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    nyon_nyon_nyoon

    @nyon_nyon_nyoon

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    nyon_nyon_nyoon

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    乙嫁語りパロの河深です。歳の差等、様々いじくりまわしております。
    方言は変換ツールをお借りしました。

    花束を君にこの花もらってぐれ。
    花と同じぐらい綺麗だんて。

    ※※※

    平伏して迎えた相手がどうしても気になって、カワタは右目側だけを何とか上げてその姿を見た。村の女性達が長い時間をかけて刺繍した敷物の上に立つ裸足の爪が、おそらく鳳仙花の花びらを絞ったのであろう赤で染まっている。
    村長が朗々と述べる挨拶はなかなか終わらず、少しだけと思ったカワタの顔は段々と角度を上げた。白いズボンに覆われた足は目を瞠るほどに長い。そんな兄につられたミキオまで顔を上げかけ、咄嗟に押さえつけたカワタの目は相手と合ってしまった。
    金糸、ベルベット、絹といった様々な糸と技術で作られたスザニを持ち上げ、相手もカワタを見ていた。白い肌は冷たそうで、誰よりも滑らかだ。人間の美醜に大した興味も理解もなかったが、それでも整っていると感じられる、そんな顔の造作をしていた。
    何よりカワタを見つめる二つの瞳は深い色の中にも美しさが煌めいていて、それが細められた時、小さな星々が散ったように見えた。
    そして、派手な音と共に父親からの拳骨が降ってきて、カワタの視界には更に星が散ったのだった。

    ※※※

    村と呼ぶ大小様々な共同体は、東西南北あらゆる所に存在する。カワタが生まれた村は比較的温暖な気候の土地にあったが、太陽が少しだけ顔を出したような時間帯はかなり肌寒い。台所で火をおこすための薪を運び、朝食用の卵と牛乳を取りにカワタが家畜小屋へ向かうと、先に卵を抱えた影が出てきた。

    「フカツさま!?」
    「おはようカワタ。朝早くから偉いピョン」
    「俺がやっからあんたは家にいでぐれよ!」
    「嫁入りしたのに客人みたいな真似できねえピョン」
    「まだ一ヵ月経ってねぇ!!」

    フカツカズナリはこの地における神様である。
    空・大地・風のようにこの地を見守ってきた一族があって、カワタの村から馬でも数日かかる深い森に、集落を根付かせている。彼らに祈りと感謝を捧げるのは、自然へ敬意を向けるのと同義だ。互いの絆を強固に、信仰と恩恵が村へ行き渡るように。フカツカズナリはそこの出だった。
    集落から村に加わってくれることを神下りといって、非常に誇らしく素晴らしいことなのだと、どの村にも言い伝えられてきた。神下り後は肥沃な土地となり、災禍を遠ざける風が吹くようになる。昔から理由は一切解明されていないが、村への良い影響を厭うわけがなかった。
    来てほしいから来てもらえるわけではない。集落側に選ばれない限りそれはかなわず、だからこそ神下りのあった村は繁栄が約束される。迎え入れる際の作法が婚姻の儀とよく似ていて、いつからか神下りは村と集落の婚姻のようなものとなっていった。
    …と、物心ついた頃から子供達は村の大人に叩き込まれてきた。
    他の昔話と少々混ざり、とにかく神様が村へお嫁に来るんだなあなんて認識していたカワタは、まさか自分がその相手になるなんて少しも思わなかった。

    「神下りされでも尊ぇ方さ変わりはね。特さ最初の一ヵ月はな。それが過ぎだら婚姻の儀だんて、マサシもミキオも本っ当におどなしくしてろよ。フカツ様にご迷惑かげねように」

    どっちがだよ、ばっちゃ!!

