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    penga_kakuri

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    penga_kakuri

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    →2024.1.19 公開後1か月が経過しましたので、passを解除しました。

    「A memento from」の後日譚、とある亡霊が眺める景色。

    ご感想などいただけますと励みになります(マシュマロ)
    https://marshmallow-qa.com/penga_kakuri

    【陽だまりの窓辺】   *


    「時計の……この長い針が一周するまで、ひとりで遊んでいてくれるか?」
    「………………」
     逡巡したのちにこくんと頷いた頭を撫で、小慣れた動作で額へキス。人形と目線を合わせるように膝を折っていた彼は立ち上がる。立ち上がりがてら棚の天辺へ置いたラジオを操作し、陽気な音楽が流れるチャンネルへと摘まみを合わせていた。多少なりとも、幼いあの子の孤独感がまぎれるように。そんな親友の優しい気遣いは、いつまで経っても変わらない。
     そうだね、主人はこれから番匠たちと大事な打ち合わせがある。甘えん坊でひっつき虫のお人形は、込み入った話をする場には不適切だ。小さな君は大好きなご主人様の邪魔なんてしないのだろうけど、ごめんね。姿を僕に似せてしまったからこそ、大切に仕舞わねばならない時がある。
     皆がみな、まだ。亡き者にそっくりな遺愛の品を受け入れたわけじゃあないのだ。そこへ至るには、きっと途方もない月日が必要だろう。もしくは一生、眉を顰める者もいるかもしれない。だからこそ彼自身と、他ならぬこの子が傷つかないよう、扉を隔てて守ってやるのさ。――うん、今日も君は愛されているね。
     ぽつんと工房に残された人形は、しばらく閉じられた扉を見上げていた。鍵が掛かっているわけではないので、目一杯手を伸ばしてノブを握れば、簡単にその境界線は開くだろう。そんなことは、この子も承知の上だ。彼は絶対に君を閉じ込めたりしないもの。たとえ寂しさに耐えかねて、主人の言い付けを破り飛び出したとしても、恐らく彼は本気で叱ったりしないに違いない。ただただ「耐え難い環境に置いてすまなかった」と、困ったように微笑むだけだ。
     しかし、この人形にはきちんとプライドが備わっている。どんなに心細くても、ご主人様のために己を奮い立たせる気概がある。じっと、睨みつけていたドアノブから離れる決心をし。人形は自身のために用意された工房隅のラグマットへ戻っていく。いうなればそこは、この子の宝物で築いた安息地だった。
     しかしぴたりと。人形とはいえたった数歩の道のりで。何を思ったのか突如と方向転換をした君は、ぽこぽことこちらの方へと向かって走り出したのだ。それほど広くない工房……兼、主人の自室。ゆえに親友のベッドに我が物顔で腰をかけ、脚を組み。頬杖をつきながら人形を眺めていた僕と、小さな君との距離は段々近づいて――。
    「…………ぱぱー」
     ベッドサイドのテーブルから、背伸びをして写真立てを持ち出した人形が、そこに写る父親を覗きか細く鳴いた。そして改めて、己の安息地へと帰っていく。靴を脱いで、揃えて。毛足の長いラグマットへぺたんと座り、おもちゃ箱から積み木を取り出して遊び始めた。写真相手に、木彫りの動物や乗り物を見せては並べていく。
    「ぱぱっ」
     時折、小鳥の囀りのごとく無口な人形が話しかけてくるので、僕は苦笑してベッドから腰を上げた。足音もしないし、視線が交差することもないのだけれど。可愛い我が子に呼ばれたからには、親心が疼いて応えたくなってしまう。写真の隣に胡座をかいて、真剣に木片を積み上げる人形を見守るのだ。
    『実はね、パパはずっとここに居るんだよ』
     そんな事実が判明したら、この子はおろか彼だってびっくりするだろう。とくに臆病な人形は、ベッドの下やクローゼットの中に隠れてしまうかも。ぴゅっと小鼠のように逃げ惑う姿を想像して、くすくすと笑みが溢れた。あ、彼……水心子はどうだろうなあ。驚いてくれるかな。怖がらせてしまうかな。――それとも、喜んでくれるかな。
     器用に積み木を重ね、前衛的な建物を完成させて満足気な人形に拍手を送る。すごいじゃないか。兄さんの作った、汎用的な形が一個もない積み木でこれだけ遊べるなんて! しかし手を打つ乾いた音も、賞賛の声も現実にはひとつも響かず。音量を抑えたミュージックと環境音を除けば、おおよそ静かである部屋に。傾いた積み木の塔が崩落する、虚しい音が転がっていく。儚い栄華だ。たとえば手を添えて、崩れゆく積み木を支えてやることも、ころころと散らばった欠片を拾ってやることも。僕は何ひとつできやしない。
     ふわふわのラグの上では、高く積み上げるにもバランスが悪いのだろう。そのような助言も与えられない僕は、むすっと頬を膨らませた人形が、別な建物を組み立てる様子を興味深く観察する。以前の君なら、ここでうるりと瞳に涙の膜を張っていただろうに。ふふ、そうそう。人生はトライアンドエラーだよ。何度だって挑戦すればいいし、時には新しい案を試すことも必要だ。君は諦めない不屈の子だもの。他でもなく僕が、そう在るように作ったのだから。

