カフェ七海 そのカフェは、通っている高校の隣駅を降りて少し歩いたところにあった。
改札を出るとすぐ歩道橋になっていて、東へ歩き、階段を降りてまたもう少し歩く。
商店街を抜けて、一本入った通路。ぐるりを小奇麗な住宅に囲まれているそのカフェの名前は、七海といった。自分の姓と同じ名のついた店に、七海はとても惹かれた。
外装は古民家風で、クリーム色のごつごつとした土壁からはどこかアットホームさが感じられる。たまたま、何とはなしに一駅先で降りて、意味もなく歩いて見つけた店。七海は思索に耽りたいとき、まるで馴染みのない駅で降りたり、普段は通らない方の道を選んだりすることがあった。
見つけたその時は何だか気恥ずかしくて、そもそも男子高校生がカフェにひとりで入るというのもどこか気が引けて、私服でまた来よう、と決めてすごすごと帰ったのだった。それでなくても、七海の地毛は明るいブロンドで、瞳は碧色、身長も大抵の人からは見上げられる程度に高い。要するに目立つ。そんな目立つのが学ランを来て、こんなこじんまりとした可愛らしいカフェにひとりで入れば、それは悪目立ちという事象に変わる。私服なら、そういうファッションなんだろうと思ってもらえるので、幾分衆目は緩和される。七海には、無知な他人の無遠慮な目が自分にどう向けられるか、常に頭に入れながら生きているきらいがあった。
というわけで、七海はダッフルコートとブルージーンズという姿で、お気に入りのチャンドラーの文庫本を携え、休日に電車に乗ってわざわざこのカフェにやってきた。
普段なら、休日を潰してまで行きたくない、寒いし、と思いそうなものなのだが、どういうわけか足が勝手に動いた。自分と同じ名前のカフェ。そんなの、別に珍しくもないだろうに。まあ、あと数ヶ月で卒業なのだし、この界隈に来ることももうなくなるだろうから、軽い思い出になればいいか。そう思って、ウッドベースの重厚な扉を引いた。
カラン、だかシャリン、だかいう音が鳴り、客の来訪を告げる。店内は意外と広く、奥行きがあった。休日の午前中ということもあってほとんど満席で、やはり客層は圧倒的に女性だ。店員の姿はなかなか見えない。何だか居たたまれなくなってきて、やはり一度出直そうと踵を返した時、「お兄さん、ごめーん。適当に座ってて」と、異様にフランクな声がした。
え、今のは、自分に言ったのか?というか、今のは、接客?
七海は距離感の近さに戸惑ったが、こういうカフェには来慣れていないから、こんなものなのかもしれないといったん受け入れ、店員の指示通り、ローテーブルの置かれている一人掛けのソファに座った。
所在なく、内装を観察する。外装でイメージしていた店の雰囲気とは違い、壁面や天井には抽象画のような塗装が施されていて、異空間に落っことされたような感覚だ。蒼色と赫色がちょうど半々ずつ店を覆うように塗装されていて、天井の部分でまじりあって茈色に変化している。地球の一番上の部分で見る夜空のような、昔の人が思い描く宇宙のような。
「お待たせしました。注文決まりましたか」
はっとして前を向くと、そこには目を瞠るような美男が立っていた。白いシャツに黒いソムリエエプロン、それだけでとんでもなく画になっている。そして、雨の糸みたいな銀色の髪。人形のように整った顔立ち。自分より鮮やかに輝くアイスブルーの瞳。
どこか彫刻のように人工物めいている彼に無表情で見下ろされると、委縮してしまう。
さっき軽い感じで声をかけてきたのは別の店員なのだろうか。それにしても愛想がないな、まあ男相手に振りまくものでもないか、と七海は思い、あまり見ずに「この、パンのセットで」と写真と文字だけのシンプルなメニューを指差した。
「Aでいいですか?」
「あ、選べるんですか。オススメの方はどちらでしょうか」
なるべく丁寧に質問してみたが、銀髪の店員はにこりともせず、「Aの、カスクートがいいんじゃないかと」と抑えた声音で言った。カスクート、というのはよく知らないが、写真で見る限りフランスパンにチーズとハムとレタスが挟んであって、確かにこれなら好みだと感じ、それにすることにした。
七海がオーダーする前に「飲み物は、紅茶で?」と聞かれ、反射的にうなずいた。実際、紅茶にするつもりだった。なぜわかったのだろう、やはり長く店をやっているとわかるようになるものなのだろうか。ぱちりと目が合うと、店員はさっと目を伏せ、「じゃあ少しお待ちを」と言って足早にキッチンへ戻って行った。
あまり人付き合いが得意でないタイプの人なのだろうか、と七海は怪しまれない程度に店員の姿を目で追った。店内に他の店員の姿はどう目を凝らしても見られず、やはり入店した際の店員も、先ほどの美しい店員も、同一人物のようだった。そうだとしたら、あの態度の差はいったいどうしたことだろう。悪い態度だったわけではないが、第一印象との差異が大きくて、少し妙な気分だった。
だが、そんな気分は出されたカスクートと紅茶の前に見事に霧散した。カスクート、という名前を七海は初めて聞いたが、こんなにも美味しいパンの調理方法をなぜ今まで知らなかったのかと心底悔しさが込み上げた。小麦のいい香りと、薄くスライスされた舌触りの良いハム、瑞々しいモッツァレラチーズが絡み合って、最高のハーモニーを奏でている。そして紅茶はとても香り高く、家で飲むティーバッグの紅茶とは比べ物にならない。一口含むと芳醇な茶葉の香りが鼻腔と口腔両方を覆い、至極の時が流れた。わざわざ休日を使って来た甲斐があった、と七海は思った。
