さゆらぎ さざ波一つない、凪いだ水面。いつもそれを、心の中に浮かべている。怒らず、悲しまず、喜ばず、楽しまず。なにを見ても、聞いても、味わっても、常に心の平静を保つように。
それだけが、苦痛から逃れる方法だった。親を失い、唯一の家族だった姉を失い。優しい姉だった。幸せになるべき人だった。それが自分を庇って、そのささやかな幸福を永遠に喪ってしまったのだから。
この時代にはありきたりな話だろう。もっと壮絶な過去を持つ者だってたくさんいる。だが、悲しみや怒りや悔しさの大きさを、比べることなどできない。自分にとっては、それは身を引き裂かれるような体験だった。
師は言った。己の心を、感情を制御することを覚えろと。感情を野放図に暴れさせては、すぐに呼吸が乱れる。振り下ろす刃が定まらない。
だから、いつも心の中に、水を湛えた静かな湖を置いている。ほんのわずかなさざめきも、波紋も立たない。そしてその水面は、鏡のように自らの心を映し出す。湖が凪いでいれば、己の心が見える。だが、ほんの一滴の雫が落ちただけで、すぐにその像はかき消され、曖昧になってしまう。だから、いつでも心を鎮め、乱さないようにした。
そうして冨岡は、無口で孤独な男になった。生来、おとなしく、あまり人と関わらない質だったのだろう。水の呼吸の静かで張り詰めた性質が、彼にはよく合っていた。
煉獄と出会ったのは、柱合会議でだった。まだ柱でなかった彼は、「必ず柱になる」ということを自らの当然の責務として、また、途方もない努力によって必ずや成し遂げる決意として、皆の前で宣言した。それは、当時の炎柱が自らの務めを放り出しつつあった状況には不似合いなほどの明るい希望に満ちた声で、ほかの柱の連中は面白がったり呆れたりしていた。冨岡は、そのようなことがあっても心を乱さず、状況を見守っていた。ただ、そのようにまっすぐ前を見据えることのできる彼を、少し羨ましいと思った。
その後、煉獄は瀕死の重傷を追いながらも十二鬼月を斃し、その功績によって宣言通りに柱に就任した。初めて言葉を交わしたのは、そのときだ。冨岡は特に言うべきこともないため、隅の方で黙っていたのだが、煉獄の方から話しかけに来たのだ。いかに人づき合いの苦手な冨岡といえども、快活で気遣いのある煉獄の様子には好感を覚えた。冨岡でさえそうなのだから、ほかの柱とは、彼はすぐに打ち解けた。
水の呼吸と炎の呼吸は、対照的な特性をもちながらも、古くから存在し続け、切磋琢磨し合ってきた。歴史が古いだけあって、両者の型は基本が似ている。異なるのは、精神的な部分だ。常に心の中の水面を揺らがせず、静かな心で戦う水の呼吸に対し、炎の呼吸は――。
「冨岡!元気か?」
煉獄がいつものように溌剌とした声をかけてくる。ちょうど産屋敷家から出てきたところで、柱同士が顔を合わせるのは、こういった場面が最も多い。
季節は真冬だが、日差しは暖かい。煉獄の笑顔で、いっそう寒さが和らいだようにも思えた。
冨岡はちょうど昨夜の戦果を報告に来たところで、煉獄はどうやら報告を終えたばかりのようだった。
「ああ」
冨岡の返答はいつも最低限だ。いや、最低限にすら届いていないかもしれない。だが煉獄は、優しい笑みを浮かべる。
「それならよかった」
冨岡は、戦いの場での彼と引き比べる。鬼と対峙する彼は、燃え盛る炎のような闘志を纏っている。相手が強ければ強いほど、その炎は激しく、強さを増す。そして今のように、戦いの場以外では、明るく、生命力に満ちている。
生命力、そして意思の力こそが、炎の呼吸の精神だ。水の呼吸が心を鎮め、雑音を削ぎ落とすことで人間の精神の真髄に到達するのに対し、炎の呼吸は自らを鍛え上げ、燃え立たせることで精神の力を引き出す。同じ場に辿り着くための、道筋が違うのだ。
「もし時間があるなら、昼飯でも一緒にどうだ。俺は胡蝶の屋敷に用事があるから、君の報告が終わる頃合いとちょうどいいだろう」
こんなふうに、彼は誰にでも気さくに声をかける。冨岡が黙っているのを、了解と受け取ったようで、ではのちほど、と言って彼は歩いて行った。
冨岡は、これでも約束を違えるような不義理な性格はしていない。彼は一言も発さなかったとはいえ、煉獄と約束を交わしたことになっていたのだから、ちゃんとその通りに、産屋敷家と胡蝶の屋敷との中間地点で待っていた。さほど待つこともなく、煉獄が姿を現した。
待たせたか?と明るく気遣う彼に、冨岡はいや、と短く応じる。
