掴めば有利な立場に立てる、そんなことを言ってくる人だったので」
    「――それがきみは怖いと思ったの?」
    「普通の人は怖がると思いますよ。でもその人はそういうのがわからないようだったけど……だからなんとなく、遠巻きにしていました。ちょっと距離を取るように。でも何かきっかけがあって良く話すようになった気がします――なんだったかな……あれは――」
     頭の中の虹色の靄に、ぼんやりと庭園の風景が浮かんだ。西洋風の屋敷の裏の整えられた美しい庭園の真ん中に噴水が立っていて、そこの傍で男が眠っているのだ。冷えた月の光に照らされて、顔こそ見えないけれど青白い肌が浮き立って、まるで死人のように見える――そんな映像を。揺すった身体は多分ひどく冷えていたはずだ。
    「――あれは、そう――確かある時、俺はその人が居眠りしてしまっているのを見つけて。どういうわけかその時その人はとても弱っているようで、手を握ってくれるようにと俺に頼んで来たんです――普段だったら怖くて断ったんでしょうけど、その時はどうしても放っておけなくて。それから、なんとなくその人のことを気を付けて見るようになりました」
    「――観察ってこと?」
    「いえ、俺は一応――何というかたぶん、俺の周りにいる魔法使い達をまとめるというか、彼らに辛いことが無いように気を配る立場というか、そういう感じだったんだと思います。それでその人にも、もっと注意して気を配らなきゃいけないって思うようになって――もしかしたら明るくて軽薄で、怖いだけの人じゃないのかと」
    「――結構酷いこと言ってるの気付いてる?」
    「あはは、本人に聞かれたら困りますね。――それから、俺はその人のことをなんとなく放っておけなくなりました。なんというか……その人にはすぐ人の輪からすっと消えて居なくなってしまうような、そういう雰囲気がありました。人気者で、誰からも必要とされてるはずなのに、みんなが楽しそうにしていると、一番大事なところで自分は関係ないみたいな顔をして、すっていなくなっちゃうんです――でもそれを見るのが嫌で、いつもその人の手を引っ張り返しに行ってたような気がします」
     晶が饒舌になったのを見て、カウンセラーは少し微笑んだ。
    「――なんだ、随分覚えてるんじゃないか」
    「でも顔はどうしても思い出せないし――名前も。というか、記憶の中の登場人物みんなそうなんです。顔も名前もはっきりしません」
    「ふうん――名前はともかく、顔もわからないのは不思議だね。それだけはっきりと具体的な記憶があるのに」
    「そうですね――だからちょっと、自分でも居心地が悪いというか――」
    「まあでも」
     と、男は手元の書類を束ねてとんとんと机にぶつけてまとめながら言った。
    「――その人物の記憶について探ってみることには実がありそうだ。きみも何かのきっかけがあれば思い出せるみたいだし。少しこまめに来てみたらどう?」
     カウンセリングの時間は終わりに近付こうとしているらしい。しかし晶はふと今月の懐事情のことを思い出して、視線を彷徨わせた。
    「あー、それがあの、今月はちょっとその――厳しい事情がありまして」
     口籠る晶に、男はけらけらと笑って手を振って見せた。
    「ああ――だったら何回かは予約が入ってない時にタダで診てあげるよ。どうせ俺今そんなに患者さんがいないし。面談の予約は直接俺に入れられるし」
    「――いや、それはちょっと申し訳ないです」
     男が笑ってとんでもない提案をしてきたので晶は慌てて首を横に振った。
    「記憶喪失の患者さんなんてそうそう会えるもんじゃないからさ、俺としてもちょっと興味が――って言ったら不謹慎なのかな」
     その親切さと非人間的な冷たさの奇妙に入り混じった言葉に、晶は奇妙な感覚を覚えた。――自分はこういう喋り方をする人をどこかで知っていると思ったのだ。けれど医療従事者にはよくある即物的な思考なのかもしれないという思いつきと共に、その違和感はすっと消え去った。
    「論文にちょっと使わせてよ」
    と男は言った。
    「ちゃんと許可は取るからさ」


