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    tamagobourodane

    @tamagobourodane

    書きかけのものとか途中経過とかボツとかを置いとくとこです
    完成品は大体pixivにいきます

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    tamagobourodane

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    自分の世界に帰って異世界のことをかなり忘れちゃってる晶君のところにこれまた色々忘れてるフィガロが「来ちゃった♡」する話 (3/4)

    フィガ晶♂です

    多分しんどいところだから元気な時に読んで欲しい

    あと6話くらい残ってますが多分あとは出来上がったら全部まとめてピクシブいきます

    9.

     たくさんの美しい布地がベッドの上に置かれ、晶のベッドの上はまるで仕立て屋の机の上のようなことになっていた。薄く透けるシフォンからしっかりとした絹まで、あるいは綿の丈夫そうな布地まで、その淡い色彩が部屋を少しだけ賑やかにする。
     晶はちょうど任務の為の衣装の試着をしているところだった。今年の賢者の魔法使いにはデザイナーを志す青年が名前を連ねていて、特別な衣装が必要になる場合はこうして仕立ててくれるのだ。今回は南の国のある村に調査任務に行くというので、なるべく地味で目立たないような、しかし動きやすい服をという注文がついていた。
     既に彼が作った衣装は、調整が必要ないほどに晶の身体にぴったりなように見えた。麻のようなものでできたシャツに房飾りのついた薄茶色のカーディガンを羽織ると、若草色のパンツと相まって、南の国の景色に良く馴染みそうだった。作業中の村人と名乗るには少々余所行きに見えてしまうかもしれないが、旅人と名乗っても問題はなさそうだ。
    「腕が動かしづらかったりしない? 肩のところとか、腰回りは大丈夫?」
     青年が腕を上げ下げしてみて、と言うので晶は言われた通りにした。それからくるりと後ろを向かされ、背中の側に変な皺が寄っていないかなどを確認される。オーダーメイドの服を特注する、金持ちにでもなったような気分だった。青年はあちこち引っ張ったり、唸ったりしていたが、やがて「うん、サイズは大丈夫そうだね」と言って満足げなため息をついた。
     彼は晶を正面に向かせると、少しだけ後ろに下がって全身を確認するように、上から下へと視線を走らせた。そしてやがて考え込むように顎に手を当てて、小さな声で唸る。
    「なんかちょっと寂しいんだよね。あと一歩って感じで」
     晶は青年の視線がなぞったように、自分の身体を見下ろした。彼にとっては既に十分に細部までこだわりの行き届いた衣装に見えるのだが、プロの目というのは何か違ったものを見るのかもしれない。青年は自分の作業道具に目を走らせていたが、やがてふと晶の机の上に目を留めると、そちらに近付いて行った。
    「――ねえ、もし賢者様が良かったらなんだけどさ、これ可愛いアクセサリーにならないかな?」
     そう言って青年が指さしたのは、晶が机の上に飾っていたボルガ島の土産だった。島でちょっとした事件に巻き込まれ、紆余曲折の末に貰って欲しいと贈られたもので、当初はそれを鳴らすと海の生き物がやってくるという魔法がかかっていた。今は魔法の力を使い果たして、静かに装飾品として机の上に横たわっているのみだが、それを知ったある魔法使いが「じゃあこれを鳴らしたら俺が飛んでくるなんてのはどう」と冗談めかして晶を揶揄っていたなんてこともあった。
    「――別に俺は構いませんけど、でもどうやって加工するんですか?」
    「魔法で穴をあけないように留め具をつけてあげれば鳴らなくなったりしないかなと思って。ちょっとやってみてもいい?」
    「どうぞ」
     晶が快く承諾すると、青年は貝殻をそっと手に取って魔法の言葉を唱えた。晶がこれを贈られたとき、青年もその度に同行していたので、この貝殻に関しては同じ思い出を共有していた。彼は美しい夏の海の記憶をなぞるかのようにそっと指先でそれに触れて微笑むと、いつの間にかそこに現れていた美しい留め具に道具箱の中の紐を通した。
    「これを首にかけたらどうかな?」
     青年はそう言って晶の首に貝殻をさげてくれた。淡い色の貝殻は、青年のしつらえた中間色の衣装に良く合っていて、幾ばくか、胸元のあたりが華やかになったように見えた。
    「うん、思った通りすごく可愛い!」
     青年に満面の笑みを浮かべられては、晶としてもそのデザインを拒否する理由はなかった。アクセサリーなど付け慣れないので少しばかり首元のそれの存在感が気になったが、ものの数分もしないうちにすぐ気にならなくなった。
    「今回俺達南の国に行くんだよね」
     青年はベッドの上の布地を丁寧に片付けながら晶に尋ねて来た。
    「はい、そうです――どこかの村で、魔獣が大量発生してしまったみたいで、それの調査に」
    「――なんか最近そういう依頼増えたよね……でも、それだけ俺達が頼りにされてるってことなのかな」
     危険な任務だったら心配だな、と彼はその美しい形をした眉を心配そうに寄せて言った。あなたが作ったこの服がちゃんと守ってくれますよ、と返すと彼はその頬を少しだけ染めて、嬉しそうにしていた。

     任務に出発するまではまだ時間があったので、少し気分を変えようと思い、晶はいつものように最低限の荷物だけを持って晴れた裏庭に出た。任務に出かける前の魔法舎の中はいつもどことなく騒がしく、一人で落ち着くには向いていない。運よく前に見かけた野良猫にでも会えればいいのにな、などと考えて辺りを見渡していると、全く予想もしていなかった人物が目に入った。
    「――あれ、賢者様どうしたのこんなところで」
     それはくすんだ青を僅かな風になびかせる魔法使いで、いつもの白衣を脱いで、今日は晶と似たような雰囲気の衣装を着ていた。恐らく任務の為にとデザイナーの青年に着替えさせられたのだろう。同じような麻のシャツを着ていても、彼の姿には常にどこか威厳のようなものがあって、残念ながらとても旅行者にも村人にも見えない。
    「――ちょっと任務の前に落ちつこうと思って」
     晶が答えて微笑むと、男は近寄って来た。そうして晶を頭からつま先まで見分するように眺めると、ふと胸元で目を留めた。
    「あれ、それボルガ島に行った時にもらったやつ?」
     彼の視線の先が胸元の貝殻に向いていることに気付いて、晶は頷いた。
    「あ、そうです。ちょっとしたワンポイントになるんじゃないかってs%Pエが加工してくれて」
    「――なんだ、俺に飛んできて欲しくて身に着けてるのかと思ったのに」
     その言葉を受けて、晶は先ほども少し頭を過った男の言葉を思い出した――それは旅行先でのなんでもない会話だった。笛が海の生き物を呼ぶ力を失ったのなら、今度は俺が飛んでいくのはどう、という毒にも薬にもならない冗談だ。
    「あはは、でもこれにはもう魔法の力はないのであなたには届かないですよ」
     晶が言うと、男は少しばかり思案するように貝殻を見てから、やがて口を開いた。
    「――だったら実際にかけてみようか、魔法」
    「え?」
     晶がその言葉の真意を問う間もなく、男はその貝殻をそっと手に取ると、力ある言葉を口にした。
    「ポッシデオ」
     弾ける粒のような光が貝殻を取り巻いて散り、消えて行った。見た目には何の変化もなかったが、男が満足げに笑ってそれから手を離したところを見ると、何らかの魔法が施されたのだろう。
    「今、どんな魔法を使ったんですか?」
     晶が胸元の貝殻を見下ろしながら尋ねると、男は小さく笑った。
    「賢者様がそれを吹くと俺が飛んで来る魔法だよ」
    「――え、本当に?」
     驚いて胸元の貝殻に触れたが、何らかの変化があるようには見えなかった。魔法使いであれば、魔力の気配のようなものを感じたりもするのだろうか。
    「本当に。ちょっと強めにかけといたからちゃんと効果あると思うよ。これで賢者様が危なくなった時も安全だね――あ、でもいたずらで吹いたらだめだからね。俺、本当に呼ばれちゃうから」
    「それは……なんというか、とても助かりますけど、でも――どうして」
     晶は男の行動の真意を今一つ理解することができずに、心の内の違和感を表情に浮かべた。これまで晶が危険な目に遭うことなんていくらもあったのに、この男はこんな魔法を彼に与えたことはなかったのだ。気まぐれというよりは計画的という方がこの男の性分を説明する言葉としては勝っている――何かしらの理由があるのだと晶が勘繰るのも無理のないことだった。怪訝な顔をする晶に、男は少しだけ困ったような顔をして頬をかく。
    「うーん、俺が賢者様のこと心配したらそんなに変?」
     それなりに親交を深めてたつもりなんだけどなぁ、とぼやいた彼に、晶は慌てて首を横に振った。
    「変ではないです。変ではないんですが――どうしていきなりと思って」
    「……この方がきみの声が俺によく届くかと思って?」
     男の答えは抽象的で晶には良くわからないものだったが、眉を僅かに寄せたままの晶に、彼は「あはは、今のは冗談、気にしないで」と笑った。それからやや真顔になって次のように付け加える。
    「――賢者様を危険に晒したくないのはいつもそうなんだけど、今回はちょっと気になることがあって」
    「今回の任務のことですか?」
     晶が目を丸くすると男は苦笑いをして気まずそうに少し視線を横に反らした。それは彼がやや後ろ暗い所がある時にしばしば見せる仕草だった。
    「まあそうなんだけどね――多分大丈夫だとは思うんだけど、依頼書の内容がちょっと昔見た事件に似ててね。魔法使いとの戦いにならないとも限らないと思ったからさ。――この間の事件の時みたいに、俺達の弱点であるきみだけがまた攫われないとも限らない」
     魔法使いとの戦いという言葉に、晶の表情は俄然暗くなった。賢者の魔法使いというのは基本的に世界を守る存在であるため、面と向かって彼らと事を構えようとする魔法使いに出会うことは少ないのだけれども、それでもそういう連中もいるにはいる。厄災で世界が滅びようがなんだろうが、構わないと思うような者達が。そういう相手との戦いになれば、大きな被害が出ることが多かった。真っ先に頭に過ったのは、今しがたフィガロも口にした、とある人形遣いの魔法使いとの戦いのことだった。多くの者が石になる寸前の怪我を負ったり、命の危険に晒された――無論、晶自身も。
    「ああ、心配しないで、そんな大がかりな戦いになるような相手は南の国に残っていないと思うから。ただ、賢者様は人間だからね――念のために」
     心の内の不安が顔に出てしまっていたのだろうか、男が少し慌てたように言葉を重ねたので、晶は「ありがとうございます」と彼の気遣いに礼を言った。
    「――白い柔らかい毛に包まれた魔獣って言ってたよね」
     そんな晶に、男はふと確認するように尋ねた。
    「依頼書を見せて貰った時にはそういう説明を受けました。赤い目をしていると」
    「――赤い目か」
     呟くように言った男の視線は、もうここではないどこかに向けられているように見えた。


     任務へはいつも通りエレベーターと魔法使いの箒で向かうことになった。南の国の魔法使いと、応援に呼ばれた西の国の魔法使い達は、めいめいの思うままのスピードで目的地を目指した。晶はと言うと先程彼に魔法をかけた魔法使いの後ろに乗せられて、これから向かう場所の特産品などの話をぼんやりと聞いていた。
     村は南の国でもかなり奥まった場所にあったが、開拓されてからの日は浅くないようだった。この辺に続く道は平坦な場所が多かったから、人が住めるようになるのが比較的早かったのだと前に乗る魔法使いが説明してくれた。
     一同はその村を率いている指導者の所へ向かい、依頼書の内容を確認しにいった。指導者は老人だった――白い髭を蓄えた、物静かな老人だった。
    「――白いネズミに似た動物――恐らく魔獣が畑のものを全て食らってしまうのです」
     そう言った彼の姿は酷く疲弊して見えた。
    「畑のものがなくなれば、民家に忍び込むこともあります。悪くすれば、柱などを食べてしまうことも。こんなことが続けば、この村の者は冬を待たずに餓えてしまう、現に奴らは増え続けていまして」
    「――そんなことが起こるようになったのはいつ頃からです?」
     パイプをくゆらせながら長身の男が尋ねると、老人は考え込むようにして言った。
    「――正確には、わからんのです。以前からこういう生き物は時々見ました。けれど問題にならない程度だったのです。けれど今年に入ってから、異様に増えて――賢いので罠も毒も効かず、困り果てています」
    「今年というと、やはり厄災の影響なのでしょうか」
     傍にいた大男が静かな声で言って隣にいた魔法使いを見る。
    「――ないとは言えないね。そしてそれの影響を受けるとしたら、お爺さんの見立て通り普通のネズミじゃないだろう。魔獣とかそういう類のものだ。普通の罠や毒が効くわけがない」
     話を振られた男は、肩を竦めて答えた。
    「――彼らの巣のような場所はわかりますか」
     パイプの男が冷静な声で尋ねた。すると老人は力なく首を横に振った。
    「――どこから来るのかもわからんのです。何となく――村の外から押し寄せているような気もするのですが、定かではありません」
    「ひとまず聞き込みかな、そのネズミとやらがどこから来るのかさ」
     場にそぐわない少しばかり軽やかな調子で言ってのけた男を、パイプの男が振り返り、目をすがめてじっと見つめた。だがやがてその視線はゆっくりと外される。
    「――そうですね、まずは村の皆さんのお話をお伺いしましょうか」

     魔法使い達はいくつかの組に分かれ、魔獣についてより多くの情報を得る為に聞き込みに回ることになった。晶はデザイナーの青年とその師匠と共に老人の家に残され、そこで老人と、その家人の話を洗い直すことになった。改めて話を聞いてみても大したことはわからなかったが、どうも老人の孫に言わせると、ネズミの魔獣は人間を襲ったりはしないらしい。
    「腹が減ってない時は、あいつら遊び相手になるよ」
     事も無げに子供が言うので、老人は「なんということを」と目を吊り上げたが、子供は老人の怒りの理由をあまり理解していないようだった。
    「ふわふわしてて気持ちいいんだ。手の上にも乗るし」
     しかしそう言った子供の腹はぺたんこで、腕も骨ばっていたので、晶は何も言えずに目を反らすしかなかった。
     しばらくの間話を聞いてみたが、もうそれ以上新しい情報は得られそうになかった。手持ち無沙汰な晶は少し外の空気を吸いたくなって、その旨を申し出た。村の要人の家の周りなら危ないこともなかろうと魔法使い達は快く了承してくれ、晶は席を外す非礼を詫びてから、そっと木戸をくぐって外へ出た。
     長の家を一歩外に出ると、近くで子供達が遊びまわっている声が聞こえた。元気もよく、村が飢餓の危機に晒されていることなど露ほども知らないかのようだった。けれどこのままこの状況が続けば、この村は冬には沈んでしまうのだ。
     一見のどかな村の風景を見渡していると、ふと晶は絡みつくような視線を感じた。それと同時に、足元で何か小さな生き物が鳴き声を上げるのを聞こえた。ちゅう――そのネズミのような鳴き声を追うと、足元に小さな白い毛玉が蹲っていた。それはむくりと身体を起こし、やがて足早に晶の脇を横切って一目散に走っていく。思わずそれを目で追うと、それが向かった先に人影があった。――目深にかぶった布の向こう側から、やけに大きな目だけがぎょろぎょろと晶を見つめていた。
    「――あ、あの」
     晶は思わずその人物に声をかけた。ぼろを何枚も重ねたローブのようなものをまとったその人物は、男性のように見えた。白い毛玉は鳴き声を上げながら男の身体をよじ登り、やがて首元に潜り込んだ。
     白い毛玉のような生物――明らかにそれは依頼書に説明された魔獣と酷似していた。そしてそれが懐くように向かった先が目の前に立つ男であれば、男が今回の事件と無関係であるとは考えにくかった。
    「――こ、来ないでくれ」
     話しかけようと近付いた晶に対し、男は妙に怯えたような様子を見せた。攻撃的な意図は感じなかった――ただ何かを恐れているという表現が一番しっくりくるように思えた。
    「あの、ただ話をお聞きしたいだけなんです」
     晶はローブの男を警戒させないようにと、少しずつ近付いた。彼にとって難しい場面だった――近付きすぎることが危険なことくらいわかっていたが、取り逃がしたくもなかった。一人で男を追うのは憚られたが、村の長の家の中にいる魔法使い達を呼ぶ旅に声を上げれば、男は逃げるだろう。
    「俺には話すことなんてない」
     男の声は少ししわがれていた。長い間あまり人と話すこともなかったのだろうか。声を出すのがあまり上手くないと思った。
    「――別にあなたに何かしようってわけではないんです、あの、最近村で作物に被害が出ていて――」
     後ずさる男との距離をじりじりと縮めようとしたときだった。緊張に耐えられなくなったのか、男が姿勢を崩して頭を振るのが見えた。
    「――やめてくれ、放っておいてくれればそれでいいんだ――そっとしておいてくれよ!」
     そう叫んだかと思うと、瞬間聞いたことのない、しかし確実に力のある言葉が聞こえた。魔法使いだ、そう気付いたときには既に遅かった。閃光が目の前で弾けて、それから目の前が真っ暗になった――ああしまった自分は判断を間違ったのだ、そう考えた時にはもう四肢が力を失っていた。ちゅう、ちゅう、と小さな生き物が耳元で鳴いたような気がして、それから薄れていく意識の中、男の怯えた声を聞いたような気がした。


