Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    tamagobourodane

    @tamagobourodane

    書きかけのものとか途中経過とかボツとかを置いとくとこです
    完成品は大体pixivにいきます

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 🐱 💍 🐣
    POIPOI 22

    tamagobourodane

    ☆quiet follow

    ファウストが数十年かかってようやくネロの店を尋ねていく話
    こうやってのんびり関係を深めて行ったらいくのではないか・・・みたいな妄想

    ネロファウネロ/ネファネ(といってもまだデキてないしブロマンス程度)






     カウンターに置いたランプの錆と変色、テーブルの木の小さなささくれ、それから少しだけ鳴り方の鈍くなったベル。どれも彼がここに店を開いたときには気付くことのなかったものだ。確かその時はランプは金色に輝いていたし、テーブルのニスもひとかけらだって剥がれておらず、ドアを開ければすぐにベルは明るい音を立てていた。
     丁寧な手入れにも関わらず、店の中のそういった小物たちが年月の経過を静かに訴えているという事実は、もう彼にとってこの店を離れるべき時が来たことを示していた。
     ネロはひとつひとつグラスを見分しながら、傷の有無を確かめていた。頭の半分では、小さな傷のあるものを全て捨ててしまったら、一体どれだけのグラスが残るだろうということを考えていて、もう半分ではその日レストランに来た客の会話のことを考えていた。
    それはある親子の些細な会話で、父母に連れられてきた姉妹が、ネロのことを見目がいいと褒めたのだ。そこまでだったら悪い気はしないというだけで済んだが、姉の方がふと漏らした言葉だった――「でもあの店主さん、全然年をとらないのよ。いつまでたっても若いまんま」。
    母親の方が人差し指を立てて黙らせていたのは、多分優しさだったのだろう。行きつけのレストランの店主が人々の偏見の目に晒されることのないように気付かないふりをしてくれたし、家族にもそうするように促した。
    けれどこの場合問題になるのは、彼らが年を取らぬ店主に対してどういう態度を取るかということではなかった。ネロが年を取らないということに気付いた人間がいることそのものが問題なのだ。若い娘が気付けば、次は大人達も気付くだろう。そしてそのうち老人達が。潮時だ、と思った。
     実を言えば店を移転することについては少し前から考えていた。賢者の魔法使いに選ばれたその年に、雨の街からはかなり離れた街に居を移して数十年――元より数十年に一度は店を移動していた身である、適切な時期を嗅ぎ分ける為の嗅覚も長年の間に得ていた。お兄さんいつまでたっても若いねえ――そんな老婆たちの声が冗談であるうちに引き払うのがいい。魔法使いであるという噂は立てられずに済む。
     より分けたグラスが半分ほどしか残らなかったことに、ネロは安堵と寂しさの両方を覚えながら、最後のひとつをカウンターに置いた。荷物が少ない方が引っ越しは楽だ――けれど長年連れ添った道具を捨ててしまわなければならないことはやはり少し寂しい。
     一体どれほどのものを新しい店に持って行けるだろうかと考えながら、ネロは辺りをぐるりと見やった。――鍋は持って行くつもりだが、飾りとしてぶら下げている古い銅の調理器具は売ってしまわなければならないだろう。新しい店がどんな大きさのものになるかはまだわからないし、今度は壁に何かを飾る棚などないかもしれない。あのランチョンマットはもう古いからいずれにせよ捨てなければならないし、ランプも新しいものに変えてもいいだろう。
     そうやって一通り見渡したところで、ふと視線は小さな花瓶のところで止まった。それは比較的落ち着いた内装の店の中、ある意味で少し異質な存在だった。淡い白の釉薬で塗られたそれは道ばたでよく見るあの動物の――猫の形をしていて、花模様のコースターの上にちょこんとのって、呑気なその顔を客に晒している。頭の上から飛び出た菫は、彼の髪飾りのようにも見える。
     ――そう言えば、先生は結局この店に来ることはなかったなあ。
     この花瓶を雑貨屋の店先で手に取った時に真っ先に思い浮かべた人物の顔がふと脳裏に過って、ネロはこの店に自分が小さな心残りを持っていることに気付いた。それは心残りとも呼べないような、小さな心の隅のしこりで、いつか帰り路に寄ろうと思っていた雑貨屋が訪れる前になくなってしまった時の気持ちによく似ていた。
     花瓶の脇には小さなカードが立てかけられていて、その上に流れる文字は途中で止まっている。続きはもう、二カ月ほども書かれていない。