    ※※※

    狩で仕留めた三羽の兎を馬にくくりつけて戻ったカワタの耳に、早速まとめ役の悲鳴が届いた。

    「いげねぁフカツ様!水汲みなどおい共がやりますから!」
    「結構ピョン、洗濯のついでですから」
    「洗濯…!?婚姻の儀までは俗世さ手を出してはならねど、」
    「実家で散々やっていたのに今更?」
    「んだども…」
    「やることは多いんだから手分けした方が効率的ピョン。ああ、半分引き受けるピョン」

    よろけながら運んでいた子の薪を回収し、フカツはさっさと目当ての家へ向かった。
    (すげえ、もう誰がどの家か覚えでんだ)
    伝えられてきた慣習などどこ吹く風、フカツは朝から率先して村の仕事をこなしている。年配者はまだ少し戸惑っているものの、カワタを含めた他の村人は諦めるか、憧憬の目を向けている。
    二人きりの時はお互いを下の名前で呼んでいるなんて知ったら、自分の祖父母より年上のまとめ役たちは卒倒するかもしれない。言霊への信仰も根強くて、外では屋号や家の名を口にするのが当たり前と育った。集落の者相手なら尚更。注意することを改めて心に誓い、カワタは厩舎へ馬を引いた。

    「今日の兎肉、マサシが仕留めたって聞いたピョン。すごいな」

    寝室で二人きりになって初めて、フカツは頭を覆っていたスザニを外した。夜に手洗い場へ行く時でさえ、集落やこの地方の大人は布や帽子で頭部を隠す。頭や髪は結婚相手にしか見せないものだ。それを目にすることが唯一許されている立場のカワタは、毎回そっと頬を染めた。
    火を落とし、重ねた布団に二人でもぐり込む。フカツは目を瞠るほどに背が高く、しっかり鍛えられた手足でカワタを守るように抱きしめ眠りにつく。初日は驚いて固まってしまったが、すぐにその心地よさとフカツ自身の良い香りに気づき、最近はその香りが眠りに誘ってくれる。

    「村で一番の腕って聞いたピョン」
    「この辺は狩らねでもまだ食っていけっから。毎日やってんのなんて俺ぐれえだからよ」
    「それでもピョン。お前の弓を見せてもらったけど、その年で使いこなせるものじゃない。頑張ってるピョン」
    「…山向ごうの村が不作で閉じたらしい。今は大丈夫だげどミキオしったげ食うし、俺ももっと食ってでがぐなるつもりだからよ、肉取れだら少しは安心な気がすんだ」

    何かが足りない時、どうしても子供が優先
    される。そういうものだから───いつも言われてきたことでも、それが誰かの犠牲の下に成り立っているのは嫌だった。

    「その考え方も、努力できるところも優しいところも、本当に貴いことピョン」

    カワタを抱きしめていた手が、そっと頭を撫でてくれる。少しばかりかすれた声や中身と同様に美しい手が、ゆっくり往復する。
    羞恥心よりも喜びが勝った。
    薪の用意も家畜の世話も、畑仕事や水汲みも、村の誰もが毎日やっていることだ。さぼれば翌日以降が大変になるだけだ。頭では理解していても、それを認め褒めてもらえただけで、幾つもの傷に耐えてきた自分が報われる気がした。
    カワタは縋るようにフカツへしがみついた。フカツが何も言わず、そのまま眠ってくれたことがやっぱり嬉しかった。

    ※※※

    交流のある村々に神下りの報告を済ませると、それぞれの村の代表者が、大量の祝儀と祝辞と共に先んじてカワタの村を訪れた。婚姻の儀には、この村と集落の者しか立ち会いが許されないためだ。
    本来客をもてなすのはその家の主なのだが、やはり全てを無視したフカツはカワタの父、カワタの隣に並んで挨拶と祝辞を受けた。何名かは最後まで反対したものの、フカツの圧にのまれた村長がついに認め、誰も何も言えなくなったのだ。
    スザニや衣装で全身が隠れる中、唯一見えるフカツの目は興味深そうに細められている。粛々と進められる挨拶の中、初めてフカツから動いたのはカワタとそう変わらない上背の相手だった。野生のように額や鼻頭を触れ合わせ、お互い静かに元の位置へ落ち着いた。