     会計を済ませてビルの外に出ると、昼過ぎの繁華街は人出が増え始めていた。無理矢理記憶を掘り返したことによってまだ頭の中がかき回されたようにぼんやりしていたが、ビルを一歩出た瞬間目が覚めたような気がした。そこにフィガロが立っていたからだ――ちょっと照れくさそうな困った顔をして。見たところ手には荷物も何も持っていなかった。
    「――買い物に行かなかったんですか?」
     晶が尋ねると、彼は頭に手をやって眉を下げた。
    「それがさ、買い物の仕方がちょっとよくわからなくて――同じような色のものがいっぱい並んでるんだけど、どれを手に取ったらいいのか」
     まるで老人のようなコメントに、晶は思わず吹き出してしまった。
    「あはは、そこから自分のサイズを探すんですよ。形も実は色々あるので――一緒に行きましょうか」
     一か月共に生活するならフィガロに買ってやらなければならないものはいくらでもあったので、ついでに全部揃えてしまおうと思い、一緒に買い物に繰り出すことにした。しかしこの人は一体これまでどんな生活をしてきたのだろうかと頭の中で想像した――電化製品の使い方も知らなければ、買い物の仕方も知らない。余程の田舎から出てきたのだろうか――大型の店舗が全くなくて、店主が地域の人の需要を全て把握しているというような。
     フィガロの服を選ぶのはそう難しいことではなかった。ジーンズをカットする必要がないほどに足が長いし、まるでハンガーのような体系をしているので、適当なものを着せておけばそれなりに見える。大量生産された化学繊維のシャツを合わせてやりながら、晶はほとほとその体系に感心した。
    「――いいですね、背が高いと何でも似合って。モデルとかできそう」
     素直な感想を口にすると、フィガロはまたきょとんと子供っぽい顔をして首を傾げる。
    「もでるってなぁに?」
    「――服を着て写真を撮られる職業の人のことです、雑誌の表紙とかの為に。あなたみたいに背が高くて顔がきれいな人がやるんですよ」
    「俺はきみにとって男前?」
    「――そりゃ、一般的な水準からしたら遥かに。あ、これもこのサイズで良さそうですね。じゃあさっきのと一緒に買っちゃいましょう」
     自動精算式のレジに向かうと、そこには多くの客が並んでいた。ようやく順番が回って来て晶が清算をしていると、フィガロはその様子を物珍しそうに眺めた――武骨な機械が音を立てながら硬貨や紙幣を飲み込んでいく。
    「まるで魔法みたいだね」
     お釣りが自動的に吐き出されるのを見て彼はそう言った。
    「魔法じゃなくて機械ですよ――電気で動くんです」
    「ふうん。でもなんだかこれだと、人なんか必要なくなっちゃうね」
     ぽつりと呟かれたその言葉が少し心に引っかかったが、盗み見たフィガロの横顔には特にネガティブな表情は浮かんでいなかった。晶はそのまま支払いを済ませ、まとめた荷物をフィガロに持たせると、二人で店を後にした。




    4.

     窓から差し込む少しだけ鈍い朝日を遮って、透けるカーテンが揺れている。晶はカーテンの作る僅かな影を目の端で眺めながら、ローテーブルの前にクッションを置いて座り、タブレットでニュースをチェックしていた。手元には紅茶入りのカップが湯気を立てていて、仄かなアールグレイの香りを放っていた。
     台所からはじゃぶじゃぶと皿を洗う水音が聞こえてきていた。住み込みの家政夫を得た生活というのは案外快適なものなのかもしれない――その音を聞きながら晶は思った。特にその家政夫が仕事の覚えも良く、飲み込みも早く、そこそこ気も使えるとあれば。但し、住み込みの上に費用は全て晶の負担なのでえらく金がかかるが。
     黒いカードを持っている金持ちの生活っていうのはこんなものなのかなあと、ふと画面から視線を上げて晶は遠い目をした。掃除や洗濯を誰かにして貰える生活というのは気分がいいが、昨日の出費のことを思うとかなり頭が痛かった。衣類や身の回り品の為の費用、それから単純計算で倍に増える食事。多少貯金をしていたから良かったようなものの、来月は少し切り詰めなくてはならないだろう。近所の猫に猫缶を持っていく回数も多分減らさなくてはならない。
