大人エーベンホルツくんx生まれ変わりショタクライデくん【前編】 ヴィセハイム市アフターグロー区で起きた事件から5年。事件で大切な友人を失ったエーベンホルツは意外な知らせを聞いた。リターニア王庭からロドスへ、とある依頼がなされたという話である。王庭が依頼したのは事件で汚染された音楽堂の調査、および汚染除去方法の提案であった。
ロドスはこの依頼を受諾。事件関係者を含む調査部隊を結成してリターニアはヴィセハイムへと向かった。事件の当事者といえるエーベンホルツももちろんこの部隊に含まれていた。エーベンホルツは元貴族であるという身分を隠し、事件の被害者の一人として、五年ぶりに祖国へと帰ることになった。
――この街は……少し寂しくなったな。
アフターグローにやって来たエーベンホルツは、街の様相を見てそんな感想を抱いた。景観自体は5年程度でさほど変わるわけもないが、音楽を禁じられた街はどこか活気に欠け寂しく感じられた。
部隊はそんな街中を抜け、アフターグローの象徴であった音楽堂に到着。周囲に源石拡散防止の措置を施してから、防護服を装備した調査員を堂内に立ち入らせた。
ギギギ……重苦しい音をともなって音楽堂の扉が開く。それと同時にあの日の記憶が生々しく脳裏に蘇った。少しずつ冷えていく彼の体。源石の棘で傷つき流れた血。険しい表情をしたハイビスカス――。
「大丈夫ですか?」
過去と同じ表情をしこちらを伺うハイビスカス。
「少し思い出したが、これぐらいのことで立ち止まったりはしない」
「無理をしないで。辛かったら外の仮設テントで休んでくださいね」
「あぁ」
彼女を安心させるように力強く頷く。そしてエーベンホルツは仲間とともに堂内を進んだ。汚染の根源――休憩室の前でハイビスカスは部隊を一旦停止。医療部で昇進した彼女は調査部隊の隊長である。
「エーベンホルツさん、最初に踏み込むのはあなたが適任だと思います」
「いいのか?」
「隊長権限です」
「職権濫用と言われなければいいが」
「それぐらい口が回るなら大丈夫そうですね」
ハイビスカスは肩をすくめると、隊長らしく居住まいを正してから隊員に指示を出す。
「工作員の方は扉の封鎖を解いてください! お願いします」
彼女の声に応え、エンジニア部のオペレーターが出てきて扉に打ち付けられた鋼鉄板を素早く取り外す。エーベンホルツは休憩室の前に立った。
正直に言うと複雑な気持ちだった。あの事件からしばらくエーベンホルツは無為に日々を過ごしていた。とある外勤任務をきっかけに、オペレーターとしてまともに働くようになり、少数ながら親しい友人もできた。
しかし、心の中には小さな穴がぽっかり開いたままだった。日常を過ごす中、ふと夕暮れを見ると思い出すのは、友の言葉とあの日の悲嘆。エーベンホルツは悲しみをチェロの旋律に乗せて喪失の痛みを紛らわせた。
時間は最良の医者である。五年という歳月は喪失の痛みを癒やしてくれたのか?
扉の中にあるのは友の亡骸が生み出した源石の粉末と、あの時に残していったフルートだけだろう。それを見ても膝から崩れ落ちるようなことだけはないとエーベンホルツは思う。完治とはいかなくても、傷は癒えつつある。たとえ何か感情を掻きむしられるようなことがあったとしても、五年の間にオペレーターとして蓄積した数々の経験が支えてくれるだろう。
ふうと一息ついてからエーベンホルツは休憩室の扉を開け、中へ足を踏み入れた。
中は薄暗い。室内を見渡したエーベンホルツは闇が一瞬動いたのを感じて、とっさにヘッドライトを点けた。眩しい明かりの中に浮かび上がったのは思いも寄らないものだった。
「なぜ、君が……?」
光に照らし出されたのは人――見覚えのある懐かしい人物。
「――クライデ」
名を呼ぶと、ぴくりと「彼」が反応する。
「いや、そんなはずはない。しかし……あぁ、何故だ。何故、あの頃の」
――小さな君がいる?
休憩室にぽつんと佇むのは友人によく似た小さな子供だった。年の頃は五、六歳。ちょうど、あの実験を受けた頃の姿だった。エーベンホルツの代わりに被験者になったあの頃の。
「あ、あ……」
呻き声を上げ、エーベンホルツは小さな「彼」に近づいた。少年はエーベンホルツの接近にも微動だにせず、ぼうっと彼を見つめていた。
「クライデ、君なのか? 私だ、エーベンホルツだ」
「えーべんほるつ……?」
少年は子犬のように首を傾げる。彼を真正面から見据えると、返ってくるのは虚ろな視線。心ここにあらず、魂が抜けた人形のようだった。
改めて、エーベンホルツは状況を確認するために室内を照らす。かつてクライデを寝かせたソファにはわずかな源石粉末が堆積、最期に着ていた彼の正装と記念品として渡したフルートが残っていた。
――源石が少なすぎる……?
