邂逅 ジージーと、蝉の泣く声が幾重にも重なって、まるで大きな滝の音のようだ。最近は温暖化だとか言われていて、やたら暑い日が多い。炭彦は、額から流れる汗を拭い、隣の桃寿郎に声をかけた。
「あっついねぇ、桃寿郎くん」
「そうだな!あと少しだぞ、炭彦」
大きなバッグを斜めがけにして、元気よく桃寿郎が返事をする。全然参ってなさそうだなぁ、と炭彦は一人微笑む。彼の明るい色の髪は、もしかしたら暑さを跳ね返してくれるのかもしれない。そう思ったが、首筋に汗が流れるのを見て、やはり彼も普通の人と同じように暑いのだと思い直した。
お盆は剣道部の練習も休みなので、桃寿郎は毎年祖父の家を訪ねる。最近では一人で行って泊まることも多くなったのだそうだ。いいなぁ広い日本家屋、僕も行ってみたい、そう炭彦が呟いたので、では一緒に行こう!と彼が言った。それで暑い中電車に揺られ、駅からの道のりを歩いている。
「炭彦は、怖がりじゃないよな?」
確認するように、桃寿郎が訊く。うん、僕はお化けとか全然気にならないよ〜と笑うと、桃寿郎が少し声を潜める。
「祖父の家は古いからな。なにしろ戦前から建っている」
よくはわからないが、おそらく江戸末期か明治ごろの建物らしい、と言った。何度か修繕はしているものの、ほぼそのままの姿で残されているのだそうだ。
「武士の家系なんでしょ?刀とか鎧とかあるのかな」
炭彦が無邪気に訊くと、桃寿郎は少し黙った。
「……ある。なんでも、由緒のあるものらしい」
あ、と炭彦は勘づいた。これがきっとなにか、曰くつきなんだろう。桃寿郎の雰囲気が変わった。なんと表現したらいいのだろう。寂しそうな、でも誇らしげな、複雑な感情。
――これはいったい、誰の感情なんだろう?
それを訊くのは難しい気がした。だって彼はもう、少し前を歩いてしまっていて、話を終わらせたいのだと感じさせるからだ。なにか、話したいことがあるような気配がしたのに。それは今じゃないということなんだろうか。
「お久しぶりです!お世話になります!」
大きな声で桃寿郎は出てきた祖父に挨拶をした。彼は身内でも敬語を崩さないが、それでも大好きな祖父なのだと言っていた通り、満面の笑顔で挨拶するので、敬語のせいで距離を感じるなんてことはなさそうだ。桃寿郎の祖父は彼の一族らしく短い金色の髪をしていたが、もうだいぶ色が抜けて、銀髪になっていた。優しく、孫とその友人に対する慈愛のある眼差しでこちらを見た。
――この人、誰かに似てる。
炭彦の頭に、ふとそんな考えが浮かんだ。そのことに自分で頭を捻るが、誰に似ているのかは思い出せなかった。ただ、この優しい笑い方が、遠い昔に会った誰かを思い出させるという気がした。
まあ、いいか。
深く考えないことを身上としている炭彦だ。そのうち思い出すだろうと、今はその疑問を頭から追い出した。
麦茶と茶菓子をご馳走になりながら、炭彦と桃寿郎は学校のことなどを祖父に話した。彼はうんうんと頷くように聞いて、嬉しそうな顔をした。
「あ、そうそう。蔵の整理ですが、今日やりますよ」
桃寿郎がふと思い出して、そう言った。
「そうかい、じゃあちょっとご苦労だが頼むよ。今日は夏祭りがある日だから、終わったら見に行っておいで」
「はい!」
