どうか放り捨てないでくださいね「寝室、一緒で構いませんよね?」
「っ……!?」
自分で思ったよりも低い声が出てしまった。だってあまりにも、その提案は予想外だったから。否定的な反応だと受け取られたのか、茨くんは咎めるような目つきで「分けますか」と重ねて問うてきた。
違うのだ。嫌だったわけじゃない。プライバシーにうるさくて「他人と同じ空間じゃあ気が休まりませんね!!」なんて言いそうな茨くんが、そんな提案をするとは思っていなかった。私室は完全に分けてお互いに立ち入り禁止、みたいなルームシェア状態を想像していたのに。いやまあ正直なところ、こうして茨くんに言われるまで寝室のことなんて一切考えになかったけれど。
「私は大丈夫だけど……茨くんこそいいの?」
「仕事用に書斎をそれぞれ用意するつもりですので。その分プライベートスペースは共有にしようと考えております」
「ああなるほど……。うん、一緒でいいよ」
茨くんの目がきっと細められた。一緒がいい、って言うべきだった。
「……なんか自分だけ盛り上がってるみたいで腹立つんですが」
「いや、でもほんとに茨くん楽しみにしてるんだな〜っておもう゛っ」
最後までは言わせてもらえなかった。茨くんの強力な手刀が私の脇腹を直撃したから。
同棲を提案したのは茨くんの方からだった。私たちは付き合い出してからそれなりに経っていたけれど、一緒に過ごした時間は他の恋人たちよりも圧倒的に短いんじゃないかと思う。お互いに仕事が第一の性格で、だからこそ私たちは付き合えたのだと思うけれど、恋人らしい時間を過ごせることはほとんどなかった。それでもESでは度々顔を合わせることができたし、たまには食事に行くことだってできた。なにより、茨くんの顔は毎日だっていろんな媒体で見ることができた。Edenの活躍と躍進を通して茨くんの仕事ぶりを見ることができたから。私はそれに元気づけられていたし、負けてられないと仕事へのモチベーションを上げることもできた。もっとも、当の茨くんはこの状態が完全に不服だったみたいだけれど。
付き合って1年くらい経ってから、茨くんに家の合鍵を渡された。茨くんも忙しいのにお邪魔できないと思ったけれど、それを伝える前に遠慮は一切不要だからいつでも来てくれと念を押されてしまった。それ以降私は度々茨くんの家を訪ねるようになったけれど、やっぱりすれ違う生活は解消されなかった。そもそも私だって帰りが遅くなることが多く、ESから閉め出されてしまうような時間に人様の家に寄って行くことなんてできない。早く帰れる日に家を訪れてもたいてい茨くんは不在なので、簡単に家の掃除や料理の作り置きだけしてお暇していた。その都度お礼と共に待っていろ泊まっていけという連絡が入っていたけれど、茨くんだって毎日ちゃんと帰ってくるわけじゃないから、茨くんの家でずっと待ち続けることもしなかった。
そんな状態でさらにいくらかの月日が流れた。茨くんはこれもやっぱり不服だったようで、ある出張帰りの夕方、瞳孔の開きかけた眼でこちらを見据えながら唐突に「あんずさん、一緒に暮らしましょう」と言ってきた。私の手を力強く握ってきたその手は想像よりもがさついていて、目元にはコンシーラーでも隠しきれなかった隈がうっすらと見えていた。疲れからくる戯言だと思って、思わず可否ではなく「茨くん、まずは寝よう」と返してしまった。
茨くんは本気だった。私が返答をうやむやにしている間に物件をいくつか見繕って、「どれがいいですか」と私に提示してきた。どこもESから近く、セキュリティ面に優れ、近所にスーパーやコンビニといったお店にも恵まれた文句の付け所がない物件だった。これまでたいてい茨くんの言う通りに交際を続けてきた私は、ここで初めて、茨くんの提案に反対した。
「聞かなくてもわかるけど、家賃すっごく高いよね?」
「ご心配には及びません。自分の希望で選んだ物件ですから自分が全額負担しますし、同棲にあたって金銭面に不安を感じられているようでしたら食費光熱費その他諸々の費用も自分が出しますよ。失礼かもしれませんが、自分あんずさんより稼いでいると思いますし」
「収入に関してはその通りだと思うけど、だからって茨くんにおんぶに抱っこは嫌だよ。……私も仕事があるから、その分家事を担当するのも無理がありそうだし」
「別にあんずさんにそのような働きは求めていませんよ。料理などは自分も得意ですし、何ならハウスキーパーを雇っても構いません」
