Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    GoodHjk

    スタンプ?ありがたきしあわせです‼️

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 🎃 ⚰ 🚑 🚨
    POIPOI 23

    GoodHjk

    ☆quiet follow

    【巽零】シャワールーム終わり|暗め|ややいかがわしい

    ##巽零

    猫足とモザイクタイルⅢ 晩夏の明朝、白けたシャワールームに並ぶブースの一室で、そぼ降る水滴に打たれ続ける、潤んだ象牙の肌を両腕に抱いた。
     去る夏を惜しむ遠雷の呻吟、隙間なく垂れ込めた暗雲の、今にも破れ弾けてしまいそうな様を尻目に、ビルディングに足を踏み入れた。エントランス前で身分証を提示して、まっすぐエレベーターへ向かう。午前六時少し前、建物の中に人影はまばらだった。スーツを着て出歩いているのは皆管理する側の人間で、身分を同じくする管理される側の存在は、辺りには見受けられない。
     適温より少し低いくらいに保たれた空調は、ご多分に漏れずエレベーターの狭い密室内にも嫌というほど効いていて、降り注ぐ肌寒さに首を縮めた。
     十時から、九階のダンスルームでユニット単位でのダンスレッスンが予定されていた。一人早めに到着して、機材の整備や室内の清掃、手続きの確認その他諸々の些事を済ませておこうと考えていたとはいえ、さすがにこの時間では暇が長すぎる。
     予定不調和は既に、この日の明け方には始まっていたのだ。漫ろな気配に急かされて覚醒し、判然としない思考を覚ますべく共用の浴室へと視線をやれば灯る照明、幾つかの扉越しに届くくぐもった流水音、目線を移して捉えた隣のベッドに主はおらず、なるほど利用者がいるのであれば已むを得ないと着替え、端末、財布、飲みさしの水が半分以上入ったペットボトルを携え外に出て、何はともあれ水場にて恙なく礼拝を終え、それでも集合時間には余程早い時刻に寮を後にしたのだった。
     ビルまでは徒歩で幾らもかからない。分厚い雨雲に覆われた太陽の熱視線は地上までは届かず、ただいや増す湿度だけはしつこく、露出している首筋や手元が冷風に吹かれて鳥肌を立てるのに対して、背や腿は布地の下でじんわりと不快な湿り気を帯びた。気候は連日ぐずついてアスファルトに乾く間を与えず、魯鈍に熱せられ立ち昇る、蒸気にも似た湿気の渦中を靴先で掻くようにして前に進んだ。たかだか数分の距離であっても汗をかかずには歩けないとしたら、寮ではなくビルのシャワールームを使用する手間も惜しくはない。頭上低く膨れ上がった黒雲が、じき破裂するのならばなおのことである。
     耳に小気味好い幽かな駆動音が尾を引いて途絶え、エレベーターは滞りなく、他に乗客もないまま、目的の八階で停止した。薄青く均一に塗られた壁は静謐な清潔感を湛え、無人の廊下を漂う静けさを助長している。消灯された収録ブース、各種スタジオが舞台装置か何かのように物々しく沈黙しているのを左右に見ながら、更に奥の共有設備を目指した。
     打って変わって床材の木目が目に温かいシャワールームには、人工的に単調な水音が、整然と並ぶブースのいずれからかあやふやに響いていた。珍しく早朝から他の利用者がいるのだと、その時はそんな風にしか考えなかった。ロッカーに荷物を入れ、これと決めたドレッサーに化粧品を入れたポーチを置いて予約し、クリーニングされたタオルの山からバスタオルとフェイスタオルとを数枚拝借して、着替えとペットボトルの水を抱えシャワーブースの前に並ぶ簡易椅子の傍に立って、ようやく仄かな違和を感じた。
     どうにも音が単調である。見たところ使用されているのは左に一つ離れたブースのみで、すぐ前の簡易椅子には利用者のものと思しき私服がたたまれて置いてある。磨りガラスを嵌め込んだ扉は閉ざされて、シャワーヘッドから間断なく注がれる水が床を叩く音が、一定のリズムを完全に保って聞こえてくる。その完全なる一定のリズムが寧ろ、日常にはそぐわない。この扉の向こうで今まさに誰かがシャワーを浴びているのであれば、人影が磨りガラスが乱反射するブース内の光を一層不規則に揺るがし、備品を弄る無機質な音をあれこれと立て、そのたびにシャワーの水流を遮り、水音を変化させるはずである。雑多で不規則であるからこその人の営み、気配、生活感が、二つ隣のブースからは不気味なほどに感じられなかった。
     腹の底にじりじりと燻る不調和を、すぐにも当然のごとく聞こえ出す水場の生活音によって、鬼胎を抱いたことさえ愚かしいと思えるほどに跡形もなく拭い去られる未来を渇望して、一向に衣服を脱げないまま数分が経った。数分間、シャワーの音に一切のゆらぎが生じなかったことが、希望とは正反対の未来を確定した。
