人質(仮) 暫く進めば、この辺りは手入れがされている、ということに気付いた。道は歩きやすいように整えられており、石や枝も落ちていない。やはりこの先に誰かいる、と乙骨は確信を強めた。
さらに進むと、道が少し拓けてきた。上りはかなり緩やかになり、歩くのも楽になってきた。不意に、鼻腔に植物と土以外の匂いを感じ取る。水の匂いだ、と気づけば、思わず走り出していた。一層鬱蒼と生い茂る樹々を掻き分けると、ついにほぼ平坦な土地が眼前に現れる。
「わあ……」
感嘆の声が漏れた。動画の撮影者が言っていた通り、そこには小さくて丸い湖があった。山の中に突如現れるそれは、まるで砂漠のオアシスのような雰囲気を漂わせている。火山でもないのに、ぽっかり空いた穴に水が溜まってできているのが、神秘的な感じだ。湖というよりは大きな池に近いかもしれない。水は澄み渡っていて、ぞっとするほど綺麗なエメラルドグリーンだ。誰も近づかない廃れた地域に、こんなに美しい場所があるなんて、と乙骨は感動さえ覚えた。
周囲を見渡すと、湖を正面にして左の奥の方に、緑に覆われた家らしき建物が見えた。ロッジハウス風で、家から直接湖に渡れる木製の簡素な丸太橋がかかっている。
呪詛師のアジトというよりは、金持ちの別荘か何かと思えばしっくり来た。
ざり、と車輪が地面を滑る音。乙骨は自然を満喫するのを即座に辞めて、緊張感を巡らせながら背後を振り返る。
そこには、車椅子に乗った男がいた。
左半身は酷いケロイド痕で覆われて、目も潰れているのか黒い眼帯をしている。だがその身体的特徴よりも、リネンシャツにコーデュロイパンツの清潔感のある服装、七三にセットされているくすんだ黄金色の髪のおかげで、とてもサッパリとした爽やかな印象が勝つ。
怯えも困惑もその表情には一切なく、ただまっすぐ、湖と同じ色の瞳が、突如現れた闖入者を見据えている。その瞳に見つめられると、腹の中がぞわぞわとして落ち着かなく感じた。
「どちら様ですか」
掠れた声が聞く。火傷のせいで声帯がうまく動かないのだろう。もしかして、ここは療養所か何かなのだろうか、だとすればこんな凶器を持った自分はとんでもなく場違いではないか。焦った乙骨は、あの、ええと、とまるで高専時代に戻ったように狼狽えた。
「憂太?」
聞き覚えのある声に名を呼ばれ振り返る。そこにいた人物の姿に、乙骨は心臓が飛び出そうなほど驚いた。
「……五条先生!?」
こんなところにいるはずのない恩師が、かつての姿と寸分違わぬ格好、つまり上下とも濃紺の規定服と黒いアイマスクに白髪を逆立てた姿で立っていた。
「やっぱり憂太だあ!ひっさしぶり~!髪伸びたね!」
「うわあっ、ほんとにお久しぶりです!お元気そうですね、って何でここに!?」
かつて乙骨を呪術の世界に導いてくれた恩師の五条とは、実に五年ぶりの再会だった。
渋谷事変で敵方に封印された後、呪力や術式をほとんど喪った五条は、呪術師も教員も五条家の当主さえも引退したと聞いた。その後の詳細は全く知らされず、一体どこへ消えてしまったのかと、教え子たちは皆心を砕いていた。皆何だかんだで「五条先生」が好きだったし、信頼していたのだ。
「思いがけず早期リタイアが叶ったからね。とりあえず人里離れた別荘でのーんびり過ごしてるところ。慎ましく暮らしてれば生まれ変わっても余るぐらい貯金もあるし!」
気安い口調も気軽な雰囲気も、かつての教員時代の五条と何も変わらない。乙骨は、ずっと気掛かりだった五条の行方を思いがけず知れたことで、心の底から安堵した。早く狗巻やパンダ、虎杖にも教えてやらないと。五条に話したいこの五年間の出来事も山のようにある。
「せっかくだしうちに上がっていきなよ。ちょうど散歩もキリのいいところだし」
五条が目線を送った先、車椅子の男はこちらを見ずに、遠く湖の淵を眺めていた。その横顔に、どこか見覚えがあるような気がした。呪術高専で会ったんだろうか、それともまた別のところだっただろうか?
「先生、あの人は…?」
「ああ、昔なじみでね。世話になった人で、今は僕の別荘で療養中。空気のいい施設がなかなか見つからなくてね~」
であれば、見かけたことがあるように思えたのは気のせいだったか。だけど、確かにどこかで。あまりまじまじと見るのも不躾に感じ、そっと視界の端に彼を留める。それよりも今は、恩師との再会の喜びで胸がいっぱいだった。
「さて、そんじゃ行こうか。積もる話もたくさんあることだしね」
そう言って五条は慣れた様子で車椅子の後ろに回り、ゆっくりと押しながら家の方向へと足を向けた。
乙骨も後に付いて後ろを歩く。
ともかく、危惧していたような呪詛師が潜伏していなくてよかった。
そういえば、ここに入り込む前に張られていた結界のような術は、結局何だったのだろうか。
乙骨は歩きながら、何か微かな違和感を覚えたのだが、その正体は再会の喜びに掻き消えた。