    「此度はご挨拶の機会を頂きありがとうございます。慶賀慶祝の至りにて、誠に喜ばしく存じます」
    「久しいピョン、イチノ」
    「フカツも元気そうで良かったよ」
    「フカツさまの知り合いなんか?」
    「神下り仲間ピョン」
    「へえ!」
    「俺たちの集落みたいなものは各地方にあって、集落同士やり取りもあるピョン。イチノとはずっと小さい頃からの付き合いピョン」
    「だから余計に感慨深いよ。二人ともおめでとう」
    「あ、ありがとうございます」

    そうか、この人も俺みたいに子供だったんだ。
    神様で、完成された美しさと深い優しさでカワタを包んでくれる大人だけれど、フカツにだって守られるだけの時があったのだ。
    毎日の家事をとても器用にこなすけれど、どんな風に暮らしていた?
    どんな言葉や音を耳にしてきた?
    集落の外に出た時どう思った?
    急にあふれてきた言葉達のせいで、頬が紅潮するのをカワタは自覚した。

    「フカツさま」
    「どうした?揚げ砂糖でも食べるピョン?」
    「フカツさまは何色の馬が好きだ?」
    「………………白毛?」
    「俺と同じ年の頃もそんなに綺麗でかっこよかったんか?」
    「は……カワタ?」
    「昔から可愛くて綺麗だったよ」
    「おい…イチノ」
    「本当のことだからね。よし、聟(むこ)殿への贈り物はフカツの思い出にしよう」
    「ほんとか!…ですか」
    「カワタ」

    露出しているのは目だけなのに、様々な感情がにじむたびに深い色が揺らめいて、それを一番近くで見られる立場であることがカワタは心から嬉しかった。
    結局イチノの一団が辞した後も、カワタとフカツのおしゃべりは止まらなかった。好きなもの、苦手なもの、正直やりたくない家事。フカツは村がある土地を守ってくれる神様で、神下りをしたところでその尊さは損なわれない。けれどそこに、カワタの伴侶という肩書きが加わるのだ。
    フカツと結婚して、ずっと一緒にいられる。もっと自分を見てほしくて、翌日カワタはフカツを狩に連れ出した。カワタの弓を軽々ひかれてしまい、ショックから涙が滲みかけたことは一生の秘密だ。
    そうして一ヵ月が経ち、いよいよ神下りが完了する日、婚姻の儀当日を迎えた。

    ※※※

    祝いの席に食べ物を切らしてはならない。
    この日のためにカワタの父が買い付けた何頭もの羊を、朝から村の男たち総出で捌く。その肉や野菜を使った様々な料理を、残る村人達でどんどん作り出していく。
    太陽が山の真上に来る頃、集落からの一団が到着したとの報せが届いた。一団は村全体に行き渡ってなお余るほどの肉と、この辺りでは見られない刺繍が施された布をたっぷり馬に携えてやって来た。
    大人も子供も動き回っているので、カワタとフカツ、カワタの父や村長が出迎えている時、それを見物する暇などない筈だった。しかし、生涯目にすることすら叶わなかったであろう神様の一団に、あちこちから真ん丸の目が飛び出してくる。何度も村長から窘める声が飛んだが、流石にしょうがねえべとカワタは思った。
    集落の一団を率いていたのはフカツと同年代の男だった。背がフカツすら超えていて、その頭部を一切隠していない。何よりフカツとは異なる美しさを纏った顔が晒されていて、周囲からの息を呑む気配が肌を撫ぜていく。
    馬から降りる際、男はほとんど音を立てなかった。

    「集落が長、サワキタエイジと申します。慶賀慶祝の至りにて、本日この場にあること、誠に喜ばしく存じます。この地が連綿と栄えるように尽くすことを、古き約定と我ら一族に流れる血へ誓います」

