サザンカ 「今回は、俺が選んでもいいか」
電話越しにそう尋ねられて、しのぶは驚いた。少し考えてから、「ではお任せします。ありがとうございます」と答えた。お気に入りのふわふわのブランケットにくるまって、他愛のない話をする。
しのぶは冬の冷たい空気が好きだった。決して夏が嫌いという訳ではないけれど、冬の寒い時に感じる暖かさにはどんなものだって勝てない、と思っていた。
話しながら、しのぶは部屋のカーテンを少し開けた。外は真っ暗で、月がぼんやりと浮かんでいる。しんしんと寒い、二月の夜。
「そういえば、もうすぐ付き合い始めて丸八年になりますね」
「……そうだな」
その声だけで、冨岡が小さく微笑んでいることがわかる。見えないけど、たぶんそう。こうやって、声だけでいろんなことがわかるようになって、ずいぶん経つ。
しのぶは温かいココアをカップに注ぎながら、「また明日」と言って電話を切った。しん、と静まり返る部屋の中。メッセージアプリを開いて、今までに冨岡と交わしたやりとりを眺めながら、ココアを啜った。
◇
昼休み。冨岡は、自分のデスクでパンを齧りながら同僚達の会話を聞くともなく聞いていた。目線の先にはディスプレイ。納品前の最終チェックをしながらの昼食だった。中心になって話しているのは、同期の村田のようだった。彼女がどうとか、結婚がどうとか。右手でマウスのホイールを回す。抜けはなさそうだ。村田の相手は、どうやら既婚者であるらしい。
冨岡は会社ではプライベートについて話すことはほぼなかった。そうしたいとも、そうする必要があるとも思わなかった。今までは。
……どんな話を、しているんだろうか。
冨岡はこの時、生まれて初めて「恋愛相談」というものに興味を持った。
冨岡としのぶは、年に二回プレゼントを贈り合うことにしていた。誕生日と、クリスマス。
しのぶはプレゼントを選ぶのが滅法上手かった。学生で予算がない頃でも、スマホケースだの小ぶりのバッグだの、使い勝手がよくて見た目のいいものをいつも見繕ってくれた。
翻って冨岡には、そういった類のセンスが皆無だった。どんなに真剣にしのぶのことを観察しても、何を贈れば喜んでくれるかが全くわからなかった。最初のクリスマスでの惨敗ののち、しばらくして冨岡は事前にしのぶと相談してからプレゼントを決めることになった。その方がお互いにとって良い、としのぶが提案してのことだった。
冨岡が贈るものは、ほとんどがアクセサリーだった。バッグや服にまで手を広げると、とても選びきれなかったからだ。ネックレス、ブレスレット、ピアス。しのぶに何度もダメ出しされながら、冨岡は時間をかけてしのぶの好みを覚えた。クリスマスと誕生日が近いから、ネックレスとピアスを同じシリーズで揃える、という方法があることも分かった。それで、次の誕生日にはしのぶに相談せずに、自分だけで選んでみたい。そう思って、しのぶに「俺が選ぶ」と言ってみたのだった。
シンプルなネックレス。チェーンはシルバー。なにか、小ぶりな石が一粒あればいい。そう思いながらしのぶの好きなブランドのページを眺めていて見つけたのが、ムーンストーンだった。いや違う、「ロイヤルブルームーンストーン」。『透明度が高く、水滴を垂らしたような瑞々しさ。オーロラのような輝きはまるで青い虹のよう。』そこにつらつらと書かれた文言のほとんどは冨岡には馴染みのない単語だったが、画像を見てこれだ、と思った。
そうやって目星をつけたのが二週間ほど前のことだった。これでいいだろう、とは思うものの他と見比べていると、気持ちが揺らぐ。こちらの方がしのぶの好みだろうか。やっぱり自分で選ぶなどと言わなければ良かっただろうか。そんなことをぐるぐると考えていた。
だから、普段なら気にも留めない同僚の雑談が、妙に耳に響いた。なるほど、こうやって人に相談するという方法があるのか。
その日は特にトラブルもなく、落ち着いていた。普段通りの業務をこなす。定時を過ぎて三時間もすれば、残っている者のほうが少なくなっていた。
「残業お疲れ」
そう言って村田がコーヒーの缶を冨岡のデスクに置いた。どうやら村田の業務はひと段落したらしい、と目測をつける冨岡。
「悪いな」
冨岡はそう言って村田のほうをちらと見た。「じゃ」と自分のデスクに戻ろうとする村田に、冨岡が声をかけた。
「村田。これ、どう思う」
スマホの画面を見せる冨岡。ぱっと映し出されたそれを見て、村田は目を白黒させた。
冨岡が自分に相談するなんて、よっぽど込み入った案件なんだな、と思ってスマホを覗いたらそこに映っていたのはネックレスの画像だった。女物の。
「……は? お前、これ、間違えてないか?」
「……やっぱり、似合わないだろうか」
村田は心の底から驚いていた。すぐには言葉が出ない。「似合わない」?
