ぐだ子に逃げられたキャスニキの話とある小さな町に、歳若い娘が引っ越してきた。ごくごく普通のその娘は、ほどほどに人懐っこく、笑顔が魅力的で、分け隔てなく町の人間に話しかけるので、あっというまに馴染んだ。そんな彼女がワケありだとわかったのは、時間が経つにつれてその腹が膨らんできたからである。
どうやらこの町に来る前から孕んでいたようだが、娘は詳しいことは話さない。もしかしたら、娘に惹かれたこの町の男が手を出したのか、とも考えられたが、生まれた子供は娘にそっくりの赤毛に、この町には1人としていない赤い目をしていた。
しかしながら、子供が生まれる頃には娘は完全に町に馴染んでいたし、女手一つで子供を育てるその様子は苦労をしつつもこちらが見ていて微笑ましくなるほどのもので、町の人間でその娘に下手なことを言うような人間はいなかった。
けれど子持ちとはいえ、娘はほどほどに魅力的だったので、子供の父親が自分でなくても良い、まとめて面倒を見る、という男もいるのである。そのどれかの手を取るかと思ったら、彼女は一つとして靡かなかった。
そして彼女がこの町にきて数年後、子供もすくすくと成長してきたときだった。
町に、青い髪の男がやってきた。
「りっちゃん、ちょっといいかい?」
「はぁい、なんでしょうか?」
この町に唯一ある駅から少し離れた通り沿い。そこに開いた小さな花屋を切り盛りする若い女は、やってきた顔見知りの女性客に振り向いた。この町にきてしばらくが経ち、やってきたときよりも伸びた髪をいつもの黄色いシュシュで括っており、その毛先が彼女の気性を表すように跳ねた。
「ええと、今日は娘ちゃん保育園?」
「そうですよー。そろそろ迎えに行こうかと思っていたんですけど」
女性客は少し言いよどむと、本来とは違う話題を花屋の女主人に振る。その違和感に少し気付きながらも、女主人――リツカはいつもと変わらない笑みを浮かべた。
「なので、お花が入り用ならすぐにご用意させて頂きますよ」
「あ、えっとね、今日はお花じゃなくて……」
そこで、ようやく女性客は踏ん切りがついたらしい。
きょろきょろと店のまわりを見渡したかと思うと、ずずいと店内へ。そしてぴしゃりと店のドアを閉めてしまった。
「あのね、今さっき駅のほうへ行ってたんだけどね」
いつもと違う様子に、リツカは目を丸くしながら、その剣幕に押されてしまう。
「珍しく、町の人間じゃないのが降りてきててね」
「まあ、たしかに珍しいでしょうけど……まったくないわけでも……」
彼女の語り口はあくまで真剣だった。しかしそれにしても、と思ったので口を挟めば、女性客の目はぐわっと見開かれた。
「違うのよ! たしかにすっごく珍しいってわけでもないけど、でもね、ちょっとおかしいのよ」
「おかしい……?」
リツカの表情が訝しげなものに変わる。
「そうなの。こんな田舎町には似合わない、都会の人間が来てるような仕立ての良い服でね。わたしゃ駅の向こうの八百屋に行った帰りだったから、ちょうど出くわしちゃって」
仕立ての良い服。リツカの脳裏に、過ったものがあった。そしてその過ったものは、彼女がここに来る前に置いてきたものであった。 まさか、という不安が胸中を占める。それでもその不安を顔にはなんとか出さずに、女性客の話を聞き続ける。
「青い髪で、背の高い男だったわ。急に目の前に来て、“赤毛の娘を知らないか?”って」
しかしながら、その言葉を聞いた途端に、リツカは確信してしまった。
とても覚えのある特徴。そして、探している人間の特徴。
ついに追いつかれてしまった。
「やっぱり、なにか関係があるんだね」
リツカの様子にすぐに口を噤んだ女性客は、真剣な眼差しで立香を見る。
それだけ目の前にいる、まだあどけなさが残る花屋の女主人の顔は、わかりやすく青ざめていたのだ。
「あの、」
「いいのいいの! りっちゃんはもうここの住人だもの!」
