たまごがコウノトリを運んでくることもある・後編湿った土の匂いと草の青い匂いが充満するその場所からバクラは動けなかった。喉が干乾びてしまったのか声すらも出せない。弱々しく呼吸をするだけ。
こんなに屈辱的な状態は許すことができない。人間のようなちっぽけな姿になったことも受け入れ難い。
地面を這った指の先は擦れて血が滲んでいた。鱗に覆われていない部分は耐久力もないらしい。
小動物が草木を揺らす音がする。人の気配はしない。そんな森の中で現れたのは、翼が生えた少年だった。
「大丈夫?」
恐る恐る窺うような素振りを見せてから、すぐに慌ててしゃがむ。バクラの様子がおかしいことに気づいたらしい。眉尻を下げて顔を覗き込んだ。あれこれと話しかけ、バクラに意識があるか判断しているらしかった。
次に、少年はバクラに怪我がないか全身を注意深く確認し、擦り傷以外は目立つ外傷がないことが分かると、バクラの上半身を少しだけ起こし、口元に革袋を近づけた。
「水だよ」
噎せないように少しずつ傾ける。革袋から流れ出た少量の水はバクラの口から入り、渇ききった喉に潤いを与えた。
その後、少年はどうすべきか考えているようだった。難しい顔をしてから、バクラに寄り添って身体を横にする。翼を傘のように開いて二人の身体を覆う。どうやら風避けのつもりらしい。
「ごめんね。窮屈だけど、こうするしかなくて」
少年は優しい笑顔を浮かべ、自らの体温を使ってバクラを温め始めた。変温動物と理解しての行動だろう。細くしなやかな身体を密着させる。石鹸の爽やかな香りがバクラの鼻に届く。純白の翼は柔らかくて肌触りがいい。
間を持たせるためか、バクラの意識確認のためか、少年はゆっくりと静かに話し始めた。彼は獏良了と名前でドミノタウンというところで暮らしているらしい。食堂でアルバイトをしていて、今日はたまたま雑務でこの森に寄ったのだという。
趣味のボードゲームの話、勤める食堂のおすすめメニュー、仕事仲間について――。
弱った身体にじんわりと染み込むような優しい声は不快ではない。むしろ、柔らかい口調で紡がれる言葉が心地いい。先ほどまで心に渦巻いていた英雄への憎悪が薄れていく。獏良の話にもっと耳を傾けたいと望むくらいに気持ちが落ち着いた。
バクラの身体が温まって立てるようになると、獏良はバクラの脇の下から手を差し入れて抱え、空へ舞い上がった。危なげな羽ばたきで途中何度も落ちそうになりながら、時間をかけてドミノタウンまで向かう。ドミノタウンに着いてからは病院に直行し、バクラの診察に付き合った。
バクラは身体が動くようになってからもこの町に留まり、冒険者として稼ぐことにした。もちろん、ただ金のためだけではない。元の力を取り戻すには、情報収集をする必要があった。冒険業界には情報が集まり易い。
空いた日には獏良が勤めている食堂に通った。最初はぎこちない笑顔で接客をされた。動物学的にバクラは天敵に当たるのだから仕方がない。
二度目、三度目と続き、獏良の笑顔は引きつった表情に変わっていった。自分の出勤日に合わせるようにバクラが現れれば、不審に思うのも無理はない。実際、バクラは食堂に出入りをしている業者を買収し、勤務表を手に入れていた。
獏良は仕事が終われば、屋根から空を飛んで帰ってしまう。さすがに鳥類の機動力には敵わない。ファンが多いためか、住所は仕事仲間にも伏せられていた。城之内なら知っているだろうが、全面的に獏良の味方だから口を割るはずがない。まったくもってやり辛い。
ハーピィの習性について調べていくうちに、獏良の種は雌雄同体の名残りがあることを知った。確かに体調不良ということで、休憩室に籠っていた日がある。これ以上ない弱味だ。何とか利用できないだろうか。数ヶ月に一度しか機会は訪れないらしいが――。
*****
バクラはランチセットをフォークで突きながら、獏良のいないカウンターを眺めていた。他の従業員はせっせと客席とカウンターを往復している。