    そもそもその花瓶を店に置こうと思ったのは、いつかその人物が店に訪れることがあるかもしれないと思ったからだった。その人物というのはある種の同僚のようなもので、一年に一度会えばいいような相手だった。彼とは互いに賢者の魔法使いとして出会った――ネロがこの役目に抜擢された時、世界は異常な事態にあって、大いなる厄災と戦う役目を押し付けられた魔法使い達は、共に共同生活を送って難事に対処しなくてはならなかった。彼、ファウストとはその時に知り合ったのだ。
     一年も同じ建物の中で生活を共にすれば、二十一人の魔法使い達は望むと望まずとに関わらず、互いに親交を深めることになり、ネロとファウストもその例に漏れなかった。同じ東の国の魔法使いとして任務を共にすることも多かったし、何より互いに過度な深入りを厭う気質もどことなく合った。年の頃も魔法使いの基準から言うと似たような感じで、そこそこに酒を好むところも似ていた――恐らくは、余人に触られたくはない昔の色々があることも。まあ要するに、有り体に言えば共通点が多かった。
     何度か杯を酌み交わすうちに、いつか君の店に行きたいと言われたこともある。六百年以上も生きれば、そういった言葉の一つ一つをまともには受け取らなくなっていたが、相手が相手なので期待していたところもあった。
     時代は移り変わって魔法使い達は年に一度、厄災の討伐の時に顔を合わせるくらいになったが、実際、ネロの店を訪ねたいと言っていた他の魔法使い達はここを既に訪れていた。その一人一人の為にネロは小さな気遣いを用意した――例えば大っぴらに顔を晒すことのできないヒースの為には衝立のある席を。リケやシノの為には彼らの好物をメニューにこっそり追加しておいた。それらの小さな好意は受け取られるべき人に受け取られて、後は猫の花瓶だけがひっそりと誰かの訪れを待っているだけだ。
     そんなに来てほしいなら店を去る前に招待すればいいではないかという向きもあるだろう――実際、だからこそ苦手な筆を取って似合わぬ葉書など書こうとしたのだ。けれど数行言葉を書き綴ったところで、とても妙なことをしているような気がしてやめてしまった。――そもそも相手の方から尋ねて来ないものを、手紙まで出して誘い出すという行為が、どうも自分の気質にも、自分達の関係にも、しっくりこないような気がした。彼らは友達だけれど、たまたま顔を合わせれば一緒に飲むというような類のそれであって、仲良く誘い合わせて出かけるというような間柄ではなかった。
     それは居心地の良さとほんの少しの寂しさの入り混じった不思議な関係で、二人の間にある境界線のその先にどちらかが踏み込んだことは一度もなかった。ファウストはファウストで彼なりの理由があって嵐の谷に引っ込んでいて、ネロにその静かな生活を邪魔するつもりは毛頭ない。この店で彼の顔を見ることがなかったことはほんの少しだけ寂しいけれど――そう考えながら、その日もネロは葉書から目を反らした。結局その晩も、葉書の上の文字は数行も増えることはなかった。