どこまで話そうか。リツカはそう思っていれば、女性客はいつもどおりのおおらかな笑みで、この町に来る前のことを話さないリツカを追求するようなことはなかった。
「出くわしちゃうとまずいってんなら、うちの息子に言って娘ちゃんの保育園の迎えに行かせようか?」
「いえ、さすがにそれは申し訳ないですし……」
数年前に突然やってきた自分にも、この女性はすごくやさしい。これまでも散々お世話になっているのに、そこまでは、と思ってしまうが、女性はやはり大きく笑って「気にしないでおくれ」と言う。
「りっちゃんにはこっちも世話になってるしね」
そんな大したことをしているつもりはなかったが、女性客はぐいぐいと強く押してくる。そしてその押しに、リツカは折れることにしたのだ。
「ごめんね、マンドリカルド」
「いいっすよ、どうせ、お袋がテコでも動かなかったんでしょーし」
申し訳ない、とこれでもかと言うような表情で、リツカは付き添ってくれているマンドリカルドに言うと、マンドリカルドは苦笑で返した。彼自身、自分の母親の押しの強さは把握済みであり、今回もその例だろうと考えた為だ。
「リカちゃんー! こっちこっちー!」
「はいはい、今行くッスよ!」
そしてリツカの幼い娘は、そんな大人二人のことなどまるで気にせず、帰り道にあるパン屋にまっしぐら。保育園の帰りは夕飯と明日の朝食用に必ず寄るっているため、自然と覚えてしまったのだ。
時間は夕暮れ、まだ茜色が道を照らしているが、ぽつぽつと町の明かりが灯され始める頃合いである。
「リカちゃんはなんのパンがすきー?」
「オレっすか? うーん、ごろっとしたチーズが入った白パンっすかね」
「わたしもそれ、すき!」
この小さな町にあるパン屋は一軒のみのため、もちろんマンドリカルドも行ったことがある。ただ、普段は彼女たち親子と違い、夕飯は別に用意することが多いため、常連と言えるほど通い詰めているわけではない。しかし思いついたパンを伝えれば、幼子はにっこりと嬉しそうに笑った。その笑みは母親であるリツカにそっくりで、血を感じさせる。
「こんばんわぁー!」
「ちわぁーっす」
「ごめんください」
幼子が勢いよく店のドアを開け放ち、からんからんとベルが盛大に鳴り響く。それを追いかけるようにマンドリカルドとリツカが、恐縮しながら店の中に足を踏み入れれば、この店の主であるふくよかな男性はにっこりと人好きの笑みを浮かべて客を迎え入れる。
「いらっしゃい。今日も元気そうだねえ」
「いつもすみません」
「いいんだよ、子供は元気が一番!」
すぐに目的のパンの売場まで走り出そうとする娘の首根っこを捕まえながら、リツカは店主のいるカウンターを通り過ぎる。娘がいつも買うパンは店の奥にあるのだ。
「あれ、ない」
「えええっ」
「ありゃまあ」
そして、いつもこの時間には必ずあるパンは、白い盆の売場から消えていた。
「ああ、ごめんねえ。ついさっき、買われちゃったんだよ」
「あらあら」
珍しいこともあるものだ、とリツカは思った。
この店のパンはどれもおいしいが、この時間で娘の好きな豆パンが売り切れることはまずなかったのだが。
「う~~~」
「残念だったっすねえ」
「今日はしょうがないから別のにしようね」
豆パンを楽しみにしていた娘はものすごくわかりやすくふくれっ面だ。
慌ててマンドリカルドは宥めにかかり、リツカはこういうこともある、として冷静に話す。
娘も、この歳にしてはそこまで聞き分けがないわけではない。
そのため、ふくれっ面になりながらも、しぶしぶ、と別のパンを選びにかかった。
「あ! リカちゃんもすきなしろいパン!」
「お、ほんとっすね」
そしてすぐに美味しそうなパンを見つけて、あっという間に機嫌が直る。このあたりの単純さは自分譲りだな、と思いながら、リツカは小さく笑った。
からんからん、と。店のベルが再び鳴る。
「ありがとうございました~」
という間延びした店主の声が響き渡る。