ここ二週間、獏良はバクラをあからさまに避けて仕事をしていた。あんなことがあったのだから当然のこと。三日前からは店に姿すら現さない。シフト表によると、勤務のはずだが。
テーブルに勢いよく椀が置かれた。料理が波打って溢れそうになる。
「鶉卵のピリ辛漬け・生、お待たせしましたぁ」
運んできた店員――城之内は接客態度とは思えない不機嫌な顔をしていた。悪びれる様子もない。声の音量を少し低くし、さらに続ける。
「獏良が最近元気なかったの、お前が原因だろ?」
「客に対する態度じゃねぇな」
バクラの顔色は変わらず、何事もなかったかのように食事を進める。
城之内は一度息を吐いてから、首に手を当てて明後日の方向を見て溢す。
「こっちはダチを傷つけられてんだぞ……。口止めされてっし、恋愛沙汰に割って入るつもりはねえから黙ってるつもりだったが、フェアじゃないからな……」
バクラの顔を真っ向から見つめ、迷いなく言い放った。
「待ってたって獏良は来ないぞ」
定食に向けたバクラのフォークが止まる。
「どういうことだ?」
「体調が悪いって聞いてる。ただ、一ヶ月くらい休みが欲しいって言っててな。そんなに悪いのかって、店長と話し合って、今日店閉じた後に二人で様子を見に行くんだ。お前、何か知ってんのか?反応からすると、何も知らねえんだろうけどよ」
バクラはフォークをテーブルに静かに置き、訝しげな顔で思案した。そして、「可能性」に気がつき、目を見開いて押し黙った。
*****
獏良は自宅のベッドでシーツを被り、途方に暮れた顔をしていた。肌はカサカサと乾燥して、髪は乱れ、唇は薄桃色から色素が抜け落ち、目の下にはクマ。そして、そばには卵が一つ――。
普段獏良が産んでいるものより一回り大きい。腕の中に置いて温め、シーツをすっぽりと被って保温している。抱卵を続けながらも疲労の色は濃い。しかし、休むわけにはいかなかった。
獏良が異常に気がついたのは一週間前。腹に重さを感じ、擦ってみるとしこりがあった。理解した瞬間、言い様のない恐怖に襲われたことを覚えている。前々日から胃もたれはしていた。ただの体調不良だと思っていた。
しかし――これは卵だ。経験したことのない重みから生命が宿っていることを理解した。あり得ない事態に混乱した。排卵はもう終わっているはずだったのだ。三個を産み終え、卵管内は空。次の排卵日にならなければ、卵巣から卵の元となる卵胞は排出されない。
後孔の中で射精されても、卵胞がなければ受精などできるわけがない。それは、バクラも同じはずだ。目の前で三個の卵を見ていたのだから。「有精卵を産ませてやる」と言っても、できるとは思ってなかっただろう。卵子がなければ身籠らない。ミジンコなどの無性生殖を除く、全有性生殖生命体の常識だ。
通常、大型の生物は一度の出産で子どもを一、ニ頭産む。それは、捕食される可能性が低いからだ。逆に原始草食動物は数が多い。異種共存の世の中になってからは、知性ある動物は補食される危険がなくなったために全体的に出産数は減少傾向にあるらしい。
ただ低確率なだけで、まったく存在しないわけではない。もしも、四つ目の卵胞が卵管の奥に残っていたら?まだ殻に包まれていない状態で子種を受け入れたら?同じ人型であるという共通点はある。異種交雑の記録は昔から残っている。もしかしたら、天文学的な確率で有精卵が産まれてくるのでは――。
その可能性に気がついたときは何もかも遅かった。卵は充分な大きさに育ってしまっている。
その晩、獏良は一睡もできなかった。自宅のベッドの中で卵の重みを感じながら震えていた。
誰にも言えないまま数日が過ぎた。普段通り出勤して仕事をこなす。不安を払拭するために仕事に専念した。腹の中の卵は育っていく一方だというのに。
当事者であるバクラにも言えなかった。本人でもあり得ないと思っているくらいだ。きっと、夢にも思っていないだろう。客として訪れるバクラに背中を向け続けた。