     ネロが十数個のグラスを廃棄用の箱に詰めた数日後、彼の店は珍しい客の訪問を受けた。その客が訪れたのはネロが丁度昼時の営業を終えようと鍋を洗っていた時だったので、その顔を見なければ多分すまねぇ、と口にしていたところだったのだ。けれど痩身に赤い目の小柄なその姿を見て、ネロはすぐにその言葉を飲み込んだ。
    「――なんだ、びっくりさせんなよ」
     しばらく会っていない相手に対する挨拶としてはかなり素っ気ない部類に入るものだったかもしれない。けれどその言葉を投げかけられた当の本人はさして気にする様子もなく、カウンタ―の前に立つと「驚かせたなら悪かったな」と言った。
    「――近くに来る用があったから寄ったんだ。腹が減ったなと思って、そうしたらあんたの顔を思い出した」
     数十年前に出会った時より少々背丈は伸びて、顔立ちも大人びた気はするが、そう返す飾り気のない口調は当時となんら変わらない。一番変わったところはその体躯から感じる魔力の気配の大きさだろうか。東の国らしい意匠をあしらったマントを肩から降ろして、シノは店内にそれなりの時間留まる意思を示した。
    「来るってわかってたならレモンパイを焼いておいたんだけどな」
     ネロが若干の申し訳なさを込めてそう言うと、シノはカウンター前の席の椅子を引いて座り、事も無げに言った。
    「別にネロの飯ならなんでもいい。――でも珍しいな、あんたがメニューを切らしてたことなんてほとんどなかったのに」
     その言葉にネロは一瞬本当のところを告げようか迷ったが、どうせ知れることになるのだからと思い直して口を開いた。
    「――店を移そうと思ってるから少しずつ色んなもの減らしててな。――定食でいいか」
     ネロの答えに赤い瞳は少々驚いたように見開かれたが、実際に音になって返って来たのは「それでいい」という答えだけだった。
     定食でいいかなどと聞いた割には、ネロはわざわざ夜の営業の為に仕入れていた魚を使ってムニエルを作ってやった。魔法舎で過ごした一年は同僚達の好物を把握するには十分な期間で、二十一人の好みを把握するというその地味な作業を、かつて彼はある青年と共に行ったのだ――今はもう、その青年の顔も名前も思い出せないけれど。
     シノは出されたものを次々に口に入れながら「相変わらずうまい」と実に素直な感想を漏らした。「そりゃどうも」と返す答えは字面こそ素っ気ないが、若干の喜色を含んでいることをネロは自覚している。
    「――なんでまたこっちまで来たんだ……賢者の魔法使いの任務じゃさそうだけど」
     ネロの問いに、ヒースは食器を動かす手を止めることなく答えた。
    「旦那様の命だ。――ブランシェット家の領地で盗まれたものを取り返しに来た」
    「それでシノが駆り出されたのか? 相変わらず大変だな」
    「――外に持ち出されると面倒な情報だったからな」
    「で、首尾は? まあのんびり飯食いに来てるところ見ると、仕事は終わってるんだろうけど」
    「問題なく片付けた。お尋ね者は今頃憲兵に送り返されてるところだ」
    「――じゃあ働き者には俺からサービスしとかなきゃな」
     そう言って搾りたての果実水を注いでやると、シノは「給料はちゃんと出てるぞ」と言った。
     ひとしきり出されたものを平らげてしまうと、シノはしばらく店内を眺めていたが、やがてふと菫を生けられた花瓶に目をやってから、じっとネロの方を見上げた。
    「――それで、あんたの方はなんでここを出ることにしたんだ」
     それまで頬杖をついて自分用のコーヒーを淹れながらシノの食べっぷりを眺めていたネロは、いつかやってくることが予想できたその質問に肩を竦めた。
