女神の加護 顎先を指でなぞる。ちりりとした嫌な感触。ふと脳裏に浮かんだのはかつてアイドルだった男が無様に生やした無精髭だった。
「……『プロデューサー』さんは、オレのセールスポイントってどこだと思いますか?」
そう尋ねるとあんずさんは瞳をぱちくりと瞬かせて、丁度口に入れようとしていたぶりの照り焼きを持ち上げた箸をぴたりと止めて、でも結局そのまま口にした。その口の中が空になるのを、その様子をじっと見つめながら待つ。
あんずさんはいつもゆっくりと食事をとる。当然このときも十二分に咀嚼した上で飲み込んだので、なんだか焦らされているような心地になった。
「……いっぱい、あると思うけれど。まずは当たり前だけど格好いいところ」
あんずさんは箸をプレートに置いて、広げた手のうち親指だけをくんと折りたたむ。
「漣くんの親しみやすいかっこよさ評判いいよ。この前のドラマのバスケ部のキャプテン役だってハマり役で、ファンはもちろんだけどスタッフさんとか業界の人からも漣くんいいよねっていっぱい言われてるんだ。もう七種くんには話してあるけどドラマをきっかけに仕事を頼みたいって言ってくれた人もいてね、ああいう等身大の男の子っぽいキャラクターは他のEdenの皆さんには無い漣くんならではの魅力だと思うな。キービジュアルの写真だって——」
「いい、やっぱりもういいです、大丈夫です」
思いの外しっかりと語り始めてしまった彼女の言葉を制止する。ぽんぽんといくつかあげてくれればそれだけでよかったのだけれど、どうやら彼女は自分で思っていたよりアイドルとしてのオレのことをよく考えてくれているらしかった。『プロデューサー』などではなくいつも通りあんずさんと呼べば良かっただろうかと考えて、けれど根っこの部分はどちらも同じ人だからなと思い直した。
「七種くんならもっとしっかりプレゼンしてくれると思うよ。話しておこうか?」
「いや恥ずいんでいいです」
「アイドルが自分の売りどころをちゃんと把握しておくことも、自分に自信を持つことも大事だよ」
「ホントに大丈夫っすから……」
彼女の視線から逃げるようにして最後の一枚のアジフライにかぶりつく。話題を変えた方がいいかもしれない。そうだ、先日彼女が勧めてくれたコンビニの新作苺スイーツが美味しかった話を、と顔を上げたが、あんずさんの視線は未だにじっとりと纏わりついていた。訝しげに、というよりは心配されているのかもしれない。
「も〜、わかりましたよ、話しますって」
やっぱり何かあったんだ、と避難するような表情を知らんぷりして、最後の一口となった白米も口に放り込んだ。オレはあんずさんとは違ってろくに噛まずに飲み込んでしまうタイプだった。
「でも本当に大した話じゃないんですよぉ。今朝髭が生え始めてることに気がついて、ちょっとゲンナリしただけなんで」
あんずさんはきょとんとした顔で首を傾げる。
「もう髭生えるの?」
「生えますよぉ。たぶん誰でも」
知らなかった、と呟いたあんずさんがどうしてだか可笑しくて思わずくすりと笑ってしまう。男ばっかに囲まれている彼女でも、オレたちについて知らないことがあるらしい。
「……事務所に言えば脱毛とかさせてくれるんじゃないの?」
「あーいや、そういう話じゃあなくて……」
そこまで言って、ならなあにと言いたげな顔を見てちょっと後悔した。毎日のケアを面倒くさがっていた体であぁそっかぁさすがプロデューサーさんっすねぇなどと言っておけば彼女も満足してくれただろうに。自分の口下手が恨めしくて、こういうときばかりは口の達者な友人の話術を羨ましく思う。
「……なんかオレ、オッサンになるんだなぁって」
「気が早すぎるよ」
「いずれオッサンになるのは変わらないですよぉ」
加齢というのは確実にアイドルの商品価値を貶めていく。もちろん世の中には氷鷹先生のように歳を重ねてなおアイドルとして求められ愛される綺羅星がいることはわかっているが、自分が十年後二十年後にああなっているビジョンは見えない。自分にとって最も身近な老いたアイドルといえば、くたびれた保険医と輝きを失った父親が最初に浮かぶ。衰えていくばかりの身体で、これから生まれ続けるであろう若きアイドルたちと同じ戦場で、自分はどれだけ長く生きられるだろうか。
「いつかオレが歌うのも踊るのもしんどくなって、髭が生えて髪が抜けて肌がたるんだとき、オレは何やってるんだろうなって思って」
ナギ先輩は多才だ。あの人ならなんだってできる。おひいさんもまた才に溢れ、例えアイドルでなくとも人に愛される素質を持っている。家業を無視できなくなる日が来るかもしれないし、そのうち家庭を持つことだってあるだろう。茨は経営の才がある。まだ日の目を見ぬアイドルを育ててもいいし、外の企業の経営に集中してもいい。