エーベンホルツは生まれたままの姿で立っている少年を見返し、あり得ない事象を想像した。そんな馬鹿なことがあるはずがない、と仮説を打ち消そうとするが、あの日クライデの体を乗っ取ろうとしたのはあの巫王である。何があってもおかしくはない。
「老いぼれめ。また私を弄ぶつもりか?」
薄闇に響いた呟きに、またも少年が不思議そうにこちらを見つめてくる。人形のように空虚だと感じたが、この子はただ何も知らないだけなのかもしれない。生まれたばかりの赤子のような。
エーベンホルツが眉間にシワを寄せていると、防護服に少年の手がペタペタと触れてくる。
――小さい。
なんと小さい手なのか。同じ子供だった時には気づかなかった。彼はこんな小さな体であんな残酷な決断を下したのか。
兄弟を守った彼。すべての人を救おうとした彼。この大地で最も優しい勇者はすでにいない。代わりにここにいたのは、小さな子供であった。この子がクライデでもそうでなくても関係ない。今度こそ守りたい。勇者がいない以上、臆病者の一般市民が、この子を守ろう。
「エーベンホルツさん、中に何かありましたか?」
扉の外からハイビスカスの声がする。
「想定外の事態だ」
「え? 何かあったんですか?!」
「とにかく焦らず落ち着いて、君だけ入ってきてくれ」
「わ、分かりました」
入ってきたハイビスカスはエーベンホルツと同じように目を丸くした。
「どうして子供がここに……あの、もしかしてクライデさん……?」
クライデの幼い頃を知らないハイビスカスも、この子供に彼らしい部分を感じたらしい。
「彼は幼い頃のクライデによく似ている」
「じゃあ本当に? こんなことがあるなんて」
「我々はどうしたらいいと思う……?」
「えっと……こんな事態、完全に想定外です。ドクターの指示を仰ごうにも、調査期間中に連絡が届かない可能性も」
「ハイビスカス、この子がクライデでなかったとしても私はこの子を守りたい。リターニア側に引き渡したくない。向こうに引き渡したら、この子にとって悪い結果にしかならないだろう。どうにかできないだろうか?」
「私もそうしたいですが……。うーん……こうなったら、リターニア側にはこの子の存在を伏せておきましょう。想定通りのものしかなかったと」
「契約違反になるぞ」
「何でも厳守すればいい仕事ができるわけではないですよ」
「この五年で君はだいぶ丸くなったな」
隊長と隊員は小さく笑って頷き合い、少年を連れて休憩室を出た。
その後、音楽堂は規定の調査がなされ、ロドスは調査報告書を提出した。少年の存在は隠匿され、異常なものは何もなかったように報告された。
部隊がロドス本艦へ帰投してから二週間。医療部では調査結果の精査と、汚染除去の方策が検討された。平行して音楽堂で発見された少年の身体検査も実施された。
今日はその検査結果が出る日であった。エーベンホルツは指定された医療部の会議室でドクターを待った。検査結果とともに彼の扱いをどうするか、ロドス指揮官から言い渡されるためでもある。
医療部らしく清潔に保たれた部屋で待っていると、時間通りに黒フードの上司が少年を伴って現れた。少年はエーベンホルツの姿を認めると、たたっと走ってきて抱きついた。
あまりの勢いに椅子が傾きそうになったが、エーベンホルツはなんとか子供の体を受け止める。
「っ……?! いきなりなんだ……?」
腕の中の子供を見下ろすと、そこには不安でいっぱいといった感じの顔があった。
「知らない人たちに囲まれてずっと不安だったみたいだよ。しばらくそうさせてあげて」
この子が本当に生まれたばかりの子供なら、確かにその恐怖は理解できる。
――ここはどこ? 知らない大人ばかりで何をされるのだろう?
エーベンホルツもかつてあの実験施設に連れてこられた時に味わった感情だ。
「大丈夫だ。ここは安全な場所で、君を害する人間などいない」
「あんぜ……?」
「あぁ、本当だ。何かあったとしても私が守る」
膝の上に抱き上げ、なるべく優しい声音で諭す。彼はまだ言葉を理解できていないだろうが、言葉以外の部分で伝わるだろう。読み通りに膝の上で少年は大人しくなった。
「ドクター、この子は私になぜか懐いている。リターニアからロドスに来るまでもこんな様子だった。これは一体どういうことなのだろう」
「うーん……刷り込み?」
「私たちはリーベリではないのだが……?」
「キャプリニーにも刷り込みってあるのかな? とまあ、この話はひとまず置いておいて検査結果の報告といこう」
「あぁ、了解した」
席についたドクターは医療部が用意した書類を片手に報告会を開始した。
「まず、健康状態。これは問題なし。至って健康で、見た目の年齢に相応した発達をしているよ。ただ、誰とも接していなかったせいなのか、ご覧の通りに言葉はあまり話せないようだね」
「体に問題がないのは良かった。言葉はこれから覚えればいい」
「検査中も少し言葉を覚えていたよ。言葉の遅れは問題じゃない。問題なのは……アーツ適性の方だ」
「アーツ適性……」
「君を大きく超える適性をこの子は持っている。成長した彼がどれほどの術師になるか、想像もつかない」
類まれなるアーツの天賦。その結果が意味するところは――
「この子は、巫王の可能性がある」
ドクターの結論に会議室にしばし沈黙が降りる。膝の上で渦中の子は不思議そうにエーベンホルツを見上げた。
「しかし、ドクター。あの日、私たちはやつを、クライデを――」
「落ち着いてくれ、エーベンホルツ。巫王と言っても、今のこの子は歴史に記されたような巫王じゃない。生まれたばかりの赤子のようだろう?」
「確かにそうだが……」
「別の言い方をすれば、クライデ君の生まれ変わりとも言える。現場に残っていた源石は想定した量よりかなり少なかった。君が推測していたが、この子が生まれ成長するために使われたのかもしれない」
「貴殿もそう思うのか」
「確証はなにもないけどね。この子はアーツ適性を除けば至って普通の子だ。医療部もお手上げ状態だよ。塵界の音の正体も分からずじまいだし、この大地には未知の事柄が多すぎる」
