【キャプテン・ロドリーが伏せった日】 朝晩の肌寒さが一段と増してきた、十一月の半ば。もうそろそろ秋も終わりに近づいた頃の、ある日の事だった。
デジタルアラーム時計の電子音で目が覚めた。もぞもぞと布団から手を伸ばし、いささか乱暴に叩いて止める。布団の中は、どうしてこうもあたたかくて、心地良いんだろう。まだ眠い、このままもう少し寝ていたい――そんなワガママな気持ちが膨らむ。
けれど、今日も今日とて、フライトの予定がある。代表さんが新しく始めた『お仕事』のため、搭乗の手配をして、直行便を飛ばさなくてはいけない。僕たちは大事な職務に就いているのだ。再び訪れた眠気に負けそうになる瞼を開け、僕は大きな欠伸を一つしながら、ゆっくりと身を起こした。
暖房をつけていない寝室は、ひやりとしている。肌寒さにふるりと体が震えた。隣で一緒のベッドに潜り込んでいるロドリーは、僕に背を向けて、まだ夢の中だ。珍しく布団の中にすっぽりと埋もれている。ロドリー、と声をかけても、彼からは何の反応も返ってこなかった。
朝ご飯の準備をしていたら、そのうち起きてくるかもしれない。ロドリーが僕より遅く起きる時は、だいたいそうだから。もう一度大きな欠伸をしながら、僕はベッドから出た。
洗濯カゴの中の衣類を洗濯機に放って、液体洗剤を投入する。蓋を閉めてスイッチを入れれば、洗濯機は今日も元気よく回り出した。
キッチンへ向かい、冷蔵庫の中から卵を二つ取り出す。今日は目玉焼きだ。薄く油を引いたフライパンを温め、縁でコンコンと叩いて卵にヒビを入れ、ぱかり、と割り入れる。その瞬間、なんともいい音が響き渡った。
合間に食パンをトースターにセットする。黒いボディをしたそれは、一枚ずつしか焼けないという欠点があるので、いつもロドリーの分から先に焼くのだ。
フライパンに目をやれば、黄身は程よく固まってきている。目玉焼きは時間をかけずにすぐ出来るから、忙しい朝にはちょうどいい。作るのも簡単だし。僕はお皿を二枚取り出して、お互いの分を取り分けた。
ふと、なかなか起きてこないロドリーの事が、少し心配になった。どこか具合でも悪いのだろうか――そういえば昨日の夜、なんだか顔色が優れなかったような気がする。その事を急にふっと思い出し、じわりと湧いてきた一抹の不安に、胸がざわついた。
トースターが焼き上がりを知らせる音を響かせた。僕は熱さを堪えながら、焼きたてのトーストをお皿に取った。そしておもむろに、寝室の方を見る。数秒ほど待ってみても、やはり向こうからは、うんともすんとも聞こえてこない。こちらへ来る気配すら感じられず、それが不安をさらに煽り立てた。
僕はぐっと空気を呑み込むと、おそるおそる寝室へと踏み入れた。ロドリーはまだ布団の中に埋もれている。微かに震えだした手で、その膨らみをそっと揺すった。
「……ロドリー、もう時間だよ。起きられそう?」
慎重に声をかけると、ようやく、ロドリーが初めて何かしらの反応を示してくれた。布団の中でもぞもぞと身動ぎをし、すっぽりと隠れていた頭を半分ほど覗かせる。まだ眠たいのだろうか、彼の顔はいつもより険しかった。
「……モーリー」
ゆるゆると瞼を開け、ロドリーが掠れた声で僕の名を紡ぐ。彼はしばらくぼんやりと、どこかを見つめていた。その様子に、僕は『おや?』と思う。なんとなく、目の焦点が合っていないような気がするからだ。
「……ああ、ごめん。今、起きる」
気怠さを帯びた、重たい声だった。
いつもよりもゆっくりと、怠そうに身を起こしたロドリーを見て、僕はひどく驚いてしまった。――顔色がすこぶる悪い。なのに頬は真っ赤で、唇はかさかさに乾燥している。またしてもぼんやりとどこかを見つめる彼の瞳が、とろりと熱を帯びて潤んでいるのがわかった。
