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    cannyoooli

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    cannyoooli

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    せんみち描き下ろし杏千小説です。

    『ここにいない貴方へ』の続きです。
    長くなりすぎて、前後編になりました。今回は前編のみです。

    兄上が超絶モダモダしています。
    誕生日の幸せな記憶を振り返り、覚悟を決める(はず)の話。
    兄上目線。🦋さんと🍡ちゃんが少し出ます。

    #せんみち
    theWayOfTheWorld
    #杏千
    apricotChien

    覚悟・前編 入梅とともに、重く垂れ込める雲の闇に紛れて暗躍する鬼の目撃情報が増えた。長くなった日の合間を縫う様に、狡猾に、奴らは人を襲う。呼応するように任務も慌ただしさを増していった。
     その日も、大気が孕む水分が滲み出た様な、やわらかく、息苦しいほどに纏わりつく霧雨だった。
     降っては止み降っては止み、ここ数日繰り返し大地に浸み込んだ雨粒は、泥濘を作り崖を弛ませた。
     ―――だから、このようなことになったのだな。
     重く沈んだ身体と頭で、そんなことをぼんやり考えた。
    「炎柱様!」
     見上げた先を黒い影が覆う。庇った隠の少年だろう。彼らの装束は、真に夜の闇に溶け込んでしまうのだなと、これまたぼんやりと黒い人影を見上げて思った。
    「炎柱様! お気を確かに!」
     覆い被さる様に身を乗り出す少年が、叫びながら傷を確かめるように身体に触れていく。その必死さに微笑み返したつもりだったが、果たして上手く出来たのか。身体が鉛のように重い。
     少年の震えるその手が頭に伸びた時、額と頬に音を立てて降りかかる程に雨粒が大きくなった。同時に、目の前から嚙み殺した嗚咽が微かに聞こえた。
    「ごめんなさい…ごめんなさい…」
     嗚咽と共に漏れ出た謝罪は震えていた。暖かい雨が降り注ぐ。少年の少し高い声と背格好、それに押し殺した泣き方が弟を想起させて胸をざわつかせるものだから、慌てて声を上げる。
     大丈夫だ。君のせいではない。
     言おうとして、声が出ていないことに気が付いた。
    「…炎柱様?」
     人影が見えない。辺りはこんなにも暗かったか。
    「炎柱様!」
     少年の声は、こんなにも小さかったか。
     パタッパタッ。
     涙の雨が降る。ああ、泣かないでくれ。



     千…またお前を泣かせてしまうのか。



     雨の音が聞こえる。優しく降るやわらかい雨の音が。次いで話し声と金属音。どれも危機感を覚えるような部類のものではない。人の手の暖かい体温を感じた。
    「…千…?」
     弟の小さい手。心地よくて、手繰り寄せようと手を彷徨わせたがするりとすり抜けどこかへ行ってしまった。
    「…行くな…」
     行かないでくれ。傍に居てくれ。手を伸ばしても届かない。身体が沈む。
     引きずり込まれる。
    「……さーん、…ごくさー……」
     聞き覚えのある声に、不意に意識が浮上する。
    「煉獄さーん。聞こえますか? 煉獄さーん」
     重い瞼を無理やりこじ開けた。眩しさに耐え焦点を合わせる。
    「……こ…ちょ……」
     咽喉が干乾びた様に張り付いて上手く声が出ない。
    「はい。胡蝶です。ここが何処かわかりますか?」
     薬品の匂いに混じって花の香りがした。頷きながら何度か唾液を嚥下して咳払いを繰り返す。
    「……蝶屋敷だ」
     何とか聞き取れる大きさに声を絞り出す。その様子を見て蟲柱は美しいかんばせをにっこりと微笑ませると滔々と語りだした。
    「はい。そうですよ。煉獄さんは隠の方を庇って崖崩れに巻き込まれたんですよ。覚えておいでですか? 頭を少し打っているのと、左肘を強打しています。軽い脳震盪と肘は罅か骨折か。どちらにせよ悪い状態ではありません。柱ならば軽傷です。呼吸で何とかしてください。それよりも重篤なのは寝不足です。聞きましたよ、ほぼ五徹だそうじゃないですか。いけませんね。連日の雨に打たれて体力低下と軽い低体温症も。わかりますか?」
     一気に捲くし立てられ、理解が追いつく前に威圧感に頷いていた。大したことはないようだ。
    「あ。今大したことないなって思いましたね? 駄目ですよ。そうやって自分を軽んじては。いい機会ですので、しっかり休息を取って頂きます。眠れるお薬を打ちましたので、しっかり寝て回復してくださいね」
     見上げた額に青筋が見える。異論は挟めそうにない。
    「…胡蝶…千には……」
     また瞼が重くなってきた。身体は変わらず鉛のように動かない。
    「わかっていますよ」
     威圧的な笑顔が揺らいで寂しげな形に変わる。その口元に人差し指を当てた姿を確認して、炎柱は意識を手放した。