産卵が近づいていることを感じ、やっと店長に休むことを伝えた。動揺していたから上手く言葉にできていたか不安ではある。余計な心配をかけていないといいが。
それから食料を買い込んで自宅に籠った。産卵に慣れた身体とはいえ、初めて有精卵を産むのに数時間かかった。
問題なのは、それからだ。雌ではないから上辺だけの知識があるだけ。急いでタオルに包んで温めた。無精卵と違って潰してはいけないので神経を使った。
小さな命の重さにその場から離れられなかった。風呂に入るなどしたら、冷えて死んでしまうかもしれない。眠ってしまったら、卵を潰したり落としたりしてしまうかもしれない。極度に恐怖を感じた。抱卵の方法は知っているのに。
さすがにトイレは我慢ができずに急いで用を足した。それだけでも、心臓が早鐘のように鳴った。
眠らないように身体を抓りながら三日間、卵を温め続けた。買った食料は底をついていた。気力だけ意識を保っていた。
卵の状態で預かってくれる業者がいるという。しかし、相手が悪徳業者だった場合は卵を食用として売り流され兼ねない。バクラが無精卵を飲み込んだ記憶と結びつき、おいそれと他人に任せる気は起きなかった。
時折、卵の中で動く音が聞こえ、獏良が誤った選択をするのを止めてくれた。睡眠もなし食料もなしで倒れる寸前だった。卵が孵化するまで三ヶ月ほどかかる。最初の一ヶ月は身体を作る大事なときであり、繊細な時期だから離れたくない。実際に直面して、いかに準備が足りなかったかよく分かった。
ベッドに卵と共に横になる獏良の目に涙が浮かんだ。意識が朦朧とする。泣きたいわけではない。勝手に涙が頬を伝ってシーツを濡らす。底知れない不安が獏良の胸に広がっていた。誰でもいいから助けて欲しい――。
「本当だったとはな……」
突然、室内に聞こえた声に驚いて顔を上げると、戸口の前にバクラが立っていた。
虚ろな目で侵入者を見つめ、玄関の施錠はしたはずだと遅れて頭が回った。「あの日」も同じことがあったから、建物に侵入するスキルか何かを持っているのかもしれない。バクラの職業は盗賊のはずだ。あってもおかしくはない。
バクラは片手に紙袋を抱えていた。獏良の姿を見て長く息を吐き、
「こんなん気づけるか……。どんな確率だよ」
空いている手で頭を乱暴に掻いてから、無造作に歩を進める。
途端、獏良の脳裏に卵が飲み込まれたときの光景がよぎり、卵を両手で庇った。翼を広げ、喉の奥から「ギッギギギ」という音が出た。羽は逆立っている。全身での威嚇。
「落ち着け」
バクラはブーツをコツコツと鳴らし、ゆっくりとした動作で近づく。腰を下ろし、手を獏良に向かって差し出した。
獏良がさらに威嚇音を出そうとしたとき、背中に手がやんわりと置かれる。ぽんぽん、と子どもにするようにあやす。
「よく頑張ったな」
紙袋をベッドの上に乗せ、獏良と視線を合わせる。先日のような獰猛な目はしていない。獏良の威嚇が止んだ。
「食いもん買ってきた。少し腹に入れてこい。それで、水浴びでもして寝ろ。卵はオレが見とくから」
その言葉を信じたらよいか迷っている獏良に、バクラは紙袋から器を取り出して見せた。一口大に切られた果物が何種類か詰まっている。瑞々しさに獏良の喉が鳴る。
バクラは獏良の手に器を乗せ、ベッドを降りるように促した。限界に達していた獏良はそれ以上疑う余力もなく大人しく従い、部屋を出た。隣の部屋はキッチン一体型の手狭なダイニングルーム。はっきりしない頭で果物を摘まむと身体中に水分と糖分が染みて生気が蘇るよう。甕から水を組んで浴室で簡単に沐浴をした。
バクラに言われた通りに行動したのは、ほとんど疲れで頭が回っていないからだ。それは獏良にとって怪我の功名だった。無駄な言い争いをせずに済んだ。
全身を綺麗にしてからマットを敷き詰めたカウチに座ると、途端に眠気に襲われ、そのまま横になって眠ってしまった。
*****
獏良が部屋を出ていってから、バクラは胸元にある純白な卵を見つめた。タオルに包まれ、静かに収まっている。わずかに感じる命の気配。