     無意識のうちにため息をついていると、洗い物を終えたフィガロが台所からやって来た。彼は晶の小さすぎるエプロンを身に着けて、ポケットからはみ出したタオルで手を拭いていた。
    「洗い物は終わったから、あとは洗面所を掃除するだけだよ。――ねえ、今日は何をするの?」
     日頃休日は何もしないで過ごしてしまうことの多い晶には、今日の予定のことについて尋ねているのだと気付くまでに若干の時間がかかった。
    「ええと――特に予定はなかったんですけど」
     社会人の週末は疲れを癒す為に存在する。晶としては昨日外出したのだから、今日は家でのんびりしていたいと思ったが、その考えを見抜いたのかフィガロはやや不満そうな顔をして見せた。
    「どこにも行かないの?」
     その様子がまるで夏休みに遊びに連れて行ってくれとせがむ子供のようだったので、晶は苦笑して彼を見上げた。
    「――どこか行きたいところでもあったんですか?」
    「うーん、特に行きたい場所があるわけじゃないけど、折角だから外に行きたいと思って。きみだって一日こんな狭い部屋の中にいるのは嫌だろう?」
     ごく自然な口調ではあったが、言っていることはこの住まいの悪口にほかならなかったので、晶は少しだけ半眼になった。
    「――これが一般的なこの国における若者の部屋の大きさです。土地が有り余っている国ではないので」
    「ああごめん、そういうつもりじゃなくて――気を悪くしたかな」
     晶が肩を竦めると、フィガロは少し困ったように笑った。
    「ごめんね、俺はなんていうか知らないうちにおかしなことを言ってることがあるようだから。色々本とかで勉強はしてるんだけど」
     少なくともデリカシーの有無については本を読んで学ぶようなことではないだろうなと頭の隅で考えながらも、晶は「別に気にしてませんよ」と首を横に振った。
     しかし目下の問題はフィガロが外出を望んでいることの方だった。彼の身柄を引き受けたことも含めて、晶にとっては既に色々な出来事の詰まった週末だったし、そう無理ができるほど体力も残っていない。
    「そんな遠出したいわけじゃないんだよ、ただ外に出れば俺が探している子についての手がかりも何かあるかもしれないと思って」
     晶が疲れていることを見て取ったのか、フィガロはそう付け加えた。
    「手がかりですか――なんのあてもなく?」
     一体この男は都会をなんだと思っているのかと考えながら、晶は少し怪訝な顔をした。そもそも顔も名前も覚えていない相手など、運よくすれ違ったところでその人とはわからないだろう。
    「――その子の話していた場所を巡って見たくて――いろんな話を聞かせてくれたから。そうしたらほら、顔を思い出したりするかもしれないじゃない?」
     口先三寸という表現が実に相応しいその弁舌にほとほと感心している晶をよそに、彼はそれに、と付け加えた。
    「――それにさ、やっぱり共同生活するならお互いのことをもうちょっと知っておいた方がいいと思わない?」
     やや身を屈めて片目をつぶって見せるその仕草があまりにも様になって、ただ茫然と見上げていると、フィガロは自分の誘惑が効果を示さないことにじれたのか、そのまま言葉を次いだ。
    「ってことで、デートしない?」


     淡い中間色の壁紙に白を基調とした家具、それから色とりどりの模様ガラスの食器。クロスの隅には猫が刺繍されていて、気付いた者にちょっとした微笑みを与えてくれる。白磁の皿にのせられたケーキはフルーツに彩られて可愛らしく、ふわりと泡立ったクリームは口にすればきっと程良い甘さで口に溶けるのだろう。甘いものにはそこそこ目がない晶にとって、それは目にも幸せな光景だった――ただ一つ、同行者がいい年の男性で、周りが女性客やカップルに埋め尽くされているということを除けば。
     晶とフィガロとは、自宅からさほど離れていないところにあるカフェに連れ立って来ていた。一体他人の金でデートとはどういう了見だとは思ったが、言われてみれば確かに一日中成人男性二人で部屋の中に閉じこもっているのも、と思い直して彼のおねだりを受け入れることにし、今に至る。フィガロの探し人は“苺のミルフィーユが有名なケーキ屋さん”が好きだったと言うので、適当に見当を付けて連れて来てみたが、席に案内されてから晶は非常に重要なことを思い出した。