    「すみません、どなたかそこにいらっしゃいますか。もしいらっしゃるのであれば、失礼ですが、一言で構いませんのでお返事をいただけませんか」
     水音に掻き消されぬ程度の声を張り上げ、同時に磨りガラスを丸めた中指の背で数回叩くも応答はなく、中で人が動いた様子も見受けられない。誰もいないという答は最善だった。誰かがシャワールームを使用し終え、水を止めずに出て行ってしまったのであれば、胃の腑から咽喉へすぐにも迫り上がらんとしている懸念は杞憂に終わる。
    「扉を開けますよ」便宜上断るも早く早くと募る焦燥、中に人がいるのかいないのか、無事なのか危険なのか、どうあっても見過ごすという選択肢は有り得ない。強硬手段をとられては堪らぬと慌てて怒鳴るもよし、不躾な闖入者を反射的に殴り付けるもよし、いかな扱いを受けたとしても、何かしらの反応があるならばそれだけで十二分に満足のいく結果である。
     意を決して扉を押し開けた先、真っ先に捉えたのは生成色の壁に凭れて仰向けに頽れる長身痩躯、剥き出しの胸やら腹へ絶え間なく降りかかるシャワーの湯水、ひたりと合わさったままの目蓋、蒼褪めた頬首筋に纏わりつく濡れっぱなしの黒髪。息を呑み、咄嗟に何と声をかけたのかも知らず、躊躇いなく狭いブースの中へ飛び込んで、頭に背にもろに温水を浴びるも構わず、力無く倒れる見知った男の傍へ飛び付き、潤んだ象牙の肌を両腕に抱いた。無理に動かしてはかえって障るかと遠慮がちに、それでもしかと抱き起こして、肩に回した左腕で頭部を支え、右の掌をあえかに開いた口唇にかざすも、呼気を感じ取る間も惜しく、湯を浴びたとて依然としてひんやりとした胸へじかに耳を押し当て、生命の証拠を探し求めた。
    「零さん、零さん、しっかりしてください、俺の声が聞こえますか」
     そんなような文言をひたすらに反復して、薄皮と肋骨の向こうでか細くも確かに鳴る鼓動音に安堵の溜息を手短に吐きつつ、ぐったりと重たい頭をなるべく動かさぬように抱き寄せる。虚脱した細腕が投げ出され、床を這う水流を遮っている。天から容赦なく注がれ続ける湯水が髪を濡らし、衣服に染み込み、肌を舐める感触が鬱陶しく、またこの鬱陶しい感触が意識のない朔間零を無感動に穿ち続けたことも忌々しく、レバーを乱暴に捻って水の流れを根元から堰き止めた。左腕で上半身を支えたまま、右腕で両膝裏を掬い上げ、全身を奮い立たせて身を起こす。
     上背が想起させるより遥かに軽やかな夜闇の魔王の身体を抱えて、脱衣スペースへ出た。一先ずその場に零を下ろし、バスタオルを何枚も床に敷いて、その上へ丁寧に移動させ、更に上からタオルを羽織らせて裸身を覆う。肺に水を飲んでいるのならと再び呼吸を確かめたが、口唇を滑り出る吐息は深く穏やかだった。
    「零さん、大丈夫ですか、聞こえますか。具合が悪いのですか。人を呼ぶか、救急車を手配しましょうか」
     むずかる幼児のように一瞬眉根を寄せた零が、腕に預けた頭を僅かに左右へ振る。どうやら意識はあり、声も届いているらしかった。それならばやはり、睡ってしまっていたのだろうか、夜から朝へと変遷する中で、闇夜に依存しがちな体質が災いし、糸が切れるように、あそこで一日を終えてしまったのだろうか。揺さぶり起こし、あわよくばせっかく取り戻しつつあった意識の糸を現実へ手繰り寄せようと試みたが、零はそれきり顔筋をもすっかり弛緩させ、睫毛の一本もそよがせることはなく、呼びかけにも反応を示さなかった。
     腕時計を見やれば時刻は午前七時少し前、始業開始にはまだ早いが、ビル内の人出が著しく増える頃合いである。目覚まし代わりにとここを利用する人がいないとも限らず、そうなれば脱衣所で無防備にも気を失って倒れた零と、その脱力した痩身を抱いた己とは間違いなく要らぬ騒ぎを呼び、ともすればあちこちに余計な尾鰭の付いた噂が飛び火して、鎮火の手の回らぬうちに延焼し、双方の関係者に面倒をかけぬとも言いきれない。
     零の耳元で一時的に席を外すことを告げ、ロッカーに預けた貴重品を持ち出して、早足でシャワールームの外へ出る。さいわいにして廊下に人気はなおもなく、少し歩いた先に並んでいる適当なラジオブースに入室し、入り口の機械と端末を操作してその日の予約状況を調べ、利用予定者がいないことが判明するや、即座に自分の名で予約を入れた。駆け足で取って返し、幾枚もの真白いタオルの上で目を瞑ったままの零の傍らに膝をつく。
    「零さん、零さん。場所を移しますよ、……少し、失礼します」
     好い加減水気も繊維に吸われ、冷ややかに渇いた磁器の表を連想させる蒼白い肌を念入りにバスタオルで包み、またしても両腕で掬い上げて、シャワールームを後にした。他人の双腕の内側に委ねた長身を憐れにも縮こまらせる零の、儚げな喉仏が円やかに反る様がいじらしく、あどけなく、沸々と湧出する庇護欲がついに胸につかえ、無性に患部を掻きむしりたくなった。