祖父の家には大きな蔵があり、その中には貴重なものからガラクタまで、古い物がたくさん詰まっているのだそうだ。それを一部売るなり捨てるなりしたいので、若い者に整理してもらいたい、ということだった。
「炭彦、君は昼寝するか?そうしたら俺はその間に倉を片付けてくるが」
「えー、桃寿郎君にだけ働かせる訳にいかないよ。僕もやる」
「いいんだぞ、君はお客様だからな!」
そう、桃寿郎は笑ったが、どこか安心したようにも見えた。
家の裏側に回ると、漆喰で塗られた大きな蔵があった。二階建てくらいの高さがあり、かなり古いものに見える。
「蔵の中は、夏でも涼しいんだ」
そう言って、桃寿郎は扉の鍵を開ける。蔵の壁は二〇から三〇センチもあるようで、観音開きの扉を引き出すだけでも、かなり力がいるようだ。やっとのことで片方を開けると、中から涼しい空気が流れてきた。
それと同時に、金属のような微かな匂いが、炭彦の鼻を捉えた。あれ?と思ったときにはもうほかの匂いが押し寄せて、埃やら黴やらの古い匂いで紛れてしまい、わからなくなっていた。
蔵の中には大正の頃から電気が引いてあったらしく、古びたランプが天井にいくつか下がっていて、電気の線が伸びている。
空気を入れ替えるからと、桃寿郎は階段を登って二階に昇っていく。これまた分厚く軋んだ窓を押し開けると、ようやく外からの日差しも少し差しこみ、空気の中を大量に舞う埃が見えた。二人は手拭いで鼻と口を覆うように結び、蔵の中を見渡した。大きな箪笥や長持がいくつも並び、その上には小さな箱や巻物、書物などが積まれている。
「巻物と器を古物商に見てもらうから、それを一階にまとめておいてほしいそうだ」
桃寿郎が言った。いつもより少し、声に張りがない気がした。わずかに沈黙したあと、彼は小さく声を落とす。
「……正直、君が一緒に来てくれて助かった」
炭彦は桃寿郎に視線を向けるが、彼はこちらを見ない。
「なんだかこの場所は……おかしな気持ちになるんだ」
そのとき、またあの匂いがした。金属のような……いや、違う。これは……血の匂いだ。
炭彦は周囲を見回した。鉄のような、まだ新しい血の匂い。何ヶ月も開けていなかったという蔵に、そんなものがあるはずもない。それなのに。
「おかしな……って、どんな感じなの?」
「説明が難しい。懐かしいような、よく知っているなにかを探しているような、そんな感じだ」
「……なんか見たの?」
そう訊くと、桃寿郎は足元に視線を落とした。
「……今は言いたくない」
なんだか変だ。こんな彼は見たことがない。いつでもはっきりと率直にものを言い、何事にも明朗に決断を下すのに。
炭彦は、ふらりと歩き出した。
「炭彦?」
桃寿郎が怪訝そうに声をかける。だが炭彦は、この蔵に入ったときから、気になるものがあったのだ。どうにも視界の隅にちらついて、気にかかる。炭彦は昔から、そういうところがあった。ぼうっとして見えるくせに、ときどき恐ろしく勘がいい。小さな稲荷神社の前を夕暮れに通ったときにも、「なんか気になるから」と言ってそこに立ち寄り、手を合わせるようなことがあった。それでなにが起こるというわけではない。ただ、その社を包む空気が、少し和らぐような気がするのだ。
――それってさ、呼ばれてるんじゃないの?