     男二人で、それもフィガロのような見目のいい男とこういう店に入れば、当然物凄く目立つのである。先程から向かい側の席に座る女性客の視線がこそばゆいし、つい五分ほど前にはカップルがひそひそ話をしながらこちらを見ていた。
     居心地の悪さに内心悲鳴を上げながら運ばれてきたティーセットでお茶を淹れていると、フィガロが楽しそうににこにこ笑いながら口を開いた。
    「――ねえ、俺達デートしてるように見えると思う?」
     晶はそれには答えずに、黙って不満を表情に示し、恨めしい気持ちをちょっとだけ視線に込めた。どうやらこの男は平均より少し図々しいだけでなく、人を揶揄うのも好きらしい。これはとんでもない拾い物をしてしまったのではないかと過去の自分を少しだけ呪いたくなった。
    「あれ、今のはダメだった?」
     覗き込んでくるその目はいたずらっ子のそれのように、やけにきらきらと輝いていた。楽しくてしょうがないといった風である。
    「あの、一応言っておくと、お恥ずかしながらこの国はあまりリベラルではないです。男性同士がデートとやらをしているところを見るのはそこまで一般的ではないので、そういう風には見えていないと思います」
    「そうなんだ? でもさっきの人俺達のことを見て内緒話してたよ」
     この国の一般常識のことなど何も知らないくせに、そういうところだけは正確に理解しているのがどこか憎らしい。晶はため息をついてフォークを手に取ると目の前のケーキに突き刺した。スポンジケーキがすっと切れて、大粒の果物が皿に転げる。
    「そんな仏頂面して食べたらケーキが可哀想だよ」
     フィガロはそう言って自分の目の前に置かれたミルフィーユに手を付けた。やけにちびちびとケーキの端をつつくようなその食べ方を見ながら、晶はふと気になっていたことを尋ねた。
    「――苺の有名なミルフィーユのお店ってここであってました?」
     晶の問いに、フィガロは少し考えこむような様子を見せてから、「多分」と答えた。
    「よくわからないけど、大体その子の言ってた店の特徴とは一致してる気がするけど。食器が可愛くて、ミルフィーユが有名だって。あと時々猫のモチーフのものが置いてある」
    「――そんな店いくらでもあるからなあ……俺の好きなとこ連れて来ちゃいましたけど。で、何か思い出せそうですか?」
    「うーん、どうだろうね?」
     フィガロがまるで他人事のように首を傾げたので、晶はため息をついてケーキを口に入れた。これではただ彼が外出して楽しい休日を過ごしたかっただけなのではという疑いももたげてくる――いや、自分とカフェで時間を潰して何が楽しいのかという点は非常に疑問だったが。
    「――そもそも一体なんでそんな顔もわからないような相手のことを探そうと思ったんですか?」
     呆れ半分に晶はそう尋ねたが、言ってしまってから少し不躾な物言いだったと気付いた。その言葉を口にした瞬間、フィガロの表情に少しだけ影が差したからだ。
    「さあ、なんでだろうね」
     彼は頬杖をつくと、晶から目を反らしてあたりの客を眺めるように、そのどこか物憂げな視線を彷徨わせた。もしかしたら彼にとってはあまり言われたくないことだったのかもしれないと思い、少しだけ気まずくなった雰囲気を修復しようとするように、晶は言葉を次いだ。
    「――どんな人だったんですか、その人」
    「ん?」
     晶の問いに、フィガロは視線だけを動かして答えた。
    「あなたが探してる人です――そう言えば何も聞いてないなって」
     フィガロはしばらく思案しているようだったが、やがて「そうだな」と記憶の底から何かを引っ張り出してこようとするように、その目線を朧げなものにした。
    「――昔ね、篭絡してやろうと思ってた男の子」
     耳に覚えのある響きにどこか違和感を覚えながらも、その発言の倫理的な問題の方が気になってしまって、晶は思わず顔をしかめた。
    「ああ、そんな顔しなくても俺は別に何もしてないよ。その子もガードが堅かったし」
    「……逃げられたんですか?」