     目覚めは強烈な頭痛と、倦怠感と共にやって来た。目を開けた瞬間木の梁がむき出しになった、ところどころ隙間の開いた天井が見えた。梁の部分にはあちこち蜘蛛の巣が張っていて、掃除や手入れの類が全くなされていないことが伺えた。ぽたぽたと、水の落ちるような音が微かに聞こえたから、もしかしたら雨漏りもしているのかもしれない。
     ここはどこなのだろう、と晶はぼんやりした意識の中で思った。いや、自分はこうなる前に一体何をしていたのだろう――そこから思い出さなくてはならなかった。外で気分転換をしていたような気がする――そう考えたところで、村長の家の裏で、魔法使いと思しき男に出会って、そこで気を失ったことを思い出した。となればここは男の家なのだろう。
    「――パンくずと、水だよ、美味しいよ」
     しわがれた声がどこからか聞こえて、ちゅうちゅうと微かな鳴き声が聞こえた。床の上を小さな生き物が走っていく足音がいくつも聞こえる。痛む頭を無理に動かせば、床板が後頭部に当たった――気を失ったまま、床に転がされていたらしいが、膝の上にはブランケットのようなものがかけられていた。埃っぽさに咽そうになりながら目を凝らすと、そこにはたくさんの白い毛玉がいた――ハムスターくらいのサイズのものから、もう少し大きなものまで、それらがあちこち走り回り、それからある方向に寄っていく。
     白い獣たちが向かう先は部屋の隅だった。窓際に置かれた木の椅子に男が腰かけて、そこでパンをちぎっている。窓から差し込む鈍い光が、彼の身体と顔を僅かに照らしていた――出会った時に被っていたローブこそ脱いでいるが、身に着けているものはぼろぼろで、あちらこちらがほつれている。足元にはパンくずと、いくつかの水のボールが置かれていた。白い獣はそれを舐めるように口にしては、男の身体によじ登って、あるものは膝の上に蹲り、あるものは首元までよじ登って身体を擦りつけたりしていた。
    「――お前はもう食べないのか? 昨日も食べなかった」
     男は白い鼠たちに話しかけているようだった。
    「腹がいっぱいなんだろう、知ってるぞ。村で食べ物を漁るのはだめだと言っただろう――こっちを食べないとだめだよ」
     白い柔らかな生き物たちは男の言葉を理解しているのかしていないのか、ただちゅうちゅうと鳴き声をあげるのみだ。けれど、それを見下ろす男の眼差しはとても柔らかく、優しかった。それこそまるで、自分の子供でも見つめるかのように。
     晶は音を立てないように、ゆっくりと身体を起こした。男は不思議とそこまで危険な人物には見えなかったが、晶をここまで攫って来たことに変わりはなかった。何よりも彼は魔法使いで、悪くすれば晶の息の根など呪文一つで止めることができるのだ。既に一度選択を間違えているので嫌でも慎重になったが、どう行動するのが一番良い結果を生むのか、晶にはわからなかった。助けを呼ぶべきか――いや、それ以前にこの男には自分を傷つける意思があるのかどうか。何のために自分を攫ったのだろうか。
     ふと、胸元にぶら下げられた貝殻の笛が、そこで重みを増して存在を主張したような気がした。――そうだ、晶には呼ぼうと思えば今すぐに助けを呼ぶことができた。
     身体を起こすと、まず目に入って来たのは無数の白い毛玉だった――寝転がっていた時には見えなかった部屋の全貌が見え、晶は思わず息を飲みそうになった。白い魔獣は、部屋のそこらじゅうにいた。いや、恐らく彼らがうろついているのは部屋の中ばかりではない――穴の開いた床板の下、あるいは壁の隙間から見える外、そのあらゆる場所に彼らがいるのだという気配がした。
     獣故に気配に敏感だったのだろう、晶が身体を起こしたことにいち早く気付いたのは魔獣達だった。彼らは一斉にその赤い目を晶に向けた――けれど、攻撃性は感じられなかった。ただ黙って、この闖入者のことを眺めていた。
     白い獣の動きから晶が目覚めたことに気付いた男が、小さく息を飲むのが聞こえた。彼は晶に視線をよこして、それから用心深く立ち上がった。ばらばらと、縋る場所を失った白い獣たちが床にずり落ちて、あちらこちらへと駆けてゆく。フードの存在なしに見れば、齢三十半ばといったところの中肉中背の男だった。ただ目元のあたりの示す年齢がさほど高くない一方で、こけた頬や皺の多い首筋はより多くの歳月を見る者に感じさせる。髪の毛は元々茶色だったようだが、白いものがたくさん混じり、老人のような色をしていた。大きな目の向こうには深い絶望が見える――それはまるでぽっかりと空いた暗闇のように晶に向けられていた。
    「――目を覚ましたのかあんた」
     男は晶から一定の距離を保とうとするように、部屋の隅を回る様にして、ゆっくり歩いた。
    「ここはどこですか」
     晶もまた慎重に尋ねた――目に入る限りは、彼らがいる場所は酷く古ぼけた小屋で、窓から見えるのは鬱蒼と茂る木々だけだった。恐らく村の中ではないだろうという見当はつくものの、それ以外のことは全くわからなかった。――あれからどのくらいの時間がたったのか、魔法使い達はもう自分を探しているだろうか。
    「俺の家だよ」
     男は事も無げに答えた。彼は注意深く晶を観察していた――そしてゆっくりとまた口を開く。
    「なああんた、――あんたは賢者なんだろう」
     どうしてそのことを男が知っているのかと考えたが、恐らく長の家に皆で訪問したときに見られたのだろうなと思った。晶の顔を知っている者は少ないが、賢者の魔法使いの、特に経歴の長い者達の顔を知っている者は多い。
    「隠しても無駄だよ、村で話しているのを聞いた」
     答えるべきかどうか迷う晶の頭の中を読んだかのように男が言った。
    「――まさかあいつが来るなんて思っていなかった」
     次いで口にされた言葉は、晶に向けられたものというよりは、独り言のようだった。
    「なあ」
     男がその白目の随分と勝った目を晶に向けた。
    「あんた、あいつらに言ってくれないか――ここには誰もいないって」
     それは哀願のように聞こえた。男の声色は悲痛と言っても良かった。出し慣れない声を絞り出して、訴えているといった表現が相応しかった。晶にはなんとなく男がそうしなければならない理由がわかった。男は白い魔獣を可愛がっている――彼を村人の前に突き出せば、あるいは魔法使い達の前に連れて行けば、何が起こるのかは火を見るより明らかだった。魔獣達は恐らく殺される――人間と魔法使いの為という大義名分のもとに。
    けれど、晶には男の懇願を受け入れることはできなかった――立場上、それは許されないことだった。男の連れているこの魔獣は、人の村を食い尽くすのだ。こういう時、一体自分が、賢者と言う存在が、何の側にたっているのか強く意識させられることになる。
    「――ごめんなさい」
     晶は首を横に振った。できないと断って刺激するのを避けたかったので、謝罪することで暗に提案を退けたのだ。だが男は諦める様子はなかった。
    「なんなら俺達はここからいなくなるよ。――それならこの村にも迷惑はかからないだろう。ここから遠いどこかへ行くよ――だからあいつの前に俺を突き出すのはやめてくれ」
     男は明らかに怯えていた。賢者の魔法使い達に対して怯えているのだろうか、あるいは村人達に対してだろうか。
     けれど男が彼の言う通りにどこか別の場所へ移ったとしても、恐らくこの魔獣達は同じ問題を起こすのだ。ここで男を見逃したところで、恐らく被害を受ける地域が変わる、そのくらいのことだろう。そしてそれを見逃してやると決めるような権利は晶にはなかった。
    「――あなたはその白い生き物が殺されることを恐れているんですか」
     晶は恐る恐る尋ねた。逃がしてやることはできない、けれど話し合いの場を設けてやることならできるかもしれない、そう思ったのだ。
    「これは俺の家族なんだ」
     男は訴えるように答えた。
    「――最後に残った俺の家族なんだよ。他は殺されて、もう残っていない」
     家族という言葉に晶は違和感と悲しみとを同時に覚えた。男と魔獣達は明らかに種も違うし、一般的な意味における家族ではあり得なかった。ちゅうちゅうと鳴く彼らには、男の話していることが理解できているとすら思えなかった。
    「昔はもっと大きな白いのがいた」
     男はうわ言のように続けた。
    「綺麗な大きいのが。でもあいつに残らず殺されてしまった――もうあいつに殺されるのはごめんだ」
     男は過去のことを思い出しているようだった。同じように村を追われた過去でもあるのかもしれない。
    「――あの、あなたの白い獣は、多分人間を脅かします」
     晶は男に声が届いていることを願いながら、口を開いた。
    「だからただ逃がして差し上げることはできないんです、でも――彼らが殺されない方法がないかどうか話し合いの場を設けることは俺にもできます」
     必死の訴えだった。けれど男は首を横に振って、晶をあざ笑うように口の両端を上げた。
    「話し合い? そんなことがあいつとできるはずがない」
    「――でも、ただここにいて捕まるよりは良い手が見つかるかもしれません」
     尚も続けた晶に男は「無駄だよ」と笑った。
     男はしばらくぶつぶつ言っていたが、やがてそのぎょろりとした目を晶に向けると、視線に力を込めた。何かを決意したという風な表情だった――晶は当然警戒した。自然と手が胸元の貝殻に向かった。
    「――協力してもらえないんだな」
     男は低い声で言った。
    「だったら、お前には俺達が逃げるまで人質になってもらわなきゃならない」
     力ある言葉が発せられようとしていた。躊躇することで二度目の間違いを犯すわけにはいかなかった。咄嗟に笛を掴んだ手を口元にやり、息を吹きこんだ――男が目を見開いて何か仕掛けてこようとするのが見えた。けれど、澄んだ音色が辺りに響き渡る方が、少しだけ早かった。
     瞬間、凄まじい勢いで男の背後のガラス窓が割れた。それは強烈な突風によって割れたように見えた。部屋の床を這いまわる魔獣達が狂ったような勢いで駆け回り、穴から逃げ出して行った。だが家の隙間から外にはい出ようとした途端、それはべちゃりと嫌な音を立てて肉塊となった。呪文を唱えようとしていた男は驚きと恐怖を露わにして窓の方を振り返る。けれど遅かった――そして見当外れだった。
     彼の敵は反対側、小屋の入り口のところにいたのだから。くすんだ青い髪に、灰色と翠色の交わる不思議な目をしたその魔法使いは、どこから、そしていつから現れたのか晶にさえわからなかったが、とにかくそこに立っていた。彼はゆっくりと床板を軋ませながら、晶の前に出て、それから手にしたオーブをゆらゆらと揺らめかせた。
    「やあ、久しぶり」
     彼は晶に話しかけているのではないようだった。部屋の隅で歯をかちかち鳴らして身を震わせている男に向かって話しかけていたのだ――同時に、先程まで男が震えながら口にした「あいつ」という言葉が実際に特定の個人を指していたことが明らかになる。
    ぼろを着た男はゆっくりと近付いて来る魔法使いの威圧感に耐えられなかったらしく、しゃがれた声で叫んだ。
    「来るな、こないでくれ――」
    「うん、俺だって来たくなかったよ」
     答えた魔法使いの表情はどこか哀しげだった。こうなることを望んではいなかったとでも言うようだった。
    「――賢者様、ちょっと目を閉じててくれるかな」
     魔法使いは静かな声で言った。ぼろを纏った男の悲痛な泣き声が聞こえた。晶には魔法使いが何をするのか、なんとなくではあるが察しがついてしまった。
    「待ってください――その人は別に多分敵意があるわけじゃなくて」
    「うん、知ってるよ」
     魔法使いの声色はどちらかと言えば優しかった。
    「でも彼の意図がどうあれ、周りの人間は迷惑するようにできてるんだ。彼の生き方っていうのはそういうものだからね。――彼とこの魔獣は数年前にも現れて、ある村を殆ど壊滅状態に追い込んだ」
    「そんなつもりはなかった」
     ぼろの男は叫ぶように言った。
    「俺があそこに最初に住んでいたんだ。でも村が俺達のいる所まで広がって来た」
    「――うん、そうだね。でもあのままじゃ人間も魔法使いも飢えてしまう。仕方ないから俺が魔獣を駆除した。こんなに残っているとは思っていなかったよ」
     魔法使いは笑顔こそ浮かべていたが、相対する男の言い分などまるでどうでもいいといった様子で、ただそれを切り捨てて行った。
    「三人だけ残っていた」
     ぼろを纏う男はそこで憎しみの籠った目を魔法使いに向けた。
    「ああ、それでか。――見た目の通り鼠算式に良く増えるみたいだね」
     オーブが揺らめいて、その場の空気が突如重くなった。男は悲痛な表情で首を横に振ったが、魔法使いが手を止める様子はなかった。鼠が走り回ってはびちゃびちゃとした肉塊に変わる――どうやら家の外に出られないような魔法が仕掛けられたらしい。あまりに凄惨な様子に晶は思わず口元を覆い、酸っぱいものが胃の奥からこみ上げてくるのに耐えなければならなかった。
    「賢者様、目を閉じていて」
     魔法使いが言った。けれど晶にはそのまま目を閉じることができなかった。いや、身体のどの部分も一ミリたりとも動きはしなかった。晶の身体は恐怖に震えていた――目の前で繰り広げられる凄惨な光景に震え、口を挟むこともできないままに凍り付いていた。
    「ポッシデオ」
     魔法使いの、聞き慣れた呪文が聞こえた。その言葉に重なるか重ならないかというタイミングで「やめてくれ」という悲痛な男の叫び声が聞こえた。それは呪文ですらなかった――抵抗の意思は既に魔法使いが現れた時に潰えてしまったのかもしれなかった。
     瞬間、何かが破裂するような音があちこちで聞こえて、そこら中にいた白い魔獣が弾けていった――文字通り、弾けて四散していった。赤黒い血と肉をまき散らし、ある者は断絶した頭部のその赤い目でじっと魔法使いや晶を見て、ある者はぼろを纏った男の足もとで。それらは一匹残らずほんの一瞬のうちにその命を失った。生きて動くものから、ただの肉の塊になった。
     ぼろを着た男が、声もなく、血走った目をこぼれんばかりに見開いて、足元の肉片を見つめているのが見えた。彼はよろよろと屈みこむと、喉の奥からかすれたような音を出し、それに手を差し伸べた。彼の指は赤黒い血に染まったが、それを気にしている様子はなかった。
    「――賢者様、今度こそ目を閉じていた方がいい」
     けれど生きた魔獣が一匹残らず部屋から消え失せたところで、魔法使いがその体勢を崩すことはなかった。明らかに彼は今、違うものに狙いを定めていた――目の前の、力も気力も失った男だった。
    「待ってください」
     晶は思わず口を挟んでいた。日頃であれば彼が魔法使い達の決定に対して異議を唱えることはそう多くはなかった。自分がこの世界においては単なる客であり、この世界の命運を決定するような権利を持っていないことを、重々承知していたからだ。けれど目の前で今行われようとしている殺しに関しては、どうしても口を挟まなければならないような気がしていた。
     それはこの男を殺すことが、晶にとっては意味のあることのようには思えなかったからだった。この男は当初から攻撃的な人物ではなかった――少なくとも晶にはただ魔獣と暮らす生活を望むだけの、怯えた人物に見えた。その男を魔法使いが手にかけることに、どれだけの意味があるだろうと考えたのだ――それは目の前に立つ、この魔法使いの業を増やすだけなのではないだろうかと思った。
     以前からこの魔法使いには、大勢にとって必要なことの為に、秘密裏に自分の手を汚すようなところがあった。人間に害のあるという魔法生物を皆殺しにしたと聞いたこともあるし、実際に彼がそれの最後の一匹に手をかけたところも見たことがあった。けれどそういう行いをした後、彼が必ず少しばかり人の輪を離れて一人きりになろうとすることを、晶は知っていた。この世のどこにも属していないような孤独な顔をして、自分を愛しているはずの生徒達も置き去りにして、一人で何事かを思う為に月夜に消えようとするその姿を、晶は何度となく見て来たのだ。
     そして今目の前で行われようとしているこの殺人が、彼にそんな顔をさせるのに値することだとはとても思えなかった。
    「――賢者様、こいつがあの魔獣の親のようなものだということはわかってる?」
     魔法使いは静かな声で晶に言った。
    「わかっています」
     晶は少しだけ彼と話すのを怖いと感じながら答えた。
    「――でももう、みんな死んでしまいました」
    「さっきの話で分かったと思うけど、この男は数年前にこれと同じような問題を起こしてる。この男はね、魔法使いには珍しくないように、ちょっと変わったものに愛着を感じる性質でね。それで、魔獣を家族だと思って暮らしていた――自分の魔力をありったけ注いで、増やしたんだ。勿論近隣の村と問題を起こしたから、その時に俺が魔獣を全滅させたつもりだった。だけどそれでもまだ残ってたんだよ。――言っていることはわかるよね」
    「……なら、また増やさせないようにこの人を捕えればいいだけなのではありませんか」
     晶の言葉に、魔法使いは困ったような顔をした。
    「うーん、捕まえるのはいいけど、一体誰がその面倒を見るの? こいつ一応魔法使いだからね。普通の牢屋に捕らえたって逃げ出してしまうだろうし、何なら魔獣だって牢屋から呼べるかもしれない」
    「なら――」
     晶は必死に頭の中を探って代替案を探した。
    「それなら、あなたの魔法で記憶を消したり、そういうことだってできるでしょう――何も、殺してしまわなくても」
    「――困ったな、そういうところは比較的割り切れてる子だと思ってたんだけど」
     魔法使いの声が少しだけ低くなった。晶は瞬時に彼が気分を害したことを、自らの引いた境界線を越えた晶に不快感を覚えたことを悟った。けれど晶にはどうしてもそこで引き下がることができなかった。目の前で震えているばかりのぼろを纏った男は、彼の言い分を信じるならたった今家族を失っただけの、全てを失った男なのだ。その場で生きているだけで伝染病を広めてしまう魔法生物でもなんでもない。今すぐ殺してしまう必要のないものだ。
    「必要な殺人なら俺が口を挟む権利はありませんけど、でも――これはあなたにとって必要なことじゃないんじゃないですか。多分南の国にとっても」
     晶は足が竦みそうになるのをなんとかこらえながら言葉を重ねた。
    「用心するに越したことはないからね。俺も同じ相手と何度も事を構えるのは嫌だし」
    「――そんな理由の為にあなたがこの人を手にかけたら、多分あなたの生徒達は悲しみます」
    「彼らが知ることはないよ」
     返って来た言葉はどこか冷たかった。
    「――今までだって気付かれたことはないし」
    「でもこれが知られてしまう最初の一回になるかもしれません。あるいは次がそうかもしれない。あなたの生徒達はあなたのことが大好きで、良く見てる」
     任務にやってくるときに見た、南の兄弟が魔法使いにじゃれつく可愛らしい光景が目に浮かんだ。けれどこの魔法使いがこういう形で誰かを手にかけた後に、彼らと共に時間を過ごす場面がどうしても、晶には想像できなかった。それは酷く彼を孤独にしてしまう行為であるように見えた――彼を大切な人々の輪から引き離して、遠くへ追いやるような。
     振り返った魔法使いの視線はひどく冷えて、恐ろしかった。けれど晶はその翠色の瞳をまっ直ぐ見て、懸命にそらさないようにした。反らしたら最後、部屋の隅で震えている男の命はないと思った。
    「――じゃあさ」
     魔法使いが少しだけ口元に笑みを浮かべて晶に問いかけた。
    「例えばこいつが俺を恨んで今度は賢者様じゃなくて、俺の生徒達を狙ったとする。――そうしたら、きみはその責任を取れる? そうなったときに例えば、きみの命がはじけ飛ぶような魔法を俺がかけても、それを受け入れる?」
     己の喉がごくりと鳴るのが聞こえた。魔法使いが自分を試しているのだと晶にはわかった。そして恐らく自分は怯えて躊躇することを期待されているのだ。震えて、首を横に振ることを期待されている――そして晶がそういう反応をした瞬間、ぼろを着た男は赤子の手でも捻るように殺されるのだろう。
    半ば意地になっていたというのもある――また、そんな事態にはならないだろうと予感していたこともある。晶はじっと翠色を見返し、それからはっきりと答えた。
    「ええ、そうしてもらって構いません」
     ほんの少しだけ――ほんの僅かな瞬間、魔法使いが怯んだのがわかった。眼球の僅かな動き、魔法使いの心の動きを示す情報はそのくらいしかなかった。けれど彼はまじまじと晶を見下ろした後、やがてため息をついた。
    「――わかったよ、賢者様の忠告に従おう」
     その瞬間、彼の呪文は放たれた。ポッシデオ、聞き慣れた音の羅列だった。瞬間オーブが光を放ち、部屋全体が淡い光に満たされたかと思うと、震える哀れな男に、光の粒子が降り注いだ。あ、あ、と男の喉の鳴るのが聞こえて、晶は思わず目を背けたくなった――男は目を見開いて、中空に視線を彷徨わせ、何かを求めるように手を差し伸べると、やがてがくんとその身体の力を抜いて床に崩れ落ちた。
     しばらく男は動かなかった――だが目の爛々とした光が少しずつ弱くなっていった。そしてそこからは意志のようなものが失われていく。視線の行く先が虚ろになる。
    数秒もしないうちに、男のぼろぼろの衣類の下履きに、大きな染みが広がっていくのが見えた――男は失禁していた。すぐに男の身体の下に水たまりができる。ぼんやりと空を見つめるその目に既に光はなく、黒目がちな瞳はもはや何もない、虚空のようにしか見えなかった。
     しばらくの間、羽虫が部屋の中を飛び回る音がするだけの、静寂が訪れた。そしてそれに時折、男が喉を鳴らす音が混じる。先程放たれた呪文が、男の精神に干渉したことは明らかだった。男は魔獣を殺された時点で既に正気を失っているように見えたから、呪文だけが原因ではないのかもしれないが、少なくとも最早男が意思の疎通を取るのも難しい状態であることは一目見ただけでわかった。
     男の口の端から唾液が垂れた。男はそれを拭うこともせずに、その虚ろな眼で晶を見ている。羽虫が水分と熱に反応して男にたかったが、それさえも振り払うことはしない。
     晶はしばらく物も言えず、ただじっとその場に凍り付いていた。胃の奥の酸っぱいものがぐるぐると音を立てたが、なんとか耐えた。
    「――言われた通り頭の中をいじって記憶もなにもかも消したよ。ちょっとやり過ぎちゃったけど」
     しばらくの間の後に、魔法使いは淡々とそう告げた。そう言って晶を見下ろす彼の目は「これがきみの選択だけど、どう?」と語っているように見えた。「これの方が気に入った?」とでも言わんばかりに、それは不気味に凪いで、晶の様子を観察しようとしていた。
     晶は今この魔法使いと話をしたいとは思わなかった。彼はただ視線を反らし、黙って立ち上がると、自らの作った水たまりの中に腰かけている男の傍に近寄った。もう彼に何らかの意思があるようには見えなかった。男は「あー……」と小さな声をあげ、晶を見て首を傾げた。
     男をこの場に放置しておくわけにはいかなかった。少なくともどこかに預けるか、病院のようなところに連れて行かなければならない。人を呼ぶかどうか一瞬迷ったが、呼べばこの男が魔獣騒ぎの犯人として吊るし上げられるであろうことは明白だった。晶が彼を行き倒れの魔法使いとしてでも運んでやれば、少なくとも村人に殺されたりすることはないはずだ。魔獣のことは厄災の影響、と当初の予測が正解であったのだと告げればいい――良心は痛んだが、そうする以外にこの男の命を救う道は見えなかった。
    「――背中を貸します、どうか掴まってください」
     男が言葉を理解していることを願いながら、晶は囁いた。男はしばらく晶を眺めていたが、やがてゆっくりと手を伸ばして、晶の肩に掴まった。背中を差し出されればそれが何を意図したものであるのかはわかったのだろう。自分の命が長らえたのが晶の一言故であったことを知っているのか、不思議と男が晶を恐れることはなかった。
    「賢者様、俺が魔法でできるよ」
     魔法使いが見かねたように傍らから声をかけてきたが、晶はそれを無視した。これが自分が口を挟んだ結果なのであれば、自分の選択の結果なのであれば、その責は自分の背中で負わなくてはならないと思った。
    「――村長さん達のところに帰りましょう」
     男の粗相したものが、背中にじんわりと広がるのがわかった。そこら中に転がる死骸もあいまって、酷い異臭がした。何度も胃の奥が動きそうになって、その辺りに力を入れなければならなかった。
    「その男を村に連れて行くの?」
     魔法使いが少し戸惑ったように尋ねて来たので、晶は「そうです」と答えた。
    「――どこか面倒を見てくれるような場所はありませんか」
    「村を危機に陥れた男を?」
     その声は少し呆れたようですらあったが、やがて彼はしばらく考えるような風をした後、次のように答えた。
    「多分施療院のようなところや――あるいは孤児の面倒を見るようなところがあれば見てくれるだろうけど」
    「なら取り敢えず連れて行かせてください」
     魔法使いが晶を止めることはなかった。二人が血塗られた小屋を出ると、魔法使いが小屋を浄化した。魔獣の血でより危険な生物を招くことがないようにそうするのだと彼は言っていたが、晶の耳には彼の並べる言葉の一言も、まともには入って来なかった。
     小屋は村の裏の林の奥に位置していたらしく、細い小道を縫うようにしていけば、やがて村の裏手に出た。もはや浮浪者のようにしか見えない男を背負った晶を見て、村長の家の周りに集っていた賢者の魔法使い達は酷く驚いたような様子を見せた。
     晶に同行していた魔法使いに彼の生徒達が駆け寄り、パイプをくゆらせる男が少しばかり険しい顔をして晶と魔法使いとを見比べた――けれど彼は特に魔法使いに向かって何か言葉を発することはせず、晶と彼の背負う男の方へと近寄って、男を安全な場所に横たえるのを手伝ってくれた。
     魔獣の被害がこれ以上出ないであろうことを告げると、村長を含めた村の大人達は心底ほっとしたような顔をした。彼らは晶の背負って来た男の素性を当然の如く聞きたがったが、厄災に煽られた魔獣を討伐する際に、倒れているのを見つけたと答えればそれ以上追及されることはなかった。彼が魔法使いであることを告げると、回復した暁には村を助けてくれるのであればという条件で、村の施療院で暫く面倒を見ることを請け合ってくれた。魔法使いであることの証を立てさせる為、晶が小声で男に何らかの魔法を見せるように頼むと、男は相変わらず数種類の母音しか発しなかったが、僅かに笑って手元に花を咲かせて見せた。彼自身には上手く口を利くことが出来なくても、周囲の者の話していることはそれなりに理解できるようだった。
     男にとってそれ以上条件のいい、身を寄せる場所が考えられなかったので、晶達はそこに彼を預けていくことにした。晶はパイプの男やデザイナーの青年に頼んで、男をそこまで運んでいく手伝いをしてもらった。青い髪の魔法使いは何か口を出したそうにしていたが、晶は「生徒達の所に行ってやってください」と彼を追い払った。南の国の兄弟と何事か笑顔で話しているその姿を見た時、晶はどういうわけか、酷くほっとするような気がした。けれど、相手が時々ちらちらと自分のことを窺っていることにもまた気付いていた。

