特権 ひたり。首の後ろを自分より角張った指先が撫ぜた。驚いて一口分のご飯をつまもうとしていた箸の動きが止まる。もしも私が大統領なら私は今頃死んでいるだろう。けれど私は大統領ではないし、後ろから足音も立てずに忍び寄ってきたのは腕利きの暗殺者ではなくこの家に一緒に住む私の恋人だし、狙われていたのは私の命ではなく私の髪の毛のようだった。
「……茨くん? おはよう、どうしたの、こんな朝早くに」
髪の一本一本の質を確かめるようにゆっくり指を通したり、撫でるように手櫛で梳かしている彼に声をかけた。時刻は五時八分。これから早朝のロケに付き添う私には丁度いい起床時間だが、公開スケジュールでは十時から打ち合わせとなっていた彼にとっては早すぎるはずだ。茶碗と箸を置いて、彼に向き合うため振り向こうとする。
「そのままでいいです。どうぞ食事を続けていてください」
彼の顔を確認する前にそう言われた。言われた通りに箸を持ち直し、食事を続けることにする。寝てなくていいの、髪の毛なにか気になった、一緒に朝ごはんを食べるか——。聞きたいことはたくさんあるが、彼の有無を言わせないような静かな圧を前に口を開くことはできなかった。機嫌が悪いのだろうか。
「道具持ってきますね。ここにいてください」
彼の手が髪からするりと離れていく。足音はしないけれど、その場を離れたのが気配でわかった。道具とは。ヘアセットでもしてくれるつもりなのか。浮かび上がる疑問を並べながら無言でおひたしを口に運ぶ。彼はすぐに戻ってきて、何やら見慣れないボトルやブラシを机の脇に置いている。私そんなの持っていなかったと思うけれど。何も言わずに細い櫛で髪を梳かし始める彼に、おそらく本気で髪をセットするつもりなのだろうと考える。
「……お化粧まだだから、何かするなら二十分……いや三十分までには終わらせてね」
「承知しました」
朝食を食べ終わったものの、動くことができず手持ち無沙汰になる。スマホはベットサイドに置きっぱなしだ。今朝の美容師さんはちょっと何を考えているのかわからない不思議な方なので、雑談も持ちかけにくい。どうしたものかと指先に視線を落とすと、不意に彼の方から声をかけられた。
「髪触っても、あなたノーリアクションでしたね」
「え、びっくりしたよ?」
「振り向くでもなく自分の手を払うでもなく、もそもそ米食べてたじゃないですか」
「それは、多分茨くんだろうなって思ったからで……」
彼の選んだこのマンションはセキュリティの高さが売りだ。共通スペースは監視カメラが常に作動し、24時間警備員が見張りを続けている。オートロックかつカードキーと暗証番号がないと部屋には入れない。泥棒の可能性は極めて低いはずだ。
「……自分への信頼の証として受け取りたいところですが、あなたは誰にでもそうなんですから困ります」
私の警戒心の話だろうか。確かにゆるいだの能天気だのと言われることは多いが、私は大統領ではなく、現代において背後から突然首を狙われる可能性なんて億に一つもないのではないか。
「暗殺とかの話?」
「は?」
違うらしい。彼は理路整然とした明確な言い回しを好むけれど、二人きりの完全なプライベートの場では存外抽象的でわかりにくい喋り方もするというのは最近気付いたことだ。
頭皮を何か尖ったものがなぞる。櫛の反対側だろうか。左耳の後ろあたりの髪をまとめられて、残りの髪は大雑把にクリップでまとめられた。本当に美容師さんみたいな手際だ。
「先週の金曜。うちのアイドルのMV撮影の打ち上げの場。他の男に髪触らせてたでしょう」
先週の金曜の打ち上げ。髪を触った男。検索条件を元に記憶を辿り、一人の男の顔を思い浮かべた。個性的な性格の、カメラマンのアシスタントだった。
「髪きれいだねって言ってもらっただけだよ」
「思いっきし触ってたの見ました。指で毛先くるくるさせてましたよね」
言われてみれば、そうだった気がする。が、髪の手入れの話で盛り上がったためその行為はあまり重視していなかった。高校生活の中でいきなり抱きついてくる男の子だっていたのに、髪ぐらいで驚くようなことは何もない。けれど夢ノ咲のようなスキンシップは世間一般の基準では距離が近すぎるということを、私は社会人になってから学んだ。やきもちなのだろうか。
「茨くんそういうの気になるタイプ?美容師さんも女性の方がいい?」
「……全然わかってませんねあなた」
左に編まれた三つ編みは先端を小さなゴムで結ばれ、彼の手から解放されている。右耳の後ろも同じように撫でられる感覚がして、多分そっちにも三つ編みを作っているのだろう。
「茨くんの言いたいことはよくわかってないけど、他の男の人に髪を触られたことで茨くんに嫌な思いをさせちゃったのはわかるよ。ごめんなさい。次から気をつけるね」
右肩にも先端を結ばれた三つ編みが落ちてくる。やることがなくてなんとなくそれを手に取って眺めてみた。ふんわりゆったりと、余裕を持って編まれたそれ。
彼にとって人の髪を三つ編みにすることがストレス解消になっているのは知っている。私の髪を触るのも好きなようだし、乱さんもよく細い三つ編みをいくつも作られて、ダンサーみたいな髪型になっているのを見かける。けれど彼がいつも無意識に作るのは、ひとつの隙も無いようなぎちぎちにきつく編まれた三つ編みだったはず。
「……男が女性の髪を触るのは」
頭上から降る彼の声。後ろ髪は耳の高さでまとめられて、ポニーテールになるようだった。私が自分で結ぶより少し高い位置。
「大抵の場合、女性に好意があるか下心があるかのどちらかです。髪を触られたときにしっかり不快だと伝えないと、つけ上がってもっと際どい場所を触ろうとするかもしれません。……気をつけてくださいね、こういうふうに」
つつつ、彼の指先がうなじを撫でる。さっきとは違う。明確な意図を持って、髪ではなく首を触っている。背中のあたりを何かがぞわぞわと駆けていくようだった。これは不快感か、それとも。
「あなたに触れたいと考える男は腐るほどいるんですから」
振り向いて文句を言おうとしたが、髪を後ろでガッチリと掴まれているので私の頭は全く動かなかった。ゴムで手早く結われ、左右の三つ編みもピンで結び目にまとめられる。
「毛先巻くので動かないでくださいね」
「首は触られるとびっくりするんだけど……」
「あんずさんに拒絶されたら自分悲しくて泣いてしまいますが!」
彼の声音は普段のものに戻っていた。三つ編みで機嫌が直ったらしい。温められた毛先がうなじに当たって、これもこれでこそばゆい。
「……はい、できました」
「見たい!茨くん写真撮って」
じゃあちょっと止まっててください、という声とシャッター音。顔の横からスマホを持った彼の手が伸びてきて、そこにはふわふわとした可愛らしいポニーテールの後頭部が映っていた。結び目の上には見慣れないバレッタが乗っている。
「かわいい!ありがとう!」
「どういたしまして。……頑張って結んだので崩さず綺麗なまま帰ってきてくださいね?」
「はーい。……この髪飾りも、かわいい。ありがとう」
ようやく振り返り彼の顔を見ることができる。彼は満足そうに微笑んでいたので、小さく胸を撫で下ろす。もう怒っていないようだった。
髪を崩さないよう、そっと触ってみる。金属製のバレッタがひんやりと冷たかった。直接見れていないけれど、暗くて鈍い金色が上品な羽根の形をしていた。
「これ、fineみたいでとってもかわいい」
「あんたマジでどんな神経してんですか?」