「この子の正体については、はっきりしないということか。ドクター、ではこれからこの子はどうなる?」
「君はどうしたい?」
「……できればこの子には普通の人生を送ってもらいたい。リターニアに関わることもなく」
「うーむ、普通か。これほどのアーツ適性がある以上、『普通』は難しい。細心の注意を払ってこの子の成長を見守る必要がある。道を間違えれば巫王の再来が現実となるだろう」
「そうか、今のこの子に悪意がなくとも……力に溺れれば悪の化身にもなりうる」
エーベンホルツは最悪の可能性を想像した。誰に止められない強力な術師となった彼が人々を虐げ、各地を焼け野原にしていく光景を。リターニアの女帝ならこんな危険な子供を生かしておいたりしないだろう。
――なぜだ。この子が悪に染まると決まったわけでもないのに。
再び目の前に残酷な運命が立ちはだかった。巫王の血脈に連なる者――ウルティカ伯爵であったエーベンホルツは高塔での過去を思い出して歯噛みした。
「だからロドスで育てることにしたよ。アーミヤとケルシーの許可もとってある」
「それはあまりにも冷酷だ、ドクター! この子に罪は……は……?」
「保護者はやはり君が適任だと思うんだ。もう懐かれているみたいだしね」
悲痛に叫ぶエーベンホルツに対し、上司はあっけらかんと続けた。少年はきょとんとしていた。
「私が保護者だと……?! だが、私は子供の面倒など見たことはないぞ!」
「世の中の親もだいたいそうだよ。子供と共に親として成長していくものさ。しかし、君が嫌なら、ロドスが育てている感染者の子たちと一緒に育てるしかないか」
そこまで言うとドクターはエーベンホルツの椅子のそばまでやって来て、膝の上から少年を取り上げた。
「さあ、私といっしょにみんなの所へ行こうか。みんないい子だからね、怖くないよ」
「やっ、あ……!!」
持ち上げられた瞬間から少年はじたばたともがき始める。ドクターの腕の中から今にも泣きそうな顔でエーベンホルツの方へ手を伸ばしていた。
「クライデ! やめてくれ、ドクター! 彼は嫌がっている!」
「ちょっ暴れすぎ……ほげっ!!」
ガンッ!と派手な音を立てて、暴れていた少年の足蹴りが黒フードに直撃。エーベンホルツは不審者から解放された子を見事に受け止めた。
「怪我はないか?」
少年はふるふると首を振り、甘えるようにエーベンホルツの胸に顔を埋めた。
「ドクターも無事か?」
「んぐ……なんとか」
床に倒れ伏した不審者はよろよろと立ち上がる。
「まったく貴殿という男は……わざとこの子を怖がらせるようなことをしたのか?」
「バレてたか」
「あの流れは強引だった」
「この通り、この子は君に懐いている……いてて……無理に引き剥がすのはよろしくない……」
「分かった。私の負けだ。この子の保護者になろう」
「一芝居打った甲斐があったよ。ふぅ……」
「貴殿の芝居は下手すぎる。役者を用意した方がいい演劇になるぞ」
「君は相変わらず辛辣だなあ……。まあいいや……。今後、ロドスはこの子を要監視対象者、君を保護者という立場で扱うよ」
「承知した」
「それから、この子には名前が必要だ」
「そういえば……そうだな」
「親の君が考えておいてくれ。ロドスのデータベースにこの子のプロファイルも登録しないといけないからね。パパにいい名前を考えてもらうんだよ」
「パパ?」
未だ独身であったエーベンホルツはぎょっとした。
「ぱぱ?」
保護者の動揺に反応して、同じ言葉を口にする腕の中の子。
「そうだよパパァ……」
エーベンホルツは黒フードの中で上司がにやりと笑っている嫌な気配を感じ取った。
「これから忙しくなるねぇ。これが新規滞在者申請書、それから育児休業申請書も。この子は新生児みたいなものだし、しばらくつきっきりで面倒をみないと」
「う……」
「生活のことで困ったらロドスのお悩み相談室まで。お金が厳しくなったら治療費の減免申請を」
突然に降り掛かった子育ての重責。感染者としてこのまま独身で人生を終えると思っていた青年はこの短い報告会で人の親になってしまった。
暗澹たる思いで腕の中の少年を見下ろす。彼はまた引き離されるのかと心配そうにしていた。
――この子をこれ以上、怖がらせたくはないな。
「えーべんほるつ……」
「君が心配するようなことは何もない。君の生みの親――クライデがしてくれたことを今度は私が君へ返そう」
エーベンホルツはそう亡き友へ誓い、この子を育てると決意した。ぎゅっと大切な存在を抱え直すとそれに応えて小さな手も広い背中へ回ってきた。
これが親子の絆、というものなのだろうか。それともただの刷り込みなのか? まだ分からないことだらけだったが、エーベンホルツは胸の内に温かいものがこみ上げてくるのを感じていた。
あの少年の保護者になると決めてから数カ月。エーベンホルツはロドスの育児休業制度を利用し、つきっきりで彼に様々なことを教えた。言葉、食事、身だしなみなど生活のあらゆることを。体格を除きあの子は幼児と大差なく、いきなり親になったエーベンホルツは数多くの苦労を経験した。
しかし彼の成長を実感すると、不思議と苦労が報われた気がしてまた一日を頑張ろうとと活力が湧いてくるのだった。そうやって一日一日は矢のように過ぎていき、気づくと数カ月後が過ぎていた。
「クライデ、服は着られたか?」
「着られました」
「よくできたな」
シャツ、ズボン、靴下、それからサスペンダーすべて良し。子の成長をチェックして頭を撫でると、少年は満足げに微笑んだ。その笑みはかつての友の小さい頃にそっくりだ。
だから同じ名前をつけた。友と同一視してしまわないか、不安にもなったがこれ以外に思いつかなかったのだ。赤子はつけられた名前の通り、素直に成長した。
まるで乾いたスポンジのように、空白の五年間を埋めるように、教えられたことをそのまま吸収していき、あっという間に同じ年頃の子供たちに追いついてしまった。のみならず肉体的にも成長し、出会った頃よりもだいぶ背も伸びた。外見だけで判断するなら、リターニアの基礎学校(小学校)に通っている年頃だろうか。
一番近くで見守っていたエーベンホルツは驚かざるをえない。
――巫王の意思か?
