長い指のあの人は「本日は常勤の医師ではなく、非常勤の先生になりますが、よろしいですか?」
「女性なんですよね?」
「はい、もちろんです。毎週この曜日は女医がおりますので」
「だったら大丈夫です。今日受診したいです。あの…早く診ていただきたくて」
「それなら本日がよろしいですよね。それでは問診票に記入をお願いします。そちらにお掛けになって…あっ、と…お辛ければどうぞそのままで…」
私は今、肛門科の受付に来ている。数年来のお尻の悩みをSNS上で吐露したところ、先輩痔主のフォロワーさんから「受診したほうがいいよ」というアドバイスを受け、ついにこのザックレー消化器クリニックへやってきた。ここは女医さんの診察を選べるので、ネット上での女性患者からの評判も良い。
診察の手順は先輩に教わった通りなので、それほど緊張はしていない。一応、なんとなく新しい下着を身につけたりはしたけれど、そんなのは見られる暇もなく、診察室では服を着たまま横向きにベッドに横たわり、下着を下げると女性の看護師さんがすぐに布をかけてくれた。この診察室は女性専用ということで、インテリアもピンク系統で可愛らしい。まるでネイルやエステのサロンのようだから恥ずかしいという気持ちもあまりなかった。普通の風邪や花粉症と同じ。単なる日常の診療として、診てもらえばいい。
なのに。
運命はどうしてこういういたずらをするのだろう。
「初診の患者さんかな?本日の担当のハンジ・ゾエです!どうぞリラックスしてね!」
白いシャツの上に白衣を引っかけてやってきた医師は、あの美しい人だった…。
ステイホームを機に、私は高校の吹奏楽部以来のフルートを再開してレッスンを受けるようになった。老舗楽器店の最上階にあるレッスン室では高校の先輩がプロ奏者となって講師をしており、入会金は要らないよと言われてそこに通っている。レッスンもストレス解消になったけど、もう一つの楽しみもあった。その店の一階のピアノショールームでは、メガネをかけた紅茶色の髪のすらりとしたあの人が、いつもピアノを弾いていたのだ。
ずらりと並ぶグランドピアノの中で、各メーカーの特色など素人の私にわかるはずもない。でも、私もよく耳にするメジャーなクラシックもその人の手に掛かれば、キラキラとした輝く音色に変わったり、ダイナミックな響きに変わったり、しっとりとした艶のあるメロディに変わるのがよくわかる。レッスン前の僅かな時間、お客のふりをしてフロアに佇み、彼女の弾くピアノを聞くのが私の日課となった。
長い指、端正な横顔。伏せた目のまつ毛の長さ。いつも白シャツに黒のパンツ姿なので一見ボーイッシュに見えるけど、よく見ると美人さんだ。彼女の細い白い手首が上下し、波のように鍵盤の上を滑っていくのを、私はうっとりと見つめていた。
彼女はどんな人なのだろう。プロの演奏家なのだろうか。時々、小柄な黒髪の綺麗な女性が横に立ってハミングしてることもある。友達なのかな。
でも、これまた小柄な黒髪の男性が横に立っていることもある。いつも仏頂面でなんとなく近寄りがたい。私も睨まれてしまったことがある。恋人なのかな。彼女よりずっと背が低そうだし、あまりお似合いには思えないけど。
他に誰もいなかったある日、私はついに彼女の隣のピアノのあたりまで行って、その演奏を聞いていた。『亜麻色の髪の乙女』、ドビュッシーの曲だ。これなら私にもわかる。なんて声をかけたらいいのかわからないけど、とにかく思いを伝えたかった。
「とっても素晴らしかったです!『亜麻色の髪の乙女』、お好きなんですか」
「ああ、それは…どうも」
意外にも、彼女は褒め言葉に素直に照れていたようだった。それが思いのほか可愛らしくて、私はなぜか生まれたての子猫でも見つけたように胸がいっぱいになった。照れ隠しのように、彼女は鍵盤の前に刻まれたロゴを指さした。
「今日はベヒシュタインでドビュッシーを弾きたい気分でね。ほら、鐘が鳴るようだろ」
彼女は、先ほどの『亜麻色の髪の乙女』の最後、キラキラした高音が駆け上っていく部分をもう一度弾いてくれた。
「このピアノはこういう音が好きなんだ。実家のもこれだったし」
「そうなんですか。もしかしてプロのピアニスト・・・さん?」
「ハハ、ピアニストはとっくに諦めたよ。音楽は続けてるけどね。仕事の傍らのアマチュアなんだけど」
「アマチュアって・・・どんな音楽を?」
と、彼女のプライベートがわかりかけたというのに、その会話はすぐに打ち切られた。私のすぐ後ろで、あの小男が睨んでいたのだ。
「ハンジ、いつまで油を売ってる。もうスタジオが開いてる時間だぞ」
「ごめんごめん。すぐ行くよ!…じゃあね、君、聞いてくれてありがとう。またね!」
