NG「あなただけです。あなたの隣だけが、自分にはとても心地良いのです」
目元から力を抜く。気持ち程度に目を細めて、口角を上げ口幅を二、三ミリ広げる。
「アイドルとしても、そしてプライベートでも、あなたの隣で歩く男が自分でないのは我慢ならないのです」
一歩分前に進む。覗き込むように顔を近付け、充分すぎるほどに溜めてから次の言葉を放つ。
「どうか自分と、恋人になっていただけませんか?」
——はあいカット!
監督の声が響き、小さく息を吐いてからカメラと距離を取った。お疲れ様です、チェックだけするんでちょっと待ってくださいね。アシスタントから声をかけられる。にこやかに返事を返し、用意されていたパイプ椅子に腰掛けた。ミスなどしていない。これでOKが出るはずだ。VR特有の魚眼の効いた映像を確認する監督も満足げに頷いている。窓から差し込む夕日は彩度を増し、日没寸前といったところだった。
演技の仕事は何度かこなしたことがあるもののVR用映像の撮影というのは初めてで、おまけに恋愛シミュレーションゲームの攻略対象なんて役を務めるとは考えたこともなかった。自分のイメージとはかけ離れているこんな案件、本来なら検討すらせずに断っているのに。誰だよ通した奴。P機関のメンバーは厳選しているという話だったが、やはりESの規模が大きくなればなるほど能の無い人材も混ざってしまう。ESに戻ったらこの愛★スタとかいうふざけた企画の担当者を洗う必要がある。
などと、自分も含め現場のほとんどが撤収に入ろうと考えていたとき、そんな空気をぶち破る高い声が皆の耳を突き刺した。
「ううん、確かに格好いいけれど……何か違うの……!」
声がした方に立っていたその女は何度も顔を合わせたことのある人物だった。このゲームの総合プロデューサーであり、今イベントにおいても企画チームのリーダーとして大きな決定権を握る厄介な女だった。その悪名はアイドルのみならずESスタッフの間にも広く轟いている。ああ、またか。これで何人目だよ。現場にげんなりとした空気が漂いはじめる。
「これはこれはお疲れ様であります『プロデューサー』さん! 自分としては満足のいくものが取れたと思っていたのですが、やはり女性の方は自分のような侘しい男には持ち得ない見識を備えておられますな! 差し支えなければ自分の演技の至らぬ点をご教授いただきたいものです!」
「ああ七種くん、お疲れ様。ごめんなさい、あなたの演技が下手だとかそういうことを言いたいわけじゃあないんだけれど……、なんて言うか、“違う”の……!」
黙っていろ修正点を明確に提示できないクソクライアントが。つい溢れそうになる本音を食道あたりで追い返す。映画監督にでもなったつもりなのか。駄々を捏ねればそのうち自分の朧げな理想像が形になって出てくると思ってんのか。思ってんだろうな。
「あっはっは、耳が痛い! 演技の仕事はまだまだ経験が浅く、学ばせていただくことばかりです!」
監督、カメラマン、アシスタント音響照明メイクその他諸々のスタッフ全員が勘弁しろと言いたげなのをどうにか取り繕って微妙な顔持ちをしている。自分だって同じ気持だが、残念なことにこの場の支配者は彼女だ。
壁掛けの時計に目をやれば撮影スケジュールにはまだ一時間以上の余裕があったが、窓の外の太陽はとっくに沈みきっており、そのうち夜闇が空を覆い尽くすだろう。撮影すべきシチュエーションは夕方のオフィス。撮影のチャンスはあと一回が限界だろう。
「どうしましょう七種さん。陽も沈みそうですし日を改めますか?」
「いえ……。もう一度だけ撮らせてください。次は決めてみせます」
あんな女の嗜好のためにこの忙しい中無意味な撮影の時間をこれ以上増やしてたまるか。再び、カメラの前に立つ。
「本番行きます!」
アシスタントの掛け声を受け、カメラが回る。
「シーン四、テイク三」
アイドルとプロデューサーが恋に落ちる様を切り貼りしてデコレーションして売り物にしたゲームの一区切りとなる重要なイベントだ。時にプロデューサーとアイドルとして、時に同じプロデューサーとして、ぶつかり合い支え合い切磋琢磨し、『七種茨』にとってよきライバルでありよき理解者である主人公——『プロデューサー』に、自分が長らく積もらせてきた恋慕を吐露するシーン。
「よぉい、スタート!」
カチンコが鳴る。
知るかよ、プロデューサーをときめかせられる告白なんて。
営業先に好印象を与える爽やかな好青年らしい笑顔にも、ファンに黄色い声を出させるような挑発的な笑顔にも、彼女は一切浮ついた反応を見せなかった。見目麗しいアイドルに囲まれた生活を送ることで慣れが生じてしまったのか、それとも自分になど興味が無いのか。原因も対処法も現時点で不明である。