    祝辞を捧げ低頭した男は、やがてまっすぐにカワタを見た。大きくて形の良い瞳は煌めきをたたえながらも、ずっと合わせているうちに自分の中を全て見透かされているような錯覚に陥る。興味深そうに細められても余計に離せず、フカツを彷彿とさせる深さだった。
    何も言えずにいると、痺れを切らした父に背中をつつかれた。
    (……しまった、挨拶…)
    慌てて口にした言葉が終わるかどうかのところで、その目はさっとそらされた。そして無言で、強く静かにフカツを抱きしめた。フカツの腕もサワキタの背へまわる。二人は兄弟にも、番にも見えた。見えてしまった。そこには甘えがあった。村に来てからフカツがまだ見せていないものが、確かに。
    その時初めて、カワタは自分とフカツの違いを意識した。年齢も身長も生きてきた経験も、全て自分が下だ。フカツがそばにいてくれるようになって一ヵ月。たくさんのことを話して知ったつもりになっていたけれど、そうではなかったのだと思い知った。

    料理と村人が揃い、婚姻の儀が始められた。
    儀式といってもお互いの名前と出自を言い合い、一生を共にすると誓う。それだけだ。謂わば新しく結ばれる二人のお披露目のようなもので、場はやがて宴となり、フカツは集落の一団に付きっきりだった。
    相手が昔馴染みで、何より自分の伴侶の客をもてなすのは当然だが、何となく目にしたくない。
    (…そもそもカズナリさまは、何で俺を選んでけだんだ?)
    慣例通り、宴は三日間続いた。
    最後の夜、そろそろお開きかという雰囲気の中カワタはそっと抜け出して、共同の炊事場近くに隠れるように腰をおろした。とっくに火が落とされ、宴の終わりが見えている今ここには誰も来ない。そう考えていたから、カワタのそばにサワキタが音もなく立った瞬間、よく声を出さなかったとつくづく思う。フカツに対するよりも更に首を傾けないとならない程の高さから、カワタをじっと見つめている。

    「ちょっといいですか、聟殿」
    「……は、はい」
    「此度はお招き下さり誠にありがとうございました。この場になかった者達も、我らが同胞となったあなたとあなたの村に、祝福と祈りを捧げているでしょう」
    「ありがとうございます。…あの、サワキタさま。俺からもえが、ですか」
    「もちろん」
    「今回、なして俺んち…いや、俺が選ばれたんですか?」
    「は?」

    勢いよくサワキタが身を屈めた。だいぶ上にあった筈のあの目が、至近距離でカワタを射抜く。カワタは震えた。
    何言った、今。そんな、神様の意向を疑うようなこと───けれどサワキタに怒った様子はなく、軽く頷いて先を促してきた。

    「……親父や村長に聞いても多分教えてくれねえし…他は誰も知らない、と思う。カズナリさまは、」
    「ちょっと待って、それフカツさんが許したの?」
    「は?」
    「カズナリさまって言ったよね、今」
    「……あっ、」
    「咎めてるわけじゃないよ。んで、フカツさんは何て?」
    「なんて…?」
    「だからフカツさんが聟殿を選んだ理由。何て言ってた?」
    「…まだ聞げでね」
    「そっか」

    そう言ってサワキタは体勢を直し、暫く黙ってから口を開いた時には、口調も雰囲気も村へやって来た時のものに戻っていた。

    「聟殿」
    「はい」
    「それはフカツの口から聞いてやって下さい。気まぐれや成り行きではないし、フカツはきっとこの地とあなたを守っていくでしょう。だから聟殿、フカツをよろしくお願い申し上げます」