まさか、と思い、僕は咄嗟に、自分とロドリーの額に手を当てる。その温度差にまたしても驚いた。彼に当てた方の手の平は、燃えるように熱かったのだ。
「えっ、まって!? すごい熱!」
「……ねつ?」
「そうだ、えっと、体温計!!」
僕はばたばたと寝室の中を駆け回り、あちらこちらをひっくり返して体温計を探す。
ようやく見つけた体温計の電源を入れ、ロドリーに手渡す。怠そうな手つきでそれを脇に挟んだ彼とともに、待つ事数分。ピピピ、と規則的な間隔で電子音が鳴る。そして、彼から受け取ったそれを見て、僕はたまらずに息を呑んだ。
――三十八度三分。
高い数値を叩き出した体温計を前に、さぁ、と血の気が引く。不安と焦燥で打ち立てる心臓の音がうるさく響いた。
けれど、ここで僕が取り乱したところで、状況が変わるわけではない。何よりも、ロドリーの体に障ってしまう。それはいけない、と僕は小さく首を振った。まずは落ち着いて、今するべき事を考えなければ――。
重く募る不安な気持ちをどうにか押し込めて、僕は一度深呼吸をする。それから慎重に口を開いた。
「ロドリー、今日は仕事を休もう。たぬきち社長には、僕から連絡しておくから」
「……でも、フライトがある、だろ。休むわけには……」
「気持ちは分かるけど、今のロドリーに操縦なんてさせられない。それに、住民さんやクライアントに移したら、もっと大変な事になるんだよ」
明らかに体調を崩しているのに、それでもなお、ロドリーはフライトに向かおうとしている。それだけ自分の仕事に誇りを持っているのだ。それは痛い程わかる。けれど、こんな状態で、安全な運航など出来るわけがない。ましてや乗客の命を預かる仕事だから、なおさらだ。僕はどうにか説得して、起き上がろうとした彼をその場に引き止める。
しばらくの攻防に体力を消耗したのか、ロドリーはふらふらと再びベッドに沈み込んだ。僅かに顔を顰め、何度か小さく咳をする。痛々しそうな彼の様子に、チク、と胸が痛んだ。やっぱり今日は、一日安静にさせなくてはいけない。
僕は寝室の隅に置かれたチェストから、タオルを取り出した。ベッドサイドに椅子を持ってきて、そこに腰かける。そして、顔色の悪いロドリーをそっと覗き込んだ。
「ねえロドリー、今日は本当に無理しないで。一日や二日仕事を休んだって、誰も怒らないよ。……また治ったらさ、ロドリーが飛行機で飛んでるところ、見せてほしいな」
出来るだけ穏やかに、落ち着いた声で言って、汗ばむ額に貼りついた前髪をかき分ける。ロドリーは辛そうな呼吸のまま、僕をおもむろに見上げるように視線を合わせた。熱で潤んだやや垂れ目の瞳が、とろけるように僕を見つめる。いつにも増して艶めいている――けども、今はそんな事を思っている場合じゃない。
「……すまない」
掠れ気味の低い声で申し訳なさそうに呟き、ロドリーは眉を下げた。きっと彼は、自分がこんなにも弱っている事で、僕にも周りにも迷惑をかけていると思っているんだろう。僕はそんな事ないよ、というように、ゆるく首を振った。
「謝らないでよ。体調を崩しちゃうのは、誰にでもある事なんだからさ」
そう言いながら、先程取り出したタオルで、額に滲む汗をそっと拭い取ってあげた。あとで濡らしたやつを持って来なくては。ますます眉を下げ、申し訳なさそうな顔をするロドリーに、僕は安心させるべくにこりと笑いかけた。
「今日のロドリーの仕事は、薬を飲んで、あったかくして、ゆっくり休む事。最近忙しかったから、疲れが溜まっていたんだよ。……あ、そうだ、ご飯は食べられそう?」
薬で思い出したけど、そういえば、朝ご飯の事をすっかり忘れていた。そして、薬を飲ませるには、何かしらお腹に入れないといけない。念のため食欲があるか確認すれば、ロドリーは微かに首を振った。無理かも、と弱々しい呟きがこぼれ落ちる。
