アンタだけの匂い部屋の主人にバレぬよう静かに寝室へ侵入する。鉄の足をゆっくりと床につけできる限り音を立てずベットへと近づく。歩く度に関節が擦れて響く金属音がこれほどまでに憎たらしい。
やっとの事で枕元まで移動し、しゃがみこむ。髪が相手の顔にかからないよう片手で纏めて顔を近づける、唇から漏れ出る吐息がくすぐったい。顔を見つめ、まだ夢の中に居ることを確認した。
「よぉ、起きてるか?」
試しに小声で声をかける、何も反応が返ってこない。
「狸寝入りしてんじゃねぇぞ」
しっかりカマをかけるのも忘れない。万が一この後の事がバレたらとんでもない。だがよっぽど深く眠っているのか身動ぎすらもしない。
前傾していた体を戻し、小さくため息を漏らす。
「純美の騎士サマは寝ている姿さえ純美ってか」
瞳を閉じられた顔は曇りなく、シルクのような髪を綺麗にマットに広げ、筋肉で盛り上がった布団はなだらかな坂になり、ゆったりとした呼吸と共に胸が上下に動く。
一言で言えばまるで絵画のように美しかった。
つい見とれてしまったブートヒルは頭を振る。今夜は顔を見るために来たのではない。
枕元に居たブートヒルはアルジェンティの胸元の所まで少し移動し半立ちになり、片手を自分とアルジェンティの体の間に、もう片方をアルジェンティの体に触れないよう向こう側に置いた。少し前かがみになると手のひらがマットに沈み、ギシリとベッドが軋む。この音で起きたら元も子もない!そう体を強ばらせチラリと顔を盗み見たがアルジェンティの寝顔は穏やかなままだった。安堵のため息を小さく吐き、続いて顔を胸元へと近づけた。
上下に動く胸に当たらないギリギリまで近づいて大きく息を吸う。空気と共に薔薇の華やかさとうっすら雄臭い汗の嗅ぎなれた匂いが鼻腔をくすぐる。
これだ、これが嗅ぎたかった。
この前行った星でたまたま花屋を通り過ぎた時、薔薇の香りが鼻を掠め、脳内にはかの純美の騎士が浮かび上がった。毎回パブロフの犬のように薔薇の香りがすると浮かび上がってくる。だけども何処か少し違う、何かが足りない。ずっと胸のあたりがモヤモヤする。大して害にはならないが頭の片隅に疑問が居座る。それが煩わしくて今ここに来たのだ。
ああ、足りなかったのは彼自身の匂いだったのか。普段薔薇を身にまとっている彼の薔薇だけでは無い香り。ここまで考えてふと思い出した、いつも顔を合わせているのは戦闘した後だ。たとえ百戦錬磨の騎士サマとはいえ人間なのだ、当たり前に汗をかく。
呼吸をするたび胸のモヤモヤが晴れ疑問が消え去る。スッキリとした気持ちで身を起こして立ち上がろうとすると、何となく名残惜しさが湧いてくる。少しだけ、終わればすぐに離れる、そう自分に言い聞かせながら触れてもバレない髪の先を鼻先まで持っていきもう一度息を吸う。嗅ぎなれた、薔薇の花とは違う彼の匂い。安心で体の力が抜け、頑張ろうと心が奮い立つ、そんな彼の匂い。
その香りに袖を引かれつつもブートヒルは立ち上がりドアの方へ歩いていった。扉を通り抜けた時、軽く振り返り肩越しにベッドを見つめる。部屋の主は入ってきた時と変わらず寝ている。
「また会う時はオレが死体になってねぇことを願っとくぜ」
届くかも分からない別れの言葉を告げ、静かに扉を閉めた。
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扉が静かに閉まる音がした後、部屋に布が擦れる音がした。アルジェンティは身を起こして先程までブートヒルが居た場所を見つめる。
何もかも残してくれない彼が唯一残した自分とは全く違う冷たい匂い。鉄と油と火薬を混ぜた彼だけの匂いが少しずつ消えてゆく。元からそこまで強くない彼自身の香りがこんなにも愛おしい
「⋯このような可愛らしい事を隠れてしなくとも僕は構いませんのに」
口から零れたつぶやきは夜の空気と共に消えていった。