     午前限り我が物とした録音ブースは主にラジオ収録やその練習の場として使われる部屋で、畳にして八畳ほどと手狭、中央にテーブルとスタンドに取り付けられたマイクロフォンが四つ、録音機材が並ぶコントロールルームは嵌め殺しの防音ガラス窓を隔てて左に隣接している。部屋の大部分を占めるテーブルの陰に、白布に包んだ零を寝かせ、急な訪問者のないよう出入口を施錠した。ドレッサーに置いた化粧ポーチ、二人分の着替えも回収し、オフィスチェアの座上に据えてある。
    「零さん、お水をお持ちしました。少しでも構いませんから、飲んでいただけませんか」
     どれくらいの間シャワーに打たれていたのかは定かではないが、温水の下にあっても湯冷めしていた肌の状態を鑑みるに、数十分は下らないだろう。時期が時期である、甚だしく水分を失ったまま寝かせておくわけにもいかない。体温を逃がさぬよう隙間なく被せたバスタオル越しに、ぐったりと軟らかい上半身を抱き起こし、背と床との間に膝を差し入れて支える。濡れて目元に張り付いた前髪の房を恐るおそる摘んで払う、人差し指の爪先が薄い皮膚を擽った時、黒々とした睫毛が危うげに顫えた。弛み通しで乾燥し、痛ましい縦皺が数本見受けられる唇が戦慄き、はっきりとした呼吸音が聞こえた。
    「水」と、そう呟いたように思われたが、窓から窓へ吹き抜ける風の音にも似た枯れ具合、声と認識するのもやっとの有様だった。空いた手でキャップを外した水のペットボトルを翳す。薄蒼い目蓋が緩慢と開かれ、露わになった血色の二日月が、不安定に左右へぶれながらもひたとこちらを見据えた。
     唐突に、片腕に抱いていた半身に刹那的な力が張りつめ、裸の腕が伸びてきて、針金の指先で襟元に縋りつき、次の瞬間には、ひと際ふくらとしたしなやかな口唇の上下が、自身のそれにしっかりと重ねられていた。乾いて、それでも嫋やかに柔く、味わったこともない朧げな質感は、ただでさえ慌しく過ぎゆく朝の時間に連続して起こった、数々の悩ましい小難で停滞しがちだった思考の息の根をそっくり止めてしまった。先刻まで細く開かれていた瞳は皮下に隠されて、唇同士が触れ合っているこの状況がいかなる理由を以てして生じたものか、匂わせるそぶりもない。
     追って、二枚の襞よりも厚ぼったく丈夫な、明確な目的を持って蠢く筋肉の一塊、粘膜で装った過敏な感覚器官が、ぬるりと歯列のあわいを侵そうとして、我知らず顎を引くと、襟元を握る指先が収縮しゼロ距離は保たれたまま、再度厳かに重ね合わされた口吻は新たに角度を深め、今度こそ、舌の侵入を拒むことは叶わなかった。拒絶の意思は想定以上にあっけなく崩れ、言うなればさながら見掛け倒しの形骸であり、何故どうしてと大した逡巡もなく受容を採択した自分自身への困惑が胸中に吹き荒れてはいたものの、嵐の中心核となったのは背徳への呵責だった。
    「……零さん、」
     呼び声に応え目を醒まして事態を釈明してほしい、或いは呼び声になどちらりとも気付かず事が起こったことさえ判らずにいてほしい、相反する思惑が綯い交ぜになった声音はお世辞にも失われた意識をうつつに取り戻そうとする善人のものとは言い難く、切に求めるようで、遠慮がちに欲するようで、聞くに耐えない。
     他ならぬ自意識の浅ましさに打ちのめされながら、それでも、口腔をゆったりと不規則に這う舌先が、嚥下も追い付かずに底の方で水溜を成した粘液を掬った時、「水」と、その答を思い付いて、ひとたび離した口いっぱいにペットボトルの水を煽り、給餌を待つ雛鳥の嘴のように開け放たれた唇を唇で覆って、食道を塞がぬためと輪郭に添えた片手で顎の角度を調整しながら、のろのろと、殆ど体温に等しいぬるま湯を小さな割れ目へ流し込んだ。咽頭が小刻みに前後するのを押し当てた指の腹で察し、安堵を得る。慰めとも喩えるべき安らぎは懺悔によって賜る恩寵と質を同じくして、一見悪徳と思われる行いの果てに曲がりなりにも人を救えたという心証は、免罪符のように全身に染み渡り、己の魂までも救われた心地がした。
     水をまた一口分含み、零の朱脣へ口付ける。心を殺し欲を殺し、感情を殺し感覚を殺して、何も考えぬようひたぶるに、機械的に事務的に、繋げた隘路から飢えた肉の内側へ水分を注ぐ。どちらのものとも知れぬ密やかな吐息が口端を掠め、縁から溢れた水が零の嶮しい頤の曲線を伝い落ちる、拭う間も惜しい。何度も、噛み合うたびに色付き、濡れて、熱を孕み腫れていく薄唇、口付けの折に交わす代物が、真実飲料水に過ぎないのか、恥知らずにも訝らずにはいられない。