「そっか……。でも、薬を飲むなら、ちょっとでも何か口にした方がいいよね」
そうと決まれば、善は急げだ。
まずは洗面所に向かい、洗面器に水を張る。タオルを浸して強く絞り、再びそれを抱えて寝室へ。サイドテーブルにそれを置いて、今しがた濡らしたタオルを、そっとロドリーの額に乗せる。ひやりとした感触が気持ちいいのか、それまでしんどそうに歪んでいた表情が、僅かにふっと和らいだ気がした。
キッチンには、すっかり冷めきった二枚の目玉焼きと、固くなってしまったトーストの乗ったお皿が置き去りにされたままだった。僕はそれらを急いで口の中へ詰め込み、咀嚼もそこそこに飲み下す。途中で詰まりかけた喉には、グラスに水道水を汲んで、半ば無理やりに流し込んだ。
慌ただしく、けれど極力物音を立てないよう気をつけながら、僕は簡単に身支度を済ませた。
それから案内所に電話をかけた。ロドリーが体調不良で伏せってしまった事、今日は一日飛行場を開けられない事を伝える。二人して急な欠勤となったにも関わらず、たぬきち社長は事情を聞くや否や、『こっちの方は全然気にしなくていいからね。お大事に』と快く了承してくれた。なんとも懐が深いひとだなぁ、と改めて思う。
無事に連絡も終え、僕は財布と玄関の鍵を引っ掴む。そして最後に、ロドリーのスマホを枕元に置き、そっと彼に声をかけた。
「ちょっと出かけてくるね。ロドリーはゆっくり寝てて」
そうして寝室を後にしようとした時、ふいに、上着の裾が軽く引っ張られた感覚がした。
そちらに目をやれば、辛そうな呼吸を繰り返すロドリーが、熱に潤んだ瞳で僕を見つめている。布団から伸びた手が、上着の裾を摘まんでいた。きっと、傍にいて、と言いたいのだろう。病気の時は、どうしても不安になってしまうものだから。
本当なら、このままロドリーの傍にいてあげたかった。けれど、今この家には、彼が口に出来そうなものは何もない。先程の身支度の途中で薬も探してみたが、残念ながらそれも見当たらなかった。彼を少しでも楽にさせてあげるのに、必然的に買い出しをするしか方法がないのが、悔しく思えてしまう。
「ちょっとの間、一人にさせるけど、ごめんね。でも、すぐ戻ってくるから」
ね? とロドリーに優しく声をかけながら、そっと彼の頭を撫でる。高熱のせいで少し温くなり始めていたタオルを濡らし、冷たさが戻ったそれを額に乗せた。
「……ん、わかった。気をつけてな」
ふ、と微かに笑みを浮かべ、ロドリーは呟くように言った。名残惜しそうに、上着の裾を摘まんでいた手が離れていく。ああ、彼は、こんな時でさえも僕の身を案じてくれるなんて。その優しさがじんわりと沁みた。
「ありがとう。枕元にスマホがあるから、もし何かあったらすぐ連絡してね。――じゃあ、行ってきます」
ロドリーに見送られながら寝室を後にして、玄関を出た。
時刻は八時過ぎ。日差しが柔く照らしているが、吹きつける秋風は冷たい。今日も肌寒い一日になりそうだ、と思いながら、僕はやや駆け足でお店へと向かった。
* * *
あれも、これも、と買い込んで膨らんだ紙袋を抱え直し、玄関の鍵を開ける。中に入ると、シンと静まり返った空間が僕を出迎えた。自分の足音がやけに響き渡る。
キッチンに向かう前に寝室を覗けば、熱に魘されているロドリーの苦しげな呼吸が聞こえてくる。痛々しいくらいに弱りきって辛そうな彼の姿に、不安と心配で押しつぶされそうになった。代われるものなら、今すぐにでも代わってあげたい。
少しでも早く苦しさを和らげてあげたくて、僕は急いでキッチンへ向かった。紙袋の中から、先程買ってきたものをダイニングテーブルの上に並べる。アイス、プリン、ゼリー、レトルトのお粥、ミネラルウォーターに、リンゴが三つ。あとは額に貼る冷却シートと、一番忘れてはいけない、薬。