そんなふうに思うこともある。この子が悪の道に進まないよう気を引き締めなければ。気持ちを新たにしたエーベンホルツは朝食の席についてから、我が子に新しい生活について切り出した。
「クライデ、今日から昼間はロドスの子供たちと一緒に過ごすことになる。私とした約束を覚えているか?」
「覚えています」
「友達に家族や過去のことを聞かれたら?」
「僕はリターニアの生まれで、エーベンホルツの遠い親戚です。アフターグロー区の事件で両親が亡くなって、孤児院にいました。エーベンホルツがリターニアに帰ってきた時、引き取られることが決まってロドスで一緒に生活するようになりました」
ロドスのデータベースにも登録されている内容をクライデはすらすらと語った。
「そうだ。もしも友達や大人に家族のことを聞かれたらそう答えるんだ」
「はい。両親がいないから親戚のお兄ちゃんと暮らしていると言えばいいんですね」
「お、お兄ちゃん?!」
カシャン。フォークが手元から落ちて高い音を立てる。
「じゃあ、叔父さん?」
「いや、さすがにおじさんは……分かった。お兄ちゃんで……いい」
「親戚のお兄ちゃん」案に同意したエーベンホルツは落としたフォークを洗い直して朝食を再開した。
「それから、クライデ。私はオペレーターとして職務に復帰する。今すぐというわけではないが、日をまたぐ外勤任務に参加することも出てくるだろう」
「平気です。一人でもお兄ちゃんの帰りを待てますから」
「そ、そうか……。安心した。それにしても『お兄ちゃん』が気に入ったのか?」
「『お兄ちゃん』って本当の家族みたいに思えて、嬉しくなるんです」
向かいの席のクライデは少し気恥ずかしそうに笑った。クライデは言葉を覚えると同時に感情表現も豊かになった。出会ったばかりの頃、人形のようだったのが嘘のようだ。
――可愛らしいと言ってもいいのだろうか……。
少し大人びたクライデの恥じらいに、親らしからぬ感情が湧いてきそうになる。大人になりきれていない少年の美とでもいうのか、最近のクライデには同性をも狂わせるような魅力があった。
こんな状態で大勢の子供たちの輪の中に入る――。保護者として一抹の不安がよぎる。悪い虫がつかないか、中性的な見た目を揶揄されたりしないだろうか。
「ごめんなさい。お兄ちゃんって呼んじゃダメでしたか……」
エーベンホルツの沈黙を拒否と受け取ったクライデは消え入りそうな声で言った。
「あぁ、いやそんなことはない。君がそう呼びたかったら呼んでいい」
「良かった。じゃあ、お兄ちゃん」
そっくりな顔で「お兄ちゃん」と呼ばれ、エーベンホルツはやはり複雑な気持ちになる。嫌というわけではない。ただ、お兄ちゃんと呼ばれるべきは「彼」の方だと思う。
実験施設で出会った幼い頃も、アフターグローで再会した後も、いつだって彼の方が兄だった。記憶の中のクライデはいつも優しくエーベンホルツを見守り、微笑んでいる。そして弟なら必ずやり遂げられると信じていた。
自分には兄と慕われるほどの器量はない。こんなことを言ったら、クライデに叱られてしまうだろうか。いや、彼のことだ。大丈夫だと、これからそうなっていけばいいのだと、励ましてくれるに違いない。
「クライデ、私は今日から君の『お兄ちゃん』だ」
「ところでお兄ちゃん、あの……」
「ん、なんだ?」
「時間……」
「まずい、もうこんな時間か。急ぐぞ」
時計の針は出勤時間の十分前を示していた。二人は朝食の皿をそのままに慌てて出かけていく。それが兄弟の新たな生活の始まりになった。
オペレーターエーベンホルツが職務復帰してから一ヶ月。兄弟の生活は波風もなく順調である。何度かあった外勤任務の日も、クライデは立派に一人で留守番をこなした。
しかしである。順調だからこそ、嵐の前の静けさではないのかと、疑り深くなってしまう。
「クライデ、勉強はどうだ? 難しくないか? 友達はできたか?」
「勉強は大変だけど、楽しいです。友達……今度、みんなが住んでる居住区の方で遊ぼうって誘われました。これって友達ですか?」
「うむ……遊びに誘われるのは、友達と言えるだろう」
「やった!」
「いじめられたり、意地悪されたりしていないんだな?」
「? そんなことありませんよ」
「変な目で見られたりは?」
「変な目? 変な目って何ですか?」
弟の新生活について探りを入れていた兄エーベンホルツは意外な反撃をくらい、答えられなくなった。一度だけ「変な目」で見ていたのは自分自身である。
エーベンホルツはそれ以上、本人から聞くのをやめ、自ら子供たちを調べることにした。いじめというのは家族に相談しにくいものだと聞いた。ならば現状を直接、把握するしかあるまい。
調査地点として目をつけたのは三時の食堂。昼食が終わり大人がいなくなった食堂に小腹が空いた子供たちが集まってくるのだ。エーベンホルツは空いたテーブルの陰に隠れ、子供たちの様子を伺った。
「パンケーキ美味しい!」
「ね!」
「生クリームよくばり過ぎ」
「え、いいじゃん。これぐらい」
子供たちがわいわいと騒ぎながらパンケーキに夢中になっている。その無邪気な雰囲気は非感染者の子供たちと何ら変わりない。今の所、クライデの話と相違ないようだ。
――クライデはどこだ?