    夜も遅くなっていたことと、晶の体力が限界に近付いていたことから、賢者の魔法使い達は一晩を村で明かし、翌朝出発することになった。
    出発の前、晶は男のもとに寄った。男は施療院の日の当たる窓辺にベッドを与えられ、そこに座ってぼんやりとしていた。
    「――もう行きます」
     晶がただそれだけ男のもとに屈んで伝えると、男は理解したのかしなかったのか、僅かに頷いたように見せた。その時、男の膝の上に、小さな影のような物が走るのが見えた。――それは小さな、白い鼠だった。思わずはっとして息を飲んだが、次の瞬間頭に過った不安が徒労だったことに気付いた。鼠の目はもう赤くなかった。ただ無邪気に男の腕の隙間に潜ったり這い出たりしているだけで、床を駆け回って食べ物を探したりする様子さえない。
    「いっぴき、だけ」
     男が何事かつぶやくのが聞こえた。
    「――もうふえない、けど、いっぴきだけ」
     治療院の外に出ると、空は青く透き通るように晴れていた。その青よりはだいぶくすんだ、濃い色の髪が風になびいているのが見えた。背の高い魔法使いが、外で晶のことを待っていた。彼は晶を見とめると、どこか朧げな視線を向けて来る。
     晶はしばらく何も言わずにその姿を見ていたが、やがて彼にゆっくりと近寄って行った。
    「――助けてくださってありがとうございます」
     魔法使いの目の前に立つと、晶はただそう告げた。
    「うん」
     彼は少しだけきまり悪そうに目を伏せて、それから彼には珍しく少しだけ遠慮がちな様子で言った。
    「――帰り、俺の後ろに乗っていく?」
     晶はほんの少し迷ったものの、やがて「お願いします」と頷いた。どういうわけか妙に安心したような顔をされて、晶は不思議に思ったけれど、特にそれを口にすることはなかった。