タヌキ商店で扱っているこの薬は、例えば風邪や軽い怪我だったら、これを飲めば一日か二日で良くなる。僕たちがこの島に来てから、何度かお世話になっているので、その効果は実証済みだ。しかもDIYレシピも存在するのだから、まさに万能薬と言ってもいいのかもしれない。……とはいえ、さすがに大きな病気や怪我は、これだけでは無理らしい。
「……これで少しは良くなるといいんだけど」
薬の入った白い処方袋に書かれた説明文に目を通しながら、ぽつりと呟く。ロドリーは僕よりも体力はある方だから、おそらくはこれだけで大丈夫だとは思うけれど、万が一良くならなかったら病院に連れて行く必要がある。そんな事態にはなってほしくない。
ひとまず、薬を飲ませるには、ロドリーに何かを食べさせてあげなくては。
卵か鮭の味があるやつか、あえて白粥か。パッケージを前に少しだけ迷った挙句、一番シンプルな白粥をチョイスした。今の彼には、それが一番胃に負担がかからないと思ったからだ。器に移し、電子レンジで二分半ほど温める。
その間に、木製のスプーンとミネラルウォーターのペットボトル、薬を準備する。箱から冷却シートを一枚取り出し、温め終わったお粥をトレーの上に乗せ、それらを慎重に寝室へと運んだ。
サイドデスクに一旦トレーを置き、ロドリーの額から、すっかり温くなったタオルを外した。熱で赤く染まったそこに、薄いフィルムを剥がした冷却シートを貼る。その途中、何回か乾いた音で咳き込んだ彼が、のろのろと瞼を開いた。
少し虚ろな視線が寝室の中を彷徨い、やがて僕の姿を捉える。すると、ロドリーは安心したようにふっと笑った。
「……モーリー」
「ただいま。ごめんね、遅くなって」
ベッドサイドの椅子に座りながら、僕はそっと声をかける。
「お粥買ってきたよ。薬を飲む前に、ちょっとでも食べた方がいいと思うんだけど……。どう? 起きられそう?」
「……ん、起きる」
ロドリーはふらふらしながらも、力の入らない体をなんとか起こした。すかさず支えてあげたその体は、ひどく熱い。ぐったりと重く、怠そうだ。相当しんどい事が窺える。まずは水分を、と思いミネラルウォーターを渡すと、彼は一口ずつ喉を潤していった。
「ほんのちょっとでも、食べられるといいんだけど……」
器の中身を軽くかき混ぜ、とろとろの真っ白なお粥をスプーンで掬う。ロドリーが舌を火傷しないよう、何度も息を吹きかけて冷ました。普段こういう事は慣れていないので、少し緊張してぎこちなくなってしまったものの、こぼさないように彼の口元へと差し出す。
ロドリーが小さく口を開け、一口目のお粥を口にした。ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだのを確認して、僕はもう一口差し出してみる。これもまた、ゆっくりではあるが、無事に食べられたようだった。続けて三口目、さらに四口目……と、お粥を運ぶ。彼が思った以上に食べられている事に、僕はひとまず安堵を覚えた。
お粥が少しばかり減ったように思う頃、次の一口を掬おうとしたところで、ロドリーからストップの声がかかった。片手で口元をおさえながら、緩慢な動きで首を振る。
「……モーリー、ごめん」
「わかった。じゃあ、お粥は終わりにしよう。薬飲もうか」
処方袋の中から取り出した白い錠剤を二つ、ロドリーの手の平に乗せる。手渡したミネラルウォーターでそれを流し込んだ彼は、気怠げに長く息をついた。ずっと起きているのが限界だったのか、ふらふらと沈み込むように体を横たえる。
「ありがとな、モーリー……」
こちらに顔を向けながら、ロドリーは弱々しそうに笑った。お粥を口にしたおかげか、先程よりほんの少しだけ、顔色が良くなったような気がする。僕は彼の髪を梳くように撫でた。
