ロマネスク「ふっしぐろー!部活行くぞ部活!」
「うっせーな、そんなでかい声出さなくても聞こえる。」
授業終わりのチャイムが鳴った途端、勢いよく立ち上がる。先生の声を聞きながら居眠りをして目覚めたところだから元気もいっぱいだ。今日もたくさん練習するぞ!
通学カバンに教科書やらノートやらを詰め込んで時間のかかってる伏黒を急かして、俺たちは音楽室へと急いだ。
「こんちゃーす!」
「悠仁うっせーな、ボリューム下げろ」
「真希先輩うぃっす!早くないすか?」
「2年はこの時間授業ねーんだよ。おらさっさと準備すんぞ。」
すでに窓際の席にいた真希先輩は両手に抱えていたものを立てかけて促す。準備というのは、教卓を中心に椅子を並べることで、俺たち一年生の仕事だ。無茶すんなよと伏黒に言われながら、10台の椅子を持ち上げてはどんどん置いていく。準備が早く済めば済むほど、練習する時間は増える。力仕事は得意だから他の一年が来るまでとか待たないでさっさと終わらせた。
「あれ、虎杖。またあんた1人でやってんの。」
「俺もやってる。」
「伏黒のは誤差でしょ、仕事減るのはありがたいけどほどほどにしなさいよ。」
後からやってきた釘崎に憎まれ口を叩かれながら、俺はすでに自分の用意を始めていた。
黒く重厚なケースの金具をあけて、少し塗装が剥げてしまっている金色の楽器を取り出す。俺の担当はトランペット。マウスピースを取り付けて、軽く唇を震わせてリップロールをしたあと、すうっと息を吸って、Cの音を出す。うん、今日も調子がいい。
ひとつひとつ音階を上げてロングトーンを続け、様子を見るように指を動かす。肺活量には自信があるから、いくらでも伸ばしていられる。気持ちよく音を出していたら、同じトランペットパートの乙骨先輩が隣に座った。
「今日も元気だね、虎杖くん。」
「うぃっす!こんちはっす!」
眉を少し下げながら笑う先輩は、めちゃくちゃトランペットが上手い。先輩はパートリーダーでもあり、ファーストを吹いているから、俺はセカンド。いつか抜かして花形であるファーストトランペットを吹きたいけれども、それには努力しかないだろう。
乙骨先輩に声をかけられて一旦基礎練を中断したから周りを見てみると、もうある程度よく連む面子が集まってきていた。
クラリネットの伏黒、フルートの釘崎、オーボエの狗巻先輩、ファゴットの真希先輩。ティンパニーのチューニングをしているのは、夜蛾校長の息子のパンダ先輩だ。優しくて、ガタイが大きくて、みんなのお父さんのようなポジションで和ませてくれる。カバンにもスマホにも筆箱にもパンダのグッズをつけているから、愛称がパンダ先輩。
みんな、音楽に真剣で、全国大会を目指す仲間だ。
朝練から放課後は夜遅くまで、夏休みも部活三昧で練習を繰り返しているから、先輩後輩関係なく仲良いしぶつかり合うこともある。それだけ真面目に青春を懸けてやっているのだ。
だから、安直な想いを持ってはいけない。そう、わかっている。
「虎杖くん、先生きたよ。」
今日合奏で合わせる曲を練習していたら、乙骨先輩に肩を叩かれた。楽譜と睨めっこしてたから気がつかなかった。すでに全員揃って、視線は教壇に注がれている。
「よし、みんなこんにちは。始めようか。」
楽譜を広げて、袖を巻くって肘まで上げる。タクトを持ちあげる指は長くて白い。サングラスに半分隠されているが、口元はにっこりと微笑んでいる。
「じゃあ、ROMANESQUE。まずは通しで。」
1、2、3、4と振られるタクトの先を見て、合わせて音を出す。俺が抱いている邪な気持ちは、音を出している時は落ち着いてくれている。
俺は、五条先生が好きだ。
一目惚れだった。入学して、吹奏楽部の部活紹介で指揮をする先生を見たとき、息をするのを忘れるくらいその姿に惹かれた。どの運動部に入ろうかと考えていたはずなのに、気づけば音楽室の扉を開いていた。初心者で、基本もわからない俺はかっこいいという理由でトランペットを選び、必死に練習した。初心者は合奏にはなかなか混ぜてもらえないから、先生の振る指揮に合わせて音を出せないことが悔しかった。誰よりも一番早くきて、休む間もなく練習をし続け、その甲斐あって今はどんな曲でも参加できる。