小男に引っ張られるようにして、彼女はフロアを去って行った。
本当に僅かな時間だった、でも、私には至福のひとときだった。ついに彼女―ハンジさん―と話せたのだから。それ以来、夢に見るのはあの人のことばかり。あの人のピアノをまた聞けたら。「君のために弾くよ」、と演奏してもらえたら。「意外と簡単なんだよ、ほら」と言って、横に座ってレッスンしてもらえたら。私の小さな手の上にあの長い指を重ねてもらえたら。きっと、彼女がピアノの椅子から立ち上がる時に鼻を掠めた、花のようなエレガントな香りがするのだろう。
そんなことばかり考えていたら、うっかり受診のタイミングを逃していた。在宅メインだった仕事も来月からは出勤が増え、通勤電車にも乗らなければならない。ここで治しておかなければ、と、数年来の決意を抱いて肛門科へ来たのだ。
それなのに。
「はい、では患部を見せていただきますね。あ、動かないで。そのままでいいですよ」
なんで、よりによってあの人にお尻の穴を見せなくてはならないのだろう。人生でこんな最悪の日があってよいのだろうか。
幸い、患者があの時の私だとはバレていない。それが悲しくもあったけど、これに至っては不幸中の幸いでもあった。
ベッドが高く持ち上がり、私の腰からペロリと布が取り払われ、お尻が丸出しになった。お尻がひんやりとした空気に触れるとともに、一気に心細くなった。消毒と潤滑剤しますね、と、看護師さんが何か薬液をつけて肛門を拭いてくる。その間に、「ハンジ先生」がピチピチとゴム手袋を嵌める音が聞こえる。いよいよだ。これは診察だ、彼女は私に気づいていない、とは言っても、私としてはあのハンジさんの長い指でお尻を弄られてしまうという意識はどうしても消えない。ゴム手袋で、とうとう私の柔らかい尻たぶが開かれた。
(・・・あ・・・!)
ハンジ先生のキャスター付きの丸い椅子が私のほうに寄せられる。彼女の体が動く気配がする。
(・・・ハンジさんが・・・私のお尻を覗き込んでる・・・?)
悲しいやら情けないやら。でも、その恥ずかしさがなぜかまんざらでもない。ハンジさんにお尻を見られていることが、決して嫌ではないのだ。そのことだけは察してもらいたくはなくて、つい体を硬くしてしまった。
「ああ、緊張しなくていいから。じゃあ、ゆっくり深呼吸しようか。せーの」
(すううう・・・はあああ・・・・)
「はーい、じゃあ行くね」
(あ・・・ああ・・・・・・あああ!あの指が!指が!)
「はい、いいよ~。その調子で力を抜いて」
何がその調子なのか。さっぱりわからない。だけど、ただ何も考えずお尻を預けていればいいらしい。ハンジ先生の長い指が、今、私の中に入っている。そう思うとなぜかわからないけど体が猛烈に熱くなった。肛門の周りをぐりぐりとえぐるように、ハンジ先生の指が動いていく。
「ほうほう、なるほどなるほど、ここだね。えっと、あなたからみて2時の方向かな」
「だと・・・思います・・・」
患部をハンジさんに言い当てられ、顔から火が出るようだ。
「これはよかったね。すぐ治るよ。ご本人はお辛いだろうけど、まだ大したことないやつだから。外用薬と内服薬出しとくからね。あと便秘に気をつけていれば大丈夫。一応今、外用薬塗っておくとしよう。同じように家でもやってみて」
言ってることが全く頭に入ってこないけど、とりあえずハンジ先生は私のお尻にさらに何かをするようだ。するとすぐ、ぬるっとした冷たい感触が肛門に当たった。
(ちょ・・・待って・・・ッアー!!)
ハンジ先生が薬を塗りつけた冷たい指で再び侵入してきたのだ。そして、指で肛門周囲をヌルヌルとなぞっていく。
「あー、ごめんね、気持ち悪いだろうけど我慢してて」
(あ・・・ヤダッ何これッ)
ヌルッヌルッグプッグプッ。冷たい。気持ち悪い。いやだ。でも・・・?
時間にすればほんの数秒だったと思う。
ハンジ先生の指が離れた。自然の摂理だからしかたないけど、私の肛門は最後にその指をくわえ込むような動きを見せた。
いや、自然の動きだけじゃないかもしれない。あんなにイヤだったのに、私のお尻の小さな穴は、なんだか不思議な名残惜しさを感じていたのだった。
「お薬は2週間分出しておきますね。だから次回の受診は2週間後、お薬無くなったころに来て下さい。あ、ちゃんとお薬使っていれば経過観察だけだろうから、別に私の当番の日じゃなくてもいいよ。私、いつもいるわけではないし」
どうしよう。でも、ハンジ先生の診察は嫌じゃない。
「・・・いえ・・・先生の日に来ます」
「そうですか。ではお待ちしていますね。お大事に!」
ハンジ先生はニッコリ笑って、あの時のように小さく手を振ってくれた。
長い指でピアノを弾くあの美しい人は、その日から私の主治医になったのだった。
(終わり)