    白々と夜が明ける頃、村が動き始める前にサワキタ達は集落へ向けて発ったらしい。その日一日フカツはどこかぼんやりしていて、色んな理由をつけカワタはフカツのそばで自分の仕事を片付けた。昨夜寝る時も、普段以上に抱え込まれていた気がする。
    このモヤモヤをどう口にすればいいか分からず、ひたすらフカツを気にしていたせいで、カワタの耳はいつも以上に敏感になっていた。

    「それにしても長のサワキタ様、ご立派だったわねえ」
    「お叱りを受けるからあまり目をやれなかったけど、どの方々も素晴らしい刺繍を身につけていらして」

    普段なら素通りするような井戸端会議も、フカツに関係しそうというだけで足が止まってしまう。どうしても気になって、見つからないようそばの壁にへばりついた。
    それが良くなかった。

    「でも良い結婚よね。カワタの坊ちゃん達はどちらもよく働くし気立てがいいし、報われて良かった」
    「きっと巡り合わせが良かったんでしょう。フカツ様だって間をあけることなくご縁が結ばれたし」
    (……カズナリさま?)

    「本当はね、フカツ様はサワキタ様とご婚約の予定だったんですって」

    ※※※

    風の流れに集中する。風下を陣取って、相手に自分の匂いを悟られないように。自分に有利な方へもっていくには知識が必要で、カワタは祖父や父から学んできたそれを発揮しようと懸命だった。
    カワタは狼を追っていた。
    群れた彼らは脅威だけれど、一頭ならまだ何とかなる。親や群れから独立し、自分の群れを形成する前のこの時期しかチャンスはない。余程のことがない限り狼は仕留めるなと言われてきたけれど、家畜が襲われる前に村の近くにいる奴を狩るなら構わない筈だ。
    きっと村のためになる───カワタは自分に言い聞かせる。昔話として聞いた、一人前の証明となる狼狩り。そんな風習とっくに廃れていたが、一人でもやり遂げたという事実がほしかった。しかし、
    (こりゃ、しくじったがもしれねえな…)
    木々の間から溢れる日差しが弱まってきている。進むほど見慣れない景色が広がり、カワタはいよいよ途方に暮れた。村の近く、見晴らしの良い所で兎や鳥を狩るのとは全く違った。
    (どうにか戻ったらもっと爺っちゃに教わるべ。一つでも出来るごど増やしてゃ…頼ってもらえるようになりてえ)
    誰に───思い浮かぶ相手なんてもうずっと一人だけだ。けれど決心したところで、まずは森を抜けなければ村にも帰れない。残して来た筈の目印をもう一度探そうとした時、ガサリ、と奥の草木が揺れた。
    (気のせいが?……でね、いる!)
    腰のナイフを構えるか一瞬迷うも、カワタは咄嗟に駆け出した。直後、やはり隠れていた狼が唸り声と共に樹々の陰から躍り出た。
    足ではどうしたって敵わないから樹々の間を縫うように走る。肩越しに見た狼は若く、しかも一頭のみらしく、充分に獲物を仕留められていないのか体躯が心許ない。そうなると厄介だった。もしカワタが久々の餌候補なら、簡単には振り切れないかもしれない。
    息があがる分、相手の唸り声が近づいている。夢中で走ったせいでいよいよ現在地の見当がつかないし、全てにおいてカワタが不利だ。そして更に日が翳った森は木の根をカワタの目から隠し、足が引っかかるまで全く気づけなかった。

    「うおっ!」

    カワタの体は吹っ飛び、ボールのように転がっていく。打ちつけた肩や頬が熱い。何とか突き出したナイフと、狼との距離はほぼ無い。激しく脈打つ心臓が、轟音を全身に響かせている。
    ここで動けば飛びかかってきそうだが、粘ったところでカワタに活路はない。ならば。
    (やるしかね、目ぇ逸らすな、とにがぐ距離、ナイフだげは絶対離すな…!)
    全力で振り上げたナイフが鼻先を掠め、狼が数歩後退る。だがそれも束の間、抵抗してきた獲物に興奮したものか、狼の体が一気に大地を蹴ってカワタを襲った。
    (やばい!)
    咄嗟に目を閉じたことが致命的だった。狼はカワタに乗り上げたまま、自分の勝利を思い知らせるように高らかに吠えた。どこまでも届きそうな程に高く、長く。
    ナイフはとっくに手を離れてしまった。鋭い歯と赤い舌がのぞき、カワタの顔や首元に生臭い息がかかる。
    (喰われんのか?…嫌だ、母ちゃ、……っ)

