北村から酒席の誘いを受けた時、清澄は二つ返事で了承した。清澄は、北村のことを慕っていた。薄く淡く積み上げた恋心は、今ではもう濃く深い。
個室で彼らは向かい合って座った。個室と言っても入り口は暖簾で、防音ではない。さわさわと店内の音が聞こえる。運ばれて来た小料理を肴に、話は弾み酒は進んだ。仄暗い照明が二人を照らしていた。
「私のどこがダメだったの!!答えてよ!!」
突然の大声に、二人は固まった。
「そういうところだよ!今までどうもありがとうございました!とっても楽しかったよ!!」
「ねえ!待ってよ!」
暖簾の下から、大股歩きの男性とそれを追う女性が見えた。
「……びっくりしたねー」
「痴話喧嘩、というものでしょうか」
「激情は、貴方のためか己がため。あんな風に、強い感情を誰かに向けられるのって、幸せなことなのかなー」
「どうでしょう。傾きすぎはよろしくないですが、恋愛そのものは素敵なことだと思いますよ」
そうなんだーと、北村は酒を一口含んだ。
「僕は、あんまり恋愛感情というものが分からないんだー。冷たい人と思われるかもしれないけれど」
清澄が何も言えないでいると、北村は付け足した。
「九郎先生や家族のことなんかは、ちゃんと大事に思っているから安心してねー」
「……それは、まだ恋愛をしたことがないという意味でしょうか」
清澄はようやく聞き返した。
「恋愛感情が無い、と言うべきかな」
「恋をすれば、変わるのでは」
彼にしては珍しく、噛み付くように言ってしまった。
食い下がっていると思われただろうか。
北村は特段気に留める様子もなく答えた。
「どうなんだろう。人をそういう目で見れなくて」
彼は手元に視線を落とした。
「この先、僕は誰かを好きになることはないと思うなー」
バッサリ言い切られた。
「そう、ですか」
生まれて初めて、清澄は自分のことを惨めだと思った。このままずっと想い続けていれば、いつか振り向いてくれる日が来ると彼は信じていた。ひたむきな思いとか、たゆまぬ鍛錬は報われなければならない。彼は、世の中のあらゆることは、努力でどうにかなると思っていた。そして実際、折れかけることはあっても、精進を重ね、今までどうにかしてきた(あるいはどうにかしている最中である)。
だがしかし、こればかりはどうにもならないのだった。恋愛は、相手にも相応の心持ちがないと成り立たない。
不意に、携帯が鳴った。
「あれ、プロデューサーさんからだ。ちょっと出てくるねー」
清澄は暖簾を揺らす、その背を見届けた。彼は、自身を惨めだと思ったのではなく、正確には、惨めと思わずにはやっていられなかったのだと気づいた。そう思い至ると、自分のことが可哀想で可哀想で仕方なくなった。北村が向ける笑顔は、清澄のそれに比べれば十分の一程度の好意であるし、二人きりで食事をすることも、北村にとってはさして深い意味を有さないのだ。
清澄は北村のことが憎くて堪らなくなり、そういった手前勝手な醜い感情が、内に渦巻くことにも耐えきれず、彼はぐいとグラスを傾けた。これもまた、彼にとって初めての行為であった。
*
北村は、参ったと思った。
「ふ、ふふふ、ふふ」
いつも真面目な友人が、ひどく酔ってしまった。ペースが早いと思ったら、突然立ち上がり、北村の隣へと移動した。そのまま彼の腕に絡みつき、身体を寄せて来た。
「きたむらさん。ふふふ」
幼子のようにころころと笑っている。何が、そんなにおかしいのだろうか。
「きたむらさん。すきです」
「九郎先生ー?」
「ふふ、はい」
「酔ってるよねー?」
清澄は答えず、北村の腕に顔を埋めた。
彼は、図書館でたびたび話す親子連れを思い出した。知り合って間もない頃は挨拶をすると、子どもは恥ずかしがって親の陰に隠れた。
「……今日はもう帰ろうかー」
水を飲ませ、会計をして外へ出ても、清澄の酔いは覚めそうにない。
「九郎先生、一人で、帰れるー?」
北村はまた尋ねたが、清澄は笑って絡みつくばかりだった。
「僕、もう帰っちゃうよー」
「わたしも、きたむらさんのおうちいきます」
満面の笑みで、そう返される。こうなってしまったら、仕方がない。
「今日は、僕の家に、泊まりますかー?」
「はい。ふふふふ」
北村は彼の兄に電話をし、事の次第を話した。続いて、プロデューサーにも繋ぎ、清澄の家へ連絡を入れるよう頼んだ。
道すがら、清澄は北村にもたれかかり、北村の名前と、すきです、とを交互に唱え続けた。
「ただいまー」
「おかえりー。布団敷いといたぞー」
奥から兄が顔を出した。
「これはまた、出来上がってるなあ」
ぐでりと北村に支えられた清澄の姿を見て、兄は言った。
「普段はこんな人じゃないんだけどねー。ほら、僕の家に着いたよー」
「はい」
「靴、脱げるー?」
「はあい」
予想通り脱ごうとはしないので、座らせて脱がしてやる。そして自室の布団まで運んだ。
「ほら、九郎先生、着替え用意したから」
「ふふ、ふふふ」
「もう、着替えてよー。着物シワになっちゃうよー」
「きたむらさんが、きがえさせてください」
北村はため息をついた。
「袴の構造なんて分からないよー」
ネットで調べればすぐに見つかるのだろうが、さすがに酩酊状態の友人の服を脱がすのはどうかと考え、北村は諦めた。
「おみずのみたいです」
彼は無垢な笑顔で言った。
北村がペットボトルを持って戻ると、清澄は宙を見つめ、ぼんやりとしていた。表情は無かった。
「お水持って来たよー」
呼びかけると、彼は振り向いた。道中の笑顔から一変、彼は顔を歪めて泣き出した。
「きたむらさん、すきです」
「大丈夫ー?気持ち悪いのー?」
北村は清澄の隣に座り、体調を気遣った。しかし清澄は嗚咽しながら首を横に振った。
「きたむらさんが、すきです」
泣きじゃくる今の九郎先生は本物の子どもみたいだ、と北村は思った。これが彼の、ありのままの姿なのだろうか。
「その、すきですってどう……」
北村が言い終える前に、清澄に迫られた。酔っているとは思えないほどの力で、床に押し倒される。ばちりと目が合う。そこからぽろぽろ雫が落ち、北村の頬をも濡らす。
この時ばかりは、北村も狼狽えた。
「すきです、う、ううっ、きたむらさん」
一文字の唇が、わなわなと震えている。手首を握り締められる。
「好きです」
そう言った途端、電池が切れたように北村の上に崩れた。その衝撃に、北村はうっと呻き声を上げた。
「九郎先生ー?」
声を掛け、身体を揺すってみるが起きない。どうやら眠ってしまったようだった。
北村は腕を投げ出して、天井を仰いだ。
……そういうことだったのかー。彼は、清澄の様子がおかしかったことに合点がいった。
北村は彼の頬に付いた、自分のものではない、涙を拭った。