子供は無邪気なもの。だからこそ無邪気な「いたずら」もする。特に性に関心が出てくる頃になれば、意中の子にいたずらしたくもなるだろう。そのいたずらの対象になっていないかエーベンホルツは心配だった。
「何やってるんだ」
ふいにエーベンホルツの頭上に影が差した。そこにいたのはエプロンをつけた大柄なフォルテ男性だった。見覚えがある。重装オペレーターのマッターホルンだ。
「私は不審者ではない」
「こそこそと子供たちを盗み見ておいて何を言う?」
険しい顔で凄むマッターホルン。戦闘能力を持たない一般市民であったら、エーベンホルツも腰を抜かしていただろう。
「本当だ! 私はあの子供たちの中にいる……ほらあの子の保護者だ!」
「保護者?」
「ドクターに確認すればすぐに分かる。すぐにバレる嘘などつかない」
「はぁ……しょうがない。とりあえず厨房で話しましょう。ここだと子供たちを不安にさせてしまう」
子供たちの怪訝な視線を感じた男二人は視線の届かない厨房へと移動した。
そしてマッターホルンは端末でドクターと連絡をとるとエーベンホルツの潔白を知ることになった。
「……え? 保護者って本当なんですか。分かりました。お時間をとらせて申し訳ありません」
「だから言っただろう!」
「いや……すみません。いかにも怪しい雰囲気で子供たちをじろじろ見てたもので」
「あの子が――クライデのことが心配で、周りの子供たちの様子が知りたかっただけだ」
「子供たちの様子ですか」
「その……貴殿は子供たちと親しいのか?」
「こうやっておやつを作ってあげることもありますから、親しい方だと思います」
「紛らわしい行動をして私もすまなかった。ここでのクライデの様子を教えて欲しい。クライデは私と同じキャプリニーで銀髪の――」
「ああ、最近見かけるようになったあの子ですか。大丈夫、悪くないですよ。むしろ短期間でみんなに溶け込んで仲は良さそうですね」
「そうか、安心した……」
「それから細身の割に食欲が旺盛ですね」
「食欲……確かにあの子はロドスに来てからよく食べているが」
エーベンホルツはこれまでの一日一日を思い出す。急激な成長に使った分を補給するかのようにあの子はよく食べていた。友のクライデと似ていない所といえば、エーベンホルツは真っ先に食欲を挙げるだろう。
「食欲というのは戦士にとって実は最も重要なものなんですよ。食べなければ体を、筋肉を大きくできない。今でこそ華奢ですが、成長期が来て適切に鍛えれば、我ら雪境の戦士のように――」
エーベンホルツの脳裏に、ツェルニーのような重装オペレーターとなったクライデの姿が思い浮かぶ。エーベンホルツはとっさにマッターホルンの意見を否定したくなった。
「クライデには天才的なアーツ適性がある。術師になった方がいい。……いや、何になるかはあの子が決めることだ」
「そうですね。どんな才能があろうとも、結局は本人のやる気次第でしょう」
少し強引に話を遮ってしまったが、マッターホルンは特に気にしていないようだった。最初こそ恐ろしい形相をしていたが、根は気のいい好青年なのだろう。
「他に何か気づいたことはあるか?」
「他にですか……うーん、他の子と比べて妙に大人びているというか……言葉遣いが大人並みに丁寧なところが気になります」
――やはり他人からもそう見えるか。
クライデの成長は驚くほど早い。赤子のような状態から数カ月後で他の子供に追いついたのだ。違和感を抱くのは当然である。
「そういう子は無理に大人になろうとしてんじゃないかって、心配になります。若いオペレーターにも何か悩みを抱えて、背伸びしようとしてる子はちらほら見かけますし。俺が気になるのはそんなところですかね」
「無理に大人になろうとしている……か。ありがとう。保護者として気にかけることにしよう」
「お兄ちゃん……?」
エーベンホルツがそろそろ厨房を離れようとした時、背後から聞こえる可愛らしい声。
「クライデ!? もしかして話を聞いていたのか?」
「聞いてはいけない話でしたか?」
「いけなくは……ない」
ただ、エーベンホルツの面子の問題である。こそこそとクライデの様子を探ろうとして結局、本人に聞かれてしまった。
「ハハハ……」
「何がおかしい?」
兄弟のやり取りを見て笑ったのはマッターホルンだ。
「とっつきにくい方かと思ってましたが、誤解をしていました」
「兄はえと……少し近づきがたいかもしれません。でも僕にとっては優しい素敵な兄なんです」
「クライデ、そういうことは言わなくてもいい……」
「どうしてですか? 家族のことを褒めただけです」
「……」
「エーベンホルツさん。あなたの負けのようだ」
「分かった。負けでいい……。私は仕事に戻る」
弟に敗北を喫した男はとぼとぼと歩き出す。仕事がまだ残っているのだ。
――クライデは大人びている、か。
大人びているどころか、大人顔負けではないか。
生まれて初めて見たのは闇だった。しばらくして自由がきくようになり、周囲を歩いてみたがすぐに壁にぶつかった。固い何かでできているそれはびくともしなかった。
仕方なくずっと闇の中で柔らかいものに座ってじっとしていた。柔らかいものの上には細くて固いものがあったが、それが何なのか、どうやって使うものなのなのか分からない。しかしなぜか大切なもののような気がして、いたずらに触らずもとの場所に置いておいた。
疲れてきたら柔らかいもののそばに戻る。そうするとぽっと暖かいものが流れ込んできて、疲れが吹き飛んだ。暖かいものは不思議だ。元気になったらまた闇の中を行ったり来たりしていた。
だけど。
ずっとずっと闇の中。何も起こらない。一人ぼっち。怖い。
澄み渡る空は青を湛え そよ風はたおやかに歌う
川の水面は絶えず姿を変えて 我が心は希望に満ちる
煙霧など一夜にして散り 大地は朝陽を戴く
嗚呼、美しきリターニア 自由を謳歌せし者の故郷よ
誰? これは歌? 誰が歌っているんだろう?
闇の中には誰もいない。暖かいものがこの歌を連れてきたんだ。
懐かしくて暖かい。今度はずっと歌を聞いていた。歌を聞いていると闇の中でも怖くない。何回も何回も聞いて、数え切れなくなった頃、別の懐かしいものが聞こえた。
驚いた。だってずっとこのままだと思っていたから。懐かしいものはどんどん近づいてくる。
「クライデ、君なのか? 私だ、エーベンホルツだ」
「えーべんほるつ」
それは懐かしく暖かい音。まるで体全体を震わせるような、甘く優しい調べ。口に乗せてみると、胸の中が暖かいものでいっぱいになる。
「老いぼれめ。また私を弄ぶつもりか?」
この音は良くない。胸の中がざわざわする。だめ、口にしてはだめ。懐かしい音が濁る。必死に伝えようとする。
「とにかく焦らず落ち着いて、君だけ入ってきてくれ」
懐かしい音が増える。落ち着く。これはハーモニーだ。濁った音がなくなる。ハーモニーについていく。
眩しい外。知らない音、知らない音、知らない音。
ここはどこ? 怖い。また怖いことが続く。
「君が心配するようなことは何もない。君の生みの親――クライデがしてくれたことを今度は私が君へ返そう」
懐かしい音。黒壇の音はいつだって心地いい。もう怖くない。
それから毎日が楽しくなった。光があふれて何かが起こる。懐かしい音で彼が話しかけてくれる。
でもときどき悲しい音がする。それは決まって夕方だ。空が橙色になると悲しくて胸が締め付けられる音がする。彼は一人で空が見える場所へ行く。一緒に行けるのは大きな楽器だけ。他には誰も連れていかない。
この悲しい音は何?