     穏やかな昼下がり。よく晴れた本日は、暖かな日射しがカーテン越しに注いでいる。たっぷりと陽を取り入れ、仄明るく輝く工房は夢のよう。少しだけ開かれた窓から、心地よい風が舞い込んでくるのだろう。人形の髪がふんわりと綿毛のごとく揺れている。山間の街の春は短いけれど、僕はこの時期が一番好きだった。気分転換に陽当たりの良い庭で花壇の世話をし、美味しい紅茶を淹れて窓辺のソファで本を読むんだ。そうしているうちに、決まってうたた寝をしまうのだけれど。
     木々や小動物は賑やかで、でもひとりの空間はとても静かで。落ち着いていて。花々の香りを纏った空気を胸いっぱいに吸うだけで心が満たされていった。多幸感に身を委ね、どこまでも豊かだった。そのままぼんやり思考を止め、気を抜いていると。いつしか外から堅い靴底が、土を踏む音が聞こえてくるんだ。彼の来訪は、ドアをノックされるより早く分かるから面白い。先回りで「いらっしゃい」と迎え入れれば、虚を突かれた親友の。年齢不相応な幼い顔が拝めるのだ。――……ああ、懐かしいなあ。



     ――赤いふたつ星を目指して歩いていた。真っ暗で、天地も時間も放棄した空間の最果てに、美しい赤光が輝いていたんだ。生命の熱さを肌に感じるような、僕を虜にして離さない素敵な色。魂を灼かんばかりに燃えているにも関わらず、怖いものなど一切ないのだと励まされるような、暖かい焔。おかげで、逝く当てを迷うことなんてなかった。放り出された虚無の闇を恐ろしいとも思わなかった。
     ずいぶんと進んで、休みなく無心で進み続けて。何も考えず、何も疑わず、唯一の憧れへと邁進するように。素直に、愚直に、直向きに。……ふと気が付けば見覚えのある景色に僕は立っていた。伽藍堂で、寒々しい。散々モノで溢れかえっていたのに、それらは片付けられて、取り払われて、蛻の殻となった一軒家。
     ここは、僕があれほど帰りたいと望んだあの場所で。しかし終ぞ帰れなかったこの場所だ。名残は作り付けの作業机が一台と、ベッド。工房の間取りはそのままに、すべてが忘れ去られたかのごとく埃が積もっていた。まるで雪のよう。どんよりと薄暗い空き家。僕が住んでいた証しは天板の傷くらいだろうか。
     あまりに空っぽで悲しくなった。赤い輝きの熱もたち消え、暖炉に火はなく灰が山を作っている。つきつきと胸に針が刺さって、言葉がぼろぼろに崩れていく。……どうしてこの期に及んで、僕はこんな仕打ちを受けているのか。人の棲まぬ家の、死にゆく様を見せつけて。ざわざわ虚しさが募り、もとより定かでない輪郭がゆらゆらとよろめいて燻るよう。拍動を失った心臓が、きゅうと悲しみに縮んだ気がしたのだ。
     嫌だよ。僕には執着などないし、未練だってない。……会いたいヒトもいない。そんなの知らない。執念深く生に拘って、家に取り憑く悪霊と成るくらいなら、さっさとこの意地汚い心を塵も残さず燃やし尽くしてくれ。――戻るだけでは駄目なんだ。帰るだけでは意味がないんだ。神さまの分からず屋、これがもし早逝を憐れんだ親切心なら、根本から間違っているんだよ。
     ――僕はね、大好きな親友が訪ねてくる瞬間を待ち望んでいただけだ。もう一度、自分の足で歩いて、自分の手で扉を押して、自分の声で彼の名前を呼びたい。最期までそれが叶う日を夢見たかった。それだけだよ。
     両手で顔を覆って、しゃがみ込む。いやだ、そうじゃないと繰り返して、泣きじゃくる。誕生日に希望通りのプレゼントが貰えなかった幼子のごとく。期待を裏切られて、許せなくて、拒絶して。一縷の甘い夢に縋ろうとする魂に抗った。やめて。僕を綺麗なままで居させて。でなければ虚勢を張って強がり、格好つけた示しがつかないだろう。
     苦しい思いはもう十分だ。だのにそれでも天へ召し上げるには、足りないと神さまは言うのだろうか。敬虔に祈るような信心深さはなかったけれど、毎日の感謝だけは欠かさなかったのに。胡乱な僕に新たな道を差し示してくださり、ありがとうございますって。一生の親友と巡り合わせてくださり、ありがとうございますって。
     これ以上は、世界を呪うことにしかならないと思い、努めて無心を貫いた。思念の塊のような今、うらみつらみが過ぎれば本当に僕が僕ではなくなってしまう。それが何より恐ろしくて蹲っていた。己ではどうすることもできず、ぼんやりと板目を数え。鈍麻となりゆく感覚をしんと静まる工房に溶かしていた。消えたい。はやく消えてしまいたい。