     声を殺して泣いている弟の小さな背中が見えた。震える肩に手を伸ばしかけて思いとどまる。わかっている。俺が触れていいものではない。
    「兄上…兄上…」
    「千…」
     嗚咽に紛れて零れ落ちる…救いを求めるような声音だった。ふらりと吸い寄せられるように身体が傾ぐ。お前を泣かせたくない。どんなことからも守ってやりたい。抱き締めようと広げられた手は、しかし触れることはなかった。泣かせているのは俺なのだから。俺の身を案じ、いつも仏前で母に祈っていた。怪我の手当をする指は震えていた。気丈に送り出してくれる笑顔の陰で、声を殺して泣いていたのを知っている。
     柱になってからの激務を言い訳に、実家の門をくぐる回数は減っていた。帰りたかったが帰らないようにしていた。千寿郎の負担を、少しでも減らしてやりたかったのだ。父との暮らしを心配しなかったわけではない。だが、血濡れの俺の世話よりも、千寿郎には出来るだけ心穏やかに過ごして欲しかった。だから胡蝶にも、余程の事がなければ、ここに担ぎ込まれるような事態になっても千寿郎に連絡はしないでほしいと頼んでいた。
     千寿郎と俺をつなぐものは、今は手紙のやり取りばかりだ。本の感想や、日常の些細な小さな幸せ、季節のこと、千寿郎の手紙はそんな、穏やかな笑顔が垣間見える、俺にとっては幸せを具現化したようなものだった。俺は、これだけでいい。お前の優しい言葉があれば、それだけで十分だ。
    「ほんとに?」
     小さな背中が言った。項垂れて、涙を拭っていた手はだらりと下げられている。
    「ほんとに?」
     また。俺は何も答えられない。
    「ねぇ、兄上、本当に?」
     弟がゆっくりと振り返る。
    「僕、知っているんですよ」



     雨の音がする。辺りは暗く、常夜灯に照らさせた人影が大きく揺らめいた。
    「…あら? 起こしてしまいましたか? やはりいくら強い薬でも、柱には効きが悪いですねぇ」
     お薬足しておきますね。軽やかな胡蝶のささやくような声が、夜の闇に溶けていくようだった。
    「…夢を見た…」
    「良い夢でしたか?」
     作業の手はそのままに、患者の妄言に微笑みで返す。千寿郎は泣いていた。杏寿郎は手を触れることすらできず、更に―。
    「いや…」
    「それは残念でしたね」
     夜だからか、雨音が大きく聞こえた。胡蝶の処置の音も、いやに大きく響く。
    「…千寿郎は知っているんだそうだ…俺の…」
     最後まで語られることなく、消え入る様に尻すぼみに声が途切れて消えた。
    「…煉獄さん?」
     途切れた会話の続きを追って胡蝶が覗き込んだ時には、すでに杏寿郎は夢の中だ。
    「…おやすみなさい。煉獄さん」
     今度こそ、いい夢を。