煉獄があれこれと声をかけながら店を決め、冨岡は黙ったままついていく。最近、この辺りでも増えてきた洋食の店だった。
「君が今回斬った鬼は、かなりの手練れだったそうだな。さすがだ」
運ばれてきたカツレツを上品な手つきで口に運びながら、煉獄が言った。
「そんなことはない」
冨岡の返答がそっけないのは、オムライスの中身が熱すぎたからだけではない。彼は本当にそう思っていて、それ以上口に出す必要を感じないのだ。自分のしていることなど、ほかの柱なら誰でもできるだろうし、誇るようなことなどなにもないのだ。
煉獄は、フォークとナイフを置いて、少し眉を下げて冨岡を見た。
「……謙遜は君の美徳だと思うが、賛辞は素直に受け取ってもいいんだぞ」
「謙遜などしていない」
煉獄は困ったような顔をして、そうか、と言った。それからまた、すぐに別の話題を楽しそうに話し出した。
煉獄の太陽のような笑顔を見ると、冨岡はいつも思う。自分は弱く、すぐに波立つ心を抱えている。煉獄のように、常に笑みを浮かべていられるような強さは持ち合わせていない。
「だから冨岡」
はっと、冨岡は物思いから我に返った。煉獄が、好意に満ちた瞳で、こちらを見ている。この男は、眼差しまでも眩しいのだ。
「今度、柱稽古をしないか?」
水と炎の呼吸の歴史は古い。方法論は違えど、同じ強さを求めるものだ。水は、心を鎮めることで。炎は、心を燃え立たせることで。
「君が生み出した新しい型、あれは素晴らしい。ぜひ学ばせてもらいたいんだ」
冨岡は、最後の一口を飲みこんで、ようやく口を開いた。
「必要ない。お前に得るものはないだろう」
「そんなことはない」
「あれは……お前には、必要ない」
そう言うと、煉獄は少し眉をひそめた。
「なぜだ」
心の中では、さまざまな言葉がひしめいている。だがそれらを水面の底に押しこんで、拾わないようにしてきた結果、冨岡は自分でもその言葉たちをうまく掴めなくなってしまったのだ。どれも、水の向こう側に揺れて、霞んでしまう。
それでもなんとか、切れ切れな欠片を拾い集め、それを舌に乗せる。
「心を鎮め、周囲と切り離して凪を作り出すのは、心の弱い者がすることだ」
「……だから、俺には必要ないと?」
「そうだ」
「君には必要なのに?」
もう声にはせず、ただ冨岡は頷いた。
かちゃ、と音を立てて、煉獄はナイフとフォークを置いた。行儀の良い彼には珍しいことで、冨岡は顔を上げてそちらを見やった。
すると、煉獄が、眉を吊り上げてこちらを見据えていた。眼差しは燃えるようで、彼がとても怒っているのだと、心の機微に疎い冨岡でさえも、それはわかった。
「なぜ君は、そのように自分を卑下することばかり言うんだ」
その言葉にさえ、熱が篭っているかのようだ。冨岡は少し驚いて、黙って相手を見つめる。
「君が、自分が柱にふさわしくないと思っているのは知っている」
ぽつり。
鏡のように静かだった水面に、滴のように彼の言葉が落ちた。
「柱になる経緯など、なんの意味もない。大切なのは君が、柱に足る働きをするか、その意志があるかどうかではないのか」
煉獄の口調はむしろ静かで、けして問い詰めるような感じではなかった。ただ、自分のことすら、どこか他人事のように見ている冨岡に代わって、冨岡自身のことを擁護するような言い方だった。
ぽつり、ぽつり。
水面に落ちた滴は、小さな揺らめきとなって、細波を作った。それは静かに、優しく広がっていって、心の中の水面を渡っていく。隅々まで、その波紋を伝えていく。
それはいつしか、自分でも知らなかったような心の岸辺に、小さな波を打ちつける。
お前にも、寄って立つことのできる場所があるのだ、と。その波が、そう告げた気がした。ただ、水面の上を漂って、波風を起こさないように心を鎮めて、そうして生きる以外にも、方法があるのだと。
「煉獄」
読んだ声は、心の水面同様、微かに揺らいでいた。
「俺は、お前とは違う」
「当たり前だ」
彼にしては少し突き放すような物言いが、不思議と心地よく感じた。率直で……そう、まるで、気の置けない間柄のようで。
煉獄はにこりと笑った。
「君には、君の強さがあるだろう」
「当たり前だ」
そう返して、我ながらうまい返しだと、冨岡は満足げな顔をした。煉獄は、少し呆気に取られたように彼を見て、それから声を上げて笑った。
外ではヒヨドリたちが、冷たい空気を切り裂くように鳴き交わしている。
ようやく、梅が綻び始めんとする季節のことだった。