醒めない夢「お前さ、敬語やめろよ」
「なんでですか?」
煉獄は怪訝そうに宇髄を見た。髪を後頭部で無造作に団子にしているので、汗の浮かんだ剥き出しの首元がやけに目につく。それから、答えを待つ煉獄の顔に気がついて、さりげなく視線をずらす。
「なんでって、あれだ、なんか変な感じなんだよ、お前に敬語使われっと」
「変もなにも、先輩なんだから敬語使わないとでしょう」
「違うぞ煉獄、敬語ってのは相手を敬ってるから使う言葉なんだ」
「……なるほど?」
黄と朱の混じった瞳が、悪童めいた光を湛える。こいつ、かわいくねぇけどそこがかわいいんだよなぁ、と宇髄は思う。じーわじーわと、蝉の声が幾重にも重なって響いていて、暑さがいや増す。
「てめぇは俺のこと敬ってないのに、上辺だけ敬語にしても意味ねぇんだよ」
ふは、と煉獄が笑い出す。こんな無邪気な笑い方をすると、年齢よりも幼く見える。
「ちゃんと敬ってますって、宇髄センパイ」
「嘘つけ」
宇髄は自分より低いところにある頭を小突く。
「まあとにかく、今後は敬語禁止な。センパイもナシ」
「え〜」
「えーじゃねぇ」
「はいはい。努力します」
「おい」
「あー、わかった、宇髄」
うっ、と宇髄は胸が詰まって、思わず口を押さえる。呆れたように「宇髄」と呼ぶ声が、あのころと同じだったからだ。
「……なにやってんですか」
行きつけの安いコーヒーショップの入り口で、煉獄が冷めた目でこちらを見ていた。
煉獄とは大学のサークルの新歓コンパで知り合った。宇髄は別にそのサークルに所属していたわけでもないのだが、彼の美しい顔が女子学生を惹きつけるので、駆り出されたのだ。煉獄もまた、同級生につき合ってコンパに顔は出したものの、結局サークルには入会していない。
だが宇髄は、煉獄を見た瞬間に、数々の記憶が頭の中で繋がり、過去の想いも鮮明に甦ったのだった。どうやら煉獄は鬼殺隊だった頃の記憶がないらしいが、それも構わず、宇髄は彼の隣に陣取って、すっかり仲良くなったのだった。
煉獄も、宇髄といると楽だったのか、それとも学生寮暮らしの不自由さが鬱陶しかったのか、宇髄のアパートに出入りするようになるのに、そう時間はかからなかった。
未成年なのも気にせず、酒もよく呑んだ。そういえば、鬼殺隊だったころの煉獄も酒には強かった、と宇髄は思い出した。あの男と、こんなふうにたわいもない話をしながら呑んだことなんて、あっただろうか。そう、少しはあったのかもしれない。
――そうでなければ、あんな夢を。
自分の部屋で安い焼酎を飲みながら、宇髄は思い出す。上弦の鬼との死闘の果てに、あの男が命を散らしたのち、自分は夢を見たのだ。煉獄が訪ねてきて、二言三言交わすと、肌を重ねる。
そんな夢を、何度も見た。自分が、あの男にそんな情を抱いていたなんて、知らなかった。ただの仲間で、気の良い友人で。
だが、一度気づいてしまえば、もう後戻りはできなかった。彼への劣情はとどまることがなく、まるで覚えたてのガキみたいに、必死でその身体に触れた。
煉獄は、夢の中では、拒むことはなかった。むしろ、自らそれを望むような素振りさえあった。
だが、それは、自分の夢だったからではないのか?いや、そうではなくて、あれは煉獄の見た夢だったのかもしれない。もしかしたら、煉獄はずっと、それを望んでいたのだろうか?