先生の指揮は美しい。加齢でなってしまう白髪とも人工的に染め上げたのとも違う、白い髪が揺れる。長い手足がリズムを刻み、主役の楽器を見つめるサングラスの奥の青い目は澄んでいる。
先生に惹かれたのは俺だけではないだろう。廊下を通るたびに女生徒にキャーキャー言われているのをよく見かける。俺のように吹奏楽部の門を叩いた女の子もいた。しかし、その性格はスパルタで、そんな言い方あるか?ってくらいキツかった。
「虎杖、音ズレてるよ。まだ初心者気分でやってんの?」
「伏黒はつまらない音を出すね。もっと想像してみなよ。」
ズバッと指摘されて、フォローは特にない。泣きながら部室を出ていく子がたくさんいた。俺としてはライバルが減っていいけれど、部活としては人が減ることはよろしくないはずだ。真希先輩は、下手な奴がいくらいてもしょうがないからいいって言うけれど。
「この曲、卒業式とか式典でもやるんだからちゃんと練習するように。じゃあ次行くよ。」
先生が注意したことを楽譜に書き込んでいって、また次の曲に集中して。あっというまに時間が流れていく。先生と話せる時間なんてほとんどない。日が暮れるまで合奏をして、先生は職員室へと戻ってそのあとは居残りして練習。
できなかったところを重点的に、何度も何度も吹いていった。
試験期間に入ると部活は休みになってしまう。いつも通り朝練の時間に来たのに音楽室が開いていなくて、そこで休みだと思い出した。俺は自前の楽器がなくて、学校のものを借りているから休み期間中は吹けなくなってしまう。毎日毎日吹いていたのに落ち着かない。唯一お小遣いで買えたマウスピースにソワソワする気持ちを押し付けながら音楽室近くの空き教室で吹かしていた。
「やるなら真剣にやった方が練習になるよ。」
背後から聞き覚えのある声がした。先生だ。
「えっ!は、はいっす!おはよーございます!」
「おはよー。朝練ないのに来たの?」
「完全に忘れてたっす。」
「虎杖らしいね。トランペットのことしか考えてないでしょ。」
「先生も朝早いんすね。」
「間違えて朝練くる奴がいるかなって思ったんだよね。」
言い当てられて誤魔化すように笑うと、先生は俺の向かいの席に座った。こんなに近くで先生を見ることは初めてだ。2人きりで話すのだって。
「虎杖はさ、どうしてトランペットにしたの?」
「一番目立ってかっこいいからっす」
「ふうん、まあでっかい音出すだけなら打楽器も目立つけどね。」
「今は吹いてて、突き抜けるようなかんじとか、全部自分の息次第でコントロールするってのがたのしいかな!」
「肺活量すごいよね、運動部の先生悔しがってたよ。」
面接のような、尋問のような雑談に、緊張しながら、でもそれが勘付かれないように返答していく。チラッと見える青い目は、合奏の時の獲物を狩るような真剣な眼差しではなく優しく細められている。頬杖をついた手は顔よりも大きく、改めてモデルみたいな人だなと思った。
「トランペット、吹きたい?」
「吹きたいっす!」
「じゃあ、特別に。これを貸してあげる。」
机の上にどん、と置かれたのは、いつもの黒いケースではなく、革張りのいかにも高価ですと主張するようなトランペットケース。驚いて声も出せないでいると、パチンパチンと金具を外して蓋を開けた。中には先生の髪の色のような銀に光り輝くトランペット。
「学校の備品を渡すと怒られるから、僕のを使って。」
「へ!?先生の!?」
「しばらく使ってなかったから、手入れもお願い。あと、赤点をとらないこと。それだけ約束ね。」
「えっ!えっ!」
慌てている俺を置いて、先生はじゃあねと部屋を出ていってしまう。急いで追いかけて、歩き去っていく背中にありがとうございます!と大きな声でお礼をした。振り返らないまま手を振っているから、声は届いたようだ。
先生のトランペットを借りてしまった。それからは気が気でなかった。無くさないように、何か起こらないように側を離れたくなくて大好きな体育もサボってしまいそうだった。伏黒に怒られて更衣室まで持っていくことで妥協したが。
