月に沈む その日、生涯添い遂げると神の前で誓ったはずの女が消えた。
二人の愛の巣だったアパートは何一つ欠けることなく、けれど、今までそこにあったはずの当たり前の日常だけが切り抜かれたかのようにシンとしていた。
異変にはすぐに気づいた。普段であれば玄関まで出迎えてくれる妻の姿はなく、部屋の中は真っ暗だった。
けれど、人の気配のようなもの、人がいたであろう気配だけは色濃く残っていた。
それは、嗅いだことのない煙草の匂いに混じって、悠仁の心をひどくかき乱した。
何かがおかしい。
どこか変だ。
嫌な予感は的中する。
ダイニングのテーブルの上には妻の名前が記入された離婚届と、必死で貯めた金で買った結婚指輪が置かれていた。
ぐしゃり、と鈍い音を立ててケーキの箱が床に落ちる。奇しくも、その日は二人の結婚記念日だった。
窓から差し込む月明かりで鈍く光る指輪を手に取る。いくつも刻まれた小さな傷は、二人で寄り添って生きてきた軌跡だ。
「……なんで、」
出会いはどこにでもあるようなものだった。
運命とか奇跡とか、そんな映画や小説のようなキラキラしたものなんてなくて、ただ取引先の世話になっている先輩から紹介され、断ることもできずセッティングされた見合いの場。
きっと彼女も同じような状況だったのだろう。
明らかに乗り気ではなく、困ったように笑うその顔が可愛いと思った。男まさりな口調も、猫のような眦も、美味しそうに食べる口元も、何より笑顔が眩しかった。
一目惚れではなかったけれど、きっと好きになると思った。それは、確信だった。
その場で結婚を前提にした交際を申し込むと、戸惑った様子の彼女だったが、はにかみながら差し出した手を取ってくれた。
それから静かに愛を育んで、ささやかな結婚式もした。
決して裕福ではなかったけれど、たしかに幸せだった。
両親も天涯孤独の妻を本当の娘のように大切にしていたし、妻もまた人好きのする性格からすっかり打ち解けていたように思う。
小さなアパートのこの部屋はやすらぎやあたたかさで満ちていて、それはこれからも変わらないはずだったのに。
冷静に周りを観察すると、自分とは違う男の気配がそこかしこに残されていた。
きっとわざとだろう。
妻を奪った男は、悠仁に分からせるために痕跡を残したのだ。
もう二度と帰ってこないのだと、思い知らせるために。
震える膝をなんとか動かし、寝室へと足を運ぶ。
だんだんと他人の匂いが濃くなるにつれ、心臓がバクバクと大きな音を立てる。
息がうまくできない。
足元がおぼつかない。
地獄の底に突き落とされたのに、どこか他人事のように今の状況を俯瞰しながら、閉ざされたドアに手をかける。
知らないほうが良いこともある。
見ないままのほうが良い。
きっと後悔する。
分かってはいるが、確かめなくてはならない。
どうして妻が消えたのか。
「ぇ……っ!」
乱れたベッドを視界に捉え、胃からこみ上げるものを堪えきれずに吐き出す。
床に飛び散った吐瀉物が跳ね返り足を汚すのも構わずに、他人の痕跡が色濃く残る乱れたシーツをぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱へ突っ込んだ。
煙草とやけに甘ったるい香水の匂いに、再び嘔吐する。
気持ちが悪い。
二人で築いてきた何もかもが、足元から崩れていくようだった。
「……はは、」
涙は出ない。
ただ、虚しさだけが胸に空いた空洞を風のように過ぎていく。
愛した妻は、
愛していた妻は、
もうどこにもいない。
▽
「虎杖くん」
背後から声をかけられ、びくんと背中が跳ねる。
咄嗟に笑顔を作り振り返れば、そこにはコーヒーを片手に渋い顔をした七海が立っていた。
「ナナミン、……あ、えと、おつかれ!」
「お疲れ様です。少し休憩をしては?」
七海が差し出したカップを受け取る。
ブラックコーヒーではなく、砂糖とミルクの入ったカフェオレだ。
とっくに終業時刻を過ぎたオフィスは、照明も最小限まで落とされており薄暗い。
金曜日ということもあり、普段であれば数名は残っているオフィスには、悠仁と上司である課長の七海の姿しかなかった。
「きみ、最近ずっと残業していませんか? 難しい案件でも?」
「んーっと、そういうわけじゃないんだけど……」
まさか妻のいない家に帰りたくないなどとは言えず、かと言ってうまい言い訳も浮かばずに言葉に詰まる。
無意識に空っぽになった左手の薬指を撫でてしまい、それに気づいた七海が肩をすくめた。
「何か事情があるようですね。……私で良ければ話くらいは聞きますよ」
「え?」
入社以来七海には世話になっているが、特別親しいわけでもなく互いのプライベートについて触れたことなどない。
ニックネームで気軽に呼んではいるものの仕事上の付き合いしかないし、なんなら嫌われているとすら思っていたくらいなので、七海からの提案に驚く。
「部下が何か思い悩んでいるのであれば、相談に乗るのが上司でしょう? きみが話したくないのであれば、無理にとは言いませんが……」
「いや、あの、えーっと……どうしよかな……うーん……じゃあ、お言葉に甘えて……」
作成途中だった見積書を保存し、パソコンの電源を落とす。
のろのろと帰り支度を整えている間に、七海が警備員に帰宅する旨を伝えに出て行った。
妙なことになったなと思いつつも、一人きりの家に帰りたくなかったので七海の優しさは純粋に嬉しい。自然と頬が緩み、胸のあたりがじわりと温かくなるようだった。