「どういたしまして。あとはゆっくり休んでね。今日は一日、僕が傍にいるから」
小さく頷いたロドリーは再び「ありがとう」と呟くと、おもむろに瞼を閉じた。そのまま撫で続けていると、次第に彼から微かな寝息が聞こえ始める。まだ荒い呼吸だけど、薬が効いてくれば、徐々に落ち着いてくるだろう。
「おやすみ、ロドリー」
耳元にそっと囁きかけ、熱く火照る頬に軽く触れるようなキスを一つ落とした。物音を立てないよう慎重に立ち上がり、トレーをキッチンへと運ぶ。ロドリーが食べきれなかった分のお粥は、ラップをかけて冷蔵庫へ入れた。
それから僕は、すでに仕事を終えて静かに佇んでいた洗濯機の蓋を開け、洗濯物を干していく。今日は日当たりの良いリビングの窓際で、室内干しだ。それぞれ使っているバスタオルはハンガーに引っかけ、加湿も兼ねて、寝室のカーテンレールのところに並べて吊り下げた。
――ロドリーは、滅多に体調を崩さないひとだ。今までに、余所の島で流行っていた風邪の類を、一つも貰ってこなかった。激しい雨風に打たれて、すっかり冷え切った体で戻ってきた時だって、何ともなかった。ごくたまに不調を訴えても、さほどひどくはならずに済んでいた。だからこそ、今日は相当に辛いだろうな、と思う。
それに、ロドリーは、どんなに自分が限界であっても、そんな素振りを見せない。クライアントの前ではもちろんの事、恋人である僕の前ですら、隠してしまいがちだ。僕を含めて、周囲を心配させないように、という彼なりの気遣いなんだろう。けれど、一緒にいて、それに気づけなかった自分が悔しくてならなかった。
もっと早い段階で、ロドリーの不調に、気づいてあげられていたらよかったのに。そうすれば、こんなに辛い思いをさせずに済んだのかもしれない。過ぎた事を悔やんでも仕方ないとはわかっていても、そう思わずにはいられなかった。
キッチンへと戻り、シンクの水道を捻った。勢いよく吐き出される水の音に、僕の喉から落ちた重たいため息がかき消される。
「……大丈夫だよね」
いつもより緩慢なペースで食器を洗いながら、僕は独り言をこぼした。
* * *
リビングのソファーの上で、僕ははっと目を覚ました。
怒濤の朝が過ぎ、一息つこうとして、ソファーに座り込んだまでは覚えている。けれど、いつの間にか眠ってしまっていたらしかった。
握りしめていたはずのスマホが、脚の間に落ちている。真っ暗になった画面を点けると、時刻は太陽が真上に差しかかる頃になっていた。メッセージアプリからの通知はない。着信もない。その事に少しだけ不安を覚えて、僕はそわそわとした足取りで寝室に向かった。
ベッドの上のロドリーを覗き込む。薬が効いているおかげか、呼吸はだいぶ落ち着いたものになっていた。魘されている様子もなく、朝に比べたら顔色も良さそうに見える。じっとりと汗ばんだ額に触れると、冷却シートはすっかり温くなっていた。それを剥がしてタオルで汗を拭いてから、新しいシートに貼り替える。その冷たさが気持ちよかったのか、彼の表情がほんの僅かに和らいだように見えた。
朝よりも良くなっているようだ。よかった、と僕は安堵の息を吐いた。このまま快方に向かってくれるといい。そう祈りを込めて、ロドリーの頭を静かに撫でた。
「……ん」
けほ、と咳をこぼした喉が、掠れた音を紡ぐ。ゆったりとしたペースで撫でる感触に導かれるように、ロドリーの瞼がおもむろに開いていった。僅かにブラウンの混じる彼の黒い瞳は、相変わらず熱に潤んで虚ろげだ。けれど、何度か視線を動かして僕の姿を捉えると、安心したように仄かな光が灯る。かさかさに乾いた彼の唇に、薄く緩い弧が描かれた。
「モーリー……」
「ああ、ごめん、起こしちゃったね。具合はどう?」