    *       *       *


     自分の身体を僅かに揺する手の感触に、晶はゆっくりと目を見開いた。泥沼から這い出るような目覚めだった――寝間着が汗で身体に張り付き、布団も湿って気持ち悪かった。頭も目蓋も重く、視界がクリアになるまでにいつもの倍以上の時間がかかった。
    「――ねぇ、大丈夫」
     自分に囁きかける声が聞こえた――一瞬、自分はまだ夢の中にいるのではないかと考えた。今しがた見た悪夢と言っていい夢、その中で聞いた声にとてもよく似ていた。あの夢は自分の記憶だ、まだまどろみに片足を突っ込んでいるぼんやりした意識の中で晶は思った。――あれは本当にあって、自分の身に起きたことだ。
     確信の理由は、夢で見たものがいつまでも薄れないことにあった。通常ただの夢であれば覚醒と共に色彩を失い、朧げになっていくものだ。だがそれは既に晶の頭の中に確かな色と形を持った記憶としてその存在を主張していた――ただし、人の容貌などの細部に関してはまるで霧がかかったように、ゆらゆらと揺れてすぐに曖昧になっていく。
    「起きてる? 大丈夫? ――聞こえてる?」
     またあの声が聞こえた。晶はまるで記憶の中の男が自分を呼んでいるかのような錯覚に陥った。――いやそんなはずはない、ここは記憶の中の異世界ではないのだと自分に言い聞かせる。ではどこだろう――そうだ、ここは自分の家だ。
     目に映るものが次第にはっきりした輪郭を持つようになって、晶は目を瞬かせた。誰かが晶を覗きこんでいた――美しい灰色と翠色の入り混じる目が眼前にあった。この目は夢の中でも見た、と晶はぼんやり思った。じゃあこれは誰なのだろうと考える――夢の中の魔法緒使いだろうか。彼はどんな顔をしていたっけ――いや違う、これはフィガロという居候の男だ。
     意識がはっきりするのと同時に、晶は自分の息が酷く荒いことに気付いた。彼はベッドに寝転がっていて、汗だくになりながら胸を上下させていた。枕もとにはフィガロが屈みこんでいて、やや心配そうな表情を晶に向けていた。
     一体いつ眠ったのだろうということさえ、あまりはっきりとは覚えていなかった。確か目の前の男と一緒に海へ行ったのだということだけは思い出せた――そこで少しぼんやりしてしまい、引きずられるようにして家に帰って来たのだ。ああそうだ、それで倒れるようにして眠ってしまったのだと、経緯を思い返す。
    「――物凄くうなされてたけど――怖い夢でも見た?」
     フィガロが慮るように言って、晶の額にその冷たい手を当てた。汗をかいていることに気付いたらしく、近くのタオルを取って、丁寧に脂汗を拭き取ってくれる。だがそうして彼に触れられていると、晶は妙に物悲しい気持ちになった。胸の奥を締め付けられるような――記憶の中であのくすんだ青い髪を眺めていた時のような気持ちになった。そう、ちょうど今目の前にいるフィガロの持っているような色彩だった――だがそう考えたところで酷い違和感を感じて、晶は首を横に振った。
    「――辛い夢を見たなら話してごらん」
     フィガロはいつもより幾分柔らかい声でそう言って、額にへばりつく晶の毛の束をよけてくれた。布団がまとわりつくようで苦しく、晶はそれをめくって手を外に出す。
    「悪夢を」
     晶が蚊の鳴くような声で答えると、フィガロは小さく笑った。
    「――うなされてたんだから、そうだろうとは思ったよ。どんな?」
    「――俺の記憶の夢を見ました」
     なんとか絞り出した声は掠れていた。
    「ということは何か、思い出したの?」
     はい、と晶は頷いた。
    「異世界での出来事を。――例の男の人がいて、役目の為に人を殺そうとしていました。俺はそれを止めて――」
     言葉は半ば混乱した意識の垂れ流すままに、ぼろぼろと零れて行った。言葉にすれば嫌でも記憶の夢の光景は蘇り、小さな白い毛むくじゃらの死体がたくさん目の前に浮かんでは消えた――それからぼんやりと笑っている、もう二度と正気に返らない男の顔。目の奥が熱くなって、涙がこぼれた。
    「――それはこの前話してくれた人のこと?」
     フィガロは静かな声で言って、晶にタオルを渡した。それで涙を拭えということなのだろう。耳の中に流れ込んでしまう涙が気持ち悪くて、晶は手をついて身体を起こした。そうすると気分が幾分ましになるような気がした。
    「そうです、あの男の人のことです――彼は人を殺そうとしていました。でも俺は彼がそうするのを見るのが、その時はどうしても嫌で、止めてしまって」
    「うん」
     フィガロは静かに相槌を打ちながら、慰めでもするように、晶の背中に手を回した。けれどそうされればそうされただけ、不思議と涙は止まらなくなった。
    「――多分余計なお世話でした。俺がその人にしたことは何もかも――その殺人を犯したら、彼が大切な人達の輪の中に戻れなくなってしまう日が来るんじゃないかって、そう不安になって止めたんです。でも多分もっと悲惨な結果を招いただけだった」
    「――より多くの人が亡くなったの?」
     フィガロの問いに晶は首を横に振った。
    「いいえ、記憶が正しければ多分違います」
    「ならより悲惨な結果ではないさ」
     返って来た答えには、妙に晶を慰めるような響きがあった。
    「――ごめんなさい、こんなこと言ってもわけわかんないですよね」
     晶が小さく詫びると、フィガロは首を横に振った。
    「いいや、大体予想はつくよ――実際支離滅裂だったとしても、そのまま言葉を並べたっていい。もし夢に見るほど辛いことがあるんだったら、思いつくままに話したっていいんだ」
     晶は胸の内にくすぶる悲しみと、夢にみた映像に呑まれそうになったままで、取り戻した記憶の欠片をためすつがめつした。一つだけ、はっきりと明らかになった事実があった。
    「――あの貝殻の笛を手に入れた経緯のことを思い出しました」
    「きみが良く首からさげてるあれ?」
    「そうです。あれはとある島で女性にもらったものだったんですけど――その後、例の男の人によって魔法がかけられて」
    「どんな魔法?」
     魔法という言葉を、フィガロはまるで当たり前に存在するもののように繰り返した。
    「吹いたら、その男の人が飛んできてくれるんです。危ない時にすぐに呼べるようにと魔法をかけてくれて――多分、その人に声が届くと思っていたのはそのせいで」
    「随分大事にされてたんじゃない」
     フィガロが優しくそう言うので、晶はわずかに考えてから正確な言葉を選び取ろうとした。
    「――大事にっていう表現が正しいかどうかはわかりません。その人はそうやって与えることにも慣れている人だったから――だから俺は何か返したかったのかもしれません。何かしてあげたくて、でも結局空回りしてばかりで、何もしてあげられませんでした」
     唇から言葉が零れるままに晶がはっきりと認識したその男に対する感情は、記憶の回復と共によりはっきりとした輪郭を得たものだった。言葉と一緒に涙も零れ落ちる。それはまるで過去に感じていた悲しみが言葉と一緒に流れ出て来るかのようだった。
     視界がぼやけたままに視線を彷徨わせると、ローテーブルの上に置きっぱなしにした貝殻の影が見えた。いつの間にか外していたのだろうか。だが晶の視線の先を追って、フィガロはそれを遮るように晶の前に身を乗り出した。
    「――少し混乱してるようだから、落ち着いたら横になったほうがいいよ。それからこれ以上新しい記憶を取り戻すようなものも、今は見ない方がいい」
     フィガロの手が晶を寝台に導いて、再び柔らかなマットレスの感触が背中に広がった。また涙が目の端からこぼれて、頬と首筋を濡らす。もう口から溢れて来る言葉はなかった――激情は吐き出してしまえば呆気ないほど鎮まって、それが居座っていた心の真ん中にはぽっかりと穴が開いたようだった。
     しばらくは音のない時間が続いた。フィガロの手はまるで晶を寝かしつけようとでもするように、布団の上から時折ぽんぽんと晶の胸のあたりを叩いていた――まるで、赤ん坊にでもそうするように。少しずつまた気持ちも凪いできて、もうそろそろ眠らなくていいのだろうかと枕もとの同居人のことを思ったとき、ふいに彼が口を開いた。
    「――子守歌代わりに、俺の探している子の話を聞いてくれない?」
     突然どうしたのだろうと寝転がったままに晶がやや怪訝な顔をすると、それに気づいたのかフィガロは僅かに笑って晶の手に触れた。
    「きみの話を聞いてて、なんとなくその子のことを思い出したんだよ」
     晶がどうぞ、と促すと、フィガロはまるで記憶の糸を辿る様に、視線をここではないどこかへ向けて、独り言でも言うかのように話し始めた。
    「――前にも話したっけ。その子はさ、なんかこう、いつもみんなに遠慮して、みんなに好かれるような子だったんだけど――俺には随分構ってくれて」
    「あなたのことを大好きだったんだって言ってましたね」
     晶がふと以前カフェで交わした会話を思い出して言うと、フィガロは喉の奥で笑った。
    「純粋に人に好意を向ける子だったからね。何かと諦めやすい俺にいっつも諦めるなって言ってくれて――彼自身もあきらめの悪い子だったから、俺がろくでもないことをしようとする度に手を引っ張って連れ戻してくれた」
     何だかんだ言って嬉しかったな、と呟くように付け加えたフィガロの横顔は、人が大切な思い出を、残照に輝ける日を振り返る時の、柔らかな表情をたたえていた。
    「――でもね」とそこでフィガロは少しだけ――ほんの少しだけ、その笑みを陰らせる。
    「その子は自分が傷つかないことに関しては、一瞬で諦めちゃうようなそういう危なっかしい子だったんだよね。人には全部あげちゃうのに、自分の分は何もとっておかなかった」
     またぽんぽんと、優しい手付きが布団の上から晶を慰めた。そのリズムに誘われるように、少しずつ鼓動は静かになって、目蓋は再び段々と重くなってきていた。
    「――俺がどっかふらっとどっか行っちゃおうとすると――彼は俺を引っ張り返してくれるんだ。けど、自分は輪の中にいないんだよ。すって身を引いちゃうんだ」
     曖昧な意識の中で、晶はそれをどこかで聞いたような話だなと思った――一体どこで聞いたのだろう。
    「少し寂しいですね、それは」
     既にぼんやりとしはじめた意識の中で晶が小さく答えると、フィガロは笑った。
    「そう、どこか寂しいよね。――時々自分は本当はここにはいないんだみたいな顔をしてた。どこか、ある日突然いきなりいなくなっちゃいそうなところがあったな――なんか幻みたいな」
     子守歌にしては、寂しい話だった。けれどその思い出を彼がどこか慈しむように話すので、晶は何か言わなければならない気がして、既に沈みかけている意識の中、慰めの言葉を呟いた。
    「――きっとまた会って、昔みたいにお話できますよ」
    「そうだね」
     頭上で男はそう言って笑った。
    「また会えたら、どうしたいですか?」
    「――どうだろうね」
     晶の問いに、フィガロはぼんやりと宙を見つめて言った。
    「――気が向いた時に探した時は、また会えないかなって思ってただけだった。でも、それが叶えばまた違う望みが生まれるんだろう」
     ひとはみんな欲深いから、と彼は言ったが、その望みが何であるのかは口にしようとしなかった。
     フィガロはそのまま晶が眠るまで子守りのようなことをしているつもりらしかった。晶はそれを少しだけ気恥ずかしいと思ったが、眠りへと向かっていく意識の中では、それを止める為に労力を割こうという気力も湧かなかった。
    「――あなたももう寝ないと」
     多分眠りに落ちる前に最後に口にしたのは、そんな言葉だった。
     夏のそよ風をカーテンが揺らして、僅かに傍らの家具に当たる音が聞こえた。枕もとから人が動く音はしなかった――少なくとも晶が深い眠りの底に落ちてしまうまで、気配はそこにあった。
     

    10.

     翌日晶はごく普通に出社し、いつも通りに仕事をして、定時よりちょっとばかり時計の針が回った頃に見慣れたビルを出ることになった。フィガロと海に行った日、記憶の回復に伴う意識の混乱により少しばかり体調を崩したということはあったけれど、一日ゆっくり過ごせば具合は良くなっていた。
    まだ半数以上の社員は会社のビルの中に残っていて、エレベーターがひっきりなしに動いているのがランプの点灯でわかった。地上階に申し訳程度に設置された喫煙ブースの中に顔見知りがいたので会釈をして、ガラスの扉から外へ出る。そしていつも通り少し湿った夜風を吸い込んで、輝くネオンに目を走らせ、帰途に着く――はずだった。
     ビルを一歩出た時、晶は歩道と車道を隔てる鉄の柵に身体をもたれかけさせたその姿を見て、目玉が飛び出るほどに驚くことになった。ひょろりとして背の高い、淡くくすんだブルーを風になびかせる男――晶の同居人がビルの前で待っていたのだ。
     彼は建物から出て来て目をむいている晶に気付くと、手を軽く振ってにっこりと笑った。
    「来ちゃった」
     少しばかりしなを作ったようなその声色は、多少の距離があっても良く耳に届いた。晶は慌てて辺りを見渡したが、見知った顔はなかった。足早にその男――フィガロのもとに行くと、綻ぶような笑顔が晶を迎える。
    「お疲れ様」
     甲斐甲斐しく仕事場まで迎えに来てくれるちょっと重い恋人でもいたらこんな感じかもしれない――妙にいじらしいその様子に晶はあらぬ想像を一瞬頭に過らせて、それを急いで振り払った。
    「どうしたんですかいきなり」
     驚きと若干の抗議を込めてフィガロを見上げると、彼はその翠の瞳を不思議そうに見開いて首を傾げた。
    「――どうしたって、見ての通りお迎えに?」
    「今までこんなことしたことなかったでしょう」
    「うーん、週末ちょっと元気なさそうで心配になったから来てみたんだけど、ダメだった?」
     少しばかり気落ちしたような様子を見せるので、晶は妙に罪悪感を覚えて、慌てて首を横に振った。
    「ダメってことはないんですけど、突然のことだったので――あと、あまり同僚に見られるのは良くないというか」
    「どうして?」
     不思議そうな顔をするフィガロに、晶はため息をついた。
    「――みんなあなたを浜辺で見てますから。その時の人がうちにずっと居候してるなんて知ったら、みんな変に思います」
    「ここではそういうものなの?」
    「そういうものなんです」
     ふうん、と納得したようなしていないような声を出して、フィガロは晶が今しがた出て来たビルを見上げた。
    「――なんだか色々変な決まりがあるんだね」

     夏の訪れを告げる湿った生暖かい風が吹く中、二人は晶の勤め先のビルを離れ、バス停のある方へと歩いて行った。既に居酒屋がかき入れ時を迎えようという時間で、ひっきりなしに客引きがスーツ姿の男達に声をかけようとしているのが目に入った。気温も上がって来て、そろそろ枝豆とビールという古典的な組み合わせが人を喜ばせる時期がやってきたのだ――もっとも酒に弱い晶にとっては、あまり関係のない話ではあったが。
     それでもバルコニーやテラスの席に座る人々を見ると、どこか季節の移り変わりを感じて心浮き立つところはあった。客引きのたむろするエリアをちょっと離れれば、角に少し洒落たバーがあって、そこの野外席では女性二人が華やかな色彩のカクテルを傾けていた。
    そう言えばと近くの商業ビルの屋上に目をやると、夏季限定でビアガーデンが設置されている旨を告げるサインが出ていた。輸入品のビールのエンブレムを印刷したいくつかの旗がずらりと並んで飾られる様はある種悪趣味ではあったが、少なくとも酒好きを引き寄せるだけの効果はありそうだった。屋上の柵には虹色のランプが絡みついて、これまた少しばかり安っぽい色を添えている。
    「何見てるの?」
     フィガロが晶の視線の先に気付いたのか、尋ねて来た。
    「――あのビルの上です」
     晶が答えると、彼は少しだけ眉を寄せて目を凝らすような素振りをした。
    「あの屋上の上? 何か特別なものがあるの?」
    「ビアガーデンと言って、夏の間野外でお酒が飲める店が開くんですよ」
     晶がそう言うと、フィガロは当然の如く目を輝かせた。何せアルコールと言えば、晶よりは彼の好むところである。
    「へぇ、いいなあ」
     非常に自分の願望に正直な感想を述べて、フィガロはまるでおねだりでもするようにその視線を晶に向けた。それ以上の言葉を重ねられずとも彼が夏の風物詩に興味を示しているところは明らかだった。悪いことに――これは最近薄々気付いてしまったことなのだが、晶はどうも彼にそういう視線を向けられることに弱い。
    「――一杯だけ飲んでいきますか?」
     ため息交じりに晶はフィガロの望んでいるであろう言葉をかけてやった。
    「え、いいの」
     あからさまに嬉しそうにするこの図体の大きな男に、「一杯だけですよ」とまるでどこかで聞いてきたような調子で念を押すと、彼は素直に頷いた。
    「――嬉しいな、“夜景でーと”っていうのしてみたかったんだ」
    「夜景デート?」
     晶は怪訝な顔をしてフィガロを見上げた。確かに今は夜だし、屋上の端にでも行けば夜の街は見渡せるだろうが、夜景というにはあまりにもお粗末なエリアだった。辺りにあるのは駅や駅ビル、あるいはバス停の明かり――ちょっとマシなところで小さなデパートがあるくらいのものだ。
    「俺の探してる子が言ってたんだよ、彼のいる場所では夜の街を高いところから眺めていい雰囲気になるのが定番だって」
    「――なるほど、でもこの辺りの景色を夜景って呼んでいいかどうかは――雑居ビルの明かりが見えてちょっと残念な気持ちになるだけじゃないかなあ」
    「じゃあどんなのが夜景なの?」
    「――もっと高いところから見るんですよ――ホテルのラウンジとか、そういうところから」
     自分達がちょっと一杯ひっかけていくことに対して「でーと」という言葉が使われたことの異質さは敢えて気にしないことにして、晶は複雑な回路のように張り巡らされた商業ビル内のエスカレーターを上がった。きらきらとした輝きを放つ小売店の数々に、フィガロは一々目を輝かせていたが、その様子を目の端で見ながら、まるで子供か、あるいは異世界から来た妖精か何かのようだなと思った――それこそ洋画において定期的に発表されるその種の作品の登場人物のような。
     だがフィガロに異世界という言葉をあてはめた瞬間、あの言い様のない違和感がまた、ちくりと晶の頭の隅を刺激した。――そう言えば忘れていたけれど、彼がどこからやって来たのかはまだわからないままだ。本人は覚えているのかいないのかはっきりとは口にしないが、話を聞く限り晶がごく普通に知っているような場所――ヨーロッパだとかアメリカだとか、そういう場所ではないことはわかった。実際にフィガロが異世界からやって来たのだとしたら――と考えて、身体の芯がどきりと震えるような気がした。もし晶の記憶の中の異世界が本物なら、フィガロが同じく異世界から来たのであったっておかしくはないのだ。――異世界とやらがいくつあるのかは知らないが、それこそ晶の記憶の中の場所から来たという可能性だって。
     ふいにこの場にいるはずのない、記憶の中の、あの白衣の男の背中が見えた気がした。美しい庭園で見た後ろ姿だ――でも庭園の美しい噴水も花壇もどこにもない。それどころかさっきまできらきら輝いていた商業ビルの照明はみんなどこかにいってしまったように見えた。ここはどこだろうと考える前に、背中を向けていた彼が振り返ろうとするのが目に入る。あと数秒でその顔がこちらに向けられようかというところで、酷い頭痛が走った。
    「――ちょっと、危ないよ」
     ぐいと手を引かれて、エスカレーターから動かない床の上へと引っ張り上げられた。瞬間、強いビル内の照明が目に飛び込んで来て、くらくらと眩暈がした。そうだ今自分はフィガロと共にビルの屋上に行こうとしていたのだと思い出す。不安そうな翠色が晶を見下ろしていた。
    「やっぱり迎えに来て良かったみたいだね」
     彼は少し困ったように笑って、掴んでいた晶の腕を離すと、その手を晶の頭にやった。ぽんぽんと叩かれると、まるで子供扱いされているようだなと思う。
    「すみません、ちょっとぼーっとしちゃって」
     少しまだぼんやりとしている頭の中をはっきりさせ、現実感を取り戻そうと目を瞬かせると、フィガロが徐に晶の手を取った――この気候にも関わらずひんやりとして冷たい手だった。ビル内の空調にあてられたのだろうか。
    驚いて彼の顔を見上げると、少しはにかんだような笑顔があった。
    「――ふらふらしてて心配だから、今日は俺が手を引いてあげる」
     抗議の声を上げる前に、フィガロは前に歩き出してしまった。通り過ぎる人々が彼らを振り返るのがわかった――それはそうだ、成人男性同士手を繋いで歩いていたら、やはり見る者はその二人がただならぬ仲であることを想像するだろう。これじゃ本当に彼の言うところの「でーと」と間違えられてしまうじゃないかと頭の中で叫びたくなったが、フィガロは周囲の視線をまるで気にする様子もなく、そのまま最上階まで晶を導いて行った。