ちょうど先程寄っていた店だった。店主の人当たりは良く、作られ並べられたパンは、このような田舎にしては上等なもので、できたてはさらに美味しいだろうと予想ができるほどの。
――今日と明日の朝飯は確保したし、昼過ぎあたりにまた寄ってみるか。
とある男はそう、逡巡する。
そのときだった。見覚えのある色が、目に入ったのは。
重いドアの向こう側からは、赤毛の女に同じ髪色の幼子が手を繋いで出てきたところだった。同時に――黒髪の男。
思わず物陰に隠れて、その三人の行動をじっと窺う。
幼子の両手はそれぞれ男女の片手で繋がれており、るんるん、と浮かれ気分が伝わってくるかのように、上機嫌だった。
それを優しい目で見つめる女と、苦笑する男。
三人でそろって道を歩く姿は、家族、と言って差し支えないだろう。
そう、考えたところで、とある男は自分の胸がどくどくと脈打っていることに気付いた。
――他に男ができたのか。
そんな、言う資格すらない言葉が浮かぶ。
思い出すのは、かつての故郷。領主を務める己が、気まぐれに起こしたこと。
「リツカ」
かつて、自分の隣で笑ってくれていた彼女の名を呼ぶ。
すでに三人は道をどんどん進んでいき、日が暮れたこともあってかろうじて影が見えるくらい、離されてしまった。届かない言葉は、結局意味が無い。
はあ、と肺の中の息をすべて吐き出すかのように深い息を吐いて、ようやく男は物陰から動き出す。
ここまで来たのだ。なにかしらの成果がなければ、故郷に戻れない。
自分の仕事を代行している弟に説明しようにも、これでは。
だが。
脳裏に焼き付いた、三人の後ろ姿を思い出す。
笑顔で、しあわせそうに歩いていた、三人を。
ああいう姿は、見たことがなかった。
彼女は仕事はいつも真面目に取り組んでいたが、どこか抜けているところがあり、数日に一度はなにかしらを失敗する、そんな女だった。
けれど先程見た彼女は、幼子の手を引きながらその足がもつれないように、転ばぬように、と気を配り、そして、自らの子を慈しむ母の目をしていた。
わかっている。手放したのは、否、手を伸ばさなかったのは、己であると。
けれど、あの姿、あの三人を見ていて思ってしまったのだ。
あの幼子の片方の手を握っていたのは、自分であったかもしれない、と。
そこに愛はあった。本気だった。
ただ自分は、どこまでも遅かった。それだけなのだ。
それでもなんとか、彼女を見つけようとここまできたが。
見つけてから、どうするのか、と。
そして、自分ではない誰かが隣にいることなど、まるで想定していなかった!
どうすればいい?
とある男は、その場に立ち尽くした。
「見目の良い、仕立ての良い服の男が赤毛の女を捜している」という話は、小さい町であっというまに広がった。
だが、その該当する赤毛の女であるリツカは、町の人々からすでに町の住人として受け入れられていたため、よそ者である男に彼女の住まいを教える者はいなかった。
「兄さん、もう帰んなよ。こんな小さな町にそんな女いねえよ」
「知らないねえ、いったい誰のことだい?」
「そんな女なんか忘れて、遊びに行ったらどうだい? 田舎町でそんなにいい女はいないが、アンタなら引く手数多だろうし、このあたりの地酒もなかなかのモンだぜ?」
そんな言葉が、男に浴びせられる。
もともとそんなに故郷から離れたことのない男は、こういった扱いは逆に新鮮ではあったが、目的を果たすには及ばない話ばかりだ。
けれど彼自身、今更会ってどうする、という考えは抜けきらない。
数日前の、黒髪の男と並んで歩く彼女の姿が、目に焼き付いてしまっている、ということもある。
悩んで、悩んで、焦れて。
そして結局、さよならだけでも伝えよう、と。そう決意したのだ。
その店は、この前三人を見かけた通りから少し離れた場所に建った小さな店。
まだ真新しいつくりは、この店が開業してそれほど時間が経っていないことを示している。
「いらっしゃいま、せ……」
「……よう」