「でも」
「何ですか」
たぶんお互いに少し苛立っていた。私はいつもより刺々しい声が出ていたし、茨くんは露骨に眉を潜めていた。でも私たちは、少なくとも仕事の時は、お互いに頑固で自分の意見を曲げたがらなかった。
「……あんずさんは、自分と住むのはお嫌ですか」
「……そういう、わけでは」
「では何がご不満ですか。何を呑めば、自分と暮らしてくれますか」
その言葉が意外で、喉元まで出かけていた言葉が引っ込んだ。茨くんは見たことのない顔をしていた。眉を寄せて、口を引き結んで。欲しかったものが自分の目の前で完売してしまったような、自分も気に入っていたおもちゃを年下の子に譲り渡したような、そんな顔。
「……今のままじゃ、だめなの」
目のあたりが熱くなる。悲しくも悔しくも怖くもなかったけれど、涙が出そうだった。
何でもないことなのに涙が出てしまう自分の体が嫌いだった。こっちだって泣こうと思って泣いてるんじゃない。茨くんも多分、めんどくさいというような顔をするんだろう。
「……怖がらせましたか」
「こわくないし」
茨くんの指がおもむろに伸びてくる。顔の近くで躊躇うように一度止まったけれど、そのまま目尻のあたりをそっと撫でられた。
「泣いてない」
「泣きそうな顔してますけど」
「涙出てないうちは泣いてるって言わないもん」
中途半端な思いやりのこもったその行為に別にときめいたりはしなかったけど、誰かの手が顔に触れるその感覚が何だか心地よかった。強張っていた身体からだんだんと力が抜けていって、ほんの一滴にも満たない水分が茨くんの指を濡らした。
「どんな反論をされようが言いくるめて同棲に持っていこうとは思ってましたけど、あなたを威圧して言う事を聞かせようとしたかったわけではないんです」
「……うん」
大丈夫、ほんとに怖くないよ。そう伝えれば、茨くんは安堵したように静かに息を吐いて、ゆっくり手を引いた。
「そんなに、一緒に住みたかったの」
「はい。何が何でも」
「……そうなんだ」
どうして、と思わなくはない。けれど聞いたところで、想像通りの答えが返ってくるだけだろうなとも思った。あなたのことが好きだから、と。あなたともっと共にいたいからと。告白されたときに言われた言葉だ。
このひとが私のことを好きだということが、いまだにいまいち信じられなかった。私に向ける表情が人よりやわらかいものであることは気付いているし、私のために服やアクセサリーなどの贈り物も度々用意してくれる。恋人としてのスキンシップは控えめなものの、案外記念日などを大切にするタイプだ。だけれども。
自分の足でしっかりと踏み立つことができ、アイドルもプロデューサーも経営も何でもこなせる彼が。一人で生きていくことになんの差し支えもなさそうな茨くんが。私に隣にいてほしいと言うその必要性だけがわからなかった。
「……いいよ」
「……いいんですね」
「うん、一緒に暮らそっか」
茨くんの指に手を伸ばす。さっきまでの私と同じくらい、茨くんの身体も強張っていた。そっと指を絡めれば、応えるように彼の指もそっと握り返してくる。
「言質取りましたからね」
ちなみにこの時の会話は、茨くんの胸ポケットに刺さっていたペン型ボイスレコーダーによって私の泣き言の部分までばっちり録音されていた。何が何でも同棲したかったという茨くんの言葉は本当だったらしい。
きいい、という金属音が小さく響く。音を立てないようにそっとドアを開けているんだろうけれど、それでも一切音を出さないのは難しいようだ。うとうとと眠りに落ちる寸前だった頭が現実に引き戻される。
「おかえり」
「……只今帰りました。起こしてしまいましたか」
「私もさっきベッド入ったばっかりだよ」
日付が変わってさらに少し経ったくらいの時間。ようやく茨くんが帰ってきた。窓から差す僅かな月明かりが彼のシルエットをぼんやりと照らす。
「お風呂沸いてるよ。今日はお湯張って……、入浴剤、青で綺麗だよ」
「うーん……。疲れてるんでシャワーだけにしときますね」
「ええ……、もったいない……」
私の頬を指の背で数度撫でてから、茨くんはベッドから離れた。最近気付いたのだけれど、茨くんは私の顔を触るのが結構好きらしい。帰ってきたばかりらしい彼の指はひんやりと冷たかった。
