「なあディルックの旦那、不老不死に興味はないか?」
「は?」
しっとりとした夜の空気が肌に纏わりつく、ある晩夏のことだった。エンジェルズシェアにいつも通り訪れ、いつもの定位置に腰を下ろし、いつもの酒をオーダーした男はそのまま流れるように突然おかしなことを宣いだしたのは。
とは言いつつも、この男が突然おかしなことを口にするのはそこまで珍しい事柄ではない。問題は話題の中身だ。
「騎士団もついに詐欺組織にまで成り下がったか……腐敗臭がワイナリーに漂ってくる前に根絶やすべきだな」
「待て待て、これは俺の独断だ」
猶更悪い、と近寄る眉間の皺を指で解しながらアルコール瓶を手に取る。頭が痛い応酬を交わしつつも客のリクエストには応えないといけない。接客業の辛いところだ。
ディルックの反応が予想通りだったのか、からからと笑いながら差し出されたグラスを受け取る男は隻眼の星を緩く瞬かせる。
「お前の耳に入っていないとなるとアタリを引いたかもな。フフン、時間をかけた甲斐があった」
「よく言う。君の調査の八割は必要もない酒場代だろうに」
「あーあーこれだから現場を知らないお坊ちゃんは……一見様にペラペラ情報を吐く常連客なんているわけがないだろう」
知っている。
何しろディルックは情報を集めるためにカウンターの内側に立ち、日夜モンドの民に自慢の美酒を手ずから注いでいるのだから。加えて言うなら隻眼の男──ガイアの仕事ぶりも(アルコールの摂取量以外は)評価していた。
だからこそ、これは全て見掛け倒しの会話だ。
幼い頃から幾度も繰り返してきた、公共の場での密談。なんてことはないささやかな言葉遊びである。
「それは失礼。僕も社会勉強をしてみようかな」
「旦那様が?はは、モンド一の貴公子にそんなことをさせてみろ、代理団長にどやされちまう」
「一度そのアルコールに浸った頭を吹き飛ばしてもらえばいい。湿気が飛んでいい具合になるかもしれない……それで、不老不死がどうしたんだ」
「ん?そうだった、なんでも最近若い女性を中心に流行っている美容療法があるんだと。『まるで不老不死!老いを知らぬ美肌をあなたに!』」
「……驚いたな。まさか、騎兵隊長さんがアンチエイジングに興味があるとは」
「こういうのは地位や性別に限らず、誰にでも降り掛かってくるものだぜ」
「確かに、老いは等しく訪れる」
ここでガイアがグラスをこちらに寄越した。並々と注がれていた薄黄色の液体は影も形もなく、無言で見せつけられる空虚に厭らしさを感じる。
(……ここから先は、追加料金ということか)
溜息一つ、了承の意を込めてグラスを掴めばにやんと褐色の頬が歪む。しっかりと見ずとも想像できる、憎たらしい片割れの笑顔。きっとその気分の良さは腹に収めたアルコールや質のいい情報を手に入れた事だけではなく、心底嫌そうに今日一番の酒を作るディルックの顔色も一役買っているのだろう。
「……どうぞ、深雪のくちづけです」
「お、こいつは珍しい。どんな風の吹き回しだ?」
ぴゅう、と形のいい唇から響いた口笛が店内に木霊する。閉店まで後四十五分、客は六人。明日の予定は見直す必要があるかもしれない。
「いえいえ。僕自身はそこまでそそられないのですが、メイド達は飛びつきそうな話題だと思いまして」
「ああそうか、ワイナリーには若い子も何人かいたよな。まだ肌を気にする年頃とは思えないが」
「なんでも収穫の時に日差しが気になるようでね。夜にできないかと泣きつかれたこともある」
「あっはは、夜にブドウ狩り!旦那のところのブドウは色が深いから見落としそうだ」
白いグラスが掲げられる。これで今回のやり取りはひと段落だろうか。息を細く吐き、仕事の疲労を誤魔化すように肩を回して見せた。
──ジンには言えない、若い女性を狙った犯行。地位や性別を問わず一見様お断りとなると、余程きな臭いものだろう。ファデュイ関係である線は薄く、夜の調査は向かない。取れる手段としては潜入か。
(随分と調べ上げたものだ。わざわざ僕にまで話を持ってきたということは、炎元素が必要か……はたまた”そちらの方が面白いか”)
モンドで炎の元素を操るものは、自分を除くと若い女性──それこそ、本件のターゲット層だ──だけだ。この狡猾な男がなんのカードも無くディルックに情報を差し出すとは到底思えない。この様子からするに、ほぼ黒だと決め打ちした上でこちらの様子を伺いに来たのだろう。
『お前の耳に入っていないとなるとアタリを引いたかもな。』
ふざけた話だ。僕の耳に入っていないということは国外……モンドの外で起こっている出来事の他ならない。
詰まるところ、ガイア風に言い換えればこんなところだろう。
”ディルック、久々に二人きりで旅行でもしないか?なぁに、ちょっとしたデートだ。”
ディルックとは違う独自の情報ルートを持つ男は、意外にも広く根を張らせている。確かに最近は岩神の逝去や稲妻の鎖国解除など、其処彼処で何かしらの事件が起きていた。
しかしながら、ガイアがここまで直接的に自分を誘ってくることに些か違和感を覚える。何をするにも弁が立つ男だ。わざわざディルックの興味を煽って巻き込むにしても、不愉快なくらい遠回しな手を好む節がある。
この件も元を辿れば何処かでモンドに繋がりがあるのか。はたまたラグヴィンド家に関わることなのだろう。もしくは、父の。
(……憶測で思考するのはやめよう)
ふう、と肩を下ろし首を左右に振る。ディルックが上半身の筋肉を解す様を見ながら、ガイアはちびりちびりと『サービス』を口に運んでいた。視線を向ければ、細められた目が雄弁に語る。
出発は何時にするんだ?と。
「……よければ、今度ガイアさんもワイナリーを見に来るといい。最近は晶蝶も活発で、この前は四匹も玄関先に集まっていたほどだよ。リフレッシュになるかもしれない」
「それはいい!最近働き詰めで草臥れていたところだ。ついでにお土産も見繕っておいてくれ」
「馬鹿を言え」
「つれないな。ほい、ご馳走さん」
土産──こちらからお前に頼む案件など、あるわけがない。あったとしても頼むわけがない。それが二人で決めたボーダーラインだというのに、この男は毎度毎度しぶとくしがみ付いてくる。
かこん、と景気のいい音を立ててグラスが返却された。受け取り、ディルックが洗い出す間に騎兵隊長は特徴的な片マントをひらめかせて出口に向かう。いつも通りの光景だ。ただそこに、一滴の懸念が滲まされただけ。
「……不老不死……今は亡き国家の技術、か」
ひっそりと呟かれたディルックの吐息は、けたたましいドアベルの音に掻き消された。