頭の中で音がする。演奏会、フルートを吹く彼、隣に黒壇のチェロ――。
これは誰? 僕は誰? 分からない。
黒壇の音の真似をして音を奏でる。すると彼が喜んでくれる。
「よくできたな」
頭を撫でて笑いかけてくれる。嬉しい。僕はクライデ。あなたの、兄弟、です。
兄が食堂に現れた日の夜。クライデがリビングで明日の準備をしていると、エーベンホルツが温かい飲み物を持ってきた。
「クライデ、明日の用意は終わったか」
「はい、できました」
「では一緒に飲もうか」
エーベンホルツの手にあったのは湯気が立ち上る二杯のココア。並んでソファに座り、口をつける。少し前までは大きく感じていた二人がけのソファが、今では少し狭く感じる。しかし、クライデにとっては少し狭いくらいでちょうどよかった。狭い方が兄との距離を近く感じるから。
「昼間の……食堂でのことだが」
ココアの量が半分になったところでようやくエーベンホルツは口を開いた。
「僕のことでお兄ちゃんに心配をかけて、すみません」
「謝らなくていい。私が君の言葉を信じられずに勝手にやったことだ。ただ、一つだけ確認したい。クライデ、無理をしていないか? 君はまだ子供なのに、物分りが良すぎる。たまには……以前のように甘えても構わないんだ」
「甘える……」
「そうだ。私にして欲しいことがあったら言ってくれ……んっ!?」
クライデはロドスに来た頃のように兄の胸へと飛び込んだ。術師である彼の胸板はそれほど逞しくはない。しかし、家族であるクライデにはそんなことはどうでもよかった。ただ、このぬくもりと胸の鼓動が落ち着くのだ。
「お兄ちゃん……」
暖かく懐かしい音に埋もれてクライデは呟く。もう耐えられなかった。優しい彼を騙すことに。
「ごめんなさい。僕が『クライデ』じゃなくて」
「何を言っている……?」
「覚えているんです」
これを言うのは怖い。
「断片的に昔のことを知っているんです。リターニアの風景、怖い実験、アフターグローの家、演奏会、気持ち悪い虫、それから体が粉々に壊れそうなほど痛くて苦しくて――」
それはロドスに来る前から自分の中にあった誰かの記憶。エーベンホルツに発見されるまで音楽堂に閉じ込められていた自分が知るはずもないこと。
「クライデ、もういい。思い出すな」
「僕には大人の記憶があるから『物分りが良い』んです。大人の大変さが分かるから。僕が大人のようにしゃべるのは、『クライデ』の真似をしているからです。僕はクライデの偽物です……」
じわり。涙が滲んでくる。泣いてはいけない。断片の中のクライデはどれも泣いていなかった。泣いたら「クライデ」ではなくなってしまう。
「クライデの真似をしたら、あなたが喜んでくれると思ったから。クライデの代わりになれれば、あなたが好きになってくれると思ったから……」
最初はただの真似だった。兄が喜んでくれるのが嬉しくて、記憶の中の「クライデ」のように振る舞っていた。言葉を覚え、難しい思考ができるようになってクライデは気づいた。これは兄の大切な人の記憶だと。
しかし、気づいたときにはもう遅かった。「クライデ」としての振る舞いは小さな身体に染み込み、自分のものになっていた。苦しかった。どんなに外面だけ同じように装ってもあの「クライデ」になれない、自分は偽物なのだ。
「でも違った。僕がどんなに頑張ってもクライデにはなれない……なってはいけないって分かったんです……う、ひっく……うぅ……」
堰を切ったように涙があふれて止まらない。少年は生まれて初めて泣いた。ある意味でこれが産声だったのかもしれない。
エーベンホルツはそっと弟の小さな背中を撫でる。しばらくそうしてあやされているとやっと涙が止まった。
「落ち着いたか」
幼児のように首をぶんぶんと振った。胸がまだ苦しい。
「私には君がクライデでもそうでなくても関係ない。命ある限りは君と一緒にいる。ロドスに来た時にそう言っただろう? あ、いや……あの時はまだ言葉が分かっていなかったか。ともかく、私はそういうつもりでいる」
今までで一番優しい声だ、と思った。極力、怖がらせないよう気を使っているのだろう。兄の優しさに包まれ、胸の苦しさがほどけていく。
「記憶があるなら、お爺さんのことは覚えているか?」
こくりと頷く。
「たとえ血が繋がっていなくとも、彼はクライデのことを本当の孫のように思っていた。二人で暮らした日々の積み重ねが彼らを家族にした。私たちも短いながら家族として暮らしてきた。血の繋がりや、君の言う『クライデかどうか』なんてどうでもいいんだ。君がどんな存在であっても――」
――私は君を愛している。
耳元で囁かれる優しい音。懐かしくて暖かくて胸がいっぱいになる。一番、聞きたかった音。ずっと聞いていたい音。
「それだけは忘れないでくれ」
「はい……」
「君が何者なのか、それは私にもロドスにも分からない。おそらく君に一生ついて回る問題だ。私の頭の中の『音』と同じようにな。だから私には君の苦しみが少しは理解できると思う。辛い時、苦しい時は私を――家族を頼ってくれ」
腕の中で兄の顔を見上げると、自然と目があった。自分とおそろいのアメシストの瞳は「絶対に大丈夫だ」という希望に満ちているように見えた。
「頼る……」
「君には――弟にはそんな顔をさせたくない。君には悲しい顔よりも笑顔が似合う」
兄は不器用に笑い、弟の頭を撫でる。
「それと一つ謝らせて欲しい。すまなかった。君には良かれと思ってクライデという名前をつけたが不安にさせてしまったな。今からでも新しい名前を考えよう」
「大丈夫、です……僕はクライデのままでも」