     屋上に臨時設置されたビアガーデンはそれなりに人の入りも良かったが、好きな席を選べないというほど混んではいなかった。夜景というものに憧れのあるらしいフィガロの為、端の席を取ってやると、彼は早速柵のところに足を引っ掛けて、下を見下ろそうとした。
    「――うーん、夜景って特別に呼ぶほどキラキラしてるわけでもないね。これだったら俺が住んでたところの方が綺麗な景色が見られるよ」
    「だから言ったじゃないですか、こんな低いビルから見てもそこまで綺麗なわけじゃないですよって」
     晶が苦笑しながらメニューを開いて眺めていると、フィガロも席に戻って来てテーブルに着いた――但し、何故か、晶の隣に。
    「あの、なんで隣に?」
     元はと言えば四人掛けの席なので隣同士に座ることは勿論可能なのだが、普通大人二人で飲食店に入ったら、向かい合って座るものなのではないだろうか――こんなシチュエーションで敢えて隣同士に座るのなんて、この国の事情と常識を全く鑑みない海外から来たカップルくらいのものだ。
    「うーん、ここちょっとうるさいからね、近くにいた方が話しやすいかと思って――きみもまだ本調子じゃなさそうで心配だし」
     満面の笑顔でそう言ってのける彼を、晶は頭のどこかで飲み会で女子社員にセクハラを働く中年男性のようだなと思った。これは恐らくわかってやっているな、と直感が働く。
    幸いなことに端の席である為に他の客と視線が合ったりはしないが、恐らく数分もすれば好奇の視線が二人に降り注ぐことになるだろう。
    「――はあ、何を飲みたいか取り敢えず決めてください」
     とは言え口で敵う相手ではないのはもうわかっているので、敢えてその行動を修正する気にもなれなかった。せかすようにテーブルの上に置いたメニューを指先で叩いて見せると、フィガロは少し拗ねたような顔をする。
    「――ごめんね、説明してもらわないと俺読めないんだよ」
    「ああ、そうでしたね――ごめんなさい。と言っても俺もビールには詳しくなくて――写真のある有名なのがいいかな。――この国のがこれとこれ、輸入されてるのがこっちからここ――」
    「うーん、きみのお薦めはって言いたいところだけど、飲まないもんね。有名なやつってどれ?」
     晶には人に勧めるだけの酒の知識はなかったので、取り敢えず失敗のない有名どころを選んでやると、自分の為にはノンアルコールのカクテルを頼んだ。それから、定番のおつまみを少々。キッチンは手際がいいらしく、さほど待たないうちにテーブルの上に注文したものが並んでいた――店員が姿を現した時、正直晶はどこかほっとしたような気がしていた。何も気を反らすものの無い状態で、機嫌良さそうに隣に座っている男の誘惑めいたからかいをいなすのは、少々荷が重かったのだ。
    一応形ばかりは乾杯、と言ってグラスを合わせると、晶の手にした色鮮やかな飲み物が少し揺れて、中のグラデーションが曖昧になった。
    「――きみは本当にお酒に弱いよね」
     メーカー製のデザイングラスに入れられた赤っぽい色のビールを飲みながら、フィガロは晶の横顔を楽しそうに眺めて言った。晶が手をつけた飲み物は、色ばかりはオレンジにピンクにと交わり合う色がカクテルのようだが、アルコールの匂いは一切しない。
    「逆にフィガロは本当にお酒が好きですよね」
     半ば呆れを滲ませてそう返すと、フィガロはどこか大人の余裕を滲ませる笑みを口元に浮かべて、目を細めた。
    「そりゃ、お酒は寂しい夜も楽しい夜も、少しだけ味わい深いものにしてくれるからね――こうやって隣の子を口説く時にも役に立つし」
     冷たい指先が晶の顔にかかっていた毛の筋をすくって避け、それから頬のあたりをなぞっていった。
    「フィガロ」
     ため息とともにやりすぎであることを態度で伝えると、彼は気にもしていないように笑った。
    「あはは、怒られちゃった。きみはこういうやり方は好きじゃなかったね」
    「――あんまりここで悪ふざけをすると帰ってから気まずいですよ」
     俺達一つ屋根の下に住んでるんですからね、忘れないでください――そう言って目を反らすと、晶は自分の飲み物に刺されていたストローを口にくわえて、それを齧るようにしながら飲んだ。あまりに隣の男の手馴れた様子が様になっているので、ほんの少しだけ頬が火照ってしまったような気がして、それを誤魔化さなければならないと思った。
    「――俺は別に気まずいとは思わないけど」
     愉しそうな声を聞く限り、彼はまだこのいささか趣味の悪い戯れの時間を手放すつもりはないようだった。
    「一つ屋根の下暮らしてたら恋が芽生えるっていうのもまた、素敵じゃない?」
    「――もう酔っ払ってますか?」
     とんでもないことを言いだしたフィガロを晶は半眼で見つめた。
    「ううん、全然。ちょっと気分は良くなってるけど、俺がどのくらい飲めるか知ってるでしょ」
     彼が以前酒屋からもらって来た段ボール一杯の酒と、一日に消費したチューハイの缶の本数のことを思い返せば、彼が全くもって酔っていないことは明らかだった。だが彼が正気であるとすれば、なお性質が悪い。こんな流れになるのであればさっさと家に帰っておけばよかったなと頭の隅で晶が後悔していると、くすりと喉の奥で笑う音が耳元で聞こえた。膝の上には徐に手が置かれて、そしてやけにフィガロの顔が近かった。
    「――こんなことになるなら連れて来なきゃよかったって思ってる?」
     まるで晶の心の内を読んだかのような発言にぎょっとした顔をすると、予想通りの反応だったのか、フィガロはその笑みを濃くした。
    「あはは、図星だったみたい」
    「――なんでわかるんですか」
     思わず晶が正直にそう口にすると、ほんの少しだけフィガロは首を傾げて言った。
    「うーん、きみの考えることは大体予想がつくからね」
     膝に置かれた手がゆっくりと這うようにそこをなぞったので、晶は思わず身震いして批難の目をフィガロに向けた。けれど彼は動じる様子なく、そのまま晶の頬に顔を近付けて、その柔らかな唇をくっつける――場所が頬とは言え、それが一般的にキスと呼ばれるものだと認識した瞬間、晶の脳はしばらくの間、その場で起きている一切合切の出来事に関する情報処理を放棄した。
    「――お、怒られますよ、あなたが探してる子に」
     ようやく出て来たのはそんな責めるような言葉だった。椅子を引いて飛び上がってもいいような場面だと思ったが、身体は不思議とそういう風には反応しなかった。
     フィガロは晶の言葉に、少しだけ驚いたように目を丸くして見せた。
    「どうして怒られるって思うの?」
    「そりゃ」
     またも近付いてきそうになるフィガロの顔を身を引いて遠ざけながら、晶は答えた。
    「――あなたはその子を落としてみたかったようなこと言ってませんでしたか?他の人にも声をかけて回っていたら、そりゃ誠意も疑うってもんでしょう」
    「あはは、誠意ね」
     最初フィガロは愉快そうに笑って見せたが、すぐにその表情には寂寥の影が差した。食いつくようだった視線が逸らされて、淡い翠がここではないどこかを捉えるような風合いをたたえる。
    「――どうだろう。俺が浮気してたら怒ってくれるかな」
    「……怒られたいんですか?」
     彼の物言いがまるでそれを期待するようなものだったので、晶は若干の呆れを滲ませて尋ねた。
    「そりゃ、怒ってくれたらその子は俺のことが気になってるってことだもの。――まあでも、この場合はやっぱり怒らないと思うけど」
    「なんでですか?」
     晶は純粋に疑問に思ってその問いを口にしたのだが、フィガロは曖昧に笑って首を横に振っただけだった。
     それでも彼の探し人を引き合いに出すのは過度な接触に対する抑止力にはなったようで、その会話の後、フィガロは大人しく輸入物のビールを楽しんでいた。彼曰く、ちょうどいい苦みがあって、でもほんの少し風味と甘みが感じられるのがいいんだとのことだったが、晶にはさっぱりわからなかった。ほんの一口だけ味見をさせられたものの、結局晶にとっては奇妙に苦くて舌を刺激する飲み物に過ぎない。
     グラスを空ける頃には酒に強いフィガロも多少気分が良くなったのか、こんなことを言った。
    「――ここの人間は本当に良くやるよね、大したものだ――考えらえないくらいたくさんの種類の酒を生み出して、それを世界中に流通させて」
    「ここの人間って――日本のことを言ってるなら、これは輸入品ですよ」
     まるで世界を俯瞰する神のような物言いをするので晶は少しおかしくなって口を挟んだが、フィガロがその口調を変える様子はなかった。
    「世界全部ひっくるめての話をしてるんだけど――まあでもこの間ダンボール箱で貰って来たお酒は大体美味しかったね。ここは大概発展良く発展してる」
    「――世界の中でも、この国は豊かな生活をしている方ですから」
    「だからなのかな? ――ここの人達はもう神様なんて必要としてないみたいだよね。自分達の力だけで素晴らしい生活を謳歌して、もう自分達の力以外のものなんて何も信じてない、そういう感じがするよ」
     まるで敬虔な原住民の住まう山の奥からでもやって来たような台詞だなと思いながら聞いていると、やがて背後で景気の良い歓声が上がった。どうやら大学生のサークルの一団がやって来たらしかった。最初の乾杯の段階でこれなのだから、酒が入れば更にうるさくなるだろう――落ち着いて飲むような雰囲気ではないことを感じて晶がフィガロを見ると、彼もまたその意図を察したように頷いた。

     会計を済ませて商業ビルを出ると、ビアガーデンの季節に相応しい生温い風が吹いていた。ビルの入り口の明るい場所から離れた瞬間、おもむろにフィガロが手を取って来たので、晶は驚いて隣を見上げた。
    「――デートの帰りは手を繋いで帰るものでしょ」
     まだここへ来た時の冗談が続いていたのかと晶はため息をついたが、隣の男はその手を離す様子もなかった。
    「ちょっと心配だしね」と彼は付け加える。
    「今日もなんかぼんやりしてたし」
     いつもの如くやや体温の低いフィガロの手は、生温い夏の始まりの夜にあって、どこかひんやりと気持ちが良かった。だがその感触を楽しむに甘んじるか、あるいはその手を払いのけるかの選択を晶がする前に、例の兆候が表れた。
     手の感触とリンクするように、掠れた画像が時折目の前に現れ、夜の街の景色を覆い隠した。それはどこかさびれた村、あるいは町の光景だった。ノイズの入った写真のように見えるそれには、大分古そうに見える建物が建っている。どう見ても晶の住んだことのある場所の景色ではなかった。だとすればこれはまた、失われた記憶の映像なのだ。
    「大丈夫?」
     まるで晶を現実の世界に呼び戻そうとでもするように、フィガロの声が響いて、手が時折強く握られた。
    「大丈夫です」
     まるで暗い穴の底から外に叫び返すような気持ちで晶はそう答えた。目の前には再び街灯の照らす夜の道が見えている――道路と歩道を隔てる手すりに寄りかかる女、タクシーを捕まえようとやたらと手を振っている男の姿も見える。いつもの夜の駅前の景色だった。
     けれど晶には自分が今夜夢を見ることがわかっていた。記憶の扉が、また一つ蝶番の軋む音と共に開いた音がどこかで聞こえたような気がした。



    11.

    「すごいじゃない、大した進歩だ――きみにとっては恐怖の対象であった海の中に足をつけることができたなんてさ」
     最早見慣れてしまった安っぽいブースの中で、これまた聞き慣れてしまった男の声が響いた。彼は足を汲んで椅子の背もたれに手をやり、良く言えばリラックスした、悪く言えばややだらしのない格好をしながら晶の話を聞いていたが、少なくとも自身の患者が恐怖を克服したことに対しては親身に喜んでいるように見えた。
     前回この場所、クリニックを訪れた時からは数日しかたっていなかったが、話そうとしてみればその短い期間に随分と変化があった。変わらないのはこのクリニックの真っ白な内装と、目の前の男の服装くらいだった。服装に関する記憶力はさほど芳しくない晶だったが、さすがに三度も同じものを見れば気付いた。それにしても良く何枚も同じものばかり持っているなと感心する。
    「以前より長い期間のことを正確に思い出せるようになってるように見えるけど、何か生活に変化でもあったのかな?」
     男がふと思いついたようにそう尋ねるので、晶は小さく唸った。
    「変化というか――生活の変化という意味ではだいぶ前から結構色々なことがあったんですが――」
     だが数週間の間にあった出来事は、男に説明するには少し複雑すぎる気がした。仕方なく、思いついた要点だけをかいつまんで口にした。
    「なんというか、記憶の中の男の人と、雰囲気の少し似た人に会ったので、もしかしたらそれも原因なのかもしれません」
    「雰囲気の似た人?」
     男は興味深そうに目を輝かせて、鸚鵡返しに繰り返した。
    「――よくわかりません。最近できた新しい知り合いなんですけど、時々、夢の中の男の人と重なることがあります。俺の願望に過ぎないのかもしれないけど。でも深く考えようとすると、頭が痛くなったりして――いつも具合が悪くなってしまって」
    「きみの心に何らかのリミッターがあるんだろうね」
     男は注意深く分析するように言った。
    「もし身体的な苦痛が伴うなら、あまり無理はしない方がいいんだろう」
    「――俺の心が、というより何か本当に枷のようなものが嵌っているんじゃないかと思うことがあります」
     晶は時々発作のようにやってくるあの立ち眩みのような感覚のことを思い出しながらそう言った。
    「――枷のようなものね」
     男は吟味するように晶の言葉を繰り返すと、やがて視線を伏せて言った。
    「もし実際に抵抗のようなものを感じるなら、さっきも言ったように無理はしない方がいい。さっき聞かせてもらったネズミみたいなのがいっぱい死ぬ話なんて、相当おどろおどろしいものだし、思い出すだけで多少の負担はあるのかもしれないしね。――あれ以外のことで何か今日思い出せそうなことはあった?」
    「――思い出せそうというか」
     晶は前の日に見た夢のことを思い出しながら答えた。
    「ネズミが死んだ夢以外に、もう一つ、はっきりと夢に見て思い出した記憶があります」
    「最近は夢が記憶を取り戻す為の場所になってるみたいだね。――人間の深層心理が一番無防備になる状態だから、当たり前と言えば当たり前だけど。それでどんな夢だった?」
    「――またあまり楽しい夢ではありませんでしたけど」
     その夢の内容を、色彩を、頭の中に再現するように心がけながら、晶はゆっくりと言葉を紡いだ。
    「それも多分、魔法使い達と任務に出かける夢でした。どこか辺境の少しさびれた村に、いつも夢に見る男の人も一緒に」