     覚えず、脳裏に主祷文を並べ立てていた。マタイによる福音書にある代表的な祈祷の文言、最も有名な口語訳、神に捧げる祈りの言葉を、繰り返し繰り返し。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ、我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。唱えつつ水を二口三口、含んでは粘膜を触れ合わせて、擦り合わせて、ぐっしょりと不快に湿った衣服の下、底深く陰火を燻らせる肌を、頼りなく揺れる剥き出しの半身に透き目なく寄せて、嵩む罪業を重々自覚しながら、裁きと赦しとを望んだ。
     雫がほたほたと顎の先から滴って、はだけた平らかな胸の境に落ち、筋となって滑らかな象牙色の下腹を辿る。目で追いかけて、半ばで逸らす。暫し瞠目し、覚醒の度合いも判然としない、零の仕草に倣って視界を閉ざした。
     互いの口許は水のベール越しに数えきれぬほど接しては離れ、やがて傾けたペットボトルの底が一直線に天を指した頃、終いの一滴までもを貪欲に口中へ収めて、空になった容器を手放し、両手のひらで熟した頬を包み込んで、最後の口付けを施した。液体を少しずつ舌で押しやると、度重なる侵犯に慣らされた朱脣がほどけて、従順に奉仕を受け容れ、設楽なく開いた陰極の間で、裸の感覚器官同士がぶつかる。水を得て満足し、口腔の奥へ引いていく舌尖に追い縋り、掬い上げて慈しんだ。
    「……ッ、ふ」
     心理の深層に囚われながらも健気に息苦しさを訴える、切れぎれに乱れた呼気さえも甘やかで、他人の裡で味わう水分の、まさに甘露のごとき塩梅は、酔いを知らぬ身体に陶然たる酩酊を、苦楽の谷間を駆け抜ける忘れ難い蹌踉感を刻んだ。輪郭に添えていた親指のはらで熟れた唇を恭しく抉じ開け、覘く歪な真珠、一等鋭利な牙を上下の唇で喰み、一層奥へ、縮退する舌を搦め捕り、手前へ引いて、水気で潤み始めた粘膜を粘膜で摩る。
    「は、……ッふ、ん」
     痩せた肩がささやかに痙攣し、襟を握りしめる指先が血の気を失って白む。強固に窄まる両の手指を端から徐ろにほぐして、指と指の間に五指それぞれを滑り込ませ、篭る力を分散させる。
     与えるという体裁を装ってその実貪り奪うような、献身と見せかけて正しくは支配し占領するような、二律背反の本性、乖離が進む一方の心情を自力ではどうすることもできず、ああ、悪魔という背徳の存在がこの世に顕在するならば、彼らが宿るのは疑いようもなく人の内面、普段は知覚不可能なその奥底、誰しもが潜める本能と無意識の原野であると、この時我が身を以て思い知った。巨視的観点から己が所業を冷ややかに、疚しさを見咎める理性の目を背に感じたとて最早留め置けずに、併せた鮮紅を唾液で滲ませ掻き回して、怯える的を撫でさすり、懐柔しては歯で唇で喰らいつき、味わうほどに豊かな滋味を貪婪に啜り、何時になったか。
     否応なく膨れ上がる欲が窮屈な布地の下で不自由を主張してようやく、限度を超え知性の手綱を振り切らんとしている自我を正面から認識し、俄かに恐怖が込み上げた。強張った肢体を解放し、手つきばかりは大事に大事に白布の上へと横たえる。白地に散る生乾きの黒髪の、艶めいた曲線から目を背け、露わな柔肌をタオルで綿密に覆う。熱が冷めるにつれて際立つのは惨めな情動の残滓、見るだに醜悪な灰塵でしかなく、それでいて永劫火種は燻り続け、消え失ることがない。
     激しく肋骨を打つ心臓部を掌で押さえ、深呼吸を繰り返す。波のように寄せて返す自責と自己嫌悪の念が苦々しく、ただ舌の上で火照る余韻だけが甘い、その甘ささえ今は恐ろしい。
     知らぬ間に独り善がりな無体を受けて気息奄々、浅く短く上下する胸郭に触れようか触れまいか迷っていると、壁の上方、横に長い長方形型に刳り抜かれた小さな窓の向こうで、稲光が閃いた。続け様に二度三度墨色の空が明滅して、忙しなく降り出した大粒の雨が乱暴にガラスを穿つ。完全に遮音された密室の、恒久の静寂の只中で、しかし、どこか物悲しげな幽けき遠雷の呻吟を聴いたような気がして、それが実に雷鳴であったか、それとも憂鬱が齎した耳鳴りの一種に過ぎないのか、取るに足らない徒事を殊更熱心に思案し、きたる一瞬を待つ。
     時刻は九時ちょうど、たった今レッスンに遅れる旨を連絡した端末を磨き抜かれたリノリウムの床に伏せ、徐々に安寧を取り戻す無垢な寝顔の傍ら、未だ鎮まらぬ余炎が息衝く下肢を折り曲げて、無事を願い赦しを乞う祈りの姿勢を整える。ひどいことを。
     夜と朝の狭間に見境を失くした。濡羽の睫毛の奥で清廉な真紅が綻んだ時、瞳の面に映る自身の貌が、潤み弛む朱脣が紐解かれた時、言葉が象る自身の姿が、かつてと委細変わらぬ様を呈しているだろうか、果たして。黙示か徴か天恵か、折り善くも目醒めは遠く、罪状を数える時間は長い。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ❤💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    GoodHjk