    「誕生日は特別ですよ!」
     甘露寺の闊達な声が響く。そうだ、だから、俺は会いに帰ってしまったんだ。特別だと言い訳して。



     元継子である恋柱と昼食を共にしたのは、まだ桜の頃だった。その日は肌寒く、何杯目かの温かい蕎麦を啜っていた。健啖家の杏寿郎よりも、もちろん恋柱、甘露寺蜜璃の方が目の前に積み重なった杯は多い。更に追加で注文をして、卓上に据え置かれた急須から茶を注ぎ足しながら、蜜璃は言うのだ。
    「煉獄さん、誕生日っていつですか?」
     聞き慣れない言葉に一瞬考え込んだが、
    「生まれた日のことか? 五月だ」
     すぐさま答えて、蜜璃から受け取った茶を啜った。
    「わぁ。もうすぐですね! この間本で読んだんですが、なんでも西洋では生まれた日をお祝いする風習があるんだそうですよ。ご存知でしたか?」
    「いや、知らんな」
    「大切な人や近しい人とご馳走を食べて、贈り物をいただいて、お祝いしてもらうそうです! 素敵だと思いませんか~!」
     夢見るような溜め息、うっとりとした眼差し、ふわふわとした彼女の明るい声が、昼時の混み合った店内の喧騒に溶けていった。
    「なるほど、それは楽しそうだな。だが、我らには難しそうだ」
     穏やかに同意しながらも、杏寿郎はすぐさま否定の言葉を口にした。鬼殺隊は暦で動いているわけではない。生まれた日だからと、容易に暇を貰うのも簡単ではないだろう。柱ならば尚更。蜜璃もそれはもちろん心得ていて、残念がることもなく頷く。
    「ですよね。それはもちろんわかってるんですが、ちょっと、何も大仰な事をしたいと言うわけではなく、ほんとにちょっと、特別なことくらいは良いかなって、思いまして~! 大切な人と過ごすとか! ただ御飯を一緒に食べるだけでも…家族ととか、友人……おっ…想いを寄せる方…とか! きゃあ~言っちゃったわ~っ!」
     慌ただしく顔の熱を手で扇ぎ、ひとしきり言葉にならない奇声を上げてから、甘露寺はもじもじと指を擦り合わせ、桃色の頬を震わせて小さく付け足した。私も、誕生日が近いので…。その夢を見ているような潤んだ瞳の先にいるのは、彼女に靴下を贈った彼なのかもしれない。そうであったら良いのになと、繊細で真面目な同僚に心の内で呟いた。
     特別なこと、家族、想い人。甘露寺の言葉に真っ先に浮かんだのは弟の姿だった。柔らかい笑顔、疑いのない信頼、伸ばされる手。
     会いたい。桜を見に行こうと約束した時の、切ない笑顔が浮かぶ。叶えられないとわかっていても笑って頷いてくれる弟の健気さ。反故にしてしまった約束たちを思うと、その数だけ弟を悲しませてきたのかと思うと、胸が締め付けられる思いだった。大事にしてきた。それこそ生まれた時から。誰よりも。
    「煉獄さんは、そんな特別な時間を過ごせる方、いらっしゃいますか?」
     高揚した気分のまま甘露寺が大胆な質問をしてきた。暗に恋人の有無を聞いてしまったのだと本人もすぐにはっとして、「はしたないことをお聞きして…」と口ごもる。
    「ははは。気にするな! 俺はそうだな、叶うことなら千寿郎と過ごしたい」
     鷹揚に笑うと杏寿郎は答えた。甘露寺は継子として煉獄家に世話になったこともある。千寿郎のことはよく知っていたものだから、杏寿郎の返答に嬉しくなって頬を緩ませた。
    「千寿郎君! しばらくお会いしてないわ…お元気かしら…大きくなったんだろうなぁ」
     記憶の中の千寿郎に思いを馳せる甘露寺に、杏寿郎も懐かしさを覚えた。甘露寺が継子だった頃は三人で過ごすことも多かったのだ。共に茶を啜り、千寿郎の作った甘味に甘露寺が歓喜することもあった。
    「ふふふ。本当に、仲が宜しいんですね。素敵だわ」
     甘露寺が嬉しそうに笑う。
    「ああ、いつも支えて貰っている。感謝ばかりだ」
     答えて、共に微笑んだ。
     心の底からそう思っている。本当に。
     だが、本当は。
     本当は、千寿郎。兄が抱える思いは、もうそれだけではないのだ。
     
     
     