    *       *       *


    「ならんわ、もう二度と魔法使いなんぞにあの水源の近くに住まれてたまるものか」
     老人の怒鳴る声が古ぼけた木の家の中に響き渡って、一同が身を震わせた。老人は枯れ木のように痩せこけていて力もなく、恐怖の対象にはなり得なかったから、震えの理由はその場にいた者が彼に対して怯えたからではなかった。けれど人の怒りや憎しみには誰かの身を見えない場所から威圧し、蝕む力があるのだ。彼は自分の家のきしむ床板の上、しっかりと足をふんばって、自分を一瞬で殺せる者達を相手にその声を張り上げていた。
     老人は人間であり、中央の国の奥地に位置する村の長だった。晶は同行した賢者の魔法使い達のうち数人と共に老人の家にいて、村の主だった人間と、それから同じく村の住人であるはずの魔法使い数名に囲まれていた――両者の間には、残念ながら深い溝があったけれども。
    今回賢者の魔法使いが呼ばれたのはそもそも村の水源を冒していた危険な魔法生物を退治する為だったが、その事件が解決したにも関わらず、一同はこうして面を突き合わせ、険悪な空気の中話し合いを続けていた。――度重なる不穏な出来事に村人の不安が爆発したからだった。今回の騒動の原因はあくまでも魔法生物だったが、どうも村が魔法生物の被害に遭うのは、これが初めてのことではないらしかった。そして運の悪いことに水源のあたりには昔から魔法使い達が居を構えていた。悪いことが起これば誰かのせいにしたくなるのが人間の常で、その刃は大抵日頃から不満や恐怖の対象になっている者に向けられることになる。魔法生物が近寄ってくるのも、そんな場所に魔法使いが住んでいるからに違いない、そう人間は主張したのだ。
    「――私達は昔からあそこに住んでいますが、彼らが手が付けられない程狂暴化したのは初めてです。厄災の影響さえなければ、村に大した被害は出ないはずでしょう――」
     魔法使い側の一人が遠慮がちに口を開いた。その話しぶりからして、彼らが村人に今までどんな扱いを受けて来たかというのは容易に想像ができた。中央の国は比較的魔法使いに寛容だと聞いていたのに、と晶は表情を曇らせた。田舎の方に行けば行くほど、偏見の類が強くなる傾向にあるのはどこの世界も変わらないのかもしれない。
    「お前さん達が望まなくても、化け物が引き寄せられてくるってことだってあるだろう」
     老人の傍に控えていた若者が声を上げた。その表情には、憎しみと恐怖が奇妙に入り混じって、ぎらぎらと光る目が対する魔法使いに向けられていた。
    「――もう俺達だって嫌なんだよ、またあんなことがあるんじゃないかって震えながら生きるのは」
    「言っておくけどあの水源のあたりに魔法生物が寄ってきやすいのは魔法使いとは関係ないよ。ただ彼らの神秘の力を高めるような、いい感じの自然環境が整ってるってだけで」
     そこで賢者の魔法使いの一人が――灰色と翠の混じる二つの目で悠々と辺りを見渡す男が、口を挟んだ。他の魔法使いは随分前から彼に制止されて黙っていた。近くに立つ長い髪をした魔法使いは腹に据えかねたといった表情をしていたし、その傍らに控える騎士風のいで立ちをした男も今にも噛みつきそうな表情をしていたが、なんとかこらえているようだった。
     男の介入に、村人たちはさすがに口籠った。彼には笑顔でいても周囲を威圧するような雰囲気があって、大抵の者はそれに呑まれてしまう。
    「魔法使いにとって住みやすいってことは当然同じく神秘の力を糧にする魔法生物にも住みやすいってことだからね、それは仕方ない。――ということで提案だけど」
     そこで男は言葉を切って、まるで自分の言葉の効果がその場に居合わせた者にきちんと影響をもたらしているかどうか、確認するように一同を見渡した。
    「水源に住み続ける代わりに、そこに住む魔法使いが魔法生物から村を守るっていうのはどう? それなら誰も住まいを失うことはないし、村も危険から守られて一石二鳥だ」
     穏やかな声で語られるその提案は、少なくとも晶にとっては名案であるように聞こえた。村人は恐怖から守られ、魔法使いと村人は共存の道を探ることができる。だが意外にも、それに対して険のある言葉を向けたのは魔法使いの方だった。
    「――俺は嫌です」
     その魔法使いは震える声で言った。
    「食べ物を分けてもらうのも一苦労という時代を長い間経験しました――、子供が飢えかけたって、パンの一つも売って貰えないこともあった。そんな村を命がけで守るなんて俺は嫌だ」
     外から見るより、この村にある対立の根は深いようだった。村人達が魔法使いを忌み嫌うだけではない、魔法使いの側もまた既に人間に嫌気が差して友好的な道を見つける気持ちになれなくなっているようだった。
    「――そうは言ってもねお前達」
     少しだけ男の声が低くなる。
    「このままじゃ村から追い出されて、住むところがなくなるだけだよ」
    「そら見てみろ」
     村の若者が追い打ちをかけるようにせせら笑った――とても嫌な笑い方だと晶は思った。
    「こいつらにはそもそも人間と一緒に生きようなんて気は更々ないんだ」
     議論は悪い方向へ、悪い方向へと転がり始めているように見えた。晶には当然、自分の身内の魔法使い達の苛立ちが募っていくのが手に取るように感じ取れたし、そろそろ何人かが声を荒げ兼ねないとわかっていた。この村を助ける為にと思って来たはずなのに、気分の悪い思いをさせられている自分の友人達を思うと居たたまれなかったし、自分に何もできないことが、歯がゆかった。一体誰が声を上げるべきか、と煩悶した――日頃は取らないような選択肢ではあったけれど、魔法使いよりはもしかしたら、自分の方がいいのかもしれないと思った。
    「――待ってください、もう少しその案を話し合ってみてはどうですか――みんな、もう長い間同じ場所に住んでいるんですし――」
     部屋の中の剣呑な視線が、一斉に晶の方へと注がれた。その時晶は人の怒りは実際に質量を持っているのではないかと錯覚した――後ろに倒れそうになるほどに、それくらい彼に向けられた苛立ちと憎しみは強いものだった。
    「話し合って何になるって言うんだ」
     村の若者が先程の嫌な笑みをもう一度浮かべた。
    「――こういう話し合いが持たれるのはこれが最初のことじゃない。でもいつもうまくいかなかった。無駄なんだよ、魔法使いと話し合いをするのなんて――奴ら、人間のことなんて石ころくらいにしか思っちゃいないんだから」
    「それはお前たちの方だろう」
     罵倒の応酬になりそうになるのを制止しなければと、晶は重ねるように言葉を繋いだ。
    「でも――今までが駄目でも、今回はうまくいくかもしれません。次が最初の一回かもしれません――ほんの少しだけ、話し合ってみませんか」
     晶としては祈るような気持ちで、誠意を込めてその言葉を伝えたつもりだった。けれど彼の意に反して、向けられた憎しみの質量は厚く、重くなった。
    「――何を偉そうに」
     そう呟いたのは魔法使いの中の一人だった。
    「この世界のことなんか何も知らないお飾りの賢者様は黙っていてよ」
     大きな声ではなかった――威圧するような調子さえなかった。けれどもその存在も言葉も、まるでこの世界の石ころほどの価値さえないように蹴り飛ばされたということは、少なからず晶の心を抉った。文字通り、鳩尾の辺りをえぐり取られたような気がした。呪文を唱えずとも魔法使いの言葉にはそんな力もあるのだろうか、半ば茫然としたままそんなことをぼんやり考えると、とうとう我慢ならなくなったらしい騎士然とした男が前に出た。
    「おい、その言い草はないだろう」
     何か言いかける彼を晶は慌てて手で制した。誰もが不満を貯め込んで、怒りを爆発させようとしているその瞬間に、火に油を注ぐようなことは避けたかった。
    「――皆頭を冷やした方がいいようだな」
     それまで沈黙を守っていた魔法使いが、燃える赤い瞳で周囲を見渡して言った。重く、威厳さえ感じさせるその物言いに逆らえる者は、さすがにその部屋にはいなかった。
    「――少しの間、休憩にしようか」
     最初に話していた男が一同を代表して場を収めた。晶はぼんやりと鳩尾のあたりに手をやって、そこをさすっていた。人も魔法使いも互いに憎しみの視線を交わらせたが、晶に関心を向ける者はただの一人もいなかった。彼は辺りを見渡すと、そっと家の中から抜け出した。それ以上自分がそこにいても、できることは何もないと思ったのだった。


     村長の家を出ると、空もまた家の中の空気に相応しく灰色に曇っていた。あるいは同行した魔法使いの一人の機嫌が天候に影響していたのかもしれない。くすんだ空を見上げることは気分転換をすることに役立たなかったので、晶の足は自然と村の通りの方へと向かった――あの怒りの充満した家から少し離れたいと思ったのだ。
     村は栄えているとは言い難く、立ち並ぶ家はみなどこかみすぼらしかった。井戸の傍らで話をする女達の服は継ぎ接ぎだらけで、皆やや落ちくぼんだ目を晶に向けては、ひそひそと耳打ちし合っていた。栄光の街などでは決して見ることのないその風景に、晶は同じ国の中でもこうも違うものかと心を痛めた。
     突き刺さるような視線から逃れたくて、いつもは避けるような人気のない小道を辿った。村人は友好的ではないとは言え、攻撃的であるようにも思えず、何らかのトラブルに巻き込まれるとは思えなかったからだった。何の気なしに身に着けて来た貝殻の笛が首元で揺れたが、それを使うことにはならないだろうと思った。
     一歩寂しい通りに入ると、建物の雰囲気は一気に古ぼけた風になり、石づくりの塀や土台、瓦礫がところどころ見られるようになった。この村は以前はもう少し栄えた場所だったのだろうかと人に思わせるような重厚な建築の跡だ。苔や蔦が石を食い破り、ヒビが入っているところを見ると相当古いのだろう。格子のようなものが中途半端に残る穴を見ながら足を進めていくと、やがて何か金物を打つような音が耳に入った。
     乾いた土の道を耳をそばだてながら歩いて行くと、やがて若干開けた場所に出て、音の主は明らかになった。広場のような場所の奥、崩れかけた低い塔のようなものの上に、一人の村人がしがみ付いて作業をしていた。見たところその塔は鐘を収めるために作られたもののようで、教会を思わせる古い石造りの建物の端に位置していた。目を凝らして見上げると、村人はどうやら何かをその塔のてっぺんに取り付けようとしているようだった。――それは錆びてとさかのひん曲がった、風見鶏だった。
    「鐘楼の鶏だよ」
     村人は歌うように呟きながら、作業を続けていた。年の頃はもう五十を過ぎているだろうか、時折けらけら笑って空を見上げるその姿から、彼が正気でない可能性があることは容易に見て取れた。彼は他の村人のものより更にみすぼらしい、ぼろぼろの服を纏っていた。上着の代わりにショールのようなものを重ね着していたが、その裳裾はいくつも千切れて、古びたカーテンのように垂れ下がっていた。
     晶が声も出せずに見上げていると、彼はやがて観客の存在に気付いたのか、振り返って「こんにちは」と声をかけてきた。少なくともその表情に攻撃性はなく、礼儀正しく見えた。
    「――こんにちは」
     晶が同じように言葉を返すと、村人は頷いて見せた。
    「外の人かい」
    「――そうです、用事でこの村に来ました。工事をなさっているんですか?」
    「そうだよ。――誰もこの建物に見向きもしなくなったから、これでも付けてやろうと思ってな」
     塔は低いとは言え、さすがに下から会話を続けるのは骨が折れた。晶は建物の脇に階段を見つけてそれを上がり、崩れて瓦礫となった建物を辿って、村人のいる塔にほど近い、屋根のような場所に上った。
     上がって来た晶を見て村人は微笑んで見せた。その表情には正気を失った者持つ独特の雰囲気はあれど、そこに憎しみなどの負の感情は一切感じられず、村の他の者よりずっと穏やかに見えた。
    「この辺りは古いんですか? 村の他の場所と雰囲気が違いますけど」
     晶が話しかけると男は頷いた。
    「――このあたりはずっと前にあった町の残骸だよ。随分廃れちまったけど、ここには昔は神様が祀られてたりしたもんだ」
    「――それはなんとなく建物の雰囲気からわかりました」
    「色んな神様が祀られたらしいよ。ごちゃまぜに、ぐちゃぐちゃに。――昔は村の中心もこっちにあったらしい。でもこの場所に意味がなくなればみんな忘れちまうからな」
     近くで見ると、鐘楼の中の鐘はもう錆び付いて古ぼけ、長いこと使われていないことが見て取れた。
    「だからこれをつけてやろうと思ってな」
     村人はそう言って笑いながら、古ぼけた風見鶏を指した。
    「鶏をつけるんだよ、そうすれば風向きを知りたくて、みんな見るだろ」
     晶はどう答えていいかわからずただ男の穏やかな表情を見上げた。
    「――意味がないと可哀想だろ、だからくっつけてやるんだよ」
     男はそう言うと、手に持っていた金槌のようなものを置いて、それから針金のようなものを取り出し、それをぐるぐると巻き付け始めた。そしてまた時折「鐘楼の鶏だよ、かわいいよ」と小さく歌う――とても正気の行動には思えなかった。
     この場をさっさと離れるべきだろうかと晶が悩んでいると、ふと足音が近付いて来るのが耳に入った。振り返ると足音の主はすぐに明らかになった――同じく齢五十程に見える熊のようながたいのいい男が走って来ていた。
    「こら、お前またなにしてるんだ」
     男はその体格に相応しい大声で怒鳴った。晶は一瞬身体を震わせたが、熊男の怒りの矛先は別のところにあるようだった。もじゃもじゃの眉毛の奥の怒れる瞳は、塔の上で作業をする村人に向けられていた。
    「――勝手にそこをいじっちゃならんって言っただろう」
     熊男は大声を張り上げ、拳を振るような素振りをする。すると村人は作業をする手を止めて、その微笑みを下にいる熊男に向けた。
    「風見鶏をつけるんだ、この塔にも意味ができるよ」
    「――馬鹿野郎、そんなもの飾りにしかならんわ、意味がねえよ。早く降りてこい、――ほら、あんたも」
     そこで初めて熊男は晶の方に注意を向け、不機嫌そうな様子で乱暴な手招きをした。晶としては男の言うことを聞かない理由はなかったので、大人しくまた瓦礫の山を辿り、階段を伝って地面の上に戻った。
    「――見ての通りあいつはちょっとおかしくなっちまってるんでね」
     降りて来た晶に、熊男は言った。
     だがその瞬間、塔の上からげらげらとけたたましい笑い声が聞こえた――風見鶏を取り付けようとしていた村人のものだった。ぎょっとして熊男と晶が見上げると、彼は愉快そうに塔の上で手を叩いている。
    「鐘楼の鶏だよ、意味がないよ」
     相変わらず村人の表情は邪気の欠片もなく、まるで幼い子供のそれのようにすら見えた。けれど晶は妙に気分が悪くなってしまい、その姿から目を反らした。意味のない飾り、その言葉が弱っていた彼に心には毒薬のように黒い染みを落としたのである。
    「――はよ降りて来んか。お前は婆さんの仕事を手伝うことになってたろ」
     熊男が村人に何を思ったかはわからないが、とにかく彼は腹に据えかねたようで、空に向かって怒鳴りつけながら拳を振り上げた。だが彼の怒りとは裏腹に、鶏はそこにしっかりと鎮座して、塔の一部のようにくっついていた。
     晶は居たたまれなくなって、友人が待っているので、と告げてその場を後にした。胸に落ちた黒い影はじんわりと広がり、自然と視線は地面の石ころを辿る様に下を向いた。
     すぐに皆のところに戻る気にはなれなかったので、更に人気のない場所、少なくとも心乱されることのない場所に行こうと、畑の点在する村の外周へと足を向けた。するといい具合に風の吹く、見晴らしの良い開けた場所に出たので、そこで立ち止まって大きく息を吸い、無限に広がるかのように見える緑をぼんやりと眺めていた。
     十分ほどたった頃だっただろうか。ふと背後に何かの気配を感じて晶は振り返った。半ば予想していた人物の姿が目に入って、晶は一瞬硬くした身を緩めた。自然の緑とは少し異なる、淡い色のそれが少しだけ離れた場所から晶を見つめていた。
    「――いつからいたんですか」
     晶が男に尋ねると、彼は苦笑いを浮かべて答えた。
    「ちょっと前からいたよ。でも声をかけにくい雰囲気だったから」
    「別に何かをしていたわけじゃないので、呼んでくださればよかったのに」
     晶がそう言うと、男はゆっくりと近付いて来て傍らに立った。
    「綺麗な景色だよね、何もなくて」
     彼は目を細めて、晶が先程まで視線を彷徨わせていた辺りを見渡した。
    「人も魔法使いも面倒なものだけど、自然は単純で、こんがらがってない」
     彼の言葉の意図するところを敢えて考えないように聞き流しながら、晶はそうですね、と頷いた。今男との複雑な問答に取り組むだけの心のエネルギーは残っていなかった。けれど男は自ら自分の発した言葉をわかりやすく、紐解いてくれるつもりらしかった。
    「――なんだか今日は気負ってたみたいだけど」
     先程の村長の家での出来事のことを言っているのだろうなとすぐに察しがついて、晶は視線を少しだけ伏せた。恐らく彼なりに気遣ってくれた上での発言なのだろうなとは思ったが、虚ろに空回りするだけの部外者である自分を思い出して少しだけ気持ちがまた暗くなった。
    「――何もできないので歯がゆかったのかもしれません」
     晶が短く答えると、男は納得したのかしなかったのか、「そっか」と小さく答えて、またしばらく口を閉ざした。
     風が吹き抜けて、畑の作物が少しばかり身体をしならせて揺れた。その間にところどころ佇んでいるカカシだけはびくともせずに物悲し気に揺れる草葉を眺めている。彼らもま
    た、畑を監視しているようには見えても、それは形だけであって何もできないのだ。
    「世界にひとりぼっちみたいな顔してる」
     小さく喉の奥で笑う声が聞こえて、そんな言葉が投げかけられた。決して完全に的外れというわけでもないその指摘に、晶はしばらく返す言葉もなく黙っていた。
    「――そういう気持ちがわからないわけでもないけどね」
     返事が必要な言葉ではなかったのだろう、男は独り言でも呟くようにそう言葉を重ねた。
    「あなたは一人ぼっちだったことなんてないでしょう」
     晶は苦笑して言った――常に孤独の影を抱えたような顔をしているけれど、男がいつだって誰からも必要とされていることを知っていたので、自然とそういう反応になった。けれど男はそんな晶の視線を、少しだけ目をすがめて、寂しそうな笑みを浮かべて受け止めただけだった。
    「――そろそろ気が済んだ?」
     しばしの沈黙の後、何を思ったか男は晶の前に手を差し出してそう言った。晶が驚いて自分より少し背の高い男を見上げると、男は首を傾げて少し困ったような顔をした。
    「あれ、何か俺変なことをした? ――賢者様がしてくれたように手を引いてあげたかったんだけど」
    「いいえ、変なんてことは――ただ驚いただけで」
     晶が慌ててそう言うと、男は「良かった」と言って笑った。その微笑みにあまりにも言葉通りの感情しか含まれていないように見えたので、晶はどこか恥ずかしくなって少し俯き加減に差し出された手に、自分の手を重ねた。冷たい手にぴくりと身体を震わせると、また男は愉快そうに笑っていた。