店はいい具合に賑わっていて、人々のさざめくお喋りや食器がこすれる音が耳に心地 良い。読書をするには丁度いい環境音だ。七海はもう何度も読んだ古い小説のページを繰りつつ、ゆっくりと紅茶と食事を味わった。
何度か、サトルさん、美味しかった、また来るねという女性の声が聞こえ、さっきの店員の名前がサトルというらしいことがわかった。
小一時間滞在しても、やはりこの店にはサトルしか店員は見当たらない。彼がオーナーということになるんだろうか、と七海は思ったが、気安く聞けそうにない雰囲気なので、大人しく本の世界に没頭した。
帰り際のお会計も淡々と事務的で、男が嫌いなのか自分が気に食わないのか、と思っていたら、「美味しかった?」と突然聞かれて驚いた。
「えっ、あ、はい。とっても」
「そう、よかった」
その時初めて彼はぎこちなく笑って見せた。その笑顔が、年上の男性に対して言うのも何だが、妙な幼さとかわいらしさがあって、七海はどこかこそばゆい気持ちになった。最後の最後に笑いかけてくれたことにも、少しほっとした。受け入れられたような気がした。
「また来てよ」
その言い方は、店員の決まり文句というにはあまりにも切羽詰まっているというか、絞り出したような口ぶりだった。招かれざる客だったかと感じていた七海にとって、それは意外な展開だった。
「はい。また来ます」
七海もつられて、少しぎこちない返事をして店を後にした。何故か駅について電車に乗るまで、心臓がどくどく、いつもより速く鼓動を打っていた。
*
ことり、と置かれた小皿の上には、オーダーした覚えのない黒くて四角い小さなお菓子が乗っていた。七海が顔を上げると、「これ、サービスね」と笑む店主がいた。
「あ、ありがとうございます」
「まだ試作品なんだ。デーツとくるみのブラウニー。あんまり甘くないから、甘いもの苦手でもいけると思うけど」
甘いものが得意でないことがなぜわかったのだろうと七海は驚いたが、それよりも彼__サトルがそんなサービスをしてくれることの方がもっと驚くべきことだった。
「また来てくれたから、特別ね」
長い人差し指を口元に当て、店主は柔らかく完璧にほほ笑んで見せた。自分を覚えてくれていた嬉しさと、かつ初回の時との対応の差に戸惑う。
平日の午後、早々と推薦で大学進学を決めている七海は、受験対策の授業を取っていないため早上がりすることができた。今日なら空いているかもしれないと思い立って、1週間も経たぬ内にカフェ七海を訪れた。読みは当たり、数組の客がいるだけで、店内にはゆっくりとした雰囲気が流れていた。空いているからこそ、店主もこんなサービスをしてくれたのだろう。この前は忙しかった上に一見客だったから、素っ気ない感じだったのかもしれないと七海は合点した。
(……美味しい。甘くない)
ブラウニーはほろ苦く濃厚で、デーツの甘味がほのかに香る程度で、普段洋菓子はめったに食べない七海の口にも合った。紅茶にもよく合い、こんなのも作れるなんてすごいなと思った。
少しして、店内にいた客が何組か帰ってから、店主が「どうだった?ブラウニー」と声を掛けに来た。
「すごく美味しかったです。甘いの苦手なんですけど、これは全然」
「そっか。僕的には甘さが全然足りないんだけどね」
「そうなんですか。でももっと甘くてもいいと思います。これ、かなり控えめだと思うので」
「ん。参考にするよ。若い子の意見は大事だからね」
若い子、という表現は、七海はあまり好きではない。対等に扱われていないことが、仕方ないこととはいえ不当に思えるのだ。それに何だか、自分とは違う世界の生き物、と突き放されたようにも感じる。まあ、学ランのまま店に来ておいてそんなことを思う資格もないのだけれど。
「高校生、だよね。隣の駅の学校?」
「ええ。もうすぐ卒業ですけど」
「そうなんだー。珍しいよね、男の子ひとりでこんな店来てくれるの」
思いがけず、店主が話を広げてくれる。客商売にありがちな、気さくで、ともすれば軽い感じもする話し方と距離感は、前回の彼とはあまりにも違う。
「そうですね、普段はあまり入らないですけど。名前が同じで気になって」
「…名前?」
「自分の名字も七海、というんです。あ、…もしかしてマスターも同じ名字ですか?」
一瞬、空気が変わった。それは店主の瞳にほんの少しの翳りが浮かんだから、なのだが、七海にはそこまで見抜くことはできなかった。ただ、何かほんの少し変わった、ということを肌で感じた。
「…ううん。僕の名字は、五条だよ」
「ごじょう」
「そ、五条。数字の五に、条件の条。五条、悟」
「五条さんですか」
「…うん」
「七海建人といいます。よろしくお願いします」
「うん。…よろしくね、七海くん」
その時の五条の寂し気な笑顔の意味が、七海にはよくわからなかったが、思いがけず仲が深まったことを素直に嬉しく思った。なぜ七海という名前を店に冠したのか、気にはなったが何となく聞けないまま、その日は五条とそれ以上の会話を交わすことはなかった。