ようやく見つけた小さな花屋。磨りガラスがはめ込まれた店のドアを開ければ、鮮やかな花に囲まれた元気で明るい声が、途端に縮こまった。
目が、どうして、と。どうしよう、と言っているようだった。
「待ってくれ!」
「っ、なに、」
すぐに奥の住居スペースに逃げ込もうとした彼女を引き留める。
ああ、違う。そんな顔をさせたいわけじゃない。それでも止まってくれた彼女に、こちらから危害を加えるつもりはない、とわかってもらえたようで、少しほっとした。
「まま、おきゃくさん?」
「ッだめ!」
少し緩んだ空気に、緊張が走る。
店の奥から出てきたのは、幼子。
母親譲りの赤毛をした幼女は、少しぶかぶかな寝間着を着て、まるい頬には赤みが差している。
体調が悪いのだろうか。
それにしても、彼女の反応がおかしい。
そう思って、理解した。
「い、らっしゃいま、せー?」
「ごめんね、寝てようね」
幼子を隠すように抱き留める彼女。それでも、――その赤い目をこすりながら半分寝ている様子は、窺えた。
赤い目。
このあたりではいっこうに見ない特徴だ。
「……待っててもらえますか」
「ああ」
どくりどくりと、男の心臓はまた、跳ねた。
店先のドアに「CLOSE」の看板を下げて、店内にある小さなテーブルにお茶を淹れた。
目の前には、もう二度と会うことがないだろうと思っていた人物が座っている。
数日前からこの町に来て、わたしを探していたこのひとは、わたしの想像よりもずっと大人しく、座っていた。少し憔悴したような気がするのは、町の人たちがあの手この手で彼を追い返そうとしたからだろう。……それには、少しだけ申し訳なくなった。だからそのお詫びもあって、わたしはここで彼と対峙することを決めたのだ。
「……体調、悪いのか?」
「保育園で風邪もらっちゃったみたいで」
出したカップに手を付けず、そのひと――わたしの前の雇い主、キャスターは気遣わしげにそう言った。
もう、あの子の存在は隠しておけないことがわかって、わたしは淡々と答えた。
「リツカ」
低い声音が、わたしの耳朶を撫でるように這入ってくる。
このひとの、この声で呼ばれるのが、好きだったなあ、と。思い出しながら。
「なんで、いなくなった」
「……わかるでしょう」
すでに確定しているだろうに彼はそう質問してきて、どこか突き放すように答えれば、どこかが痛んだような顔をする。
「わたしは、あなたに何も望みません」
そんな顔に、わたしもなんだか心が痛くなってしまうけれど。
ここでしっかりはっきり言っておかなければ。
「唯一望むとするなら、ここで、あの子をちゃんと育てること」
そう。そう決意した。あの子がお腹にいることがわかってから、必死にここまでやってきた。
だから思うのだ。
『どうして今更』。
そんなわたしの心中もわかったのか、口元を引き結んで、視線を落とす彼。
キャスター。
わたしの元雇い主。
わたしの好きだったひと。
もともと身寄りの無かったわたしは、いろんなところで働いていたけど、それでもようやく落ち着ける場所として辿り着いたのが、キャスターの治める領地だった。わたしはそこで、彼の住む屋敷のメイドとして働いていたのだけれど。何がよかったのか、彼はわたしに手を出した。もちろん、同意したわたしにも責任はある。悔いはない。恋をよくわかっていなかったわたしに、それを教えてくれたことも感謝している。気まぐれにくれた花は、今でも押し花にして取っておいているくらい。
でも、わたしはあくまでメイドのひとりだったのだ。
それに気付いたのは、彼が出張で領地の視察に行っているとき。
上役の執事さんやメイド長から零れる話に、彼に見合い話が持ち上がっていることを知った。
相手は、別の領地を治める領主の娘さん。
これであの方も落ち着いてくれるだろう。女主人がいれば、もっと働きやすくなるだろう。
そんなことがまわりで広まったあたりで、わたしは、自分が不相応な恋をしたことに気付いた。
彼がどういった気持ちでわたしに手を出したのかはわからなかったけれど、ここにはもういれない、と思ったのだ。