     晶が思わずそう尋ねると、フィガロは笑った。
    「うーん、まあそういうことになるのかな? でも実はそれもよくわかんないまま別れちゃったんだよね、その子俺のこと大好きだったと思うんだけど」
    「自信家ですね」
     平然と他者の気持ちについて言い切るフィガロに、晶は賞賛と呆れの入り混じった視線を送った。
    「だってそういうのはわかるものじゃない? 少なくとも俺は敏感な方だから。――でもどうしようもない事情で、どうしても離れ離れにならなきゃいけなくてね」
     そう口にしたフィガロの表情は先ほどより更に深い寂寥をたたえていたので、晶はかける言葉を失い、黙ってティーカップに手を伸ばして少し乾いてしまった喉を潤した。
    「――大事な友達かなんかだったんですか、その人は」
     篭絡という言葉を敢えて無視して晶はそう尋ねた。案の定フィガロは答えを吟味するような様子を見せてから口を開く。
    「どうだろう――友達というよりは……なんていうかその子のことを可愛いと思ってたよ。篭絡しようとしてたって言ったでしょ。最初はその子のことを便利に使ってやろうかなって思ってたんだけど――簡単な子だったし。そのうちいなくなっちゃうってわかってたから、後腐れなく使ってやれると思った。でもそういうのに気付いてても、俺が寂しい時には、素直に俺のことを構ってくれるような子だったから。なんていうか、底抜けに優しい子だったね」
     言葉の想像させるその関係性のどうしようもなさとは裏腹に、それを語るフィガロの横顔は妙に柔らかで、まるで雪の下から芽吹いた若葉を見つけた人のような表情をしていた。その表情にも、声の穏やかさにもどこか胸の奥を掴まれるような苦しさを感じて、晶は目を反らして、ただじっとクリームの小さな気泡を見ていた。
     そんな晶の心を知ってか知らずか、彼は静かな声で続けた。
    「そんなだったから、俺だってものすごく真剣に探そうとしたわけじゃなかった。だけど時々妙にその子のことを思い出すことがあって――それこそ、寂しいときとかさ。そういう夜のひとつだったんだ、俺がその子と別れた場所に行ったのは」
    「――それで、ここへ流れ着いたんですか?」
    「……多分ね。もしかしたら会うための手がかりがあるかも、だなんて馬鹿みたいな期待をしてその場所をうろうろしてたら――あとはきみも知っての通りだよ」
     どこか自嘲的なその物言いに物悲しさを感じながら、晶は黙ってティーカップを口に運んだ。フィガロの話はその身の上話からして深い靄に包まれていてどこからどこまでが本当かわからないようなところがあるが、少なくとも今この瞬間彼は嘘を言っていないだろうと思えた。フィガロの語るその男の子と彼との関係は、ほんの切れ端を耳にしただけでも、どこか物哀しい雰囲気をたたえていた。こんなある意味常人離れした男がそんな顔で思い出すその相手というのは一体どんな人物なのだろうと想像する。
    「ああごめん、ちょっと暗くなっちゃったね。――お詫びにこれ食べる? ちょっと手を付けちゃったけど――ってまあ、きみがお勘定払うんだけど」
     数センチ押し出された皿に、そんな気遣いはいらないからどうか甘いものでも食べて欲しい、と口にしようとした時だった。
     ふいに目の前に差し出されたそのケーキと、それから誰かが座っていて自分に詫びているというその光景、それが強烈な既視感をもって晶の脳に飛び込んで来た。先程まで見ていたのと何も変わらない光景であるはずなのに、それは突如浮き出して鮮やかに見えた――いや、逆だ。セピア色の古ぼけた写真のように、目の前の光景は一気に彩度を失い、過去のそれになる。穏やかな昼下がり、カフェテリアの一席――自分と誰かが向かい合っている。男性だ――彼は何かを自分に詫びていて、埋め合わせにと自分の皿の上にのった、ほとんど手の付けられていないケーキを差し出していた。そして自分は、そんな顔をしないで欲しいとその男に対して思っている。
     眩暈がするような気がして、晶は思わず目を閉じた。それは現実の映像と記憶の中の映像が重なり合い、その境界が曖昧になる、足場の不確かな瞬間だった。平衡感覚が失われそうになって思わず目の前のテーブルに手を付くが、それが現実のそれなのか、記憶のそれなのかはもうわからない。