     いつまで、見ないふりをしていられるだろう。本当はとっくに気づいていた。だが、見てはいけないものだった。気づいて認めてしまうわけにはいかなかった。でも、どうしても手放せない。それでもうまくやっていたはずだった。考えても仕方のないことだ。どうにもできないことだ。だから考えない様にしていた。大切だという気持ち以外は見ないふりをして、考えない様にして、何とかそれでやり過ごせていたのに。
     千寿郎の成長と共に、心が、身体が、反応してしまうのを抑えられない瞬間が増えた。眩しい四肢、成長期に見せる曖昧な美しさ。それは花ひらくように。
     だから、忙しさにかまけて帰省を先延ばしにした。千寿郎の負担云々ではない。自分の為だ。千寿郎の望む兄であり続けられるかわからなくて、会うのが怖かった。
     なのに。
    「誕生日は特別ですよ!」
     煉獄さんも楽しんで下さいね! 別れ際、甘露寺の笑顔に背中を押されて、我慢し続けてきた心が救いの声を上げた。会いたい気持ちが募って、寝ても覚めても弟の姿が浮かぶ。思いが溢れてしまうのではないかと危惧して軽率に文も飛ばせず、頻度の減った実家とのやり取りに要にも心配もかけてしまった。
     思った以上に自分が誰を欲しているのかを思い知らされて、むしろ辟易し始めた頃、誕生日当日を迎えたのだ。
     任務が立て込んでいた。だが、その一つが思いのほか早く片付き、次の任地に赴くまでに少しの暇ができたのだ。休息を取るべきだということはわかっていた。だが、少し無理をすれば会えるかもしれないと考え至ってしまったら駄目だった。
     今日は誕生日。特別が許される日。
     帰省に喜ぶ愛しい笑顔が浮かんだら。
     足は既に、実家へと踏み出していた。
     
     
     
    「ただいま戻りました!」
     いつものように帰還の挨拶を上げる。屋敷の奥からガタンッと大きな音の後、次いでドタドタと走る音が近づいてくる。軽い音、千寿郎に他ならない。普段の千寿郎は所作が美しい、足音も立てない。余程慌てさせてしまったと見える。それもそうで、帰省の連絡もなしに帰ってくることなどほとんどなかった。いつも知らせを運んでくれている要は、今頃庭木にでもとまって羽を休めていることだろう。
     程なくして、息を弾ませ頬を上気させた弟が顔を覗かせた。
    「千寿郎、ただいま」
    「兄上、お帰りなさい」
    「突然帰ってきてすまない。驚かせたな」
    「いえっ、そんな。…あっ、お帰りなさいませ、兄上」
     立ち尽くして挨拶を交わしていたことにはっとして、千寿郎は慌てて膝をついて挨拶しなおした。
    「そんなに畏まらなくていいと、いつも言っている」
     杏寿郎は苦笑して千寿郎の頭を一つ撫でると、床についた手を取り立ち上がらせた。
    「息災だったか、千」
    「はい。変わりありません。兄上こそお怪我はありませんか?」
    「ああ、大丈夫だ。父上は?」
    「今日は出ておられます。夜までお戻りになりません」
    「そうか……。千寿郎、少し背が伸びたな、見違えたぞ」
    「ありがとうございます」
     繋がれたままの兄の大きな手を柔く握り返しながら、千寿郎は照れ臭そうにはにかむ。杏寿郎は、遠慮がちな弟のそんな仕草に愛し気に目を細め、小さなその手にもう片方の手を重ね、そっと包み込んだ。宝物に触れるように、そっと。
     すると千寿郎は見る見る顔を赤くして、逡巡する素振りを見せた後、ぱっと手を離してしまった。更に両手を後ろ手に隠し、もじもじと擦り合わせる。
     離れてしまったぬくもりを残念に思いながらも、そんな千寿郎の仕草をどうしようもなく嬉しく感じてしまっているのだから、自分はもう、本当にどうしようもないのだなと、杏寿郎は独り言ちる他ない。
    「あ、兄上、お疲れでしょう。すぐ湯の支度をします。少しお待ちいただけますか」
     そんな兄の胸中など知る由もなく、赤い顔の千寿郎が動揺のまま早口に言った。視線は杏寿郎のベルトで、兄の顔は直視できないようだ。
    「いや、風呂はいい。すまない。夕刻には出なければならない。あまりゆっくりしていられないないんだ」
     ぴたりと、千寿郎の動きが止まる。何かを言おうと開かれた唇からは声になれなかった呼吸音が漏れるだけで。更には眉がみるみる下がり瞳が色を失っていく。ありありと見て取れる落胆に、杏寿郎は慌てて言い募った。
    「忙しなくてすまない。だが、どうしてもお前に会いたくてな…。無理を押して帰ってきてしまった。自制できなかった不甲斐ない兄を笑ってくれ」
     苦く笑って、千寿郎のなめらかなまろい頬を指の背で撫ぜた。千寿郎は潤んだ瞳を伏せ口を引き結ぶと、幼子のように自分からもその手に頬を擦り寄せた。
    「兄上…そんな、謝らないで下さい。千は嬉しいです。兄上にお会いできて…一緒に過ごせる以上の幸せはありません」
     千寿郎の浮かべる笑顔が、たとえ少々無理のあるものだと分っていても、優しい微笑みに杏寿郎は安堵した。悲しませたかった訳では無い。
    「そうだ兄上! 夕刻までにはまだ少し時間があります! お食事を召し上がって行って下さいませんか? もうほとんど支度は済んでいて、飯が炊ければすぐにお出しできますので!」
     名案だと、期待に満ちた瞳で鼻息荒く身を乗り出す姿は必死そのもので。先程の落胆したしおらしい姿とは打って変わって愛らしいその様に、杏寿郎は眼尻を下げて快諾した。