    「――――――うわっ、……なんだ蜘蛛の巣か。これは引っ越しより、まずは掃除に通わなきゃなあ……」
    「…………っ!」
     ――ガチャガチャと、玄関から鍵の開く音がした。昏々と俯く間、幾度も明と暗が行き来をしていたため、具体的な日数は定かでなくとも。越えてしまった夜は両手でも足りない。疲弊は無縁の産物になったとはいえ、心の持ちようひとつで揺らぐ存在は扱い難い。……けれども。僕は今、この瞬間。己に色が差すのを感じていた。生きていれば血が巡り始めたと表現したのかもしれない。声のする方向へ、自然と顔が向く。性格の表れた堅物な歩調に、小刻みに太鼓を叩くような足音がとことこと連なる。不意に「ぷちんっ」と小さなくしゃみが聞こえたかと思えば、「埃がすごいな……。あ、鼻水が出ているぞ。はい、ちーん」と呑気な会話が。大きくはっきりと、僕の鼓膜へ届いたのだ。
     隔てるは、扉板が一枚きり。たいして広くもない一軒家を順番に見聞して、声の主は最後に僕の心が置き去りとなったこの工房を覗くのだろう。一方的なようでいて、しっかりとやり取りの成立している優しい言葉は誰のもの? ……知っている癖に。それでも嬉しくて、恋しくて、安堵の涙が止まらなくなる。ねえどうして、いつでも君は僕が足を滑らせるたびに手を差し伸べてくれるの? 泥に浸かった醜い亡者を見つけ出してくれるの?
     建て付けの悪さを思わせる蝶番の軋み。キィともったいぶって開いた隙間から。
    「!」
    「いつになくはしゃいでいるなあ? ――ああ、懐かしいからか。ほうら、ここがお前の生まれた工房だぞ」
     僕の希望が。彼との未来を託した愛しい僕の希望が、大好きな大好きな僕の親友の手を引いて、ひょっこりと顔を出したのだ。とても逞しくなったね、でいいのかな? 自我も意思もまばらでふにゃふにゃだったあの子を、膝へ抱いたのは完成した日の一度だけだ。あの時は眠たそうに微睡んでいた宝石が、今は健やかな命を湛えて燦々と溌剌に輝いている。
     こういうことか。僕が目指した赤いふたつ星の先は、胸が張り裂けるようなこの瞬間の邂逅へ繋がっていたのだ。納得が腑に落ちるより先に、会いたくて堪らなかった彼が目の前に在る喜びで。僕はすっかり腰を抜かしてへたり込んでいた。ご都合主義だろうが知るものか。はあ、嬉しいが勝ると、足腰はまったく役に立たなくなるみたい。
    『…………すいしんし、――水心子……』
     耳を掠めた声に逸る鼓動。胸郭には空洞しかないだろうに、全身へ迸る血潮の熱さを思い出しそうだ。ああ、彼らと見(まみ)えるための心の準備も、間に合わせでは不十分。どこもかしこも震えが止まらず、喉からは隙間風のような声が漏れるだけ。……やっぱり小手先だけでは、有り余るこの感動は抑えられそうにもない。
     でもいいんだ。いいよ。こうしてひと目、君の姿を見ることが叶った。恋しいと嘆く虚ろな呟きを枕へ吸わせずに、親友の名を呼べた。構わないさ、たとえ僕が湖沼の緑眼に映らずとも。……あはは。夏に水心子から誘われて、川釣りに行った日を思い出すよ。僕の釣果はさっぱりなのに、君は次々と釣り上げるんだ。すっかり臍を曲げてしまった僕を宥めて、とっておきの湖まで案内してくれたね。樹々の濃緑がそのまま湖面に反射して、跳ねた魚の描く波紋がそれを揺らして。「まるで水心子の瞳みたいだ」と感嘆すれば、君は柄にもなく恥ずかしがっていた。セリフがいちいちクサいって。その手の誉め言葉は、将来の伴侶にでも言ってやれって。まったく。お世辞じゃ、なかったんだけどなあ。
    「――さて、空気の入れ替えから始めるか」
     すっとやる気を漲らせて僕の側を横切った君が、手始めに部屋中の窓を全開にして回る。するとたちまち、饐えきっていた工房に新鮮な風が吹き込んで、瞬く間に埃を浚っていった。剥き出しの窓枠から迎え入れた眩しい太陽光と、暖かく清らかな青の香り。薫風が鼻先を掠めるより早く、ぶわりと巻き上がった終冬の一陣が、僕の中心を矢のごとく吹き抜けた。たったそれだけで、時を止めた部屋ともども、僕を雁字搦めにする黒い澱が浄化され、荒み煤ける魂が鎮まりゆくのを感じた。じくじくと膿んだ傷が、魔法の呪文で癒えるように。
    「…………………………」
    「――――ん? どうしたんだ?」
     主人のシャツをくしゃりと握り脚に纏わりついていた人形が、じっと一点を。まるで誰かがそこに居るのだと言わんばかりに。僕のことを穴が開くほどに見つめていた。……いや、実際は若干外れた位置を凝視しているので、不思議な機構の人形といえども亡霊を感知できるわけではないらしい。しかし、なんとなく違和感だけはあるようで、きょとんと首を傾げつつ。結局は主人を見上げて、なんでもないと被りを振っていた。
    「そうか? 虫でも入ってしまったか……」
     猫が甘えるように。腿へ頭を擦り付けた人形の頭をぽんぽんと撫でながら。「明日から本格的に大掃除をしような」と、水心子が安らかな伏し目を作る。そのぬくもりに満ちた笑みがもう僕に向けられることはないのだと、分かってはいるけれど。僕の技巧の限りを尽くした特別が、あんなに幸せそうにしているのならば、職人冥利に尽きるのだ。だからね、人形の特権を羨ましがるのはお門違いだろう。
     こう見えて僕はあの子の父親で、創造神。己の作品が愛でられる様子を眺めて、幸福を感じない職人はいないのさ。このくらい見栄を張らせておくれよ。あと……できるだけ水心子の前で、子供っぽい身の振りをしたくないしね。たとえ視えていなくとも!
     それにどうやら。当面の間、彼はこの家を訪ねてきてくれるらしい。そもそも、引っ越しとか。そのようなことも言っていたね。――うそ、ホントに? お腹の奥がむず痒くなる。照れによる熱の本流が、ドッと脳天まで駆け上がる。先ほど異なる衝動から、僕は再び両の手で顔を覆った。というより、挟んで。初恋が実った生娘のごとく、赤く色づいているであろう頬を冷やしている。ええ……心臓は動いていないのに、赤面するなんてどういう原理? そんなことより、なんだろう、どうしよう……再会の喜びどころじゃないよこんなこと。これぞまさに、青天の霹靂に等しい朗報であった。