    「…カズナリさま…!!」
    「───ギャン!!」

    絞り出したそれは内緒話のように小さな悲鳴で、直後に響いた哀れな鳴き声にかき消されてしまった。視界いっぱいに緻密な刺繍が広がり、抱きしめられるたびに自分を満たした香りが鼻に届く。
    そこにフカツがいた。
    その長い足に蹴り飛ばされた狼は、それでも憎々しげに牙をむいて立ち上がる。けれど、

    「◼️◼️◼️◼️」

    狼の動きが止まった。
    フカツが発したのはカワタが知らないわけではなく、村の誰も発音できそうにない何かだった。それを耳にした狼に先程までの剣呑さはなく、きょとんとフカツを見つめている。

    「◼️◼️◼️◼️、◼️◼️」

    再度不思議な音で呼びかけたフカツのスザニが、風にはためきゆっくりと地に落ちる。それにも反応しなかった狼は、やがて鼻を一つならしてその場から立ち去った。
    助かった───。

    「……あ、カズナリさ」

    瞬間、カワタの体は地面に逆戻りしていた。仁王立ちのフカツの手が赤い。少しだけ間をおいて、頬を打たれたのだとようやく理解した。

    「自分が何をしたのか分かっているか?」

    今までとはまた違う恐怖が、カワタの腹の底からじわじわあふれてきた。深い色をした瞳が燃えているように見えて、出来ることなら逸らしてしまいたいがそれは許されそうにない。
    フカツはカワタに対して怒っているのだ。初めて、とても強く。

    「偶然襲われて応戦したわけじゃないだろ。時期的に間引く必要だってない。…答えろ。本当に、あの狼を狩る必要があったのか?」
    「…………ない、です」
    「ならば、何故?」
    「…俺、」

    耳にした噂話が喉まで迫り上がったが、石が詰まったかのようにどうしても口からこぼれてくれない。それでもフカツに引く気配は微塵もなく、常ならば必ず目線を合わせてくれるのに今はかなりの高さから見下ろしている。普段以上に無表情な姿は作り物めいて、カワタには一瞬、でも確かに、そこにサワキタが見えた。
    (呆れられた)
    (このまま集落さ帰っちまうべが)
    (俺が馬鹿な事したがら、俺が馬鹿だったから、何で、俺のこと───)

    『本当はね、フカツ様はサワキタ様とご婚約の予定だったんですって』

    「嫌だっ……」
    (嫌わねでぐれ)
    「すまね、カズナリさまっ…俺が間違ってた…」
    (そばにいでぐれ)
    「俺一人でも大丈夫だって、それで、」
    (俺を、好きになってぐれ)
    「頼ってほしかった……!」

    周囲の景色もフカツも歪む。打たれ、熱をもった頬を流れ落ちる涙は更に熱い。それを見て尚、フカツの姿勢は揺らがなかった。

    「…マサシ、恥を知れ。自尊心を満たすための犠牲にしていいような命なんてこの世にはない」
    「……はい」
    「お前が…いや、お前のご家族がそんな意味のない死を突然迎えさせられても、何も感じないのか?」
    「……!!」

    必死で左右に首を振った。
    ごめん、ごめんなさい。それしか言葉にならず、涙ばかりが足元に散った。今度はフカツも体を屈め、毎晩そうする時よりも更に力を込めてカワタを抱きしめた。