    「――そりゃ、時間がたち過ぎたからだよ。ここに店を開いてもうかなりになる。――俺達はほら、老けないからさ」
    「だからなんだ、飯の味は変わらないだろう」
     これまた昔と何ら変わらない、何の覆いにも包まれていない物言いに、ネロは苦笑した。数十年もたてば、魔法使いがこの国においてどういう立場にあるのか理解して、それに順応するだけの丸さのようなものを獲得すると思ったのだが。
    「――この街は魔法使いに対する警戒心が強い方だからな――魔法使いの店だと知ったら人が寄り付かなくなる。客が来なけりゃ食ってけない、そろそろ潮時なんだよ」
    「この辺りはまだそんななのか」
     事も無げにそう言ってシノはドアの方に目をやった。まるでその向こうにいるこの街の人々を見透かそうとするような目つきだった。
    「ブランシェット領のあたりは最近なんぼかましになったか? でもまあ西の方も最近はきな臭いって言うし、目立たないに越したこたねぇ」
    「――どこに引っ越すのかはもう決めてるのか?」
     シノの問いにネロは首を横に振った。
    「これから探すんだよ――店閉めて、一週間くらいあちこち見て回って、店を開けそうな貸し屋があればそこにする」
    「俺達に言っておいてくれないと困る――次の厄災の時まで店の場所がわからなくなるからな」
     若い魔法使いはいささか不遜な調子でそう言ってから食器を丁寧に並べて食事が終わったことを示した。けれど彼の質問はそこでは終わらず、まっすぐな言葉は続けて飛んで来る。
    「――ファウストはここへ来たのか」
     シノの視線は再び例の花瓶に注がれていて、彼がそこからその人物の名を導き出したことがわかった。無理もない、少々子供っぽい造形のその猫はネロが自分の美意識をもって手に取りそうにはないものだ。シノは意外に鋭いところがあるから、自分の古い知り合いが見た目に見せるよりはずっと、自分達のことを気にかけていることに気付いていたのかもしれない。
    「いいや」
     その花瓶が注目を集めることについてネロは少々気恥ずかしい思いをしたが、特に否定することもなく首を横に振った。
    「先生は昼飯の為なんかに嵐の谷から出たりしねぇだろ」
    「――ファウストの食事の事情は知らないが、この店に来てみたいとは前から言っていた」
    「……そうかい、でも大人はそういうの、付き合いで口にするもんだからな」
    「俺はもう大人だしファウストはそんなお世辞は得意じゃない」
     妙にきっぱりと言い切って、シノはふと視線を僅かに動かしたように見えた。それの行く先に、花瓶の影の小さなカードがあることに気付いてネロは少々落ち着かない気分になる。
    「言ったのか? この店を引き払うって」
    「言う機会がないから言ってねえよ。――この間の厄災が来た時はまだ考えてなかったからな」
    「――直接会わなくても報せを飛ばす方法なんていくらでもあるぞ」
     今度こそ赤い瞳がカードを捉えているような気がして、ネロはその長い指が伸ばされる前にと花瓶ごと横へ避けて、それを覆うようにメニューを立てかけた。
    「……わざわざ手紙なんか出したら気を遣わせるだろ」
     特に手紙と言われたわけでもないのにそう口にしてしまった自分に心の中で舌打ちしながら、ネロは説教するときの大人の顔でため息ひとつ、ついて見せた。
    「大人は色々面倒くさいんだよ」
     シノはと言えば、ネロの精一杯先輩風を吹かせた仕草に「俺はもう大人だ」と繰り返して鼻を鳴らしただけだった。