    *     *     *


    「その男の人とは一人ぼっちの時間を分け合うような関係だったのかな」
     長い話に一つの区切りをつけるように、カウンセラーがそう言った。晶はその言葉をしばらく吟味していたが、やがて頷いて次のように答えた。
    「――そうだと思います。今思えば俺達はどちらも自分のことを一人ぼっちだと思っていたのかもしれません。だからこそ俺も彼のことを放っておけなかったところはあるかも」
    「そうしてるうちに、相手の方もきみが寂しそうにしてると追いかけて来るようになっちゃった?」
     男の言葉に、晶は少し視線を彷徨わせて言葉を濁す。
    「どうでしょうか――周囲の様子に敏感な人だったから、俺が賢者としての役目を全うできるように、いつも気を付けてくれていただけかもしれません」
    「それにしては親しそうに聞こえたけど」
     晶はこのカウンセラーが以前から自分と夢の中の男の関係について特別な意味を与えたがる傾向にあることについて、ぼんやりと考えた。
    「前にお話ししたことがあるかもしれませんが、“賢者”っていうのはその世界でそれなりに重要な立場だったんです。だからこそ彼も含めて色んな人が俺の面倒を見てくれました」
    「――随分卑屈な言い方をするじゃない?」
     男は少し困ったように眉を寄せて複雑な笑みを浮かべた。
    「でも実際そうだったんです」
     晶は視線を伏せてそう返した。
    「――思い出した記憶の中でもそうでしたけど、俺は自分に与えられた役職に価値があることを知っていました。でも俺自身に何の価値も意味もないことも知っていました。だからいつも、役に立たなきゃいけないと空回りしていたような気がします――これは俺の記憶にとって重要なことなのかどうかわかりませんけど」
    「きみ自身に価値があると思えなかったから人からの厚意も素直に受け取ることができなかったんだね」
     専門家じみたそのコメントに、晶は多分、と小さく答えた。
    「――じゃあきみ自身に何かしらの価値があると思えたら、その男の気持ちに応えた?」
     目の前の男が突拍子もないことを言いだすので、晶は眉をひそめた。
    「あの、この間から何度も言ってると思うんですけど、俺とその人はそういう関係ではなかったですよ」
    「そう? 少なくともただの知り合いではなかったように聞こえるよ」
    「――それは客観的に見ての意見ですか?」
     恋愛小説も裸足で逃げだしそうな解釈が自分の夢や記憶の登場人物に与えられたのを見て、晶は困惑の色を隠さずに尋ねた。
    「客観的かどうかというのは難しい問題だけど、人間関係の話はね」
     男はゆっくりと顎を撫でて、それから少し首を傾げて晶を見つめる。
    「でもどこかに特別な感情があることくらい話を聞いていればわかるでしょ。――前から少し思ってはいたけど、きみにはちょっと人の気持ちを受け取ることを怖がる傾向がある?」
    「怖がる、ですか?」
     自分では思ってもみなかった自分自身に対する解釈に晶は少し狼狽えた。
    「そう。誰かに強い感情を向けられるのを怖がるようなところがない? ――あるいは自分がそれを誰かに対して抱くことを避けるようなところが」
     男が淡々と指摘したそれは、自分で決して意識したことのない特性だったので、晶はしばらく返す言葉もなく考え込んでしまった。今でこそ就職の為に引っ越しをして、あまり知り合いも多くない街にいるけれど、学生時代はそれなりに友人もいて、普通の青春時代を送ったつもりだった。恋人ができたことはないが、それが男の指摘する自分の特性と関係しているのだろうか。
    「――自分でそう考えたことはないですけど」
    「自分の考え方の癖は自分でなかなか気付かないと思うよ。――少なくともきみの話を聞く限りは俺はそう感じたけどね」
     どこか自分を見通そうとするような相手の視線に怯みながら、晶は目を反らしたまま、同じくどこか自身の内面を抉るようであったその言葉を反芻していた。
    「きみが怖いのは本当に海だけなのかな?」
     男の声は妙に穏やかに耳の奥に響いた。
    「身体が反応するくらいだから海で何かとても怖い思いをしたのは確かなんだろうけど」


     いつものように雑居ビルを出てバスに乗り、家に帰って玄関を開けると違和感に気付いた。鍵を回して扉を開いてもその向こうに何の人の気配もなかったのである。この家に住みついている居候の帰りが自分より遅いことは珍しかったので、晶は少しばかり驚いたものの、考えてみれば彼が来る以前はこれが当たり前の景色だったのだと思い出した。
     無人のリビングに明かりを付けて荷物を放り出すと、住み慣れたはずの部屋が奇妙にがらんどうのように感じられた。ほんの数週間とは言え、誰かが近くにいる生活に慣れてしまうと、その不在が気になるものらしい。
     沈黙を紛らわすようにテレビをつけると、ちょうど夜のニュースの時間で、いささか気分の沈むような話が続いた。ちっとも気が紛れないので闇雲にチャンネルを変えてみたが、特に興味もないタレントが軽口を叩き合っているのを見ても、気分が晴れることはなかった。
     ――これは今までと同じ暮らしじゃないか。そう自分に言い聞かせてみたが、居候がいなくなった後の生活を想像することを止めることはできなかった。
     疲れているから余計なことを考えるのだろうと思い、お湯でも沸かそうと台所に立ったところで、玄関のドアノブが回るのが聞こえた。どこか止まっていた部屋の中の時間が少しだけ動き出すような気がして、心臓が持ち主の意思とは関係なく、安心したように大きな一息を吐き出した。
    「ただいま」
     妙に明るいその声が部屋に降りた沈黙を退けて、晶は振り返った。見ればフィガロが立っていて、買い物袋を下げていた。
    「ごめんね、今日ちょっと買い物に行くのが遅くなっちゃったから」
     夕飯の支度が遅れたことについて言っているのか、少し申し訳なさそうに眉を八の字にしたフィガロに、晶は首を横に振った。
    「別にそんなこと気にしなくていいんですけど――おかえりなさい。遠くのスーパーまで行ったんですか?」
    「安売りやってたからね」
     フィガロは手馴れた様子で買い物袋を椅子の上に置いて、食卓の上に特売のシールの貼られた食材を並べて行った。見事なまでに買い得の季節商品を揃えるその手際はもはや熟練の主夫といったところで、初日に晶を恐怖させたような買い物の仕方が懐かしいくらいだった。
    「――それから今日はお土産」
     最後の袋から小さなケーキの箱を取り出しながら、フィガロはそれをちょっとだけ誇らしげに掲げて見せる。それを見た瞬間、まるで恋人に小さなお土産を忘れなかった男が賞賛の言葉を求めて尻尾を振っているようだと一瞬考えて、晶はそんな想像を頭の中で振り払った。
    「ケーキですか? この間一緒に行ったお店の?」
    「そう、きみはあそこのケーキが好きなんでしょ? なんか最近あんまり元気がなさそうだったし――節約できたからたまにはいいかなって。二個買うだけの予算はなかったから一個だけどね」
     同居人が好きなので一つだけくださいって言ったら微笑ましい顔されちゃった、と嬉しそうに話すフィガロを見て、さっきまで空っぽの部屋に震えていた心臓が、ほんのりと胸の奥で温度を持つように感じた。
    「ふふ、なんかいいですね、誰かが家で待ってるって」
     何の気なしに口にした言葉に、フィガロはきょとんと目をまるくした。
    「え、今日なんかどうしたの? 寂しかったりした?」
    「――いいえ、なんとなくそう思っただけです。ケーキ、食後にお茶を淹れて半分こして食べましょうね」
     そんな晶の提案に対して、フィガロは何故か少しばかり虚を突かれたような顔をしていたが、やがてはにかんだように視線を伏せて、うん、と頷いた。
     その晩の夕食は二人で並んで一緒に作った。野菜と魚を合わせた、フィガロの好むあっさりとした食事だった。ケーキは半分にして食べた。苺の譲り合いに収集が付かなくなったけれど、そればかりは結局フィガロが譲ってくれなかったので、晶のものになった。自分の為にそっと横によけられたいちごは、少しだけ酸っぱくて、甘い味がした。



    12.

     商店街や商業ビルでは時折福引というのをやっている。晶はあまりそういう催しをチェックするタイプではなかったので、引換券を集めたりということもなかったが、どうやら彼の同居人は正反対のタイプであったらしい。興味を引くものにはなんでも手を出してみるこの男、きっちり福引券を貯め、挙句の果てにそこそこの商品を当ててきた。ビギナーズラックというやつかもしれない。
    「えいが? ってのは友達とか恋人同士で行くのが普通なんでしょ? 俺一人で行ってもつまらないよ」
     哀しいかな、彼が引き当てて来たのは映画のペアチケットだったので、当然いつもの我儘というか、問答が始まることになった。
    「――フィガロ、あなたがここに来てから俺、ほとんど休日は家でゆっくり休んだことがないんですが。大体その映画多分カップル向けですよ――男二人で見て楽しいものでは多分ないです」
     この類の福引の景品の難点は、大抵商品の性質を選べないことにある。遊園地のチケットはどの遊園地かなんて選べないし、映画然りだ。晶はチケットに印刷されたそのタイトルについて詳しくはなかったが、テレビで数秒目にした宣伝から知る限りでは、これ以上ないくらいの恋愛ものだった。
    この間の週末一緒に出掛けたばかりなんだからと、まだパジャマ姿のままで布団の中から主張する晶だったが、フィガロの方もそう簡単には譲ってくれなかった。
    「えー、いいじゃない、俺はえいが?とやらの内容なんて気にしないよ」
    「――正しい発音は映画、です。フィガロだったら多分映画館の前で適当に声かけたら連れが見つかりますって」
    「それはそれで楽しそうだけど、今はきみと行きたいんだよ」
     いささか倫理観を欠いた返答に呆れながらも、結局のところ晶はいつものようにフィガロの要望を呑んでやることになった。映画館でーとってやつもしてみたいんだって、とちょっと拗ねたような顔をされれば、なんだか可哀想になってしまって、次の瞬間には「いいですよ」と口が動いていた。

