講義が始まる前、隣に座った同期から話しかけられた。
「北村って、何かサークル入ってたっけ?」
「入ってないよー」
「じゃあ文化祭どうするんだ?」
「あー、どうしようかなー」
ちらりとスマートフォンの画面を確認する。文化祭は確か十一月の頭だったから、あと二週間ほどか。
「学部のゼミは来年からだし、当日暇じゃないか?」
「そういえば、秋休みは親から帰省しろって言われてるんだった」
「へー。大変だな」
白々しいかと思ったが、彼は信じたみたいだった。
「それよりさ、聞いてくれよ。文化祭の準備がもう大変でさー」
彼はこれみよがしにため息をつき、わざとらしく机に伏せた。
……こっちが本題みたいだねー。
「俺以外誰も仕事してくれなくてよー……」
他のサークル部員のやる気がない、大学側の規制が厳しい、実行委員からメールの返信が来ない、と延々くだを巻く。
「へー。大変だねー」
そんなに嫌なら辞めればいいのにー。第三者の僕に愚痴を言って、解決することってあるのかなー?
彼の話が文化祭からアルバイトへ移りかけたところで、授業開始を告げるチャイムが鳴り、僕はようやく解放された。
去年の文化祭休暇、秋休みはいつもより足を伸ばして、一泊二日の旅行をした。アイドルになった今年も今年で、文化祭に参加する気はさらさらなく、お仕事やレッスンを詰めていた。
事務所の最寄り駅で降り、改札を抜けたところで、見慣れた和服姿の青年を見つけた。
「九郎先生、何見てるのー?」
「ああ、北村さん。こちらのポスターを見ておりました」
指さす先を見ると、なんと僕の大学の文化祭のポスターだった。
「北村さんは何か出し物をされるのですか?」
「僕は何もしないよー。お仕事入ってるしー」
「そ、そうですか……」
僕が言うと、九郎先生はしゅんとした。
「もしかして、行きたかったのー?」
「ええと、その、興味はあります」
僕が行事嫌いと思ったのか、彼はきまり悪そうに話した。別に、祭りごとが嫌いなわけではない。それにくっついてくるいざこざが、特に面倒だと思うだけで。
「ふーん。それじゃ、一緒に行ってみるー?」
「良いのですか!?」
彼はぱっと顔を明るくした。ふふっ、分かりやすいねー。
「だけど、行くならもう一つのキャンパスの方がいいと思うなー」
「もう一つの?」
「ほら、そっちの」
僕は少し離れたところにあるポスターを指した。僕の大学には都内のキャンパスに加えて、郊外にもう一つキャンパスと運動場がある。
「都内の方だと、お酒が入って騒ぎ始める人がいたりするからー。一昨年はゲストで有名な役者さんが来て、あまりの混雑に怪我人が出たらしいよー」
同期に帰省すると言った手前きまり悪い、浮かれ切った学生にだる絡みされたくない、というのも本音だけれど。
「な、そのような血気盛んな行事なのですね」
「郊外の方なら人が少なくて落ち着いてるだろうから、九郎先生も楽しめると思うよー」
「では、そちらにしましょう!」
僕と九郎先生のスケジュールが合わず(元々行くつもりはなかったから)、最終日の午後から参加することになった。スクールバスに揺られ、到着したキャンパスはそこそこに賑わっていた。学生はもちろんだが、家族層も多く、どことなくのどかな雰囲気だ。秋風が肌に心地よい晴天だった。
「何から見て回ろうかー」
「北村さん! あれはなんでしょう?」
九郎先生、いつもよりテンションが高い? 駅で待ち合わせた時からソワソワしているな、と思っていたけれど、お祭りが好きなのかなー。
「あっ、こちらに向かって手を振っています!」
九郎先生の向いている方向を見ると、顔を白く塗ってカラフルな衣装を着たピエロがいた。
近づいて来たピエロは、斜めがけの鞄からスケッチブックを取り出し、僕らに掲げた。
「『ふう』?」
「貴方のお名前ですか?」
ピエロは勢いよく頷いた。喋ってはいけない決まりでもあるのだろうか。
「ふうさん、よろしくお願いいたします」
スケッチブックをしまったピエロは九郎先生と僕、順番に握手をした後、今度は細長い風船とポンプを用意した。しゅこしゅこと風船を膨らませ、手際よく花のブレスレットを作り上げた。ピエロは九郎先生の左手に完成したそれをはめた。
「私にくださるのですか?」
「バルーンアートだー。よかったねー九郎先生。あれ、僕にもくれるのー?」
僕は、九郎先生とは色違いのものを手渡された。
「ありがとー」
「ありがとうございます。頑張ってくださいね」
ピエロは大きく手を振りながら去って行った。
「あんなサークルもあったんだねー。知らなかったよー」
「愉快なお方でしたね。見ているだけで不思議と楽しい気分になりました」
九郎先生はさも嬉しげに、バルーンのブレスレットを撫でた。
それから、順々に構内を巡った。九郎先生は何か発見する度、僕の腕を引いて、「北村さん!」と僕の名前を呼んだ。
「九郎先生って、お祭り好きなのー?」
屋台で買ったものを食べながら休憩している時、僕は訊ねた。
「ええ。……もしかして、はしゃぎすぎていましたか?」
「ううん、ちょっと意外だったから」
「そうですね。こういった賑やかな催事とは無縁でしたから、見るもの全てが真新しく感じるのです」
九郎先生はあたりを見回して言った。小学生くらいの子どもが追いかけっこをし、コスプレをした学生が手持ち看板を持って呼び込みをしていた。
「あれ、口元にソース付いてるよー」
「え? どこでしょう?」
「拭いてあげるから、じっとしててねー」
「あ、ありがとうございます」
ティッシュで拭ってあげると、九郎先生は頬を染めて恥ずかしそうにした。
タピオカドリンクに喜んだり、ホラー映画に飛び上がったり、今日の九郎先生は小さな子どもみたいで、ちょっとかわいいかもー。
「今のはご内密にお願いします。特に猫柳さんには」
「いつも世話を焼く側だもんねー」
「はい。それに以前、猫柳さんと華村さんと夏祭りに訪れた際、その、少々ハメを外してしまいましたので……」
九郎先生はまた照れてうつむいた。
野外ステージで吹奏楽サークルの演奏を聞くと、もう閉会の時間になってしまった。
僕たちは閉会セレモニーのために、中庭へ移動した。大量の風船を空に放つ閉会セレモニーが、こちらのキャンパスの文化祭の売りだった。駅に貼られたポスターにも、このセレモニーの写真が使われていた。
僕と九郎先生は、係の人からそれぞれ風船を受け取った。僕のは赤で、九郎先生のは青だった。
『さあ、風船を放してください!』
拡声機の声がタイミングを告げると、風船は一斉に浮かび上がった。まるで生きているかのように群れを作りながら、遠くへ飛んでいく。
「北村さん」
空を仰いでいた九郎先生が振り返った。
「楽しいですね」
そう言って、彼はにこりと笑った。その笑顔があまりに邪気のないものだったから……
「そうだねー」
こういうのもたまには悪くないかなー、なんて僕は思った。
夕空に浮かぶ風船、はしゃぐ君。
九郎先生につられ、僕の頬もいつの間にかゆるんでいた。色とりどりの球体は、見る見るうちに空へ消えていった。