学校の近くで吹くと部活をやっていると思われるから、大事に抱えて家まで持ち帰って近くの川で音を出した。いつものトランペットとは違う。抜けるような高音が、何の障害もなく空へと響き渡る。自分が上手くなったのかもしれないと錯覚した。いやこのトランペットがすごいんだ、何だって先生のなんだから。
このトランペットに先生が唇をつけて、あの大きな手で包み込んで、長い指がピストンに触れて。いま同じように触れているところが途端に熱くなってきた。いかんいかんと、と首を振ってこみ上げてきた熱を払う。
いつか先生の演奏を聴いてみたい。これを返すときに頼んでみようかと考えながら、日が暮れるまで練習していた。
今回の試験はがんばった。赤点をとらないと約束をしたから頑張るしかなかった。授業を寝ないで聞いて勉強して、家までダッシュしてトランペットを吹いて、家に戻ったら日が変わる頃まで勉強。試験自体はいつもよりできていたとは思う。こんなに勉強したのは受験以来だ。
今日から部活が再開する。いつ先生のトランペットを返そうかと悩んでいた。職員室では生徒に私物を貸したと何か言われてしまうかもしれない。かといって二人きりになれる時間はなかなかない。
そうこうしているうちに、部活が始まり俺はいつも使っていたトランペットを開けた。先生のと比べるとぼろぼろで、どれだけ磨いても元の金色にはならない。しかしずっと俺と切磋琢磨してきたトランペットで、愛着がある。入念にオイルを刺したり手入れをして、息を吹き入れた。
高音の伸びも、ピストンの動きも今ひとつ。でも手に馴染んでいる。これだこれだと、安心して演奏することができる。久しぶりの感触に楽しくて、また先生が来るのに気づかないで吹いてしまっていた。
「虎杖は今日も元気だね。さあ、合奏を始めよう。」
みんなの前で名指しされて少々恥ずかしかったが、先生の口から自分の名前がでたことに嬉しさを覚えた。合奏中、何度か目が合う気がしたけれど、それは勘違いだろう。舞い上がってはいけない、演奏に集中するのだから。先生は俺に対して、何も思っていないのだから。
いつものように居残り練習をしたあと、音楽室の鍵も閉めて、みんな帰っていった。外はとっぷりと日が暮れている。空腹でお腹と背中がくっつきそうだ。普段はみんなと一緒にコンビニによって、買い食いしながら駅までの道を歩くけれど、今日はちょっとといって先に帰ってもらった。伏黒も釘崎も訝しんでいたけれど、また明日なと手を振ったらそれ以上は言ってこなかった。
他の先生に見つからないように隠れて、五条先生が出てくるのを待つ。先生のトランペットは見た目よりも軽くてずっと抱えていられる。職員室の扉が開くたびに、顔を出して見るけれど先生はなかなか現れない。電気が消えている廊下でしゃがみこんでいるから、試験疲れからか眠たくなってきてしまった。うとうとして、目を覚まして。首がかくんと落ちて、また目を覚まして。
一瞬夢を見た。俺はソロを吹くために立ち上がって。ホールの奥まで届くように、音を響かせる。見せ場の高音の伸びをしっかり吹き切って先生をみると、にやっと笑って視線をくれるんだ。よくやったねと、言わんばかりの表情で一層先生への気持ちを高鳴らせていく。
「虎杖?」
不意にかけられた声で目が覚めて、頭を壁に打った。いてて、とチカチカする視界が落ち着いていくと、五条先生が同じようにしゃがんでこちらを見ていた。
「何してるの、こんな時間に。」
「あ…先生を待ってたんす。」
「もう九時超えてるよ。」
「やっべ、じいちゃんに連絡しなきゃ。」
「連絡できたら一緒においで。車で送ってあげるから。」
普段ならもう家で風呂まで済んでいる時間だ。いつの間にそんなに寝てしまったのだろう。しゃがみながら寝て、トランペットケースも無事抱きかかえていられたのは自分でも器用だと思った。
ケータイ嫌いの爺ちゃんにすぐに電話をかけて連絡を入れる。案の定怒られはしたけれど、心配する声も混じっていたから申し訳ない。