    DONE【渉零】新衣装の話
    天性回遊 でも、つかまえて『夜のご殿』を出たとたん、青い鳥はみんな死んでしまいました。
     ──モーリス・メーテルリンク『青い鳥』




     ひと言で言い表すならば洗練された、瀟洒な、或いは気品溢れる、いずれの賛辞が相応かと択ぶに択ばれぬまま、密やかに伸ばした指先で、コートの広い襟をなぞる。緻密に織り込まれた濃青色の硬質な生地は、撮影小道具であるカウチの上に仰向けに横たわる男の、胸元のあたりで不審なほどに円やかな半円を描き、さながら内側に豊満なる果実でも隠し果せているかのように膨らんでいる。指先を外衣のあわせからなかへと滑り込ませると、ひと肌よりもいっそう温かい、小さな生命のかたまりへと触れた。
     かたまりが震え、幽かな、くぐもった声で抗議をする。どうやら貴重な休息の邪魔をしてしまったようだと小声で詫びを入れれば、返ってきたのは、今し自堕落なそぶりで寝こけていた男、日々樹渉の押し殺した朗笑だった。床にまで垂れた薄氷の長髪が殊更愉しげに顫えている。この寝姿が演技ならば、ここは紛れもなく彼の舞台の上であり、夕刻になって特段用もなく大道具部屋へ赴く気になったことも既に、シナリオの一部だったのだろう。
    1993

    recommended works