     数日後、ネロは夜半に少々離れた街まで旅立った。シノにも告げた通り新しい店を開く場所を探す為だったが、冷たい空気の満ちる夜空を飛びながら、しばらくの間店を持たずにゆっくりと過ごすのも悪くはないな、とも考えていた。稼ぎは大していいわけでもないが大金を湯水のように使う性質でもない。気付けば少しぐらいゆっくりできる程度の金は貯まっていた。
     そんな呑気な気持ちで探したのがかえって良かったのだろうか、目的の街に辿り着いたその日に、ネロは立地も賃料も申し分のない、新しい店舗を見つけた。二階には生活することのできる部屋もあって、小さな庭ではハーブを育てることもできそうだった。
     いい物件があれば借りられる時に借りた方がいい、商売人の勘はそう言っていたのですぐに契約書に名前を書いた。家主は寡黙だが親切な壮年の男で、少し痛んでいる扉を付け替えておくと言ってくれた。

     新しい住処を見つけたなら、古い店は引き払わなくてはならない。
     ネロは住み慣れた街に帰ると、あと一週間だけと決めて店を開くことにした。店を閉めることについて街中に触れ回って宣伝するつもりはなかったが、自分の中で、住み慣れた場所との別れをゆっくりと告げるようなつもりだった。
     客の誰とも親しく会話を交わしたことなどはないが、良く美味しかったと言ってくれた顔はそれなりに記憶の中に残っていて、その顔をまた見たいような気持ちもあった。常連客の中には来た者も来なかった者もあったが、フライパンを片手にネロはその横顔の並ぶ景色に心の中で別れを告げた。
     さていよいよ店を閉める日まであと二日というところになった時、ネロは夕方まで片付けに明け暮れていた。というのもその日は昼の客がやけに多くて、店が空になり、こっそり皿洗いの為の呪文を唱えることができたのは、日が落ちかけてからだったのである。
     基本的に料理に魔法は使わないが、洗い物くらいは時間がなければ別の話だ。積み重なった皿の山を乾かして、さて拭き掃除でもするかと布巾を手に取ると、その時ちりんと扉にぶら下げたベルが鳴った。
     忙しさにかまけて施錠を忘れた自分を少しだけ呪い、恐らくこんな時間に尋ねて来るのは法を知らぬよそ者の旅人だろうと面倒に思いつつ、「あー、悪いけど」と言いながら背後を振り返った時だった。ネロはそれまで僅かに寄せていた眉を思い切り上げ、眇めていた目を真ん丸に開いて何度も瞬きを繰り返した。それから自分の見ている者が幻ではないことを悟って、ゆっくりと戸口の方に向き直った。
    「――すまない、開まる時間を把握していなかったんだ」
     戸口に立った人物はややきまり悪そうにそう言って、帽子を被り直すと視線を斜め下に反らした。黒っぽく仰々しい衣服に長いマフラーのようなもの巻き、これまた仰々しい大きなアクセサリーとサングラスを身に着けたその人物は、見間違うはずもないネロの同僚だった。
    「――いや悪ぃ、こっちもまさかあんたが来るなんて思ってなかったからさ」
     ようやく出てきたのはどこかぎこちない詫びの言葉で、ネロは視線のやり場も定まらないままに頭を掻いた。何百年と生きても、全く予想もしなかった相手が目の前に現れればそれなりに心臓の鼓動は早くなるし、言葉も縺れて舌の滑りは悪くなる。
    「まあ店の中に入れよファウスト――そんなところで立ってないでさ」
     ネロの言葉にその人物――ファウストはどこかほっとしたような顔をして店の中に足を踏み入れると、後ろ手に扉を閉めた。長い距離を飛んで来たのか、衣服は僅かに乱れてあちこちに皺が寄っていた。彼が住まう嵐の谷はこの街からはかなり離れている――恐らく箒を飛ばして来たのだろう。
    「今日近くで呪い屋の依頼があったんだ。それでそういえば君の店がこの近くにあったんじゃないかと思って探してみたんだが」
     下手な嘘だなとその台詞を耳にした瞬間そう思った。嘘の苦手な者が無理を通してそれをしようとするときの、視線のふらつきが目についた。彼は手ぶらで大掛かりな呪いの道具など何も手にしていないように見えたし、以前彼と共に呪いに対処した時のことを思えば、人が眉を潜めるような仕事のついでに身も清めずに店に来るとは思えなかった。恐らくこの店を尋ねる為に箒を飛ばしたのだろう。
    「――そうだったのか、そりゃタイミングが良かったな。……いや、悪かったのかな、もうじきこの店閉めちまうんであんまり大掛かりな料理はできねぇんだよ」
     けれどそんな嘘に気付いていないふりをしてやるのもまた親切のうちである、ネロは器用にそこのところに目を瞑ってやったが、しかしそれを口にした当の本人は罪悪感でも覚えたか、少々気まずそうに目を反らして頬を掻いた。
    「……いや、実はそのことについては知っていて来たんだが」
     罪悪感を払拭する為の真が口から漏れ出たらしかった。ここ数週間のことを思い浮かべて、恐らくシノだろうなと見当を付ける――不愉快というほどではないが、おせっかいだなという感想は抱いた。
    「その、この間たまたまシノに会った時に聞いた。――店を移すんだって?」
     たまたまという表現の真偽については気にしないことにして、ネロは肩を竦めた。
    「――ここでは俺が賢者の魔法使いに選ばれた時からずっと店を開いてるからな。そろそろ他所に行かねえと、色々怪しまれちまうんだよ」
    「僕達は見た目が変わらないからな」
     ファウストはそう言って店のあちこちに視線をやった。まるで自分自身を観察されているような気恥ずかしさを感じながら、ネロはカウンターの近くの椅子を引いた。
    「――そんなとこ突っ立ってってないで座れよ――腹減ってたら、なんか食べていくか 」
    「いいのか もう閉める準備をしていたんだろう」
    「……そうだけどさ、古くからの友達が来たらまた別だよ」
     その一言を敢えて口にするのは少々気恥ずかしかったが、それは相手も同様のようで、ぎこちなくサングラスに手をやると、「悪いな」とぶっきらぼうに答えてマフラーと帽子に手をかけた。