「宇髄サン」
不意に呼ばれて、宇髄ははっと意識を戻した。座卓の向こう側で、ラフな格好の煉獄が、一升瓶を振っている。
「これもう最後なんですけど、呑んじゃっていい?」
煉獄の言葉遣いは結局、敬語とタメ口が混ざった話し方になった。
「ああ、いいよ」
そう応じて、宇髄は新しい酒を出すために立ち上がる。ほとんど酒とつまみしか入っていない小さな冷蔵庫から、ハイボールの缶をいくつか取り出してテーブルに置く。
「なあ、煉獄」
ビーフジャーキーを咥えた煉獄に声をかける。
「お前、彼女とか彼氏とかいねぇの?」
「いない」
意味深な訊き方をしたのに、興味なさげに煉獄は、ジャーキーを噛みちぎる。
「じゃ、セフレは」
そう言うと、初めてこちらを向いて、じっと目を見た。
「……特定の相手はいないですね」
そしてまた、ふいと横を向いて、なにやら一人の思考に入ってしまう。ふうん、それなりの相手はいるってことね、と宇髄は理解した。まあ、この顔と身体だ。その気になればいくらでも相手は見つかるだろう。
「じゃ、俺とヤる?」
「ヤらない」
いつも彼の返事は簡潔だ。こちらを見もしない。もはやルーティーンのようにすらなってきている。
「だって、俺とヤる夢見たんだろ?」
以前、この部屋で夜中まで呑んで潰れた翌朝、彼がそう言っていたのだ。
それはきっと、あの夢だ。昔の自分が、幾度となく見た夢。そしてついに、そこからあの男を解放してやれなかった夢。
手放したくなかったのだ。たとえ夢の中であっても。それほどに、気づかされた想いは強く、深く、宇髄の中に根を張ってしまって、その囲いの中に、彼の魂の欠片を閉じこめてしまったのだ。
そうしてまた二人とも現代に生まれ、宇髄だけが過去の記憶を持っていた。煉獄はその魂から、記憶が欠落してしまった。
――いや、記憶だけでないのかもしれない。なにか、あの男にあって今の彼にないものが。
もしそれがあるとするなら、まだあの夢の中なのではないか。百年ものあいだ、ずっとあの美しく残酷な場所に、あの男の魂の欠片が、捕えられてしまっているのではないか。
「俺としてみたら、案外いいかもしれないぜ」
そうやって、薄笑いを浮かべて言ってみる。
「そうだな。夢の中では、ずいぶん気持ちよかった気がするけど」
思い出すように、煉獄が言った。宇髄の身体の、体温が少し上がった気がした。今の自分は切れ切れにしか夢では見ない、煉獄の肢体を思い出したからだ。
「けど、やっぱりないな」
「なんでだよ。試しもしねぇで」
しつこく言うと、煉獄は宇髄の方に向き直った。澄んだ瞳がこちらを見透かすような視線を送る。
「宇髄サン、もしかして俺のこと口説いてます?」
そんなことを訊くので、宇髄は言葉に詰まる。口説いていると言えば、もうずっと前からそうだ。どうやってこの男を落として、あの夢に囚われた欠片を解放してやろうかと、そればかり考えている。
「……そうだっつったら、つき合ってくれんの?」
冗談にも本気にも取れるよう、慎重に訊く。
「いや、それはないな」
いつも通りあっさり振られて、宇髄は面白くない顔をする。
「なんだよ、本気で惚れちゃいそうで怖い?」
からかうように言ってやると、煉獄は平然としたまま口を開く。
「いや、本気になっちゃうのは」
煉獄の指が宇髄を指す。
「あんたの方」
宇髄は、一言も返すことができなかった。
そんなことがあっても、煉獄は相変わらず週一くらいのペースで宇髄の家に入り浸っていた。宇髄もこの男をどうしたものか考えあぐねて、ただ楽しく呑んで、遊ぶだけだった。
そんな折、久しぶりに宇髄は不死川と会い、学食で昼飯を食べた。その建物は古びていてエアコンの効きも悪く、年季の入った扇風機がフル稼働している。
しばらく近況を話したのち、ふと不死川が宇髄に訊いた。
「で、相変わらずてめェは煉獄のこと追っかけてんのか」
「別に、追っかけてるわけじゃねぇよ。あいつがうちに押しかけて来んの」
なんでもいいけどよ、と不死川は言ったのちに、少し声を落とした。
「……なァ、煉獄っていい奴だけどよォ、なんか昔とは違うよな」
「やっぱお前もそう思う?」
不死川は、考えるようにテーブルに落とした。
「まァ、昔より柔らかくなったのはいいんだけどよォ」
そう、言葉を濁した。やはり彼も同じように感じているのだと、宇髄は思った。たしかに、昔よりくだけた感じで、少し生意気ですらある。