オレはそのとき何をしているだろう。女性に比べれば息の長い男性アイドルでも、歌って踊ることが仕事だと言えるのはせいぜい三十代が限界だ。あんずさんが挙げてくれた顔や体格やスタイルはいずれ失われる。その後はどうすればいい。トーク力や演技力を磨いてマルチタレントでも目指せばいいのだろうか。佐賀美陣も親父もそうはならなかった存在を、オレは目標にできるのだろうか。
「……オレがアイドルでいられるの、あとどれ位なんだろうと思って」
今度はあんずさんは気が早すぎるとは言わなかった。きっとそれはまだまだ先のことだ。次の新曲の振り入れすらままならないようなオレが今から不安がるようなことではない。Edenのプロデューサーはオレが知る限りでは最高の人物だし、ヤツにこんな話しようものなら未熟者がなんの心配だと盛大に笑われるか呆れられるかの二択だ。
「……漣くん、あのね」
おずおすと切り出した彼女の随分と思い詰めた深刻そうな顔を見て、やはり口にすべきではなかったと思った。
「どうしてもそれに耐えられないのなら——」
「……なんて、ちょっと話盛りすぎましたねぇ!」
わざとらしく大きな声で遮れば、あんずさんはびくりと震えて口を閉ざす。
「今日曇ってるんでちょっと気が滅入ってただけですよ。あんずさんこういう話茶化さず聞いてくれるんで深刻っぽく聞こえたかもしれませんけど……、本当に、そんなに思い詰めてるわけじゃあないんで」
低気圧で不調をきたしたことはなかったけれど、咄嗟に思いついたにしては我ながらいい言い訳だと思った。それでも訝しげにこちらをじいっと見入る彼女の視線に居た堪れなくなって、咄嗟に机の上に出していたスマホをポッケにしまって立ち上がった。
「オレ茨に呼び出されてるんでもう行きますね。あんずさんはゆっくり食っててください」
立ち上がってトレイを掴む。逃げ出すみたいにして立ち去ろうとして、座っていた椅子を足と胴体で机へと押し込んだ。あんずさんはそれでもまだ、考えの読めない顔でこちらを見ていた。
「漣くん」
なんすか、と言うつもりだったのに、口からは音にならない吐息が漏れただけだった。
「ほんとうに、どうしてもそれに我慢ならなくなったときは、一人で悩まないで相談してね」
『プロデューサー』と呼んでやるには随分と頼りない、無理くり目尻を下げたような笑顔だった。生唾を飲む音が大きく頭に響く。肯定の返事は、はたして音になっていただろうか。
なんてことがあったなあとふと思い出した。
忘れてしまっていたはずのその会話が脳裏に浮かんだのは、あの頃より圧倒的に数の増えたクリームやらナントカ液やらを茨から受け取ったときだった。欠かさず顔に塗りたくらなければならないそれはいまだに種類も違いもよくわからないので全部茨に用意してもらっている。たびたびバリエーションがアップデートされるので手順を覚えるのだって一苦労だ。でもこれを怠ると茨とおひいさんがうるさいのも、すぐに顔に出てしまうことも知っている。ちなみに髭も茨の指示で早々に脱毛してしまった。
「今回一種増やしましたんで間違えないでくださいよ。ホールハンズに取り扱い送ってあります」
「めんどぉ……」
「一人だけ評判下げる気ですか? ジュンだけ劣化ひどいってSNSに書かれるんでしょうね」
「やりますよぉ、ちゃんとやりますって」
何もかも、がむしゃらだったあの頃より衰えたと思う。それは当然で予期していたことだけれど。こうして顔のケアにも力を入れるようになって、トレーニングだって筋トレ以外にも体力の維持とか考えてトレーナーの指示を仰いだりしている。もう徹夜で台本を頭に叩き込んだりセットリストの終盤でバク転したりなんてできないけど、それでも今オレが芸能界にしがみついているのは一重に、アイドルを辞めるつもりなんていまだにさっぱり起こらないからだ。あの頃当たり前だったことはほとんど失ってしまったけれど、そのかわりにこの月日で得たものだってたくさんあるはずだ。たぶん。この商品名すら読めない小瓶の数々だって、オレがアイドルでいるためのプロテインみたいなものだと思えば多少の愛着だって湧いてくるというものだ。
けれどそれにしたって。
「にしたってしょっちゅう入れ替わりますよねぇ。茨は新しいの探したり試したりするの面倒じゃないんです?」
そのとき茨はこちらを見ていなかった。いつの間にか自分のデスクについてノートパソコンと向き合っていた。
「……特には。必要なことですので」
「ふうん……。でも茨だって自分用に五個も十個も用意してるんでしょう、こういうの」
「自分は最低限のスキンケアさえすれば十分ですから」
「はぁ!? ずっる……」
思わず零れた不満を茨はそれは楽しそうに聞いていた。そういえば確かにこいつはいまだに童顔というか、平たく言えば全然老けない。夜通しの書類仕事の後でも平気な顔してスタジオに来るし、(元々ダンスは手を抜く方ではあるけれど)昔に比べて体力が落ちた印象もない。ナギ先輩は今はかなり渋いキャラになったけどまだまだスタミナがあるから、Adamは本当にまだまだ衰え知らずって感じで羨ましいと思う。
「……女神の加護を喰らいましたからね、自分」
「……っはは、なんすかそれ」