……つまり、冨岡はこれが誰かに似合うかどうかを俺に聞いている、ってこと? あの、プライベートについて全く話さない冨岡が? ……彼女、だよな? それを俺に聞いている?
「え、えーと、プレゼント? 彼女に?」
「……? そうだ」
当然だろう、というような冨岡の態度に戸惑う村田。いやまずそれを話してくれよ、驚くよ。そう思いかけて、彼はかぶりを振った。無理な話だ。冨岡なんだから。
「え、どんな子? 彼女」
「…………年下」
年下。村田は冨岡の言葉を反芻した。その情報だけで、ネックレスが似合うかどうか判断しろってこと?
「写真とかは?」
そう言われて、冨岡は心なしかムッとした顔つきになった。傍目にはいつもの無表情とほとんど変わらなかったが。
冨岡はしぶしぶスマホの画像フォルダを開いた。同僚に勝手に見せてもしのぶが困らないような、できるだけフォーマルな格好のものがいいだろう。そう思って半年前に送られてきた、友人の結婚式に出席するべく身なりを整えた彼女の写真を選んで、村田に見せた。
「胡蝶しのぶ、という」
「……え?! この子?! が、冨岡の彼女?!」
「そうだ」
「へ、へぇ……? そうなんだ……あー、うん、ネックレス? 似合うよきっと……」
村田は驚きを通り越してショックを受けていた。かわいすぎる……! 確かこいつ遠距離だったよな。こんな子が遠くで一途に冨岡のことを待ってんの? 冨岡のこの口下手に付き合ってんの? ちょっと、現実離れしすぎて、羨ましいとも思えない……。
「村田は」
「え?」
「結婚するのか」
唐突に自分の話を振られて、村田は我に返った。ふと冨岡の顔を見ると何やら妙に嬉しそうな表情。突然、どうしたんだろう。
「あー、いや、彼女が年上なんだけどさ、その……どうも早く結婚したいらしくて。でも俺、何も秀でたところがないし、こんな俺が結婚なんてイメージ湧かなくてさ」
はは、と自嘲する村田。
「……?」
妙な沈黙。あー、こいつの前でこういう話すればこんな空気になるよな……。そりゃそうだ、言うんじゃなかったな。そう村田が思った瞬間、冨岡が口を開いた。
「村田はすごい」
「え?」
「結婚すればいい。俺よりよくできる」
「……いやいや」
「村田はすごい」
今日は、どうしたんだろう。村田は冨岡の顔をふと見た。一片の曇りもない目だった。そうだ、こいつお世辞なんて言えるやつじゃなかったな、と村田は思った。そして、少し胸が暖かくなった。
「……そうか。ありがとう」
それから一時間後に、村田が退社した。冨岡はコーヒー片手に、その後ろ姿をちらと見た。早く技術を身につけて、転職したい。ずっとそう思っていたし、今もそれは変わらない。しかしここも、決して悪くはなかったな。
午後十時半。業務を片付けて、夜の街を歩く。星が瞬く、空気の澄んだ夜。しのぶがあのネックレスをつけるところを想像する。細いチェーンと、一粒の月の石。
まだ冷たい二月の風。冨岡が通り過ぎていくのを、街灯の下で鮮やかなピンク色のサザンカが見ていた。