だが同時に、どこか淡白というか、何事にも執着することがないように見える。特に、人間関係においてはそう感じさせる。誰とでもそつなく話し、受け入れる一方で、どれほどそばにいても、決して心を開いてくれるわけではない。毎週部屋で呑んでいながら、その心の内は、宇髄にはまったく見えてこないのだ。
――あの、欠片のせいだろうか。
あの夢の中に閉じこめてしまった欠片は、その大切な部分だったのかもしれない。
はっ、と宇髄は顔を上げた。
そうだ、俺は。宇髄は思わず掌で顔を覆う。
「どうしたァ」
不死川が怪訝そうに訊く。宇髄は半ば上の空でつぶやく。
「夢、に」
「夢ェ?」
不死川が素っ頓狂な声を上げる。しかし、話を聞く気はあるようで、宇髄が続きを口にするのを待っている。
「……昔、夢を見たんだよ。あいつが死んだあと、何回も。夢にあいつが出てくるんだ」
「……ふゥん」
どんな夢か、とは不死川は訊かなかった。細かな事情までは踏みこまないのが、彼なりの思いやりなのだろう。
「なら、なんかお前に未練を残してたのかもなァ」
未練、と宇髄は呟いた。そうじゃない。未練を引きずったのは自分の方だ。そのせいで、あいつを解放してやれなかった。
宇髄の顔に浮かぶ苦悩を、不死川は黙って見ていた。
「わかんねぇんだよ、不死川。あいつが俺の夢に来たのは、あいつの望みだったのか?もしそうなら、おれは自分の夢に、あいつを引き止めちまった」
還してやらねばならなかったのに。夢は所詮夢だ。二人で触れ合ったあの時間が、どれほどの刹那的な幸福をもたらそうと、あれは夢だ。
「もし煉獄が昔と違うってんなら、きっと俺のせいだ。俺が、自分の夢に、閉じこめちまったんだ。あいつの心の一部を」
「落ち着けよ」
不死川の冷静な声が、気持ちを少し鎮めてくれた。口をつぐんだ宇髄に、不死川は小さく息をつく。
「てめェはなァ、昔からそういうとこあんだよ。一人でゴタゴタ考えんのも悪かないけどなァ」
俺にはその夢ってやつがほんとかどうかもわかんねェし、その意味もわかんねェ、と続ける。
「けどお前、ちゃんと正面からぶつかった方が、よっぽど上手くいくこともあるんだぜ」
そう言って、宇髄の顔を眺めた。そこには、見下ろしたり見上げたりすることのない、ただフラットな視線だけがあった。そのまっすぐな眼差しに、宇髄は胸を突かれた。
ああ、こういうのが仲間ってやつだよな。守ってやることも、守られる必要もない。ただ、支え合うだけだ。
煉獄との関係も、そうだったんだ。だとしたら。
「……俺、そんなに回りくどい?」
「なに言ってんだァ。どうせお前、煉獄に好きだとも言ってねェんだろォ」
ぶっ、と宇髄は、薄いコーヒーを吹き出しそうになった。
「……え?」
不死川は今度こそ呆れ顔で、頬杖をついている。
「見てりゃわかんだよ。だいたい、昔からそうだったろうがァ」
百戦錬磨みてェなこと言って、とんだ奥手だなァ、と、不死川が笑った。
夏も過ぎ、窓を開ければ、夜には涼しい風が入るようになった。コオロギだか鈴虫だかが、アパートの周りの草むらで鳴いている。
煉獄は、古びた窓枠に片肘をついて、冴えた半月を見上げている。襟ぐりの伸びたTシャツから覗く首筋や二の腕は、宇髄の記憶の中の彼よりもだいぶ細い。
「お前さぁ、あんだけ食ってんのに、なんでそんなに痩せてんだよ」
宇髄が言うと、煉獄はこちらを向いた。まあ、週に一度はこうして呑んだくれているのだ。日頃から不健康な生活をしているのかもしれない。あの煉獄が、と思うと、違和感は拭えないが。
すっかりぬるくなったビールを一口呑むと、煉獄は口を開く。
「それは、週に何回かランニングとかしてるからじゃないですかね」
「えっ?お前そんなことしてんの?」
伸びたシャツ同様、宇髄の家では緩み切った様子の煉獄に、そんな健康的な習慣があるなんて思いもしなかった。
「……誰もがあんたみたいに自堕落なわけじゃないんだけど」
「てめぇ」
宇髄は枝豆の殻を投げつけた。煉獄は意にも介さない。
「あと、雨じゃなければ移動はだいたいチャリか歩きだし」
不死川さんに誘われてフットサルも始めたな、と指を折って数える。
「はぁ?俺聞いてないんだけど」
「知りませんよ。人徳じゃない?」
ほんっとかわいくねぇな、と返して、宇髄は考えこんだ。聞いている限り、煉獄の生活はずいぶんとちゃんとしていて、この部屋にいるときとは大違いだ。……この部屋にいるときだけ、こんななんだろうか?