そして同時にやってきた、体調の変化。
いよいよもって、どうにかしなければ、となったところで、わたしはあの屋敷を離れることを決意した。
「おや、辞めるのかい? じゃあこのあたりの町なんかどうかな? ここに比べると田舎だけれど、気候や住む人の気性も穏やかだと聞いているよ」
かつて屋敷のメイドの仕事を斡旋した遊び人は、そんなまたふわふわとした言葉でわたしをこの町に誘った。ありがたいことにその言葉には嘘はなく、最初はその伝手で働き始めて、それを元手に出産することができた。この町のある地方はわたしのような新参者でもきちんと税金を払っていれば、そういった費用も一部領主側が負担してくれるというところで、なかなか助かる制度だった。あの遊び人には辞める理由をちゃんと話してなかったけれど、それを見越したかのような話で、まあ感謝しなければならないだろう。
とにもかくにも、わたしはこうして、この町であたらしい生活をはじめたのだ。
――数年後、キャスターが追いかけてくるとは知らずに。
「それより、いいの? 領主がこんなことに時間を使ってしまって」
数日経てばさすがに帰るだろうと、わたしは思っていた。
なにせ領主。わたしが屋敷で働いていた頃も、彼はいつも忙しそうだった。
それなのに、まるで帰る様子がない、と。彼が滞在している宿の女将さんは言っていて、わたしは首を傾げたのだ。
「今は、弟に任せている」
「なるほど」
彼の家族はたくさんいて、たしか下にも何人かの弟がいる、と聞いたことがある。
普段はあの屋敷にはいないけれど、ときどきいろんな仕事を手伝ってもらっている、とも。
「じゃあ、はやく帰らないと」
「帰らねえ」
紅い瞳が、わたしを射抜いた。
何かを決めた顔だった。
「オレもここで暮らす」
「は?」
突然、何を言い出したかと思えば。
けれどその顔は冗談でもなんでもなく、真剣だった。本気なのだ。
「あの子は、オレの子だろう」
「そうだけど、あの子に父親はいません」
ぴしゃり、とわたしは言い放つ。
しかしそこで、なにやら妙な顔をする。
「……いない、のか?」
「そうだよ。あの子には、わたしだけ」
「何日か前に、黒髪の男と一緒じゃなかったか?」
「は?」
なにか責めているような口ぶりでそんなことを言ってくるものだから、つい不機嫌な声が漏れる。思わず目も半眼になっただろうというところで、慌てて「この前、たまたまお前たちを見たんだ」と口からでまかせにしてはお粗末な話をされる。
ああ、でも、その時点で見つかっていたのなら尚更帰らないわけだよなあ、なんて思って、納得してしまう。けれどなんだか、彼の顔色が良くなってきている気がする。
「そうか、じゃあお前さんはまだ独り身なんだな」
「そうだけど、だからなに? 今はあの子のことで精一杯だし、そういう話なら帰って」
「オレもだ」
今度こそ、わたしの目は点になった。
「オレもまだ、独り身なんだよ、リツカ」
「え、」
なんで、と。そういった言葉は出なかった。それより前に、彼が立ち上がったと思ったら――ちゅ、と小さなリップ音。テーブル越しに、彼がわたしの額にキスをした音だった。
「なっ、」
何するの! という言葉も続けられない。
目の前には、嬉しそうに笑う、彼がいる。
「領主業は弟に完全に引き渡す。オレはこっちでお前さんと一緒にいるさね」
「だ、だから! そういう話なら帰ってってば!」
ああ、だめだ。この流れはまずい。こういうふうになった彼は、テコでも考えを変えないのだ。
「リツカ。もう一度、オレに機会をくれないか」
話に聞く上流階級のパーティーで、いくらでも披露してきたであろうその笑み。
この笑みには、わたしもときめいていたことは事実だし、今だってどきどきしている。
けれども。
「お断り!」
一刀両断。
わたしは、彼の言葉を突っぱねた。
「へえ~。そんなことが……」
「うう……」
そんなことがあった日から数日後。