「そうか……」
「名前を呼んでください」
「クライデ」
――ああ……。
クライデは心の中でため息をついた。その名前を呼ぶ時、彼の音は一段と優しくなる。クライデになれないのはつらいけれど、自分が誰か分からないのも苦しいけれど、もっとたくさんこの名前で呼ばれたいと思う。
クライデは愛おしい音を発する唇に、そっと自分のそれを重ねた。
「っ……クライデ、こんなことをどこで覚えたんだ」
唇と唇を合わせたら、愛おしい気持ちが伝わる。大人の知識だ。
「昔の記憶で」
「私にとって君は大切な家族だ。だから……家族でこういうキスはあまり良くない」
「どうしてですか?」
「う……こういうキスは恋人同士でするもので……家族でするものではない。したいならほっぺたにしてくれ」
クライデは少し不満に思いながら、兄の頬にキスをした。唇にした方がずっと想いが伝わるのに。
「っ……く……これは……」
キスをした後に見つめ合うと、エーベンホルツは気まずそうに視線を逸らす。
「お兄ちゃん……?」
「何でもない」
素っ気ない態度にまた不安になる。再びじわりとこみ上げてくる涙。
「また僕は……」
「あぁ、すまない。そういう意味ではないんだ」
長い指先が涙を拭った。
「フッ……君は泣き虫だな」
「僕は泣き虫じゃありません……」
「そして甘えん坊だ」
広い胸に顔を埋める。懐かしい音を聞くために。どくんどくんと暖かいものが流れる音がする。この音をずっと聞いていられたらいいのに。それだけでクライデは幸せな気持ちになれる。自分はここにいていいんだと思える。クライデではない自分でも兄に愛されているんだと実感できる。
少年は久しぶりに赤ん坊に戻って、兄の腕の中で目を閉じた。暗い闇が目の前に落ちてきても怖くない。すぐそばには優しい兄がいる。悪夢を見て飛び起きたら、また涙を拭ってくれる。
――僕も愛しています、エーベンホルツ。
囁きは闇に溶けて消えた。
間話「ダブルベッド」
あれから数日。兄は何やら深く考え込むことが多くなった。時折り、ああでもないこうでもないと独り言を呟くこともあった。大切な家族が悩んでいるのに、平気でいられる訳がない。クライデはある日、思い切って兄に聞いてみた。
「お兄ちゃん。毎日、何か悩んでいませんか? 僕では大したことはできないけれど……良かったらお手伝いさせてください」
「すまないな、クライデ。実は悩みの解決方法がついさっき思いついたんだ」
「え?」
「新しい部屋に引っ越そう。君もそろそろ自分の部屋が欲しいだろう?」
自分の部屋――。そう聞かれてもクライデは他の子供ほどワクワクしなかった。
兄弟が暮らしている部屋は、小さなリビングとキッチン、寝室が一つという間取りでロドスでは一般的な一人部屋である。ベッドが一つしかないためクライデは兄と一緒に寝ている。
自分の部屋を手に入れてしまったら、一緒に寝ることができない。
「君ももう少し成長したら、今のベッドではさすがに無理だ。今のうちに二人部屋に引っ越して、君専用のベッドを買おう。そうだ、勉強机も必要だな」
「あ、あの……僕は今のままでも十分です。二人部屋に引っ越したらお金もかかります」
「そんなことを気にしなくてもいいんだ。私はロドスの上級オペレーターなんだぞ? 二人部屋の家賃くらいどうということもない」
「えっと……」
「ふむ……善は急げだ。さっそく空いている部屋を確認して、引っ越しの手続きをしよう。家具は君の好きなものをゆっくり選ぶといい。購買部でカタログを貰ってこなければな」
もう兄の頭の中では新生活のプランが出来上がっているらしい。クライデはどうにかこの部屋で暮らし続けられないか、説得しようとしたが妙案が閃くことはなかった。
それからエーベンホルツの行動は早かった。次の休みに、空室の二人部屋を探し引っ越しの手続きをすませると、購買部のカタログを手に入れて意気揚々と帰ってきたのだ。
「クライデ、引っ越しの日が決まったぞ。これは家具のカタログだ。好きな物を選ぶといい」
リビングのテーブルの上には分厚いカタログが置かれ、兄は優雅に紅茶をすすっていた。二人部屋への引っ越しが決定してしまった。もう一緒には寝られない。
クライデはしょぼんと落ち込んで、カタログを手にとった。カタログには様々なテイストの家具が掲載されていたが、どれもこれもピンとこず、ただただ意識の上を上滑りしていく。
シングル、ダブル、クイーン、キング……。
「あっ……!」
「どうした、欲しい物が見つかったか?」
「あのっ! 大きいベッドが欲しいです。ダブルの」
「ふむ、今はだいぶ窮屈な思いをさせているからな、大きなベッドが欲しいか」
「お兄ちゃん……その……」
クライデはカタログで顔の下半分を隠す。大きくなったのにまだ二人で寝たい、なんて子供だと笑われてしまうだろうか。
「新しい部屋に引っ越しても、たまには一緒に寝たいんです……。だからダブルサイズのベッドが欲しいんです」
「一緒に寝る?! それはだっ……」
「ダメですか……?」
兄が座るソファのそばまで寄って上目遣いで見上げる。
「だ、ダメではない……。ときどきなら、いい」
「やった!」
「はぁ……」
ダブルサイズのベッドを買うことになった兄は、小さくなにごとか呟いたが、無邪気に喜ぶクライデには一切聞こえていなかった。
間話「コイン」
荷物が一つ足りない。新居へと越してきたエーベンホルツはダンボールが一つ足りないことに気づいた。となれば、あるのはクライデの部屋だろう。
隣の弟の部屋を訪れ、ノックをしてから呼びかける。
「クライデ、私の荷物が一つ足りない。君の部屋にないか?」
