扇子「これを俺に?」
煉獄は驚いた顔で炭治郎を見た。炭治郎が差し出したのは、朱に染められた品の良い扇子だった。任務で出かけた先で、腕の良い職人がいるという店で、買い求めたものだ。
鬼殺隊に入り、煉獄の継子となった彼は、順調に階級を上げていて、それに合わせて給金も少し増えていた。
ようやく、いくばくかの余裕ができたその使途として、思いついたのが自分の師範への贈り物だったというのだから、なんとも健気な話だ。
煉獄はそう思い、それを受け取った。淡い朱色でやや小ぶりのそれは、もしかしたら女性向けなのかもしれない。だが、そんなことは気にならなかった。なにより、開いた扇子から漂う香りが気に入った。きっと、骨の木の香りと、焚きしめた香が混ざり合っているのだろう。爽やかで、仄かに甘い。
「……ありがとう、竈門少年。とても良い香りだ」
瞼を伏せてそれを味わい、再び炭治郎を見ると、なぜだか彼は頬を染めて俯いていた。
「あの、俺、この香りを嗅いで、煉獄さんにぴったりだと思ったんです。だから、どうしても差し上げたくて」
慣れない買い物だったのだろう。それに、こんな贈り物をするのも、まだ若い彼には経験のないことだったのだろう。
こんな、まるで自分の想いを相手に伝えるような。
煉獄は、静かに自分の継子を見た。その眼差しの中に、呑まれそうな熱がちらついているのを見た。
ふう、と微かに息を吐き出す。手の中の扇の香りが、甘やかさを増したように感じた。
「昔の人は、さまざまに扇子を用いたそうだ」
歌をしたためて贈ったり、的に向かって投げて遊んだり。
「表情を隠したり、内緒話をしたりな。こんなふうに」
そう言って扇を広げると、炭治郎にずい、と顔を近づける。
爽やかで甘い香りが広がり、二人の鼻先が触れんばかりになる。煉獄は目を伏せて、少し顔を傾けた。炭治郎は間近に迫った彼の顔に、焦ったように瞬きする。もう、互いの唇の体温が感じられるほど、近くにある。
そしてそのまま、触れることなく、唇は離れていった。
「……やはり、君にはまだ、早すぎるな」
首を起こして、煉獄は微笑んだ。ぱしりと扇子を閉じて、背を向けようとする。
その羽織を、炭治郎は掴んだ。振り返る煉獄に告げる。
「すぐに、追いつきますから。……待っていてください」
真剣な眼差しで、見つめて言うものだから。その赤みがかった瞳の中心に、燃え盛る熱を揺らめかせて。
煉獄は一瞬、息を呑む。
それから、唇の端を柔らかく持ち上げた。
「急いでくれ。待っているぞ」
そして今度こそ、羽織を翻して歩み去っていった。
「あなたがそんなことを言うから、俺は必死で頑張ったんです」
「……そんな意地悪を、言っただろうか」
煉獄は決まりの悪い顔をして、軽く笑う。すぐ隣には炭治郎がいて、洋燈の揺らぐ灯りのもとで、彼の髪を弄んでいる。
煉獄の手にはあの日の扇子がある。あれから大切に使っていたが、香りが次第に薄くなっていったので、炭治郎が任務のついでにあの扇子屋に寄り、再び香を焚きしめてもらったのだ。
本当は、そのときのことは煉獄もよく憶えていた。だが、今や柱になり、煉獄の恋人となった炭治郎に憶えていると言えば、きっと意趣返しをされると思った。
そうでなくとも、久しぶりの逢瀬なのだ。きっと長く、執拗に愛されるだろう。泣かされるのはいつもこちらだ。この上、意地悪までされてはたまらない。
「俺、ちゃんと追いついたでしょう?」
甘えるように、炭治郎が顔を覗きこむ。
「ああ、そうだな」
いつの間にか、立場が変わってしまっていた。教え導く相手だった少年は、気づけば自分を翻弄するようになっていた。だが、その事実が胸を高鳴らせるのだから、まったく始末に負えない。
「では、今度はちゃんと口づけよう」
そう言って、煉獄は扇子を開く。
そのまま扇の陰で顔を近づけて、煉獄はゆっくりと、その唇を触れさせた。
あのときと変わらぬ、爽やかなのに甘さを秘めた香りが、ふわりと匂う。それは、長い夜の間中香って、二人の肌に、髪に、記憶に、染みこんでいった。