     杏寿郎は茶を一啜りして、初夏の陽気の庭を眺めていた。忙しなく千寿郎に自室に押し込められ茶を出され、「兄上はお疲れなんですから、準備ができるまでお休みになっていて下さい!」と、待機を命じられてしまったのだ。
     杏寿郎としては千寿郎の側に張り付いていたいくらいだったのだが、ああいう時の千寿郎はいやいやどうして、いつもの優しげな様子からは伺えないが有無を言わせないところがある。ただ単に千寿郎に弱いだけかもしれないが、強気に眉を吊り上げる可愛い顔に語気強く言われてしまうと、どうしても了承してしまうのはなぜだろうか。
     最近、母上に似てきたように思える。
     顔や性格と言うよりは、ふとした時に見せる凛とした姿勢だろうか。不思議なものだ、千寿郎に母の記憶はさほどないというのに。
     あの優しげな瞳に強く静かに見つめられると、見透かされそうにさえ思う。そう。何も、かも。
    「………」
     静かに息を吐きだして、杏寿郎は思考を切り替えた。考えてはならぬことだ。
     いい陽気だ。さやかに吹く風が心地良い。千寿郎が丁寧に衣桁に掛けてくれた羽織を優しく揺らしていた。
     久方ぶりの自室は掃除も行き届き整えられ、まるで昨日まで自分が居たかのようだ。清々しく淀みない空気、閉め切られた独特な閉塞感など微塵も感じられなかった。自分が居ない間も、千寿郎の手によってこまめに風が通され清められていたことがうかがえ、杏寿郎は自然と胸が暖かくなるのを感じた。
     あの子は俺を支えようと、俺のために常に心を砕いてくれている。
     じんわりと胸中を支配する、喜びとも焦りともつかない心そのままに見やれば、ふと文机の片隅に、一輪の菖蒲が飾られていたのに気がついた。美しく咲き誇り美しい。
     ___こんな事まで。
     いつ帰るとも知れない自分の為に。いつ帰ってもいいように季節の花を。
     ただ一人、杏寿郎だけを想って飾られたであろうことに思い至ると、先程までの慈愛に満ちた暖かさが焼けるような熱さに変わった。愛しさに焦がれ苦しいほどに。
     この花を生けるとき何を想っていたのだろう。その小さな背を思い浮かべたら、もう居ても立ってもいられなくて。杏寿郎は驚く速さで即座に厨へ向かっていた。
     
     
     