「——プロデューサー殿」
単純に悔しく思う。彼女の顔色ひとつ変えることすらできないことが。自分はいつも彼女の表情や仕草や声色や、ありとあらゆる部分に動揺させられているのに。けれど、それすら心地良いなどと思うようになってしまったのはいつからだったろうか。
「あなただけです。あなたの隣だけが、自分にはとても心地良いのです」
向けられるやわらかな微笑みも、慈愛のこもった甘美な言葉も、アイドルであれば等しく与えられるものだ。自分だけではない。きっとこのゲームのように、彼女に思いを寄せるアイドルなんて山ほどいる。
「アイドルとしても、そしてプライベートでも、あなたの隣で歩く男が自分でないのは我慢ならないのです」
それでも、彼女には自分を選んでほしいのだ。数多の選択肢の中から自分が良いと心に決め、自分の想いを受け取ってほしいのだ。
「どうか自分と、恋人になっていただけませんか?」
あんずさん、と声をかけたものの、彼女の耳には届いていないようだった。その耳と目は重々しい装置で覆われ、手元にはゲームコントローラーが握られている。装置から伸びるコードの先には彼女のスマートフォンが繋がっていた。今流行りのSSVRSというやつだろうか。何が楽しいのか、虚空を見つめながらくすくすと笑う姿は好意を寄せた相手といえど少し不気味である。とんとんと彼女の肩を叩けば、ようやくこちらに気付いたらしく慌てた様子で装着した機器を外した。
「七種くんか。ごめんね、気付くの遅くなっちゃって」
「構いませんよ。しかしあんずさん、職務中にゲームとはあまり関心しませんが」
「あっ、違うんだよ。一応正式にお仕事としてテストプレイというか、感想とか聞かせてほしいって頼まれてて」
「……もしかして愛★スタです?」
「そうそう。今度実装される告白イベントの部分、七種くんも撮影したんだよね?」
ええ、少し前に——。言い淀んでしまったのは、あの撮影の日をふと思い起こしてしまったからだ。無茶苦茶な理由でNGをくらったあの日。胸中に一人のプロデューサーへの想いを秘めながら、カメラへと愛を囁いたあの日。
カメラが止まり、厄介な例の女が両手で顔を塞ぎながら「マジの恋する男の子じゃん……七種くんポテンシャルやばすぎ……控えめに言って最高……」などとぶつぶつ呟きながらOKを出した姿にこれまで感じたことのない不快感が溢れたことをよく覚えている。仕事に私情を交えた自分の意識の低さと、あの女の自分の演技への感想に対して。いや、もはや『演技』と呼んでいいのかもわからないが。
「Adamのイメージ的にああいう甘ったるいセリフを吐くような仕事は今まで避けていたため、少し難航したんですよね」
「ああ、確かに。今ちょうど七種くんのコース? ステージ? を進めてたんだけど——」
なんだって、今自分を?
彼女のスマホを覗き見れば、確かにそこには薄気味悪い笑顔を見せる自分が映し出されていた。
「……どうでした? 正直あまり手応えの感じられない撮影でしたので、女性の視点での感想というのは自分も是非お聞きしたいのですが」
「…………………………かっこよかったよ!」
返答まで随分と間が空いた。自分を褒めるその笑顔もどこかぎこちない。ほんとにそう思いました?と食い下がれば、彼女は再びくすくすと笑い出した。
「ふふふ、ちゃんとした感想が欲しいなら他の人に聞いたほうが……。あは、ほら、私みんなと既に知り合いだから、なんか面白くなってきちゃって」
「……あんずさんに愛を囁く自分は滑稽に見えた、と」
何がそんなにツボにハマったのか、腹部を押さえながら明るく笑い転げる姿に段々と怒りが湧いてくる。
「そ、そうじゃないんだけど、あはは、七種くん、絶対こんなこと言わないだろうなぁって思ったら、面白くなっちゃって……! あははは!」
「…………いやぁ、そうでしたか!さすがは百戦錬磨のプロデューサー殿!自分なんぞがあなたをときめかせようだなんて百年早かったようですね!!リアリティのない演技しかできない自分の無能っぷりを披露してしまいお恥ずかしい限りであります!!」
机に突っ伏し笑い続ける彼女の頭を一発殴ってやろうか。それとも、このゲーム内で起きるシナリオのように彼女に口付けてやればこの怒りは収まるのだろうか。そう考えて、しかしすぐにあほらしくなって実行には移さなかった。ああ腹立たしい。スマートフォン画面に映る『プロデューサー』と想いの通じ合った自分が、随分と嬉しそうに憐れな自分の姿を笑っていた。