「あ、はい。たぶんこれだと思います」
「入るぞ」
扉を開けるとちょうどクライデがダンボールを開封していたところだった。箱の中、真っ先に見えたのは見覚えのある小箱。
「あぁ、これだ」
取り上げるとカチャカチャと硬い金属同士がぶつかる音がする。
「中に何が入ってるのか聞いてもいいですか?」
「これは私の失敗作だ」
蓋を開けると中には穴の空いたコインが数枚。
「あ……」
「覚えて、いるか?」
「記念品……」
かつての友とした約束。出会いの記念に何か交換しようと約束していた。だが結局、生きているうちに渡すことはできなかった。
「ロドスに来てからやってみようと思いたってな。穴を開けるだけだというのに失敗ばかりで何枚も無駄にした」
形が歪んだコイン。穴をあける場所がずれて端が欠けたコイン。工作をしたことのなかったエーベンホルツは上手く穴をあけることができなかった。
昔の失敗を赤裸々に子供に話すのは少し恥ずかしい。当時は「絶対に自由を手に入れてみせる」と意気込んでいた。血気盛んな若者だった。しかし、実のところは感染者の実情すら知らない無知な青二才だった。自分で手に入れたものは一つとしてなかった。音楽もアーツも恵まれた生活も、すべてあの老いぼれの遺産だ。
――だが、今は。
エーベンホルツはコインに見入っていた弟の頬に触れた。暖かい。クライデ、たった一人の家族。兄弟の絆とこの幸福な生活は、紛れもなく己の手で手に入れたもの。
「お兄ちゃん?」
「君の頬は暖かいな。赤ん坊のようだ」
「もう赤ちゃんじゃないですよ」
「フッ……そうだな」
「僕も……」
「ん?」
「僕も記念品が欲しいです」
「あのフルートでは記念品にならないか?」
「あれは……『僕が』貰ったものではないでしょう?」
クライデは珍しくむっとする。ふいに見せた子供らしい嫉妬に、可愛いなと思ってしまう。
「このコインを貰っていいですか」
「こんなコインでなくてもいいだろう。もっとちゃんとした――例えばアーツユニットはどうだ。アーツの授業でも使えるぞ」
「このコインがいいんです。お兄ちゃんが苦労して穴を開けたコインが」
エーベンホルツは「しょうがないな」と小箱の中から比較的まともなコインを選別する。そして、一緒に入っていたチェーンを取り付けてネックレスにすると、クライデの細い首にそっとかけてやった。
「ふふっ……ありがとうございます」
弟は満足げに笑う。その姿がかつての友の姿に重なった。
あと数年もしたらアフターグローで再会した「クライデ」と瓜二つになるだろう。大人になったら恋人ができ、結婚して子供ができるかもしれない。歳をとってシワだらけになるかもしれない。それはエーベンホルツが知らない、「クライデ」の未来でもある。
だが、感染者である兄が弟に寄り添えるのは一人前の大人になるまでだ。エーベンホルツは鉱石病に感染してから、初めて悔しいと思った。この身を蝕む源石は友から受け継いだもの。後悔したことは一度もなかった。今は少しだけ悔やんでいる。できることなら、愛しい家族の未来が見たかった。
エーベンホルツは衝動的にクライデを抱きしめた。
「お兄ちゃん?」
「大事な家族を抱きしめたくなった。しばらくこのままでいさせてくれ」
「はい、いいですよ」
細腕が背中に回ってくる。
「お兄ちゃん、今日も……一緒に寝ていいですか?」
「ああ、そうしよう」
間話「埃」
クライデの保護者となり、エーベンホルツの生活は一変した。
彼は外見こそ五、六歳であったが、中身は赤子と変わりない。食事のとり方も分からなければ、服を着ることもできない。放っておけば、食べてはいけない物を口にする。
外勤任務は完全に休業となり、エーベンホルツは四六時中クライデから目を離すことなく育児に励んだ。
一時は不安しかなかったが、彼の成長が驚くほど早かったこととロドスの支援もあり、新米保護者はなんとか一番苦しい時期を乗り切った。
そんなある日、クライデが昼寝をして一息ついた頃、エーベンホルツはあることに気づいた。
――そういえばチェロを弾いていない。
部屋の片隅にある楽器ケースに目をやると薄く埃が積もっていた。喪失の悲しみを思い出した時に触れる大切な記念品。クライデがいたずらしないようにと、彼をこの部屋に連れてきた日に楽器ケースへとしまいこんだ。以来、あまりの忙しさに悲しい、寂しいと思う暇もなかった。
「彼」を思わせる色の楽器ケースを開け、黒壇のボディに久しぶりに触れてみる。指先に伝わるのは木材の素朴なぬくもり。
「すまない、ずっと一人にして暗い場所に置き去りにしてしまった。だが、もう少しだけ我慢してくれるか。あの子が成長したらまた一緒に夕暮れを見に行こう」
エーベンホルツは楽器ケースを閉めると、表面についた埃を丁寧に拭き取った。これからは定期的に掃除をする余裕くらいはあるだろう。
「エーベンホルツ……」
背後から呼ぶ子供の声。ソファで寝ていたクライデが寝ぼけ眼で起き上がっていた。
「起こしてしまったか?」
クライデはふるふると首を振る。それから眠そうな顔についた二つの眼がじっとこちらを見つめた。エーベンホルツはドキリとした。子供を育てていて分かったことがある。子供は親の感情に敏感だ。
少年は動揺した親のそばにすたすたと寄ってくると、無言で腰のあたりに抱きついた。何かを訴えるようにぎゅう、と抱きしめてくる細い腕。
優しい子だ。この子が巫王にならないことを願う。こんな優しい子を絶望と虚無を振りまくあの恐ろしい狂王にさせてはいけない。エーベンホルツは小さな身体を抱きしめ返した。