    「…本当に、お前が無事で良かった……」

    とうとう声を上げて泣き始めたカワタは、そこから暫く動くことが出来なかった。

    ※※※

    泣くことが久しぶりなせいで少しふらつくカワタを予備の布で隠し、フカツは誰にも気づかれないように寝室まで連れ帰ってくれた。探しに行く時点で村にも義両親にもうまく言っておいたらしく、特に騒ぎにはなっていないようでカワタは心底安心した。

    「それで?」
    「…何がだ?」
    「俺に聞きたいことか、言いたいことがあるピョン。ああ、両方ピョン?」
    「はあ!?何で、どっ、誰から!」
    「簡単ピョン。俺の実家の連中が帰ったあたりからずっと様子が変だったピョン」

    布団の中、カワタを抱きかかえるフカツに力がこもる。

    「…何か言われたのか」
    「……カズナリさまが言えたらでええんだども」
    「うん」
    「カズナリさまは、なして俺を選んでくれたんだ?」

    火を落としても月明かりが差し込んで、見つめてくるフカツの表情はよく見えた。白皙にほんの少し朱がはしる様も、緩められた口元も。

    「お前は覚えていないだろうけど、俺たちは昔会ったことがあるピョン」
    「…えっ……え、俺とカズナリさま?」
    「そうピョン」
    「全然覚えでね」
    「俺も子供で、マサシは更に子供だったピョン。今思えばあの道…お前は大人たちと村のお墓へ行く途中だったと思うピョン」

    共同の墓地は村からわざと離れた場所に作られる。埋葬時、死者が寂しくないよう一団を作ってご遺体と共に向かう慣わしだった。今では大したことないが、当時は旅人にでもなったような距離に感じていた。

    「集落を出たのも集落外の人間を見るのも初めてで、恥ずかしながら釘付けだったピョン」
    「俺、変なこと言ってねよな」
    「……」
    「言ったんか…!?」
    「冗談ピョン。お前はただ、花を一輪差し出してくれたピョン」
    「…花……俺が?」
    「いい笑顔だったピョン。すぐにお爺様から呼ばれて行ってしまって…その時はそれきりだと思ったんだがサワキタが、」
    「さっと待って、待ってぐれ!」
    「ん?」
    「……カズナリさま、本当はサワキタさまと結婚する筈だったんか?」
    言ってしまった。こんなことばかり気にしてしまう自分が存在するなんて思いもしなかった。けれどフカツは呆れも笑いもせず、違うピョンと即座に否定の言葉をくれた。
    「勝手に言ってる奴らはいたピョン。サワキタとは乳兄弟で近しかったからだろうが…そんなのならイチノとだって言われてたピョン」
    「…んだごて…」
    「? ああ、様子が変だったのはそれか」
    「……面目ね」
    「安心しろ、そんな事実は一切ないピョン。それに俺とマサシを再会させてくれたのはサワキタピョン」

    ※※※

    集落を継ぐ儀式が完了したその日、サワキタエイジは自分を隠していた伝統帽や布を全て取り払い、集落中の民に言い放った。

    「格好とか好きにさせてもらいます。それから神下りもその相手も、本人が拒否なら無し、事情があるなら要相談。そういうもんだからじゃなくて、いい加減自分で考えながら生きた方がいいっすよ」

    集落は門を閉ざしていた時代があったので、外との関わりがなければ自分達の血脈を守るための近親婚が増える。そうして今度は濃くなった血のために、内外の者を問わず交わらなければならなくなったのが、フカツやサワキタからほんの三世代ほど前の話だ。

    「勝手な話だよね」

    生まれた時からそばにいるフカツに、サワキタは何度かそうこぼした。この地も変えていかねばならない。信仰を向けられる立場にありながら、現実はどこよりも何よりも過去からの慣習に雁字搦めだ。
    だから次期の長であるサワキタにフカツ達の代は協力したし従った。先代達も年を重ね、だいぶ声が小さくなった。そうしてサワキタの宣言を聞いた時、この先ここは大丈夫だと思えたし、自分の正直な希望を伝える覚悟が出来た。