獏良は見るも哀れな状態だった。城之内から無理やり住所を聞き出して正解だった。一発殴られた甲斐がある。城之内はまだ完全には納得がいかないようだったが、一度だけチャンスをやると付け加えた。
獏良をあのままにしておけば、数日で倒れていただろう。念のため、行きすがら食料品を買ったのも正しい判断だった。
異種族が共存する世の中になってから、市場では無卵のみを扱うという規則ができた。だから、バクラは初めて有精卵を目にした。無精卵よりも重量感がある。口から細長い舌がチロチロと覗いた。
*****
獏良が意識を取り戻したのは、それから半日。目を開けたところで混乱して起き上がり、寝室にあったタオルケットが身体から床に落ちた。持ってきた記憶はない。
窓の外は昼間のようではあるが、何時間経ったのかはっきりしない。睡眠はしっかり取れたらしい。正常に脳が動き出し、天敵に卵を預けたままであることを思い出した。慌ててカウチから降りて寝室へ飛び込んだ。
ベッドの上に卵とバクラ。記憶が途切れる前の状態と同じだ。獏良の肩から力が抜ける。
「よく寝たな。半日も眠ってたぞ。顔色が少しよくなってる。まだ休んでろよ」
「あ……」
獏良は服を握り締めて視線を斜め下に向け、
「なんで……僕の……卵……」
食べなかったのか、と続ける前に、バクラが口を開き、事も無げに言った。
「お前の卵だが、オレ様の卵でもあるだろ?まあ、本当にできるとは思ってなかったがな。どんな確率だよ」
皮肉めいた笑みを浮かべてから卵を一撫で。慈しむような柔らかい手つきに、獏良の目頭が熱くなった。今まで気を張っていただけに涙腺が脆くなっていた。
「じゃあ……もう少し任せてもいい?僕、まだ眠くて……」
バクラは安心しろというように深く頷いた。
しっかりと休息を取った獏良は抱卵に戻った。バクラはモンスター討伐へ向かう前にタオルで巻いて卵を保温するように湯たんぽを置いていった。同じ卵生だからこその的確な知識。これにより、獏良は食事や風呂など自由に過ごせるようになってストレスが減った。何よりも孤独ではなくなったことが大きい。
バクラは毎日顔を出し、食事や飲料を差し入れた。親切心からではない。動けない獏良に対して当然の行動だと本人は思っていた。それは奇しくも鳥類の求愛行動である給餌になっていた。鳥類は食料を熱心に運んでくる個体をつがいと見なす。獏良に組み込まれた遺伝子はバクラの行動に応えていった。
獏良が一人で抱卵していると食料を抱えたバクラがやってくる。モンスター討伐の依頼がなければ、そのまま泊まっていく。狭いカウチで寝泊まりしている姿を見ると、どれほど安心するか。
バクラとしても、つがいと認識した相手がそばにいることで満たされていた。蛇の性分は束縛。原始種の雄は雌に群がり、絡んで何日も過ごす。獏良を手元に置けることは本能的に至上の喜びだった。
*
抱卵期に入ってから三ヶ月。最初の一ヶ月で卵の中にいる雛は身体の基礎が出来上がる。布で簡易的なハンモックを作り、獏良は卵を抱えて外出するようになった。自宅に籠っていたときと比べると遥かに順調な日々。雛が卵の中でカサコソと動く振動を感じると嬉しくなる余裕もできた。
獏良がベッドで抱卵していると、バクラがホットレモネードを作って持ってきた。サイドテーブルに置くと屈み、
「そろそろか?」
「うん。いつ産まれてきても、おかしくないね」
獏良は横になったままでレモネードを口にし、ほうと息を吐いた。
「考えてるのか?」
「何を?」
「名前」
卵を温めることばかりを今まで考えていた獏良はハッとして、首を横に振った。
「まだ……。考えてる?」
決まりの悪そうな顔で尋ね返すと、
「お前が決めろよ。今回、苦労したのはお前だろ。オレは次の機会でいい」
「それって……」
そのとき、卵が大きく揺れた。コンコンコン、と中から叩く音が聞こえ、パキンと殻にヒビが入る。小さな欠片が剥がれ落ち――。
「産まれる……!」
+++++++++
卵を産ませたかったので書いた話でした。