    「――ちょっと、大丈夫?」
     鈍く渦を巻き始めた意識の靄を裂いたのは、誰かの声だった。瞬間、虹色に滲み始めていた視界がクリアになり、ごく普通の色を持った世界が帰ってくる。揺らぐ視界をなんとか平行にしようとしながら前を見ると、こちらを覗きこんでいる翠色の瞳があった。
    「フィガロ」
     思わず名前を呼ぶと、少し気遣わしげな視線が返って来た。
    「――大丈夫? なんか今一瞬物凄くぼんやりしてたっていうか――具合悪そうだったけど」
    「大丈夫です、具合が悪いわけじゃなかったので――ただ、ちょっと昔の記憶が」
     無意識に米神を抑えていると、フィガロはその視線を一瞬強くした。
    「……記憶って、きみが溺れる前の?」
    「はい。異世界にいた時の――誰かとこうやって、一緒にお茶を飲んでいた時の」
     フィガロはまじまじと晶を見つめていたが、やがてティーポットを手に取って晶のカップに注ぎ足した。
    「――あまり無理をしない方がいいよ、記憶って繊細なものだから」
     その物言いがまるで記憶一般に関して何らかの知見のある人物のもののように響いて、晶は一瞬違和感を覚えた。だがフィガロ自身の記憶も曖昧なところがあると言っていたから、あるいは経験に基づく発言かもしれないと思い、ただ頷くにとどめた。


     一通りカフェでゆったりとした時間と美味しいケーキを堪能した後、二人は店を後にした。外に出た瞬間、ふと潮の香りを感じたような気がした――海が遠くないことを考えれば不自然なことではなかったが、どことなくそれが頭に引っかかって、帰りのバスに乗っている間も海のことを考えていた。
    「――あの、フィガロ」
     隣にいた連れ合いを見上げると、彼もまた物思いにふけっていたのか、不意打ちを食らったような顔をした。
    「ん? 何?」
    「今日ちょっと家に帰った後出かけていいですか。すぐに帰るので」
    「――どうしたの? 何か用事を思い出した?」
     やや怪訝そうな顔をする彼に、晶はいいえ、と首を横に振った。
    「ちょっと海に行きたいような気がして」
    「――大丈夫なの? 俺も付いて行くよ、迷惑でなければ」
     少し迷ったが、恐らくそれは晶の海に対するトラウマを心配してのことなのだろうと思い、素直に頷いた。
    「フィガロが疲れていないのなら。――でも一度家に寄ってもいいですか」


     晶はマンションの玄関の前にフィガロを待たせたまま部屋に戻り、それから貝殻の笛を棚の上から取って来て首に下げた。身支度はそれだけだった。後は財布があれば事足りる。
     海まではフィガロに街を案内するがてら歩くことにして、色々な商店を見せながら少し回り道をした。その一つ一つに彼は好奇心に溢れた視線を向けていた。家電量販店の前で「えらくきらきらしてるね」と呟くのを聞いて、一体どんな田舎から出て来たんですかと冗談めかして聞いたが、曖昧な笑みが返って来ただけで具体的な答えは返ってこなかった。
     海辺への道は先日よりも少しだけ人出があった。海開きが近付くにつれ、気温も上がっている。おなじみのサーフボードを抱えた若者達とすれ違うと、浜辺へと降りる階段が見えた。フィガロを救助した時にも通った道だ。
    「――きみ、海に近付けるの?」
     階段を降りてしばらく砂浜の上でぼんやり突っ立っていると、フィガロが背後から声をかけて来た。
    「わかりません」
     夕暮れになびく海の家の旗を見ながら、晶は答えた。多分あの旗はそろそろ替えた方がいいだろうと思った。ぼろぼろになって、端の方がほつれていた。
     波はさほど高くなかった。もし温度が高ければ泳ぐことも不可能ではないくらいだっただろう。夕日の照り返す海は暗い青とオレンジが入り混じって、不思議な色合いをたたえている。晶はゆっくりと一歩一歩、波打ち際に近付いて行った。そしてもう無理だと思うところで立ち止まる――一人で来るときも、いつもそうしていた。