     席に着くとファウストは店の壁に飾られた様々なものに目をやっていた。メニューは任せると言った彼に、ネロは一本だけ残していた年代物のワインを出してやった。そう値打ちものではないけれど、食事のお供に楽しむには十分な品だった。ラベルには薄く文字が書かれていて、それはちょうどネロが賢者の魔法使いに選ばれたその年を示している。
     別に特別な意図をもって残して置いたものではないが、なんとなく開けることができずに店に置いておいたものだった。別に目の前に座った男に出してやろうと保存していたわけでもないのだが、コルクを抜きながら、それでも今この時に開けるのが適切だったのだろうと感じた。
     最初の一杯をぐいと飲み干してしまって、空になったグラスを再び満たそうとボトルに手をやったところで、ファウストはそのラベルの数字に気付いたようだった。じっとラベルを見やってから、ため息に似た息を漏らして、それからグラスに落ちる液体の音と共に口を開く。
    「――もう君が賢者の魔法使いになってからそんなになるのか」
    「早いもんだよな――俺もついこの間のことだっけなと思ってたんだけど」
     フライパンの上で野菜に焦げ目をつけながら、ネロは苦笑で返した。ファウストは感慨深げな表情をその顔にのせて一口ワインに口をつけ、それからふと例の花瓶の方を見やった。紫色の瞳がそれを捉えた時、何故だかネロは小さく自分の心臓が鳴る音を聞いたが、友人の薄い唇は特にそれについて言及するわけではなかった。
    「――もうちょっと早く来ようと思ってたんだが、遅くなってしまった」
     代わりにファウストが口にしたのは、そんな謝罪めいた言葉だった。
    「自分で君の店に行きたいと言ったのに」
    「――はは、魔法使いにしては早い方だったんじゃないの、俺達時間が有り余ってるからさ」
    「……それにしたって数十年単位は長いだろう」
     ちりちりとにんにくが焦げる音がして、油が程よく香った。綺麗に色づいた野菜と共に、切り分けたつまみの横にそれを添え、カウンター越しに客の前に置く。
    「これはサービス」
     ファウストは少々喉にものが使えたような顔をしていたが、やがて「ありがとう」と礼を言った。
    「君は飲まないのか?」
     食器にやろうとしていた手を止めてボトルに触れると、彼は僅かに首をかしげて尋ねた。「先生がいいなら頂くよ――これに一杯くらい」
     先程洗ったばかりの少し温かいグラスを差し出すと、赤い液体がゆっくりと透明なそれを満たしていった。
    「次はどこに店を出すのか決めたの?」
     ボトルを傍らに置き、食器に手を付けながら心地良い程度に低い声が尋ねて来る。ネロはグラスをゆっくりと口に付けて中の液体を含みながらどう答えるかを考えていた。重めの香りの中、ほんの少し強くなり過ぎた酸味が過ぎた時間の長さを知らせて、ちくちくと身体の内側をつついた。
    「――そうだなあ、しばらくは店を休んでもいいかななんて思ってたんだけど、ちょうどいい場所を見つけちまったからな――ここからは、結構離れてるんだけど」
    「直にそっちに移るのか」
    「片付けが終わったら引っ越すよ。新しい店の準備には時間がかかるから、その間ちょっとのんびりしてもいいし」
    「そうか――住みやすい街だといいんだが」
     そこここに気遣いを感じる、決して境界線を踏み越えることのない言葉のひとつひとつは、赤く熟れた液体と共に身体の奥に心地よく沈んでいくような気がした。
     その心地良さに店の中の空気ごと少し柔らかくなったような気がして、ふと今なら打ち明けても構わないかもしれないな、と小さく口を開く。
    「――本当はさ、俺も移る前に先生に招待状でも出そうかと思ってたんだけど、悪ぃな。なんか忙しくて」
     ファウストは少し驚いたように食器を止めてその目を見開いたが、やがてその視線を柔らかくして口元を緩めた。
    「招待状とはまた仰々しいな。城のパーティーみたいだ」
    「――そりゃ、ここは俺の城だからな」
     軽口と共に肩をすくめて笑うと、ファウストもそれに釣られるようにして僅かに肩を揺らした。彼は何事かを少し考えるように視線を他所へやっていたが、やがて息をついて口を開いた。
    「次はどこの街に? ――言いたくなかったらそれでもいいけど」
     ほんの少しだけ、彼のつま先が線を踏み越えたことにネロは気付いたが、それは嫌な感覚ではなかった。ファウストの態度はまだ彼にそれを引き直す余地を与えるものだったし、決して不躾なものではなかった。
    「ここよりは先生の家に近いよ」
     ネロは思ったよりもするりとその言葉が口から出たことに自分で驚きながら答えた。
    「良かったら、後で地図でも書くよ」
    「招待状をくれてもいいよ」
     小さな塩漬けのカブにフォークを突き刺しながらファウストは笑った。
    「――じゃあ開店のパーティーに招待するか」
     冗談に軽口で答えると、喉の奥で笑う声が聞こえた。
     ふとその時また、紫色の瞳がふらふらとカウンターのある一点、猫をかたどった花瓶のあたりに泳いだ。
    「あれは持って行くのか?」
     ファウストはしばしの沈黙の後にそんな風に尋ねて来た。
    「――なんで? 先生あれ気に入ったのか?」
    「いやその」
     と、そこで彼は誤魔化すように言葉を飲み込んで、口籠った。彼が猫をはじめとする可愛らしいものを好んでいることは誰もが知るところなのに、まだ隠しているつもりらしい。
    「君の趣味ではないなと思って」
    「――誰かさんのことを思いだして買ったからな」
     ネロは小さく笑ってグラスを傾けながら答えた。不思議とそう答えることに気恥ずかしさは感じなかった。こちらが照れるより先に相手の方が顔を赤くしているからかもしれなかった。
    「次の店にもちゃんと持って行くよ」
     そう、と短い答えが返って来て、かちゃかちゃと食器が鳴る音が聞こえた。その音を聞きながら、ネロは花瓶の横に未だに立てかけられた葉書のことを思っていた。多分まだあそこには空白があったから、そこに新しい店の住所を書いて、ちょっと文面を書き換えようと考えた。
     多分目の前の客はこの店の最後の客になるだろうと思った――そして恐らく、新しい店の、最初の客になるのだろう。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭😭💖🙏❤💖👏🙏🙏🙏🙏🙏😭👏😭👏😭👏👏👏👏🙏🙏🙏👏👏❤😭😭🙏☺☺☺☺☺👏👏👏👏👏☺☺☺😭😭😭🙏☺👏☺☺☺☺💞👏😭💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    tamagobourodane

