I love youは聞こえない / I love youは届かないあの世界の月――≪大いなる厄災≫は綺麗ではなかった。
たくさんの生物を殺し、大地を壊し、賢者の魔法使いたちに傷を与えた。
血に染まった、醜い存在。
だけど、この世界に来てからはどうだろう。
この世界の月は俺たちに危害を加えることはないし、何かを壊すこともない。
毎晩暗くなった街を照らし、人々に希望を与えている。
「あの世界で『月が綺麗だ』って言ったら、フィガロは不謹慎だと怒りましたよね」
「そりゃそうだよ。賢者様は殺人鬼を美しいと思うのってあの時も聞いたはずだけど」
「俺はそんな変わった人じゃないです」
賢者様はたまに意味不明なことを言う。
蒸し暑い時に「今日は少し肌寒いですね」とか、晴れているのに「雨、止みませんね」とか言っていた。俺が「風邪引いたの?」「大丈夫?」と声をかける度、悲しそうな顔をしていた。
「ねぇフィガロ」
「なぁに、賢者様」
「月が綺麗ですね」
今はまだ昼だ。月はどこにも出ていないのに、何を言っているのだろう。
「どうしたの?体調悪い?」
「…いえ、何でもないです」
また、悲しそうな顔をしている。
ねぇ賢者様、どうしたら、何と返せば賢者様は喜んでくれるの?
フィガロに「好き」と、素直に言えたらよかったのに。
どうせいつかは離れ離れになってしまうのに好きなんて言ったら、離れたときに心に大きな傷を負わせてしまう。だから、俺は「好き」とは言わなかった。
でも、それだけじゃ俺が苦しいままだった。フィガロへの「好き」が積もっていくばかり。好き、好き、好き。そのt気持ちを心の中に溜めこむ度に胸が締め付けられるような感覚がした。
「月が綺麗ですね」
この世界には素敵な言い回しというものは存在するのだろうか、と興味本位で言ってみた。
「…あれが?≪大いなる厄災≫が美しいと思ってるの?賢者様は殺人鬼を美しいと思うの?」
「…すみません、なんでもないです」
素敵な言い回しなんて存在していなかった。わかってもらえなくて悲しいはずなのに、俺の心の苦しさはなくなっていた。伝わらなくても「好き」と、別の言葉でもいいから口に出せば楽になれると気付いた。
それから俺はフィガロに対する「好き」をいろんな言い回しで表現するようになった。手を繋いでほしい時は「少し肌寒いですね」、もう少し隣にいてほしい時は「雨が止みませんね」と言っていた。フィガロは俺の体調を心配するばかりで俺が言っている言葉の本当の意味は理解していなかった。
「ねぇフィガロ」
「なぁに、賢者様」
好きです。俺の世界についてきてくれてありがとうございます。
なんて、言えなかった。
「…月が綺麗ですね」
俺の口から出たのは言いなれた言い回しだった。
この世界についてきてくれるぐらいに俺はフィガロに愛されているはずなのに、もう「好き」と言ってもいいはずなのに、俺はまだ言えない。
「どうしたの?体調悪い?」
そう言われた瞬間、胸が締め付けられるような感覚があった。
どうして、今まではそんなことはなかったのに。
「好き」と伝えずに違う言葉で言う度に、心が楽になったはずなのに。
「…すみません、なんでもないです」
どうして苦しいのだろう。どうして悲しいのだろう。
愛する人は、もうどこにも逃げないのに。