ここにいない貴方へ だいぶ日が長くなってきたと思う。桜の盛りはとうに過ぎ、朝晩冷え込むことも無くなった。日中は日差しが降り注げば汗ばむほどで、青空に、爽やかな風が吹き抜ける。春というよりは初夏のようだ。洗濯物がよく乾く。
「兄上みたいだ」
からりと乾いた洗濯物を取込みながら、千寿郎は晴天を見上げてふふっ、と笑った。
こんな日に、貴方は生まれたんですね。兄の心の内の様な気候。兄の屈託のない笑顔を思い浮かべて、千寿郎の頬はまた緩む。
それは今朝の出来事たった。何気なく厨の日めくりを、いつもの様に一枚めくって気づいた。五月十日。
「兄上の生まれた日…」
その瞬間まで忘れていた。でもその日付を目にした途端に思い出したのだ。
「兄上…」
そこには居ない彼の人を想うと、知らず、自然と指が数字をなぞっていた。
兄はここしばらく顔を見せていない。元々任務に忙殺されていて帰宅はままならないものだったが、柱となってからは更に間が空いてしまっていた。
前回の帰還は年の暮れには間に合わず、正月もだいぶ過ぎたまだ寒い時期であった。身を寄せ合い手を擦り合わせながら見上げた桜の、膨らんだ蕾を見て約束した花見も、叶わずに季節は移ろってしまった。
「お元気かな…」
わかっていても呟きが溢れた。元気でなければ、知らせが来る。大丈夫。
それに、兄は筆まめで、帰宅はならずとも要に文を運ばせてくれていた。叶わなかった花見の詫びにと、兄は山桜を一房添えてくれたものだ。
寂しさの中にも、じんわりと優しさと愛しさが胸に広がって、千寿郎は瞳を伏せ、兄の息災を切に祈る。
せめて今日くらいは、穏やかな一日が過ごせますように。
怪我をしませんように。
誰も死にませんように。
兄上が、笑って過ごせますように。
そんな事があったからか、その日一日、千寿郎は事あるごとに兄を想い物思いに耽る事になったのである。
兄上は布団で眠れたのかな。朝餉は召し上がられただろうか。
兄上の羽織、繕った所は大丈夫だろうか。
そろそろ布団は、夏掛けの準備をしておかなくちゃ。兄上は暑がりだから、梅雨が来る前には準備して…。そうだ。夏揃えも虫干しして…。
朝餉の準備をしながら、洗濯をしながら、掃除をしながら、何をしていても、千寿郎の心は常に兄の元へ飛んでいた。
昼餉の片付けをしている時にも。
こう暑いと冷たい蕎麦なんか美味しいだろうな。兄上と観劇に行った帰りに寄った蕎麦屋は美味しかったな。そうそう、その帰りに…。と言った具合であった。
それでも、夕餉はどうしようかなと、少々ぼんやりとしながらも日頃から慣れた家事の手は進んでいく。
そうだ。さつまいもがあったのだ。先日、隣家から頂いたさつまいも。
季節じゃ無いけど美味しかったからお裾分けね。お兄さんがお好きだったでしょう。そう言って、丸々したさつまいもを差し出す隣家の奥さんの笑顔を思い出す。それに、さつまいもを頬張り喜ぶ兄の笑顔が重なった。
兄上に食べていただきたかったな…。
言っても仕方がないことだ。これも、わかっている。
何とも、朝からこちら後ろ向きである。兄のことを思い浮かべて幸せな気持ちになれど、すぐに切なくなってしまうなんて。
これではいけない。しっかりしなければ。
ぶんぶんと音がしそうなくらい被りを振って、千寿郎が胸に沸いた憂いをなんとか霧散させたその時、あっ、と閃いたのだ。
そうだ。そうしよう。誰に咎められるでもない。1人で、そうしよう。
善は急げと、千寿郎は意気揚々と厨を立ち回り始めた。
それは、兄から戴いた、数ある土産の本の中の一つ。珍しく西洋の童話であった。その物語の中では、誕生日をご馳走と甘い菓子でもって家族で祝っていたのだ。
日本には無い文化に、その時は物珍しいとしか思わなかった。年が明けたら皆一つ歳を取る。それが当たり前であった時代、生まれた日を意識して過ごす事はなく、祝いの膳などもしない。だが。
「いないからこそ、これくらいはいいですよね」
この場にいない、誰に言い訳するのか、千寿郎は少しはにかみながら呟いた。
くるくると厨を忙しなく動き回り、手際良く目的のものを作り上げていく。手間のかかる作業でも、兄の為にと思えばそれは全て幸せへと変わる。うきうきと浮き足立つ心が、愛しさで満ちていくのを感じる。
ここにはいない、あの人の為に。直接おめでとうと言えない代わりに。あの人の好きなものを。
かつての兄の継ぐ子、恋柱直伝の菓子と、兄の好物のさつまいも料理。
食べてもらえなくても、届ける事はできなくとも心を込めて。
「作り過ぎちゃったな」
厨にずらりと並ぶ兄の好物に、困り眉が更に下がる。
明らかに食べきれない量だ。しまったなぁと思いながらも、心はふわふわとしていて、兄の為に腕を振るえたのがとても嬉しかった。
早くから取り掛かったので、空はまだ高く、日は傾いてすらいない。
ふぅ、と一息ついて、またあっ、と洗濯物のことを思い出した。危ない。取り込まないと。
青空のもと、浮き足立った気持ちが、足取りを軽くする。いつもと同じ家事の繰り返しでも、貴方を想うだけでこんなにも心は軽やかだ。
気持ちよく乾いた洗濯物を抱えて縁側に。お日様の香りがするそれを手早く畳んでいく。
これが終わったら、お茶にしよう。すぃーとぽてとをいただいて、兄上におめでとうと言おう。
たった1人で、秘事のように祝いの言葉を。想いよ届けと願いながら囁くのだ。心に描くのは、兄の笑顔。
それでーー
「会いたいな」
不意に。
するりと、こぼれ落ちた。本音。
一瞬、瞬きするほどの間だけ止まった手は、すぐにまた淀みなく動き出した。
ーーうん。会いたい。兄上、会いたいです。
貴方の生まれた日に、目を見ておめでとうと言いたかった。いや、違うな。ううん。そんなのはどうだっていいんだ。ただ会いたい。
笑い合って、触れ合って、ただ一緒に居られれば。
「なんだっていいんです。兄上」
なんてね。そう付け加えながら畳み終えた手拭いを持って立ち上がる。
滲んでぼやけた視界には気づかないふりをして。零れ落ちてしまう前に、上を向く。
さぁ、お茶にしよう。
お祝いは笑顔で言わなくちゃ。涙など乾いてしまえ。
そうだ、お客様に出す良いお茶を煎れちゃおうかな。
暗くなる前に、さつまいものお礼にすいーとぽてとをお分けしに行こうかな。それから…
あ、あの鴉、要に似てるなぁ。
玄関が勢い良く開く音と、闊達な帰還の挨拶が響くのは、すぐ。