     厨では、千寿郎が所狭しと動き回っていた。高く括られた髪の先がふわふわと、戯れる子犬の尻尾のようによく揺れる。
     その可愛らしい様を愛しげに見つめると、先程の勢いは凪ぎ、杏寿郎は声を掛けることなく柱に背を預け少し遠巻きに眺めた。
     米を炊く火加減を見て火力を調節する。そのまま隣の竈で温められている汁物の具合を、蓋の隙間からさっと見てはすぐさま踵を返し、和え物に醤油を振りかけひと混ぜすると小鉢に盛り付け膳に。
     無駄な動きのない流れるような所作に感嘆する。家のことは全て任せてしまっている。年端もいかない少年にだ。本当によくやってくれている。
     千寿郎は、自分を支えることを使命のように感じている節がある。それは刀の色が変わらなかった頃から強く、顕著になった。「出来ることをやるだけです」労る杏寿郎に、千寿郎は常々そう返すのだ。当たり前のことのように。
     そう、させてしまっているのではないかと、心配が募る。年相応ではない所作も、何もかも。無理をさせているのではないか。
     …だからといって、変わってやることも出来ぬのに。
    「兄上!いらしてたんですか!」
     明るい声が深い思考を引き戻した。兄の姿に気づき、慌てて布巾で手を拭いながら駆け寄る姿は平和そのもので。自然と笑みが溢れるままに、笑顔で千寿郎を迎える。
    「休んでて下さいと申し上げたのに…あ。お腹空いちゃいましたか?」
     兄上ったら、と優しく笑う笑顔を愛おしい。離れた場所からでも話は出来たのに、わざわざ手を止めて側まで来てくれる弟の行動が何故かとても胸を締め付けた。まるで、あなたの傍に居たいと言われているようで。
    「もう、すぐにお持ちできますよ。後は配膳だけで…」
     言ってくるりと背を向け、離れてしまおうとする手を咄嗟に掴んでしまった。水仕事で少し荒れた、湿った細い指をやんわりと包む。
    「いつもすまない。家のことは全て、お前に任せてしまっている…。不甲斐ない兄だ」
     先程まで考えていたことがするりと口に出た。許しを乞うような声音だったかもしれない。慌てたのは千寿郎だ。
    「兄上、やめて下さい。兄上の激務は重々承知しているつもりです。僕のやっていることなど、兄上の苦労を思えば」
     兄の手に、千寿郎も手を重ねる。小さいが暖かい手だ。
    「それに、こんな事ばかりしかできませんが、こんな事でも、兄上の助けに少しでもなっているのなら、って」
     そう思うと少しだけ誇らしいんです。出来ることをやるだけですよ。そう言って恥じらいながら笑う弟の笑顔は、嘘偽りないものに見えた。
     それがまた、胸に堪えた。
     千寿郎の刀の色は変わらなかった。その事実が煉獄の男子にとってどれ程の絶望か。だが、千寿郎は諦めなかった。更なる鍛錬を自分に課した。そして、今まで以上に兄を支えるためにと家のことに精を出した。勿論勉学を疎かになどしない。この子の全ての時間が、家の為、兄の為にと使われているのではないかと心配になる。本来ならば、年相応の学友との語らいや、遊びに興じることもあるべき年頃だ。
     だが、杏寿郎自身そう言ったものとは無縁の幼少期だった。父の背中以外には目もくれず剣に明け暮れた。だからこそ千寿郎には、とも思うが、だからこそ自分の背を追う弟には、何も言えないのも事実だった。
     この最愛の弟の幸せはと、杏寿郎は考えずにはいられない。
     手を取ったまま何も言わない兄をどう思ったのだろう。千寿郎は包まれた手を凝視すると、自分の細い指をゆっくりと摩る杏寿郎の指の動きをしばらく目で追い___
    「すぐに!ご用意します!」
     叫ぶように言って手を振り解き、支度へ戻ってしまった。髪の間から垣間見える耳が赤く見えた気がした。
    「ありがとう。千寿郎」
     忙しなく動く背に、杏寿郎は呟いた。



    「よもや!」
     目の前に並ぶ善に、杏寿郎は感嘆の声を上げた。
    「豪勢だな!」
     鯛にさつまいも料理。自分の好物ばかりに童心のように心が躍った。が、お櫃に入った一升もあろうかという芋ご飯に気づいて、流石にこれは妙だと気づいた。杏寿郎は帰還の報せを出していない。思えば厨で用意されていた量が、すでに父と千寿郎の二人分にしては尋常ではなかったように思える。
    「もしや来客の予定でもあったか 量も種類も沢山だった!」
     だとしたら間の悪いことだ。来客用の飯を平らげてしまう訳にはいくまい。だが兄の焦りを他所に、千寿郎は返事をするでもなく途端に顔を赤くして俯き、口籠って言い淀んだ。
    「いえ…その…」
    「どうした? 兄には秘密のことか?」
     その可愛らしい様子に他意無く笑うと、弟は赤い顔のまま慌てて否定する。
    「ちっ、違うんです! そのっ! えっ…と…」
    「ん?」
     決心がつかないのか尻切れ蜻蛉になってしまった言葉の先を促してやる。泣きそうだなと思った顔が、一度深呼吸して今度は挑むような視線を寄越してきた。
    「…笑わないでくださいよ」
    「承知した!」
     表情がころころ変わる可愛らしさに破顔して同意した。そして、目線を彷徨わせながらぽつりぽつりと語る内容に、息を呑んだ。
     誕生日、ここに居ない自分に、祝いの言葉を掛けられずともせめて想いよ届けと拵えられた好物達。
    「あれもこれもと兄上の好きなものを作っていたら、こんな量になってしまって」
     恥ずかしそうに俯いて、でも幸せそうに歯に噛む。お前も、同じに想ってくれていたのか。今日と言う特別な日を、心を寄せて過ごしたいと。一番心安らぐ大切な者の側で。
    「無駄にならなくて良かったです。さ、食べましょう!」
     黙り込んだ兄の纏う空気に居た堪れなくなったのか、千寿郎は少しおどけて明るく言った。
    「ああ、そうだな。味わって頂かなくてはな」
     好物ばかりの、だが普段通りのいつもの拵えだ。だが、杏寿郎の何よりも欲しかった物だ。自分を思って、自分の為に、千寿郎が。それだけで、どんな流行りの洋食よりも、どんな老舗の料亭よりも、杏寿郎には特別で心から美味そうに見えた。
    「いただきます」
     手を合わせ、首を垂れる。静かに噛み締めるような声だった。