わたしは予約していた花束を取りに来たマンドリカルドを捕まえて、そんな愚痴を吐いていた。
店内に設置したテーブルに突っ伏して、「だからかぁ……」と、どこか遠くを見るような彼の言葉が頭の上から降ってくる。
「さっき、その兄さんに思いっきり睨まれ、いや、笑いかけられたっすけど――なんか、背中が寒くなるかんじがあったんすよね……」
「ご、ごめん……!」
どうやらキャスターはマンドリカルドをわたしがこちらに来てからつくった恋人だと思ったらしく、彼に会う度に威嚇をするらしい。やめてほしい。せっかくここで出会った、気の合う友達なのに。
「まあでも、けっこうこの店も繁盛してきたみたいだし、男手はあったほうが助かるんじゃないっすか?」
「そうだけど……」
そう。たしかにそろそろ、人を雇おうと思っていた。
この店をはじめて数年。徐々に固定客は増えてきていて、取り寄せる花の種類も多くなった。ひとりで世話をするには、ちょっと限界になってきたのだ。
「でも、だからと言ってあのひとである必要性はまったくないもん……」
うう、と再び突っ伏したくなるのを我慢して、テーブルに視線を落とす。
「そこまで言われちゃうと、男としてはちょっとかわいそうになってくるっすよ……」
「えええ?」
なぜ友人でもないマンドリカルドがあちらの肩を持つのか!
なんて思って顔を上げれば、いつもの彼らしい、ちょっと眉が下がった困り顔。
「いやだって、好いた女にそこまで言われちゃうのは、俺だったらしんどいかなーって」
好いた女。
その言葉が、なんだかガツンと心に刺さる。
「それに、あんただってあの人が嫌いでここまで来たんじゃないんでしょ?」
「それは……」
マンドリカルドに図星を指されて、わたしは口を尖らせた。
子供の前ではなるべくしないようにしているが、友達である彼にはなんだかんだ、こうやって甘えてしまう自覚がある。
「じゃあ、俺はそろそろ行くっす」
「えっ」
「俺が来て、そこそこ時間経ってるし……」
まだ帰らないで欲しい、という気持ちで立ち上がった彼を見上げれば、これまた気まずいのか、視線を明後日の方向へと逸らされた。いや違う、視線は店のドアへ。そしてドアの向こう側には、どうにも機嫌の悪そうなキャスターが立っている。
「じゃ! そういうことで!」
「ま、まいどあり~……」
へらへらっと軽く笑うと、そのままドアに飛びついて、買った花束を抱えて店から走り去っていく、マンドリカルド。
それを見送ることしか、わたしにはできない。
愚痴はたしかに聞いてもらえるけれど、どうするかは、やっぱりわたし次第なのだ。
「リツ、」
「店長」
「……店長、配達オワリマシタ」
不機嫌そうな顔でわたしの名前を呼ぼうとしたところで、きちんと訂正を入れる。
渋々ながら、ここ数日徹底させている『店長』という呼び方に切り替えてくれて、こちらとしてもそれ以上は突っ込まない。
「お疲れ様でした。今日はもうこれで上がって大丈夫です」
「よし、じゃあ今からお茶でもしようぜ」
「わたしはこれから娘の迎えがあります」
今日の業務は終了、としたところで、口調はあっという間にいつものとおりに。
そして早速、わたしをお茶に誘ってくるところが、かつてのモテモテぶりを思い起こさせて、なんとも言えない苦い気持ちになる。
「なら、オレもついていく。ここらへんは治安はいいけどよ、男がついてたほうがより安全だろ?」
「……好きにしたら」
何度も何度も、わたしは彼を袖にした。
誘われても断るし、いつかの日のような、ただただ甘ちゃんな女と思ったら大間違いだ、と伝わるように。
それでも彼は、何度でもわたしに声をかける。
諦めない、と言うように。
はあ、と。小さくため息を吐きながら、わたしは店のエプロンを脱いで、娘の迎えに行く支度をした。
本当にこのままここにいる気なのか。と、思ったのは最初の一ヶ月まで。
