泡と消える 目が覚めると目の前にそれは美しい半裸の男が寝転んでこちらをじっと見つめていたものだから、あんずはひどく驚いて小さく悲鳴を上げてしまった。ベッドの上で縮こまり驚きを通り越して怯えの交じった表情を見せるあんずにも男は特段気を悪くした様子はなく、微笑みながら上体を起こした。身に付けた宝飾品が揺れてしゃらりと音を立てる。
「ああ良かった、目を覚ましたね」
男はベッドに手をついて起き上がり、恋人同士の甘い寝起きのようにあんずの髪に指を差し込んで二、三度梳いてみせた。あんずが横になったまま膝を抱えて、かけられていたシーツで顔の半分を覆ってしまった理由は見知らぬ美男子が隣で寝ていたからというだけではない。上質なホテルのスウィートルームのような部屋の中はまるで宙を泳ぐように色とりどりの美しい魚たちが好き勝手に漂っているし、目の前の美男子もまた腰から下が魚のようなかたちをしていたからだ。半魚人、人魚と言うべきか。本来二つの脚があるはずの場所は真珠色の鱗で覆われ、足先には絹の衣のような翠玉色の尾びれが生えている。
「きみ、海へ投げ出されてしまったんだよね。ぼくが見つけてあげなかったら溺れていただろうね」
男にそう言われて、あんずはようやく昨夜の出来事を思い出した。人脈を広げるようにと上から言い聞かされ、渋々参加した船上パーティー。穏やかだった海は突如として豪雨に包まれ、客船を激しく揺さぶった。体の小さなあんずは簡単に船から落っこちて、冷たく暗い海の底へ沈んだはずだった。
「……あなたが助けてくださったんですか?」
「うんうん、その通りだね。感謝して一生恩に着るといいね。ぼくはきみの命の恩人なんだからね」
男はにこやかに言い切ったので、あんずは素直に感謝の意を伝えた。ここがどこなのかも男がどんな生き物なのかも分かっていないけれど、ここが天国でないのならば確かにあんずは男に命を救われていた。あんずの言葉に満足気な男は尾びれを力強く一振りしてベッドからふわりと起き上がる。男もまわりの魚たちのように地に足をつけることなく宙にふわふわと浮かんでいた。あんずも体を起こすと、髪も昨晩着飾ったドレスの裾も水中にいるようにふよふよ揺れ動く。もしかしてここ、まだ海の中なのだろうか。しかし肺呼吸しかできないはずのあんずも当然のように呼吸ができている。頭に浮かぶ数々の疑問を問うより先に男の方から口を開いた。
「きみ、いまのところ呼吸に問題はなさそう? 助けるときに応急処置はしてあげたからしばらくは大丈夫だろうけどね。そのうち呼吸ができなくなって、水圧でぺしゃんこになっちゃうからね」
「ひぃえ」
あんずは情けない悲鳴を上げて思わず両手で口元を覆った。男はそんなに慌てなくても大丈夫だねとくすくす笑う。やはりここは水中らしい。自分を助けてくれたという男には感謝してもし足りないし聞きたいことも山ほどあったが、ぺしゃんこになるのは御免だ。一刻も早く地上に帰りたい思いでいっぱいになる。
「すみません、まだなんのお礼もできていないのですが、そういうことであればすぐにおいとまします」
「もう、そんなに急ぐことはないね。大丈夫だと言ったはずだね」
男がぱちんと指を鳴らすと、部屋の奥から数匹の色鮮やかな魚たちがその背にティーセットを乗せてこちらへ泳いできた。水中なのに音が出るんだ。あんずが別のことに気を取られているうちに男はポットから小さなカップに一杯の紅茶らしき液体を注いで、それから一緒にトレイに乗せられていた黒い小瓶の中の液体を数滴垂らした。水中なのに液体が混ざらないんだ。
「はい、これを飲むといいね。海蛇に用意させた魔法の薬を混ぜたから、これを飲めばもう溺れる苦しさに怯えることはないね」
男はティースプーンでくるくるとかき混ぜてから、カップをソーサーに乗せてあんずへ手渡した。香りも普通の紅茶のようである。恐る恐るちびりと一口飲み下せば、口の中に果実のような甘い香りと風味が広がった。ちゃんと全部飲みきるようにと男に念を押されたので、あんずはそのまま紅茶を全て飲み干した。ぷは、と空になったカップをソーサーに戻せば、男は目を細めて寝起きと同じようにあんずの髪を手櫛で梳いた。
「飲み終えたならもう少し休むといいね。きっと少しだけ辛いだろうからね」
空のカップを回収し足元までめくれたシーツを肩まで引き上げながら、男はあんずに再び横になるよう促した。あんずは言われるままに横たわり辛いとはどういう意味かと問おうとしたが、それよりもその意味を身をもって知る方が早かった。
ぴり、とつま先に痺れるような違和感を感じた。足が痺れてしまっただろうかと思ったのも一瞬のことで、微かな痺れはじくじくと控えめな痛みに変わり、やがて肉を引き裂くような激しい痛みに変わった。男に助けを求めようとして、あんずはその男に名前すら聞いていなかったことを思い出した。男はシーツの上からあんずのふくらはぎを撫でて、困ったように眉を下げた。
「ごめんね、こればかりはどうしようもないんだって……。この一回きりらしいから、どうにか耐えてほしいね。そうすればきみも、ぼくと同じになれるから」
「同じ、って、どういうことですか」
胸も焼けるように痛かった。息ができているのかできていないのかわからない。絞り出した声を、男はきちんと耳に入れていた。
「二本足を捨てて、ぼくたちと同じ尾を持つ体になれるね。引き換えに肺呼吸ができなくなるから、海上まで上がってきみと月を見たりできないのは残念だけれど……、陸を見て郷愁に駆られても困るから構わないね。代わりにぼくが海中の美しいものをいくらでも見せてあげるからね」
うそ。絞り出したつもりが、音にはならなかった。代わりに口から大きな泡が吐き出されて天井へ登っていく。
男の手が伸ばされて、あんずの瞳を覆う。その手は随分と冷たくて、男もまた熱いものにどうにか触れるように時たま指先を離した。
「ふふ、やっぱり人間は熱いね、火傷しちゃいそう……。きみと触れ合えるようになるのが楽しみだね」
体が熱い。頭がぼうっとして、意識が段々と薄れていく。顔に触れられる感覚も肺の痛みもどこかへ遠のいていた。
「おやすみ。起きたときにはきみの名前を教えてね。ぼくもきみに名前を呼んでほしいからね」
起きたときに自分がどうなっているのか、自分は本当にこの男に救われたのか、もはやあんずにはわからなかった。ごぽり。空気がまた、あんずの体から逃げ出していった。