兄のカナタには、そう言われたことがある。まあ、そういうことなのかもしれない。なんにせよ、気になるのなら、もしそれが呼んでいるというのなら、見てみるしかないじゃないか。
――大丈夫。桃寿郎くんは、おかしな気持ちになるとは言ったけど、嫌だとか悲しい気分になるとかは言ってない。だからきっと、悪いものじゃない。
炭彦はそう考えた。だからそのまま長持のそばに歩み寄り、上に置いてあるつづらや箱をどけていく。
背後で、桃寿郎は黙って立っていた。いや、きっと、動けないのだ。炭彦が掘り出そうとしているものがなんなのか、それをわからないままに、恐れている。でも、止めることもできないでいる。
「大丈夫だよ、桃寿郎くん」
炭彦は一度振り返り、微笑んだ。桃寿郎は驚いたようにぴくりとして、それからぎこちなく微笑んだ。
「君の励ましは、いつも根拠がない」
「えーひどいなぁ」
「だが、なぜか安心するな」
ぶわ、となにかかが炭彦の全身を通り抜けた。桃寿郎の、優しいけれど少し寂しげな微笑みを見て、大きな感情の波がやってきて、身体を洗っていったようだった。
――……さん。
声が、聞こえたような気がした。それも、自分の中から。自分の声帯をこれでもかと震わせて、全身で呼ぶ声。その答えが、ここにある。
少し手が震えた。そんなこと、炭彦はほとんどない。緊張しているのだろうか。それとも、自分だけれど自分ではない誰かの感情が、そうさせるのだろうか。
長持の蓋を持ち上げる。鍵はかかっておらず、それは音を立てて開いた。中にはほとんどなにも入っておらず、木の箱が三つ、あとはやけに冷たい空気が空間を埋めていた。
あ、でも、この清涼な空気は嫌いじゃないな、と炭彦は思う。冬の朝、早起きをしたときの空気のような、澄み切った香りだ。
探していた箱はすぐにわかった。年季の入った桐の箱で、見た瞬間にそれだと直感した。長さは三〇センチもないだろうか。深さは一五センチほど。触れてみると、痺れるような感じさえした。
――……さん!
まただ。涙の匂いがする。これに触れて、たくさんの涙を流した人がいる。その人の、悲しみの匂いがする。
震える手で、蓋を開ける。中には、布で丁寧に包まれたものが大小二つ、入っていた。大きい方を開くと、かちゃりと音がして、刀が出てきた。折れた刀だ。刃にはなにやら漢字が刻んであったようだが、一番下の字しか残っていない。鍔はついていない。
血の匂い。それも、大量の。もう止めようがない。命の炎が流れ出すのを、止めることができない。
全身の血が逆流するような、そんな感覚。なんとかもがいて、その命を救いたかったのに。自分だけが救われて、なに一つ救えなかった。どうしようもない後悔が身体を締め付けて、涙が零れ出す。
それを手の甲で拭い、小さな包みの方を開ける。炎の形をした、刀の鍔。
「煉獄さん」
涙とともに、言葉が零れ落ちた。煉獄さんって誰だ?桃寿郎くんじゃない。だけど、その名をたくさん呼んだ。何度も、何度も。
「やっと見つけた!」
大きな声がして、炭彦はどきりとする。いつの間にか桃寿郎が隣に来ていて、その鍔を覗きこんでいたのだ。
――いや、違う。
これは桃寿郎じゃない。よく似ているけど、髪がもっと長くて、身体もひとまわり大きい。それに、なんだか不思議な格好をしている。学ランのような黒い服、白い外套のようなものを肩からかけている。
「煉獄……さん?」
自然に、そう呼んでいた。桃寿郎によく似た男は、そっと手を伸ばし、その鍔を掌に乗せた。そして、ふわっと微笑んだ。優しくて、寂しそうな微笑み。
「煉獄さん!俺……ずっとあなたに」
言葉が勝手に口から滑り出た。自分ではない、けれど確かに自分の内側に住んでいる誰かが、話しているかのようだ。
ようやく、男がこちらを向いた。その瞳は、桃寿郎と同じ色をして、でもなにか深い、悲しみのようなものを覗かせていた。
「少年」
優しい声がした。それだけで、涙がもっともっと溢れ出てしまう。言いたかったこと、言えなかったことが、全部激流のように流れ出そうとする。