    「神下りを考えてるピョン」
    「…本気?」
    「ピョン」
    「年寄り連中は関係ない?」
    「当たり前だろ」
    「じゃあ何でさ。フカツさんが外に出る必要ある?」
    「根本はお前と同じピョン。出来れば別の場所に根付いて、集落とは違う方法でこの地を守っていきたいだけピョン。それにお前が言ったんだぞサワキタ。自分で考えて生きろって」
    「…邪魔したいとかじゃなくて、あんたに幸せになってほしいだけだよ、俺」
    「分かってる。それに俺は集落の文化、そんなに嫌いじゃねえピョン」
    「……ふぅん」

    その場でサワキタが明確な判断を下すことはなかったが、後日、古式ゆかしい巻き物を複数よこしてきた。

    「フカツさんの神下り先候補。信頼できる情報先と、最後は骨卜(こつぼく)の結果も加味してある」
    「それは流石に……両親とサワキタで決めるものピョン」
    「親父さんより年上の奴が相手になってもそう言える?」
    「…………見るピョン」

    イチノやマツモトに連絡を取って色々聞いてみようか。そう考えながらそれぞれの巻き物に描かれた似絵を捲っていた時、手が止まった。
    (───あの子だ)
    すぐに分かった。フカツに花を差し出した子が、出会った時のフカツぐらいの齢になっている。
    (カワタマサシ…)
    これだけ村や候補者がある中で、再び自分の前に現れた存在に、フカツは縁を感じずにはいられなかった。それにこれから成長する齢ならば、長く隣に在れる。傍らでずっと見守っていられる。
    一緒に生きていける。

    「サワ───長殿」
    「はい?」
    「この方の元に参りたく存じます」
    「…承知しました。天と地の加護がありますように。我が同胞、フカツカズナリ殿」

    ※※※

    「顔合わせの日は感慨深かったピョン。見上げてくる表情が昔のままなんだから」
    「んだんて選んでくれたのか?…懐かしかったから?」
    「そうじゃないと言えば嘘になる。でもその感情は、あの時マサシに出会わなければ浮かびもしなかった」
    「そ、け…」
    「納得した?答えになってたら嬉しいピョン」
    「ん……その、ずっと覚えててぐれて、俺も嬉しい」
    「良かった」

    額にやわらかい何かが触れた。それは森で出来た擦り傷のある頬にも触れて、そこで漸くフカツの唇だったことを知った。カワタの両頬がそっと包まれる。最後に唇同士が触れた時、フカツは少しだけ笑った。

    「今は旦那様として大切ピョン、お前が」
    「……カ、」
    「ははっ、目がまんまる」
    「だっ…だってよ、…」

    夜だからと声をひそめながらも、フカツはいよいよ楽しそうだ。そこで感じた鼓動が、昼間の恐怖をそろりと呼んだ。
    もしかしたら、このやり取りも出来なかったかもしれない。二度とこうして触れ合えなかったかもしれない。

    「カズナリさま、今日は心配かけて本当にすまねかった。俺が馬鹿だった」
    「マサシは理解したからもういいピョン」
    「俺、もっとちゃんと色々教わって、頼ってもらえるように頑張る。だからずっと、俺のそばにいでほしい」
    「もちろん」
    「そんで急いで大人になって、カズナリさまに…カズナリに相応しい男になっから、……俺のこと、ずっと好きでいてください」

    何か言われる前にフカツを真似て、勢いのままに唇を重ねた。この所作だって完全に子供だ、早く大人になりたい。
    そう思って見上げた先に、目を丸くし頬をより赤くしたフカツの顔があった。焦りは消えないけれど、これだけでも充分幸せだとカワタは思った。
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