『平安』 藤の香を焚く。
それは、兄が鬼殺に出たあの日から千寿郎の日課だった。太陽が沈み切る前に香炉を縁側へ。香の具合を確かめ炎を灯す。家を守るように、屋敷の四方から順に煙が舞った。
残照が照らす空へ、静かに登っていく。風はない。その様を飽くことなく眺めた。
鬼がいなくなって幾らか経っていた。一族の本懐を遂げ喜びに咽び泣いたあの日は、まだ記憶に新しい。なのに尚、それでもまだ平和な夜に千寿郎は香を焚いていた。手が、体が、決まった所作を繰り返す。それは風儀で、生活の一部で、戒めでもあった。何よりこの香りがないとそわそわと落ち着かない。この香りのない夜を千寿郎は知らないのだから、当たり前な話だった。必要のない行為だともちろんわかっていた。だがそうして生きてきたのだ。短くとも、千寿郎の人生の全てに於いて。
1892