「かわいくないっていっつも言うけど、かわいがってますよね、俺のこと」
煉獄が、そんな言葉を投げかけた。見れば、月の光を浴びて、その金髪は白く輝き、瞳の中心の朱色は宝石の欠片のようだ。その目がひたりとこちらを見据えていて、宇髄は息を呑んだ。
――まさか、夢の間に閉じこめてしまったあの欠片は。
「けど、核心には触れようとしない」
煉獄が、冴えた眼差しのまま、そう言った。
「ヤるとかヤらないとかって冗談は言えるけどね、宇髄サンは」
そして、缶ビールを一気に煽った。その視線は宇髄を捉えたままで。
こいつは、こんな目をするやつだっただろうか?昔はそうだった。こうして、心の中をどこまでも見透かすような目をしていた。でも、今は。いや、そうじゃなかったのか?この部屋でだけ緩くなって、だらしなくなる煉獄。憎まれ口を利きながら、こうしていつも、やって来る。そして、長い長い時間を、くだらない話をしながら、ともに過ごした。いったいなんのために?
「いや、俺は……」
「あんたがこれ以上ごまかすんなら、もうこの部屋には来ない」
はっきりと、静かな空気を切り裂くように、煉獄が言った。求めるものがあるのなら、まっすぐに求めてみろと、そう告げるかのように。
しんとした部屋の中で、煉獄は大きく伸びをした。
「楽しかったけど。失われた青春を取り戻した、というか」
「煉獄」
宇髄は立ち上がり、その伸ばした腕を掴んだ。その剣幕にも、彼は動じない。小さめの唇は、微笑んでいるようにさえ見える。その唇を左手の親指でなぞり、そっと口づけた。
煉獄は動かない。宇髄は唇を離すと、彼の顔を正面から見据えた。
「ずっと、お前がほしかった」
やっと、そう言った。遥かな過去から、言うべきだったのに、言わずにおいた言葉。なぜ言わなかったのか。なぜ言えなかったのか。言葉の代わりに、ただ夢の中でその身体をかき抱くばかりで。
ああきっと、その眼差しが、その笑みが、俺には眩しすぎたんだ。綺麗すぎて、そのままでいてほしかった。
煉獄は黙って宇髄を見ていたが、やがて、静かに笑った。鬼殺隊にいたころ、たまに見せた笑顔と同じだった。優しくて、温かくて、でも微かに寂しい。
ぱりん、とどこかで音がした。なにかが割れて、その中にあるものが、零れ落ちてくる。柔らかく優しい空気が、部屋の中に満ちてくる。その中で、煉獄が笑っている。輪郭が輝いていて、美しいと思った。
抱き締めようと伸ばした腕は、震えてしまってうまく動かなかった。こんなに綺麗なのに、自分なんかが汚れた手で触れていいのか。現代で罪を犯したわけではないのに、過去の自分の行いが、業のように纏わりつく。
「こんなときばかり臆病で」
静かに、煉獄が言う。
「ほんとにあんたは、昔から変わらない」
ふふ、と笑う声に、宇髄は唇を開いたまま、言葉が出なかった。
「お、前、記憶……?」
こちらは動揺しているのに、相手は答えずに、別のことを言う。
「キスしかしないんなら、俺もう寝るけど」
長い睫毛の下から見上げる視線が、信じられないほど扇情的だ。生意気に笑う顔も、からかうような声も、あいつとは違うのに、でもたしかにあの煉獄なのだと、ようやく気づいた。
自分が夢の中に閉じこめてしまったと思っていた欠片は、ずっとこいつの中にあったのか?この燃え盛る炎のような、美しい瞳の中に。ずっとこうして、こじ開けられるのを待っていたのか?
煉獄は微笑んだまま、両腕を宇髄へと伸ばした。そのまま二人で身体を寄せ合い、深く口づける。煉獄の舌はビールの味がして、それが妙にリアルだった。互いに舌を絡ませながら、服の下へと手を伸ばす。シャツを持ち上げてやれば、煉獄は腕を上げて脱がされるままにした。畳の上に横たえると、その輝く眼差しでこちらを見上げる。
「宇髄サン、ちゃんとゴム持ってる?」
「うるっせぇ、持ってるわ」
ムード壊すんじゃねぇよ、と言ってやれば、はは、と悪ガキらしく笑う。
あとローションないと、俺、痛いのやだし、とまだ言っている。まったく、あの夢とはえらい違いだ。
……だけど、きっとこれでいいのだ。あの夢は美しく幸せだったけれど、それは深淵のような悲しみの上に建てられた、蜃気楼みたいなものだった。だからあんなにも切なく、綺麗だったのだ。
現実の愛は、もっと面倒で、一筋縄でいかなくて、馬鹿馬鹿しくさえある。それでも、腕の中で肌を上気させて見つめてくる煉獄は、一番美しいと思った。もう、夢から醒める瞬間を、恐れなくていいのだ。
「……あ、窓が開いたまま」
「お前、声抑えろよ」
「いや、ここ一階だし。誰かに見られるかも」
はは、と宇髄は笑った。じゃれ合うようにくっついて、吐息を漏らして、また抱き合う。
月が二人を、いつまでも照らしていた。