     食事を済ませ、陽の傾いた縁側に二人並んで座る。傍らにあるのはこれまた杏寿郎の為にと千寿郎が作ったすいーとぽてとだ、杏寿郎の腹に吸い込まれるように何個も消えていくそれらに、あれだけ食べたのにまだ入るのか、とは千寿郎は言わない。むしろ満足げに、にこやかに茶を足していく。
     だいぶ強くなった日差しの事、学校で起きた先生の失敗話、顔見知りの近況、たわいのない話をして、二人茶を啜る。
    「贈り物を、用意しておけばよかったな…」
     千寿郎が不意に、会話の切れ目にそう呟いた。杏寿郎にと言うよりは本当にただの独り言だったのだろう。小さい嘆息に、紛れてしまうような
     微かな呟きだった。
     贈り物…確か甘露寺もそんなようなことを言っていた。生まれてきてくれた感謝を込めると。
    「お前との時間が、俺にとっては贈り物だ」
     自然と口をついて出ていた。感謝するのはこちらだ。驚いたような千寿郎と視線が絡む。どちらからともなく微笑み合って。
    「今日はありがとう。千」
    「いいえ。兄上、誕生日おめでとうございます」



     迫る夕暮れに、短い逢瀬を惜しみながら別れた。何度も振り返り手を振り合い、幸せとは、こういう事を言うのだなと。暮れゆく空に掻き立てられて、別れた側からもう帰りたいと強く感じた。満ちた心と体がいつまでも暖かかった。
     だが、同時に。
     思っていた以上に、自分の心が重症なのを知った。
     俺は、千寿郎を想っている。弟としてではなく。その事実をはっきりと突きつけられたようだった。
     ただ顔が見たかっただけなのに、少しだけで満足するはずだったのに。千寿郎の気遣いに舞い上がって、照れたようにはにかんだ微笑みに心かき乱されて、もしや同じように千寿郎も想ってくれているのではないかと。そう勘違いしてしまいそうにすら。なって。
     なんとも不甲斐ない。
     こんな想いはだめなのだ。千寿郎の幸せを、平和を乱してしまう。守らなければならない俺が、それではいけない。
     もっと強く蓋をしろ。望んではならない。
     
     
     
    「……そう、わかっていたはずなのに…な」
     雨の音がする。湿気を孕んだ風がふわりと肌を撫ぜていった。意識が浮上しても夢現なのは自分でもわかっていた。
     幸せなあの日を夢に見るなんて。
     あの日から、家には帰っていない。忙しさを理由にするために無茶な任務を進んで引き受けた。それこそ考える暇もないほど。だがそれで良かった。考えてはだめなのだ。考えれば考えるほどにもう。
    「…もう…」
     雨の匂いに混ざって藤の香りがした。気配が動く。だが、瞼は上げられなかった。。
    「…煉獄さん、お目覚めですか?」
     ああ、胡蝶。すまない。どうしても。目が開けられない。
    「もう……何ですか? 何が分っていたはずなのに……なんですか?」
     そうなんだ、もう…。
    「もう…逃げられないんだ…」
     手に小さなぬくもりを感じた気がした。いや願望か。今この瞬間にも会いたいのだ。お前に会いたい。触れたい。千寿郎。それが答えなのか。逃げても、逃げ切れはしないのか。
     温もりを力の入らない手で握りしめる。妄想が作り出した幻覚でも良かった。千寿郎の呼ぶ声が聞こえた気がしたから。



     逃げられないのなら。
     覚悟を決めなければならない。





                        続く




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