    DOODLEお互いのチャンネルに日参してるVtuberのフィガ晶♂の話
    ※Vtuberパロ注意/リバの気配というか左右曖昧注意

    なりゆきで弱小センシティブめ企業Vやってる晶くんが、厄介リスナーの「がるしあさん」に悩まされつつ「フィガロちゃん」の配信に通う話
    文字通りほんとに悪ふざけの産物です
     手にはワセリン、傍らにはティッシュペーパー。ジェル、コットン、ブラシだ耳かきだのが並ぶ脇には、更に行程表が見える。『耳かき左右五分ずつ、ジェルボール五分、ここで耳ふーを挟む。数分おきに全肯定、“よしよし”』。アドリブに弱い晶が、慌てないようにと自分の為に用意したものだ。
     成人男性が普通なら机の上に並べないようなそれらのアイテムの真ん中に鎮座しているのは、奇妙な形をしたマイクだった。四角く黒い躯体の両側に、二つの耳がついており、その奥に小さなマイクが設置されている――最近流行りのバイノーラルマイクというやつで、このタイプは手軽に耳かきをされているような音声を録音することができる。
     そしてその奥にあるのはモニターとオーディオインターフェース――画面に流れるのは、大手配信サイトの管理画面と、コメント欄だ。配信のタイトルが目に入るといつもげんなりするので、いつもその画面は閉じているのだけれど、今日はその手順を忘れていた。――「ぐっすり眠れる耳かきとジェルボール――入眠用ASMR♡」。
    6749

    recommended works