     フィガロが言葉を発することはなかったし、それは晶にとってありがたいことだった。いつもするように、首から下げた貝殻を手に取ると、それを唇に当てて息を吹き込んだ。澄んだ高い音が聞こえて、それが時折聞こえるウミネコの鳴き声に混じる。彼らは一体誰を呼んでいるのだろうか。仲間だろうか、それともただ無意味にその声を上げているだけだろうか。――この笛の音は一体誰かを呼んでいるんだろうか、何かの意味があるのか――いや、意味はある。自分はそれを知っている。古くから笛の音は誰かに何かを知らせる為に使われるものだ。だがそれだったら何を。
     海がほんの少し、セピア色に見えた。けれどそれは先ほどカフェで経験したような強烈な感覚ではなかった。春の日に突然眠れる種が芽吹くように、その気付きは晶の脳裏に姿を現した。
     ――自分は忘れないよ、と約束したのだ。それを誰かに約束した。多分この笛を鳴らすことで、どこかにいる誰かにそれが伝わると無意識に思っていたのだろう――いや伝わればいいなと願っていたのだ。だからこそわけもわからないまま、苦手な波打ち際に来ては日々この貝殻を鳴らし続けていた。通りすがる人々に時折奇妙な目で見られながら、無意味とも思えるこの行動を繰り返していた。
     ――では一体誰と約束したのだろう。何を忘れないよと約束したのだろう。
    「――その笛、お気に入りなの」
     息を吹き込むことに疲れてぼんやり海を眺めながら思考の波間に漂っていると、いつの間にかフィガロが隣に立っていて、晶の手の中のそれに視線を注いでいた。
    「お気に入りというか――俺が救助された時に唯一持っていたものなので。俺の記憶に何か関わりがある気がして」
    「じゃあどこで手に入れたのかは覚えてないんだ?」
     フィガロの問いに、晶は口籠った。今ならそれが思い出せそうな気もした――だが記憶の扉は既に閉じてしまっていて、今日はもう店じまいだとばかりに沈黙していた。
    「覚えてないです。見た目からすると海のお土産かなにかなのかな……」
    「まあ貝殻だからね。――異世界からのお土産か」
     今朝の短い会話を彼が覚えていたことに少し驚きながら、晶は隣の男を見上げる。
    「――揶揄ってます? 普通の人は異世界なんて言ったら笑うんですけど」
     その言葉にフィガロは笑って肩を竦めた。
    「信じない人の方が多いだろうけど、信じない理由もまたないだろう? それがないっていう証拠はどこにもないんだからさ」
     煙に巻くようなその物言いに晶はただ「そうですね」と答えて海の方に向き直った。そろそろ月が空を支配する時間が来ようとしていた。
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    tamagobourodane

    DOODLEお互いのチャンネルに日参してるVtuberのフィガ晶♂の話
    ※Vtuberパロ注意/リバの気配というか左右曖昧注意

    なりゆきで弱小センシティブめ企業Vやってる晶くんが、厄介リスナーの「がるしあさん」に悩まされつつ「フィガロちゃん」の配信に通う話
    文字通りほんとに悪ふざけの産物です
     手にはワセリン、傍らにはティッシュペーパー。ジェル、コットン、ブラシだ耳かきだのが並ぶ脇には、更に行程表が見える。『耳かき左右五分ずつ、ジェルボール五分、ここで耳ふーを挟む。数分おきに全肯定、“よしよし”』。アドリブに弱い晶が、慌てないようにと自分の為に用意したものだ。
     成人男性が普通なら机の上に並べないようなそれらのアイテムの真ん中に鎮座しているのは、奇妙な形をしたマイクだった。四角く黒い躯体の両側に、二つの耳がついており、その奥に小さなマイクが設置されている――最近流行りのバイノーラルマイクというやつで、このタイプは手軽に耳かきをされているような音声を録音することができる。
     そしてその奥にあるのはモニターとオーディオインターフェース――画面に流れるのは、大手配信サイトの管理画面と、コメント欄だ。配信のタイトルが目に入るといつもげんなりするので、いつもその画面は閉じているのだけれど、今日はその手順を忘れていた。――「ぐっすり眠れる耳かきとジェルボール――入眠用ASMR♡」。
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