「朝よりは、いいかも」
「そっか、ならよかった。一回熱測ろうか」
まだ熱でふわふわとしたトーンだけど、しっかりとした受け答えだった。それだけでも、ロドリーの体調が良くなってきている事を示すには、十分だった。
電源を入れた体温計を、今度は僕の手で挟ませる。待つこと数分、規則的な電子音を響かせたそれを、ロドリーの寝間着の襟ぐりからそっと取り出した。
どうかちょっとでも下がっていますように。僕はどきどきしながら液晶画面を見やる。
そこにデジタル表示された数値は、三十七度七分だった。
「少し下がってる……よかった」
まるで独り言のような声音で呟いて、僕はほっと胸を撫で下ろした。今朝の様子を思うと、それだけでなんだか泣きそうになる。けれど、まだ泣くには早い。それはロドリーが完全に治ってからだ。じわりと滲みそうになる涙を押し込めて、僕は体温計の電源を切った。
「ロドリー、喉渇いたでしょ。水飲む?」
ん、と微かに頷いて、ロドリーが上体を起こす。ややふらつきがちな体を支えてあげながら、蓋を開けたペットボトルを手渡した。常温のミネラルウォーターを飲み干す度に、形の良い喉仏がゆっくりと動く。眠っている間にだいぶ汗をかいていたらしく、寝間着にはいくつもの染みが出来ていた。
「薬……の前に、何か食べないとね。朝のお粥が残ってるんだけど、食べられそう?」
「んー……ちょっとだけなら、たぶん」
「わかった。すぐ持ってくるね。あと、結構汗かいてるから、着替えた方がいいよ」
ロドリーから受け取ったペットボトルをサイドテーブルに置き、チェストの中から少し厚手の長袖のシャツとルームパンツを出す。下着はどうしようか一瞬迷ったけれど、汗で湿っていて気持ち悪いだろうと思い、いちおう着替えセットの中に組み込んだ。
それをロドリーに渡してすぐに、僕はぱたぱたと忙しない足音をさせながら、洗濯カゴを取りに行った。ベッド脇に置いた白いラタンのカゴを指さしながら、「脱いだやつはここに入れておいてね」とだけ言い残し、再び忙しない足音のままキッチンへと向かった。
冷蔵庫の中から、朝の残りのお粥を取り出す。電子レンジの扉を開けながら、どのくらい温めればいいんだろう、と首を捻る。その場でしばし考えた後、まあ適当に一分くらいでいいか、という結論に至った。扉を閉めて、タイマーを一分にセットしてからスタートボタンを押す。淡いオレンジの庫内灯に照らされたターンテーブルが、くるくると回り始める。電子レンジの機械的な音は、静けさに包まれていたキッチンによく響いた。
しばらくして、温めが終わった合図を鳴らした電子レンジから、お粥を取り出した。とろみのある白粥が、おいしそうにほこほこと湯気を立ち昇らせる。木製スプーンと薬と一緒にトレーに載せて、今度は僅かに慎重な足取りで寝室へと戻った。
ラタンの白い洗濯カゴには、脱ぎ捨てられた寝間着と下着が入っていた。その上にタオルも重なっていたから、出来る範囲で汗も拭いたのだろう。着替えを済ませたロドリーは、僅かにさっぱりしたように見えた。
「ロドリー、お待たせ」
ぼうっとどこかを見つめていたロドリーに、そっと声をかける。少し遅れて、彼がゆっくりと僕の方に顔を向けた。
ベッドサイドの椅子に座り、程よく温まっている白粥を軽くかき混ぜる。木製スプーンで少なめに掬ってから、短く何度か息を吹きかけて冷ます。やっぱり少し緊張してしまいながらも、それをおもむろにロドリーの口元へと差し出せば、彼は小さく口を開けて一口目を迎え入れた。
こくり、とお粥を飲み込んだタイミングで二口目を掬い、冷ましてからロドリーの口元へ。今朝と同じくゆっくりなペースではあるけれど、しっかり食べられている事が嬉しかった。そして、心なしか、彼の表情がおいしそうにほころんでいるような気がした。