4月1日のラッコ鍋 夕陽の光が水面に映えて、きらきらと揺れている。塩谷沙都と清原樹は、日課の散歩からの帰路についている。日暮れ時の川辺は、風が吹くと少し肌寒く、沙都と樹は互いに身を寄せ合った。
「やっぱりこの辺りは少し冷えますね」
「風強いと余計にね。夕飯、どうしよっか? あったまる物が良いな」
沙都から返ってきた言葉を聞いて、樹はほのかに顔を綻ばせる。この街へ来て以降、沙都から投げかけられる話題に"食事"に関わるものが増えた。樹にはそれが、たまらなく嬉しかった。
沙都と樹の二人ともが刑事だった頃。沙都は随分な健啖家で、『都内の美味い店が知りたいなら一課の塩谷に聴け』と言われる程の食道楽だった。それがある時を境にして一変した。沙都が事件の捜査中に重傷を負い、その際に食事に関わるトラウマをも抱えたとのことだった。事件は解決こそしたものの、沙都は程なくして退職した。
沙都が刑事でなくなった後も、樹はプライベートで沙都と会う機会を設けていた。だが、以前あった食欲も溌剌さも消え失せて、肋骨が浮く程に痩せやつれた沙都を目の当たりにする度に胸が痛んだ。
それが、今はどうだろう。ごく当たり前に「何食べようか」「これ美味しそうだね」と話しかけてくる。マイナスがゼロどころかプラスになったのだ。密かな喜びを胸に、樹は沙都に返す。
「頂き物のお野菜がまだありますから、使ってしまいたいですね。お鍋なんてどうです?」
「良いね、それなら肉か魚でも買い足そうか」
「そうしましょう。ここからなら、お肉屋さんの方が近いですね」
沙都は樹の提案に頷き、肉屋がある方向へ二人で向かう。
勿論、ここに至るまでの道のりは決して平坦ではなく、失ったものも多い。樹の手足と二人の命を代償に辿り着いた夕陽の街は、生と死の間にある。家族や友人との再会はきっと叶わないだろう。刑事として勤めていた時のことは、最早遠い記憶になりかけている。
それでも、"普通"と引き換えに手に入れた"日常"は、対価としてはささやかなものかもしれない。けれど二人は、喪くした全てを補って余りある程に幸福だ。
欠けた者同士でぴたりと寄り添って、空いた隙間を埋めている。愛と呼ぶにはいささか不格好かもしれないが、二人ともが互いに焦がれて互いを求めているのだ。これで良い、否、これが良い。沙都も樹も、心からそう思っている。