『平安』 藤の香を焚く。
それは、兄が鬼殺に出たあの日から千寿郎の日課だった。太陽が沈み切る前に香炉を縁側へ。香の具合を確かめ炎を灯す。家を守るように、屋敷の四方から順に煙が舞った。
残照が照らす空へ、静かに登っていく。風はない。その様を飽くことなく眺めた。
鬼がいなくなって幾らか経っていた。一族の本懐を遂げ喜びに咽び泣いたあの日は、まだ記憶に新しい。なのに尚、それでもまだ平和な夜に千寿郎は香を焚いていた。手が、体が、決まった所作を繰り返す。それは風儀で、生活の一部で、戒めでもあった。何よりこの香りがないとそわそわと落ち着かない。この香りのない夜を千寿郎は知らないのだから、当たり前な話だった。必要のない行為だともちろんわかっていた。だがそうして生きてきたのだ。短くとも、千寿郎の人生の全てに於いて。
父に一度だけ遠慮がちに咎められたが、その一度だけだった。案外、父も千寿郎と想いは同じなのかもしれない。
立ち昇る煙が迫る闇に溶けて見えなくなって、千寿郎はやっと腰を上げた。その日に焚いた香が煉獄家に残された最後の香だった。もう、隠によって補充されることもない。夕餉の膳を囲んだ時にその事を父に告げたが、「そうか」と一言、息を零すような返答があっただけだった。
平和な夜は静かに更ける。風のない春の終わり、香が屋敷に満ちていくのをいつもより深く感じずにはいられなかった。
仏間でする就寝の挨拶も、気づけば恒より時間をかけて語りかけるようで。更に瞑想のように心持ちは凪いでいた。
あの夜。父がお館様の所へ赴いたあの運命の夜も、ここでこうして祈っていた。あの夜の香の濃さを思い出す。藤の香は、千寿郎にとって夜そのものだ。幼い頃より慣れ親しんだ日常の香り。そして、自分を守ってくれる安心の象徴。
兄上、母上、明日から眠れるでしょうか。藤の香なしに。
そんなことを語りかけていたら、うとうとと船を漕ぎだしていた。慌てて辞して、布団をかぶる前に香炉を確かめに行く。これもまた、決められた所作だった。決して火を絶やしてはいけない。立ち昇る煙に安堵して、幼い時分に一人で夜を預かった日々を思い出す。あの頃は、香を絶やしたら鬼が来ると信じて、夜中に何度も確認していたものだった。
「兄上に笑われたっけ…」
そう簡単には消えないからと笑い飛ばしてくれた兄はもういない。そして、もう香を焚くことも今夜で終わりなのだ。
なんとなく離れがたくて、千寿郎はまた煙を眺める。今夜は朧月で視界は悪かった。けれども夜の煙を覚えていたくて、春霞を思わせる煙の揺蕩いに手を伸ばさずにいられなかった。
夢を見た。
兄上がいたので、すぐに夢だとわかった。藤の花がたくさん咲いていて、まるで最終選別の藤重山の様だった。そう言えば先日届いた炭治郎さんからの手紙に、山桜の盛りが終わってそろそろ山藤が咲き始めるとあったな、などと、存外千寿郎は呑気ですらあった。
温い風が優しく吹いて、向かい合って立つ兄の髪を揺らしている。その風が千寿郎を撫でるとき、兄の匂いも運んできて、こんなにも藤の香りで噎せ返るようなのに、しっかりと兄の匂いには反応する自分が少しだけ可笑しくて。
穏やかに微笑む兄に手を差し伸べられて、何の躊躇もなくその手を取った。
「千寿郎」
と呼ばれて、
「兄上」
と返した。
ただそれだけの夢だった。
ただそれだけなのに安堵に満ちて。
兄の笑うと下がる目尻が朧に霞んでいく。夢の終わりを感じながら、安らぎを噛み締めた。
兄上、貴方は、俺の平安そのもの。
空が白み始めていた。
夜明けが早くなったとは言え、縁側で夜明かししてしまったらしい。体には分厚く大きな羽織がすっぽりと掛けられていた。どうりで暖かい夢が見られた訳だ。
香炉から立ち昇る煙はだいぶ細く薄くなっていて、消えてしまうまでもう幾ばくもないのだろう。その時、床が軋む音がした。父だ。
「風邪を引くぞ」
薄暗い中、一重姿で所在無げに立つ父の姿は気配が薄く、心配して羽織を詫びる千寿郎を制してそれだけを言うと、父は千寿郎に習って香炉を見つめた。
「欲しいのなら、調達してくることもできる」
名残を惜しんでいると思っての言葉だろう。確かにそうだった。だが、千寿郎はかぶりを振る。
「いえ…いいんです」
千寿郎なりの決別だった。新しい夜明け。皆で勝ち取った平安へ向うための。
それ以上父は何も言わず、ただ二人で最後の煙を見送る。その向こう、明けゆく黎明の空に明日を重ねて。