「俺、ずっと、伝えたかった……!」
「わかっている、少年」
大きな手が炭彦の手を取り、鍔の上に置いた。
「君が、どんな想いでこの鍔をつけてくれたのか、ちゃんとわかっている。君が俺の魂をともに最後の戦場に連れて行ってくれたこと、感謝している」
「どうしても、あなたに、これを返したくて」
もう顔は涙でぐしゃぐしゃだ。目の前で微笑んでいる男の顔も、曇って霞んでいる。
「ありがとう、ございました。俺を、俺たちの魂を救ってくれて」
にこりと笑う気配がした。顔はよく見えなくても、それがよくわかった。
「でも、できることなら俺は……」
「少年」
ふわりと、温かいものが頭に触れた。それは限りなく優しくて、強くて、忘れられない温かさで。
ああ、わかってくれていたんだ。ずっとずっと、伝えたかったこと。鮮烈に生きて、美しく逝ってしまったこの人に、何度も伝えたいと願ったこと。
「大丈夫だ」
そんな声が聞こえた。もうその声も、温かい掌も、だんだんと遠ざかっていく。拭っても拭っても、涙は止めどなくて、見たいと願ったその人の姿を、すぐに見失ってしまう。
――大丈夫だ、少年。もうこの子たちが生まれたのだから。
眩しい光が満ちる。心の中の後悔や悲しみをすべて、その熱い光が照らし、焼き尽くす。鬼の苦しみや悲しみを消し去る、あの黎明の兆しのように。見る者のすべてを燃やしてしまうような、そんな眩しさだ。
「炭彦!」
大きな声とともに肩を揺さぶられて、炭彦ははっとそちらを見た。桃寿郎が心配そうな顔でこちらを覗きこんでいる。
「桃寿郎……くん?」
「どうしたんだ、炭彦」
言われて我に返ると、炭彦はだらだらと涙を流しながら、長持の前に膝をついていた。手には、あの桐の箱と蓋を持っている。
「あれ?」
慌てて箱の中を見れば、そこにはただ布切れが二枚入っているだけ。
「空だったのか?」
「おかしいな……なにか大切なものが入ってたような」
気がしたんだけど、と言いながら、胸の中になにかがぽっと灯るのを感じた。美しい炎のような、温かくて優しくて、闇を焼き尽くす光だ。
「本当に大丈夫か?暑さで具合が悪いんじゃないか?」
覗きこんでくる瞳は、黄色と朱の美しい、澄んだ色で。その奥底には、やはり同じような炎が、もっと赤々と強く燃え盛っている。
――そうか、大丈夫なんだ。
よくわからないままに、そう感じた。ただ全身で、湧き上がるような喜びを感じた。
こうして、自分たちが生まれて、出会ったのだから、きっと大丈夫なのだ。自分であって自分でない、あの懐かしい誰かがずっと願っていたことは、今自分たちが叶えているのだ。
「なあ、炭彦」
ぽつりと、桃寿郎が言った。
「さっきまで俺は、この蔵にあるものを恐れていた。なにか、知りたくないことを知ってしまうような気がして」
「うん」
「だが、君がそんなにボロボロ泣いているのを見たら、不思議と平気になった!」
元気よく言って、はははと笑う。
「えー、ひどいよ桃寿郎くん」
そう苦情を言ってから、炭彦も少し笑う。
「でもよかった。桃寿郎くんが元気になったんなら」
それを見て、桃寿郎はふと声を落とした。
「……君は変わらないな、少年」
「え?」
微かに、声の調子が違っていた気がした。普段よりも少し低くて、泣きたくなるような。
「今、なんて言ったの?」
「ん、俺がなにか言ったか?」
桃寿郎はきょとんとしている。
――ああ、そうだったんだ。きっと自分たちは、もっとたくさんの時間を一緒に。
「桃寿郎くん、ここの片付け終わったら、お祭り行こうねぇ」
それで、彼の好きなものをたくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん話をしよう。でもきっと、一生かかったって、話し尽くせないんだ。なにしろ、話したいことは限りがないのだから。
まずは、今日の話から、聞かせてあげよう。彼はどんな顔をするだろうか。きっとこれから先、何度もこの話をするんだろう。
この夏の、優しくて不思議な、大切な思い出を。