その後タクシーに乗って七海に連れられたのは、意外なことに大衆居酒屋であった。てっきり静かなバーやラウンジにでも連れていかれるのかと構えていたため、馴染みのある雰囲気の店にホッとする。
「なんか意外だな~! ナナミンってこういうところ来ないと思ってた」
「人の気配があって賑やかなほうが、案外話しやすかったりするのものですよ」
威勢のいい店員に個室を案内され掘りごたつの席に向かい合わせに座ると、七海はメニューを見ることもなく「とりあえず生二つとたこわさと今日のおすすめの刺身」と店員にオーダーした。
「生で良かったですよね?」
事後確認もオーダー内容も、店に至る経緯まで何もかも七海らしくないなと、思わず笑ってしまう。
インテリで堅物で真面目で鉄仮面。
悠仁の知る七海なんてほんの一部だ。
どこか人を寄せ付けない空気を纏う七海だが、それは勝手な思い込みだったのかもしれない。
「乾杯!」
ジョッキを傾け、一気にあおる。
空きっ腹にアルコールを摂取するのはまずいと分かってはいるものの、すぐに次のビールを注文する。
妻が消えて以来、まともに食事も取っておらず、眠りの浅い日々が続いていた。
そのせいか、普段はそれほど酔わないのに、今日はいつもよりもずっと酔いが回るのが早い。
週末ということで、気が緩んでいるのかもしれない。
「で、どうしたんですか?」
ふわふわとする頭に、七海の低い声が心地よく響く。
強張っていた全身から力が抜けていくようだった。
「奥さんと何かあったんです?」
普段は鋭く尖ったまなざしが、今は優しく弧を描いている。
ささくれだった心に沁みる優しさに、涙腺が緩んでしまい咄嗟に俯いた。
「……あの、俺、……ほんと、かっこ悪いんだけど、奥さんが出ていっちゃって、……なんでか、理由とかも全然わかんねぇし、どうしたらいいのか」
鼻の奥がツンとして、声が震える。
きっとみっともなく泣いているとバレているだろう。
けれど、七海は慰めることも励ますこともなく、ただ相槌を打つだけだった。
「たぶん、お、俺が悪かったんだと思うンだけど、……でも、話し合いとかなくて急にいなくなっちゃったから、今でも現実とは思えなくて……」
何がいけなかったのか、どこから歯車が狂っていたのか。どれだけ考えても、悠仁には分からなかった。
彼女が消えた日の朝までは、確かにいつも通りだったのに。
まるで、神隠しにでもあったかのように、彼女だけが忽然と消えてしまった。テーブルの上に離婚届と指輪が置いてなければ、誘拐でもされたのかと警察に駆け込んだろう。
「あの日から、俺だけずっと取り残されてるみたいで、」
毎日、会社を出るたびに、もしかして帰ってきているのではないかと期待しては、明かりの点いていない家に肩を落とした。
明日こそは帰ってくるのではないか。
明後日は。
(でも、)
本当は、もう分かっている。
優しくて明るくて、いつだって悠仁のために温かい食事を用意して玄関まで迎えに来てくれた彼女は帰ってこない。
彼女の少し音程のずれた歌も、にぎやかな日々も。
きっと二度と戻れない。
「ほかの男に取られたくやしさよりも、彼女のことを分かっていなかった自分が不甲斐ない」
胸に溜め込んだ寂しさや虚しさをひとつずつ言葉にすることによって、やっと現実と向かい合うことが出来るような気がした。
ずっと目を閉じていた。
考えることから逃げていた。
「……やっぱり、俺が悪い」
「いいえ、きみは悪くない」
それまで口を開くことなく静かに耳を傾けていた七海が、ぴしゃりと言い切る。
まっすぐに悠仁を貫くその瞳は、悠仁の知らない色を含んでいるようで、心臓がどくんと跳ねた。
「きみの奥さんも、きっと悪くない。悪いのは、奥さんをたぶらかした男だ」
「でも、俺がもっとしっかりしてれば」
「きみに落ち度はないです。もし調停を申し立てれば、100パーセント勝てます。きみにその気があれば、腕のいい弁護士を紹介しますよ」
「そこまでは……彼女が幸せなら、それで……」
不思議と、憎しみなどは湧かない。
彼女と過ごした日々を思い返して、笑顔のなかったことなど一度もなかった。
「そりゃもし目の前に浮気相手が現れたらぶん殴るだろうけど、奥さんに対しては何も……」
「きみは優しすぎる」
「そんなことない。だって、普通だったらもっと怒ったり悲しんだりするんだろうけど、……俺は、どこかホッとしてる」
ずっと俯瞰で眺めている。
自分ではない誰かの人生の舞台を見ているかのように、どこか他人事のように捉えているのだ。
悲しみも虚しさも怒りも。
確かにそれは感じているのに、薄い膜に覆われているかのようにぼやけている。
「たぶん、自分以外の誰かの人生を背負う覚悟が足りなかったんだと思う。俺みたいなやつは結婚なんてしちゃいけなかったんだ」
「私にはそうは思えないのですが……、けれど、ひとつだけ、きみに対して思うことがあります」
ぐらりと視界が揺れる。
七海の声が、周りの喧騒にかき消され、届かない。
「え? なに?」
ぐるぐると回る天井に、やっと体勢を崩して床に転がったのだと気づく。
畳の匂いと、居酒屋独特の油を含んだ匂い。
座っていられないほど深く酔うことなど初めてだった。
(なんか、へんだ。……寝不足だから? ナナミンに迷惑かけちゃう)
酔いが深い。
いつもよりも、ずっと。
にじむ景色の向こうで、七海が微笑んでいた。
つづく!