そのあたりまでは宿に滞在していたが、いつのまにやら部屋を借りたらしい。その部屋で故郷の家族とやりとりをしながら、遠隔で領主業の引き継ぎをしていた、と聞かされたのは、彼がこの町に来て三ヶ月も過ぎた頃だ。
「ようやっと、目処がついたわー」
冗談のようなことを、冗談ではない口調で言ってくる。
この時点で、ようやくわたしは彼の本気度を知った。
でも、どうして、と。疑問は尽きない。
わたしよりも身分も条件も、見た目もいい女なんてたくさんいただろうに。
実際に、本決まりになりそうだったひとだっていたじゃない。
なんで、ここまで追ってきて、今までの自分を捨ててまで、わたしと一緒にいようとするの。
そう、聞ければよかったのだけれど。わたしも意固地になってきていて、聞くことはできなかった。
「ねえねえ、きょうはきゃす、いないの?」
「今日はねー、配達お願いしてるの」
半年もずっと、ほぼ毎日娘の迎えをしていれば、この子もさすがに彼がいるのが当たり前になってきたということだろう。
珍しく大きい花の注文があり、そのまま配達したあとに退勤、と伝えたので、今日は彼がいない状態で娘のお迎えだ。
「ほら、パン屋さん行こう」
「うん!」
けれどそれも、幼子の食い気には敵わないらしい。そのままるんるんと小さな足でスキップはじめたので慌ててその手を握った。
『ほらほら、嬢ちゃん、危ねえぞ』
いつもなら、そう言いながらこの子の手を取る男はいない。
ああだめだ、わたしのほうが彼に依存しているみたいじゃないか!
しっかりしないと、と。そう思ったところでぽつぽつと点いた街灯の向こう側から、青い影がうっすらと見えてくる。
「お。間に合った間に合った」
「きゃす!」
「キャスター」
わたしたちに気付いたキャスターはそのまま走ってここまでやってくると、あきらかに娘ははしゃぎだした。そんな様子の娘に破顔して、キャスターはその長い腕で娘を抱き上げる。そのまま自分の頭を跨がせて、肩車。
「たかーい!」
「そりゃよかった」
「もう遅いのに、よかったの?」
彼は、なんだかんだで店のことをよくやってくれていた。
今日のような大きな花は、わたしだけであったなら注文を受けることすらできなかったところを、彼が運搬する、ということで受けることができたのだ。そういったところは、素直に感謝しているし、実際頼りになる。だからこそ、こんな業務外のことをしてないで、はやく家に帰ればいいのに、と思うのだ。
「いいんだよ。オレが好きにやってることさね」
気にするな、と言外に言われて微笑まれる。
その笑みにまた、どきりと心臓が跳ねる。
ああもう。こんな気持ち、忘れたはずだったのに!
「ほら、夕飯用と明日の朝飯用のパン、だろ?」
「そう~! きょうもおまめのパンにする!」
「いいねえ。オレも好きだぜ、豆のパン」
きゃっきゃとはしゃぎながら、娘は男の肩の上で豆パンについて語る。
つぶつぶなところがいい、しっかり味のしみているところがすき、パンのふわふわもすき。
などなど。これこそ何度も聞かされた話だろうに、キャスターはそうかそうか、と笑いながら聞いている。
なんだかんで、娘には好き嫌いがない。そういうところはとても助かっている。
逆に、というか。好物がキャスターととても似通っていた。
そういうところは、やはり血筋なのか、と思ってしまうほど。
「ままー! いくよー!」
「ほら、店長」
「ごめん、行くね」
考え事をしていたら、自然と歩みが遅くなってしまっていたようだ。
いつの間にか二人から離されていて、慌ててそれを追いかける。
ああでも。
こういう形は、これはこれでいいかもしれない。
この町へ来たときは、ひとりであの子を育てるんだ、と思ってたけど。実際は、とてもいろんな人の手を借りた。そうやって暮らしてきた。今も、彼の力を借りている。それ自体は、きっと悪いことではない。
なにより、あの子が嬉しそうなら、それでいい。
ずっと悔いていた。
なぜちゃんと彼女と話をしなかったのか。ちゃんと、好きだと。愛していると、言わなかったのか。