そばで待っている先生からも怒っているオーラを感じる。先生の厚意で貸してもらったトランペットを大切に返したかっただけなのに、不穏な雰囲気が流れる。連絡が終わった俺の様子を見て、先生はカバンを持って歩き出した。
「乗って。」
冷静な声から、先生との距離がとても遠いものに思える。やってしまったと、冷や汗が止まらない。せっかく先生と二人きりなのに、せっかく先生の車に乗せてもらえているのに、それを楽しめる状態にない。
「あのね、もう帰ったと思ってたのに、あんなところで寝てたらびっくりするから。」
「…すんません。」
「どうしてこんな時間までいたの。」
「先生に、トランペット返したくて…でも、いつ返せばいいかわかんなくて…。」
居た堪れなくて、先生の顔が見られない。どうしようどうしようと視線を泳がせていたら、ぷっと噴き出す声が聞こえた。
「ははっ、虎杖ってそんな気遣いできるんだね。」
「職員室にもってったら迷惑かなって。」
「いつも合奏前に僕が入ってきても気づかないくらい鈍感なのにね。」
ぐさっと言葉が刺さる。集中していて、気づけないだけなのに。意地悪くも先生は俺のダメなところを言い連ねていく。
「僕が言ったところもなかなか直らないし、落ち着いた表現するところでも元気いっぱいだし。」
「今日は僕のを使ってないし。まあ愛着あるだろうからね、別にいいんだけど。」
うう、すんません…と台詞の節々に合いの手をいれるように謝っていく。
「指揮しながら見ても気づかないし、一人で朝練にきてるの後ろから見てても気づかないし。」
「…え?」
「ほんといつも一生懸命だよね。トランペット奏者向きだよ。」
赤信号で車が止まる。先生がこちらを見ているのに気づいて隣に目をやると、あの日のように優しく微笑んでいた。車内は暗く、対向車のライトで照らされる先生が美しくて、思わず体が火をつけたみたいに熱くなった。
「あっ、あの先生。トランペットありがとう。」
「うん、このまま使ってくれていいんだけど。」
「そうなの!?でも先生のだと緊張しちゃって…もちろんいつもより上手く音が出せたんだけどね。」
「へぇ、僕のだと緊張するんだ。」
さらに顔が赤くなるのを感じる。膝の上に乗せた先生のトランペットが重たくなっていく。
怖い、ここにいるのが怖い。言ってはいけない、伝えてはいけない気持ちがぽろっとこぼれてしまいそうで。
「僕はね、恋をすることはいいことだと思うよ。」
「…恋?」
「そう、音楽はね。恋をすることで豊かに表現できるんだ。今日やった曲もそうだよ。」
今日やった曲はROMANESQUE。優しいメロディと壮大な盛り上がりがロマンチックな曲だ。楽譜を追いかけることに必死で、表現ということを考えていなかった。
「恋は楽しかったり、悲しかったり、嬉しかったり、悔しかったりするでしょ。それをトランペットを通して伝えるんだよ。」
「なるほど、ただ出すだけじゃだめなんだ。」
「虎杖は基本ができてきたから、先に進めるよ。」
緊張していた気持ちが解れていく。褒められたことが嬉しくて舞い上がりそうだ。もっともっとうまくなることができる。先生への気持ちを音に乗せて、先生に届けられるようにしたいと目標がみえてわくわくとしてきた。
「俺、先生のトランペット聴きたいっす!」
「僕はもうブランクあるからなー、いつかね。」
口約束だし曖昧だけれど、他の生徒よりも先生と近くなれた気がする。二人だけの特別な約束。守られるかはわからないけれど。
「もっと上手くなったらソロ吹けますかね!さっき夢でみた!」
「夢でまで吹いてたの…相当すきだね。」
トランペットが、と続くことは分かっていたが、先生の口から「すき」という言葉が聞こえて、心臓が大きく跳ねた。
ああ、俺はどうしようもなく先生が好きなんだ。
「あの、せんせ…。」
「うん?」
「俺、実は、先生の」
先生の長い指が押し当てられて、言葉が遮られる。シーと沈黙を促すように息を吐く。
「続きはトランペットで聴くから。」
先生は悪戯っぽい笑みを浮かべて、そう言った。