うっすらとシャワーの音が聞こえはじめる。私はずっと実家暮らしで間取りの良し悪しなんてさっぱりわからなかったので、物件選びは一番小さいところがいいと一言添えた上で茨くんに一任してしまった。家具もレイアウトもほとんど茨くんが決めて、じゃあ住みましょうとなってから初めて私はこのマンションに足を踏み入れたのだけれど、まさかお風呂場とは別にシャワールームがあるような家に自分が住むとは思わなかった。スペースが有り余るほどに部屋も収納も広いし、エントランスにはなんとコンシェルジュなる人がいるらしい(いつも帰る時間が遅いからあまり利用できていないけれど)。二十代の恋人同士が住むようなランクの家ではないことはさすがにわかる。茨くんは家賃について一切触れてこないし、怖くて調べることもできていない。せめて生活費くらいは折半させてほしいと頼み込んで、どうにか毎月数万円分の振込先だけは教えてもらえた。茨くんのことだから、そんな端金、ちゃんと認識しているのかどうかもわからないけれど。
寝室からシャワールームに繋がる扉が控えめな音を立てて開く。ひたひたと足音が聞こえ、少しの間をおいて布団の端が持ち上げられた。
「ちょっと詰めてください。……それ離してくれませんか」
「これないと寝れない」
「子供じゃないんですから」
茨くんが前から文句を言っているのは後輩からもらったぬいぐるみだった。両手で抱き抱えられるほどに大きいそれをいつも抱き枕がわりに使っているのだけれど、いかんせん茨くんからは不評だった。焦点の合っていない瞳が不愉快だとかで。めしゃりと音がしそうなほど力強く鷲掴まれ、果物を模した顔がひしゃげる。抵抗する間もなく、ぬいぐるみは足元の方へ放り投げられた。
「ひどい」
「あれ邪魔なんですって……。自分がいるからいいでしょう」
茨くんの腕と脚が絡められる。茨くんは私を抱き抱えて寝るのが好きだった。私は寝相が悪いのか、抱きしめて寝たはずのぬいぐるみが起きる頃には背中側に転がっていることなんてザラにあったのに、茨くんは寝て起きるまでずっと姿勢を変えず私を離さないのですごいと思っている。
「ねえ茨くん、家選び全部茨くんに任せておいて何なんだけど、この家、そのうち引っ越したいよ」
「……お気に召しませんでした?」
「気に入らないわけじゃないけど……、なんていうか」
茨くんのTシャツの胸のあたりをぎゅっと掴む。私はこれが好きだった。抱きしめ返すことも、擦り寄ることも恥ずかしくてできないから。いつも朝には離してしまっているけれど、それでも今ここに、茨くんがいることがわかるから。
「前の茨くんの家もそうだったけど、この部屋広いから、ちょっと」
さみしい。
そう零すと、茨くんの目がゆっくり見開かれた。眼鏡をかけていないから、その瞳の大きさがよくわかる。
「あんずさん、さみしいとか思うんですか」
「なんか、広い部屋に私しかいないの、茨くんいないなって思っちゃうから」
その瞬間、頭を勢いよく引き寄せられる。ぶえ、みたいな声が出た。茨くんの胸に顔を押し付けられて息が苦しい。絡められた足もぎゅうぎゅうと締め付けられてとても痛い。
「ぐるじい」
「……いつも帰りが遅くなって、申し訳ないと思ってます。さみしがらせてすみません。毎日必ず帰ってきますので、さみしくてもちゃんと一人で待っててくださいね」
茨くんが小さく息を吐く音が聞こえた。笑っているのか、どこか嬉しそうな声色だった。少しだけ腹が立った。
画面越しに、茨くんの顔が見られれば満足だった。彼がどこかで元気にしていて、その様子を何かしらの媒体を通してでも確認できればそれだけで安心できた。茨くんの家に行くようになったのが間違いだった。私は茨くんがいなくても大丈夫だったのに。いないのが当たり前だったのに、いてほしいと思うようになってしまったから。茨くんに抱きしめられるこの温度さえ知らなければ、私はさみしいなんて思わなかったのに。
「ああそれと、大変心苦しいのですが、引っ越しの件は承諾致しかねます。もちろんあなたがどうしてもと言うなら検討はしますが……、なにぶんそれなりに高かったもので」
「だめ?契約更新?とかまで待っても?」
「あっはっは、あんずさん」
茨くんは私の頭を押さえつけていた手を緩めて、私の顔を覗き込む。悪い顔だった。口元だけは大きく弧を描いて、目元はこちらを睨めつけるようにじっと私の目を見ていた。
「このマンション、賃貸じゃなくて分譲なんですよねぇ」