いつでも言えると思っていた。
今言わなくてもいいと思っていた。
全ては、そんな思い違いが招いたことだ。
たしかにあのとき、オレには縁談話が舞い込んでいた。
そのまま断るつもりでいた。オレには彼女がいた。身寄りがない、ごくごく普通の少女。けれど仕事は熱心で、細かな心配りができる女で。その、優しさに触れてしまって、オレはそのまま彼女に甘えてしまった。
細い腕を引いて、そのままベッドに誘った。
嫌がれば離しただろう。けれど、嫌がられはしないだろう、という打算もあったのだ。
結果、彼女はオレに身を委ねてくれて、それをいいことに、オレは彼女の身体を貪った。
華奢な身体を組み敷いて、できるだけ優しく、なんて言葉はすぐに吹き飛ぶほどに熱中してしまった。
それは一度で終わらず、何度も。夜が来る度に彼女を誘ったこともあった。
今思えば、なんて無体なことをしたのだろう、と思う。
オレがあのとき、ちゃんと気遣っていれば、少しでも自分の立場を理解していれば。彼女が屋敷から離れることもなかっただろうし、誰も知らない新天地で生活、なんてことはしなかっただろう。
それでも、彼女は運が良かった。
周囲に恵まれ、腕の良い領主のいる土地へとやってきて、そして出産することができた。
下手をすれば、死んでいたかもしれないのに、彼女はオレを恨むことなく、今日まで子供と生きてきたのだ。
本当に、よかった。
そう思う資格すらあるとは思えなかったが、良かった、と。オレは心の底からそう思ったのだ。
そして、自分の知らないところで育った自分の種を、今度こそしっかりと見守りたいと思ったのだ。
少し前まで、彼女に新しい男ができて、さらに子供までいる、と。そう思っていたのに。
自分の子供である、とわかった途端に、掌返し。
だがこれも、これこそ、自らが撒いた種そのものだった。
だから、彼女が嫌がったとしても、オレは彼女と子供を見守りたくなったのだ。
当たり前のように断られたのは、さすがにきつかったが。
それでもめげずに、半年。
この期間で、領主業を代行させてた弟への引き継ぎも完了し(ふざけんなてめえ!という手紙は受け取ったが、最後には折れてくれた)、宿から荷物を引き上げて部屋を借り、彼女の店で働いて、半年。
ようやく娘はオレにも慣れてくれて、きゃす、と舌っ足らずな声で呼んでくれるようにもなった。
ただ、母親である彼女からの態度は、それほど緩和されていない、と思う。
わかっている。それほどのことをした。
生半可なことでは、彼女の心を再び動かすことなど、できはしない。
だから少しずつ。積み重ねていく。
彼女の店で働き、自分で汗水垂らして働いた賃金を得て、生活する。
少し生活に余裕がでてきたら、これまた少しずつ、金を貯める。
それは、いつか彼女に贈るものを買うための資金。
故郷にいた頃も、オレは彼女になにかを贈る、というようなことをほとんどしていない。唯一覚えがあるのは、視察先で見つけた黄色い花。なんとなく彼女に似ていると思って、何本か摘んだものを、そのまま手渡した。そのときの彼女の顔を覚えていない。なんだか妙に気恥ずかしくて、そのまま目を逸らしてしまったのだ。だから、あの花を喜んでくれたのかさえ、オレにはわからない。
けれど。
彼女は、今、花屋をやっている。花が嫌いならば、きっとこんな職業をやろうとしないだろう。実際、彼女の花の扱いは丁寧なもので、美しく咲いた花を見つめる目も、優しい。
喜んで、くれていたらいい。
あのときの花が、どんな名前なのかもわからない。色が黄色、ということは確かだが、それ以外はどんな花だったのか、わからなくなってしまった。
でも次も、贈るのならば彼女に似た花がいい。
そしてその花を差し出しながらデートに誘おう。
デートは無理でも、お茶とか。
仕事終わりに一杯だけでも、飲めるといい。
それも無理ならせめて、今度こそはきちんと花を贈って。
彼女が喜んでくれれば、それでいい。