     そんなわけで、晶は祝日の真昼間であるというのに、自分より背の高い男を横に侍らせて映画館のシートに腰を下ろしていた。男二人連れ立ってこんな映画を見に来るなんて、一体どういう目で見られるのだろうといささか怯えていた晶だったが、その期待は全く裏切られることなく、周囲からちらちらと好奇の視線を注がれることになった。一方のフィガロは全くそんなことを気にせず、彼にとって未知の領域であるらしい映画館を満喫していた。
    「――ねえ、あの画面全部使って映像が映されるの?」
    「そうです」
     斜め後ろの女性二人連れの視線を気にして上の空になりながら、晶は適当な返事をした。
    「へえ、大きなテレビみたいなもんだと思ってたけど、これだけ大きかったらそりゃ迫力だろうね。お金を払って見に来る人達がいるわけだ――ところでこの穴って何に使うの?」
    「ああ、それはポップコーンを入れておくところですよ、危ないからそっちの飲み物貸してください」
     相変わらず現代社会のエンターテイメントを全く理解していないらしいフィガロはあてずっぽうに奇妙な行動を繰り返すので、余計に目立ってしまって、晶は冷や汗をかくことになった。上映が開始される為に室内が暗くなったことで、心の底から安堵したくらいだ。
     しかし明かりが落とされると同時に彼が小さく口笛を吹いたので、晶は己の安堵が見当はずれのものであることにすぐ気付いた。
    「――今なんで映画館ってのは恋人同士で行く場所なのかっていうのがわかったよ」
     嫌な予感がしてフィガロの方を見た時は既に遅く、手すりに投げ出したままだった手の上に、少しだけ冷たい彼のそれが重ねられていた。
    「暗闇に紛れてこういうこともできるし、――気の弱い男だってちょっと気が大きくなって色んなことができちゃうかも」
    「……後者は場合によっては犯罪だと思いますけど」
     飲み物を取りたいので手を避けてくれますか、と頼めば意外なほどにフィガロはあっさりとその手をどけてくれた。取り敢えず真面目に映画を観る気はあるらしく、コーラをすする晶の横で、次々と流れる広告と眺めていた。
    「――ここの人間の考える物語はみんな、悲しいものが多いの?」
     いくつかの広告が流れた後に、ふいにそんな問いが投げかけられた。晶は少し声を落とすように身振りで合図してから、フィガロの耳元に顔を寄せてそれに答える。
    「あれはなんていうか感動もののジャンルの映画だったから――アクションとかそういうジャンルの映画ではそんな悲しいことにはなりませんよ。
    「でもこれも最後の戦いとか言ってるよ」
    「うーん、世相ですかね」
     そもそもあまり映画など見に来ないので考えたこともなかったが、言われてみれば手放しで幸せだと呼べるような終わりを迎えそうな映画は少ない。ホラーは言わずもがな、恋愛ものも宣伝の段階から既に少しばかり寂しい終わりを予感させるものが多い。
    「シーズンによりますけど、映画っていうのは二時間くらいで話をまとめなきゃいけないから、人を感動させるような効果を狙ったジャンルではそういうのが多いかもしれませんね」
     自分なりの解釈を述べると、隣でフィガロは面白くなさそうな顔をしていた。
    「――でも俺はハッピーエンドがいいな」
     二時間も椅子に座って見させられるのにとぼやく彼に、来たいと言ったのは誰だったかと突っ込みたくなったが、あまり上映中に喋るのもどうかと思い、口を閉ざした。
     残念なことにチケットを貰ったその映画そのものも、決して幸せな終わりを迎える物語とは言えなかった。昔からある有名な片思いの話を現代風に焼き直したもので、ある男が美しい幼馴染の女に恋をするが、友人もまた同じ女に恋をしてしまうという典型的なストーリーが展開される。友人は美男だが、教養の面で主人公に劣り、主人公に恋文の代筆を依頼するのだ――そして主人公はそれを引き受け、友人と女は結ばれる。
     案の定上映時間の半分もしないうちにフィガロは晶の腕を引っ張り、不満に満ちた感想を伝えてきた。
    「――ねえこれ、観てる人みんな楽しいの? 主人公がこんな目に遭ってるの見て」
    「少し声を落としてください――あなたが観に来たいって言ったんですよ」
     意外とそれが大きな声だったので晶が慌てて窘めると、フィガロは少し声を落としたもののそのまま不平を並べ続けた。
    「大体主人公も馬鹿だよ、なんで他の男が好きな女のことを延々と思い続けて人生メチャクチャにしてるのさ」
    「そういう一途な愛に関するお話なんです」
     晶が辛抱強く答えると、フィガロは両手を大げさに広げて肩を竦めて見せた。暗闇でも後方の客の迷惑にはなるだろうその身振りに、晶はとうとうフィガロの肩を叩いた。
    「――存在しないよそんなもの」
     むくれた子供のように頬を膨らませながら席に身を沈めたものの、映画に対する批判に関しては止めるつもりはないようだった。
    「稀なものでしょうけど、この世のどこかには存在するのかもしれませんよ」
     晶が小さく答えると、鼻で笑うような声が聞こえた。
    「どうだか。――じゃあきみはこういう状況になって、ずっとこんな相手のことを想える? 自分が誰の書いた恋文を読んでるかもわからないような愚かな女をさ」
     少しばかり考え込みながらスクリーンに目をやると、主人公がちょうど友人と女の結婚式を見守るシーンだった。そこでも映画の主人公は非常に思慮深く、幼馴染の女に対する深い愛を行動の端々から見せるだけだ。
    「――心のどこかで大切に想っていてあげることはできるかもしれません」
     果たしてこの主人公のように行動できるかどうかというところには疑問が残ったが、晶は何故かこういう種類の愛の存在を否定したくないと思って、そう答えた。
     だが答えた瞬間小さな違和感が胸の奥に沸き上がった――同時に、まただと晶はそれの訪れを察知する。目の前の景色に奇妙な色が混じって、スクリーンの中の映像が歪んで全く違うそれに変わっていく――頭の中をかき回されるような不快感がやって来て、埋もれている何かが自分をここから出してくれと叫んでいるような錯覚を覚えた。
    それは記憶が戻って来る時のあの感覚だった。
     ――自分はこの会話を知っている――こういう話をしたことがある。この声が愛の存在を笑うのを聞いたことがある。歪む景色の中で晶は考えた。身を乗り出して自分に囁いたフィガロの姿が妙に夢の中の男と重なって、違和感は一層強くなる。
    ――そうだ、少し小ばかにしたように鼻で笑う時の視線の反らし方も、その後に自分の発言が理解されないことの気まずさを誤魔化すときの困ったような表情も、晶は以前に見たことがあった。いや、どうして今まで気付かなかったのだろう、何度もはっきりと夢の中で見たではないか、その普通にはないような不思議な色合いの瞳も、それがすがめられて淡い翠だけが強調される様も、全部見たことがあったではないか。恐らくフィガロは――。
    だが晶がその結論に到達する前に、頭の中で最後の抵抗を試みるかのように警報が鳴った。記憶の蓋が完全に開いてしまうのを無理矢理閉じ込めでもするように、晶の意思とは全く関係のない何かが、その大きな手で無理矢理あふれ出した何かをぺしゃんこにしようとしていた。結果やってきたのはいつもより一際酷い眩暈だった――座っていたからいいようなものの、立っていたら確実にその場に倒れていただろうというくらいに、前後の感覚が曖昧になった。
     手すりに掴まり、なんとか現実の光景を目の前に取り戻そうとしたが、掴んだそれは思いの外温度を持って柔らかく、余計に晶を混乱させた。
    「――大丈夫?」
     囁くような声が聞こえたが、それに答えることは叶わなかった。できたのは掴んだそれにより一層力を込めることだけだったが、やがて身体を揺さぶられるような感覚がそこに追加された。
    「ちょっと――ねえちょっと、顔真っ青だけど」
     そう声をかけられ、腕を揺すられて初めて、ああ多分これは隣に座っている男がそうしたのだと思い出した――自分はフィガロと一緒に映画に来ていたのだった。掴んでいたのは手すりではなくフィガロの腕で、恐らく彼はそれで晶の異変に気付いたのだろう。
     フィガロは少し緩んだ晶の手を解くと、そのまま肩に手をやって、額に触れて来た。ひんやりとした冷たい手の感触が少しずつではあるが、晶の意識を現実の世界へと引き戻すのを助けた。
    「――汗が凄いから、外に出ようか」
     耳元で低い声がそう囁いて、立てるかどうかを聞かれた。まだ平衡感覚が怪しく危ないような気もしたが、暗闇の中で絶え間なく轟音を耳に叩き付けられているよりは、外の空気を吸った方が気分も良くなるだろうと考えた。小さく頷くとほとんど抱え上げられるように座席から立たされ、そのままフィガロの身体に掴まるようにして段差を一歩一歩歩かされる。重い扉が開いて外の光が見えた時、ようやく晶の視界ははっきりとした輪郭を伴い始めた。
     フィガロの腰に掴まったまま引きずられるようにして休憩スペースまで辿り着くと、そのまま椅子にゆっくりと身体を降ろされた。自動販売機からペットボトルが吐き出される音が聞こえるくらいになると、傍らのプラスチック製のテーブルがはっきりと色彩を持って目に映るようになっていた。
    「――これをちょっと首のところにでも当ててごらん」
     自動販売機の前から戻ってくると、フィガロはペットボトルに入った水を晶に差し出した。それを受け取って言われた通りに首にあてると、一瞬冷たさに身体が震えたものの、鈍かった頭の働きが少しずつ元に戻って来る。ようやくひと心地ついて「すみません」と謝罪の言葉を口にすると、フィガロは呆れたような顔をして首を横に振った。
    「何言ってるの、別にきみだって具合悪くなりたくてなったわけじゃないでしょ。――またいきなり記憶が戻ってきちゃった?」
     晶は僅かに頷いて、首にあてていたペットボトルの蓋を開ける。一口含めば冷たい水が喉を通り過ぎて、不快感を掃ってくれた。
    「最近よくあるの?」
    「――小さいものであればほとんど毎日のようにあります」
     晶はその問いを肯定して、また冷えたペットボトルを頬に当てた――結露してできた水滴が時折流れて顎の下に伝う。
    「――段々思い出す内容もリアルなものになって来たような気がして――でも本当にしんどくて」
    「具合が悪くなるのはなんでなんだろうな」
     フィガロが思案するように呟いて晶を見下ろした。
    「――怖かったりとかするの?」
    「怖いというよりは――何か蓋をされて固まっているのものを、無理矢理こじ開けて引っ掻き回されているような、そういう感じです――だから気持ち悪くて」
    「蓋か」
     呟くようにそう繰り返すフィガロに対して、晶は迷ったものの、結局頭の隅に浮かんだ言葉を口にする。
    「――多分、あなたは記憶の中の男の人に、とても良く似ているから――それで、そういうのが切っ掛けになって、頻繁に色々思い出すんだと思います」
     小さく息を飲む音が聞こえるような気がした――本当に僅かなものではあったけれども、フィガロが晶の言葉に対して反応したのがわかった。けれど、彼がよこしたのは「そう」という曖昧な言葉だけだった。
    「――もう少しゆっくり休んだ方が良さそうだね」
     彼はそう言うと、自分も何か飲み物を買ってくるからと言って、売店の方へと歩いて行った。

     
     しばらく休んで身体の平衡感覚も戻って来た頃には映画の上映時間はほとんど終わりに近付いていた。また具合が悪くなっても良くないからと家に帰ることにして、そのまま映画館の位置する臨海部の商業施設群へと出た。あのまま見ていても愉快な結末は見られなさそうだったし、とフィガロが冗談めかして言ったので、晶は気を遣わせてしまったなと申し訳ない気持ちになったが、案外それは彼の本音だったのかもしれないとも先程の会話を思い出しながら考えた。
     アスファルトで舗装された遊歩道を歩きながら、フィガロは晶に「おんぶして行ってあげようか」などと軽口を叩いた。いつもの性質の悪い冗談だろうと思って苦笑しながらいなすと、「あれ、嫌だった」と目を丸くしたので、「さすがにこの年で背負われるのは」と返したところ、「じゃあ手を繋ぐならいいでしょ」と指先を握られた。
     昼日中から人目のある場所で手を繋がれることには相変わらず抵抗があったが、ちらちらと振り返って来るフィガロの視線に不安の色が混じっているのを見て、晶は彼が本当に自分を心配しているのだということに気付いた。単純に体調不良の連れを慮っていたのだろう、そう思えば無碍に振り払うこともできず、手を引かれるまま時折人々の好奇の目を集めながら歩いた。
     しばらくそうやって歩いた後、ふと思い出したようにフィガロが口を開いた。
    「――ねえ、さっきの話の続きをしてもいい」
    「さっきの話ですか?」
     一体どの会話のことを指しているのだろうと考えて首を傾げると、フィガロが「映画を観ながら話してたことだよ」と付け加えた。
    「……映画みたいな一途な愛が存在するかどうかっていう話のことですか?」
    「そう」
     フィガロは肯定してそのまま続けた。
    「――きみはどちらかというとあの映画の主人公を理解できるようなことを言っていたと思うけど……もしも俺もきみのようだったら、運命の愛に巡り合えたのかなと思って」
     あの会話を交わしてからずっとその件について考えていたのだろうか、フィガロが口にした運命という言葉は、先程交わしたそれを通り越して随分と壮大に聞こえた。
    「運命、っていうと随分また――重い話になりますね」
    「――でもあの映画はそういうことだろう? 身を滅ぼすような運命の恋だ。それが本人にとって良かれ悪しかれ」
    「俺自身だってそこまで激しい恋に落ちたことはないので、わかりませんよ――俺が一生の間にそういうものに巡り合えるのかどうかも」
     晶の言葉の何かが心の琴線に触れたのか、フィガロは少しばかり悪戯っぽい笑みを浮かべて振り返った。
    「どうかな、もしかしたらどっかでもう運命の相手に会ってるかもよ。――記憶の中の男のことも随分気にしていたようだったし」
     そのからかうような調子は、どういうわけか晶に強烈な既視感を覚えさせた。やはりこの男は似ているのだ――夢と記憶の中のあの男に。
    「あの人のことであれば――多分、違うんじゃないでしょうか」
     どういうわけかその答えに対してフィガロはすぐに反応しなかった。掴まれた指への締め付けが僅かに強くなったような気がして、晶は反射的にそれを握り返した。少し沈黙が重く感じられるようになる頃、やや掠れた声が問うてくる。
    「――どうしてそう思うの?」
    「どうしてって――あの人にとって俺は本質的に必要なものではなかったですから。俺が例えあの人のことをどんなに心配したり、考えたりしても」
    「必要かどうかなんて、相手が決めることなんじゃない?」
     フィガロの口調に、晶は妙に批判するような風合いを感じた。
    「――相手がっていうなら余計に……俺は始終からかわれているだけだったし……」
    「軽薄なように見える言葉の意味するところが常に同じように空っぽなわけではないと思うけどね。――じゃあ、例えばその男がきみを追って世界の境界を越えてきたら、きみは運命を信じる?」
     批判の色は一瞬のうちに詰め寄るような切羽詰まったそれに替わっていた。その言葉の強さは真剣そのもので、心の奥底の激情の欠片がちらちらと表に見えてくるような、そんな調子をはらんでいた。話に聞いた他人の気持ちを代弁するようなそれではとてもなかった――当事者しか発し得ないような、渇望の色がそこにはあった。
     では一体何の当事者なのだと自身に問うたところで、晶はその答えの自明さに唇を噛むことになった。――昔離れ離れになってしまった人間を探しているという、この世に関する知識も常識も何一つ弁えない男。かつて篭絡しようと思っていたという男の子を探して彷徨っている――けれど相手が自分のことを覚えていないのではないかとしばしば不安がっていた。常に人を揶揄うような話し方に、悠然とした物腰に反して妙に寂しがりなところ――灰色の光彩の上に浮かぶ、翠色の、春の色をした瞳。
     気付かない方がおかしいくらいに、共通点は多かったのだ。晶は多くのことを忘れていたし、彼のことを考えようとする時、記憶もそれに関する思考力も常に奇妙な封のようなものに抑えつけられているようではあったけれど、こうまではっきりと多くの証が並んでしまえば、もはやそれも晶の推測を止める役には立たなかった。
     あまりにも共通点が多すぎるのだ、フィガロと、晶の記憶の中の男は。
     あり得ないことだと頭の中で何者かが叫ぶ――頭のおかしい人間が思いつくような、お粗末なおとぎ話に過ぎないと叫んでいる。その声は記憶の中の異世界が実際に存在していて、その住人が晶を追ってこの世界までやって来たなんていうことはあり得ないとわめいていた。けれど晶の推測が全く的外れなものだとしたら、どうしてフィガロはこんなにも感情を露わにしているのだろう――今までも晶が記憶の中の男について語る時、彼はこういう反応をしなかったか。そしてもしフィガロが記憶の中の男本人なのだとすれば、全てに説明がつくのだ。
    「――ごめん、きみは具合が悪いんだったね」
     考え込んでいるのを気分が悪いのだと勘違いしたのか、フィガロは少し語気を緩めてため息をついた。けれど何かを諦めきれなかったかのように、どこかやるせないような表情を浮かべ、全く何の脈絡もないように見えて、その実酷く核心に近い言葉を重ねる。
    「――笛を吹いてあげなくていいの」
     ぎょっとして手を引きかけた晶だったが、冷たい指は絡みついたまま離れなかった。
    「多分寂しがってるよ」
     それきりフィガロは何も口にせず、踵を返して柔らかな陽光に照らされた遊歩道を歩き始めた。歩調こそ晶を慮ってか、ゆっくりとしたものだったが、冷たい手に握られた指先は張り詰める緊張感に狼狽え、少しばかり怯えていた。
     その手を力づくで振り払うことはいつだってできただろう、少しばかり強く握られていたって、フィガロはそこまで屈強な男でもなかった。それでもその手を離さなかったのは、頭の片隅で小さな声が訴えていたかもしれなかった。――その手を離せば、多分次はない、と。




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    Replies from the creator

    tamagobourodane

    DOODLEお互いのチャンネルに日参してるVtuberのフィガ晶♂の話
    ※Vtuberパロ注意/リバの気配というか左右曖昧注意

    なりゆきで弱小センシティブめ企業Vやってる晶くんが、厄介リスナーの「がるしあさん」に悩まされつつ「フィガロちゃん」の配信に通う話
    文字通りほんとに悪ふざけの産物です
     手にはワセリン、傍らにはティッシュペーパー。ジェル、コットン、ブラシだ耳かきだのが並ぶ脇には、更に行程表が見える。『耳かき左右五分ずつ、ジェルボール五分、ここで耳ふーを挟む。数分おきに全肯定、“よしよし”』。アドリブに弱い晶が、慌てないようにと自分の為に用意したものだ。
     成人男性が普通なら机の上に並べないようなそれらのアイテムの真ん中に鎮座しているのは、奇妙な形をしたマイクだった。四角く黒い躯体の両側に、二つの耳がついており、その奥に小さなマイクが設置されている――最近流行りのバイノーラルマイクというやつで、このタイプは手軽に耳かきをされているような音声を録音することができる。
     そしてその奥にあるのはモニターとオーディオインターフェース――画面に流れるのは、大手配信サイトの管理画面と、コメント欄だ。配信のタイトルが目に入るといつもげんなりするので、いつもその画面は閉じているのだけれど、今日はその手順を忘れていた。――「ぐっすり眠れる耳かきとジェルボール――入眠用ASMR♡」。
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