       *

     単純な僕は、このひとときを闘病のご褒美であるということで受け入れた。そりゃあ思うことはいっぱいある。これが快気祝いだったならどれほど良かっただろうか、とか。病床に縫い留められていた数か月、一度も連絡を取らなかったことを水心子に怒られながら、再び人形職人に復帰して。すっかり自己管理の信用を無くした僕は、これまで以上に厳しくなった親友の抜き打ち訪問を恐れる……振りをしつつ、彼の来訪を心待ちに。ね、そうだったら良かったのに。しかしそんな空想は、快癒の道が絶たれてから、思い描くことすら己に禁じていた。……だって不毛じゃないか。何でも卒なく熟せて、大抵の希望は片手間に叶えられた僕の、最大の壁は不治の病であった。さすがに稀代の天才も、我が身に巣くう病魔にはあっさりと打ち負かされてしまった。
     けれども、現世のしがらみから解放された今。いつまで許されるのか謎にせよ、一時の自由を謳歌する方向へと舵を切る。そうと心が決まれば、モノクロから色付いたこの身もあの頃へと返り咲くのである。
     薄い桜色の、健康で丈夫なからだ。独立のお祝いに彼から貰った大切な作業用エプロン。君の真似をして、僕は襟のあるシャツを着るようになったし、糊の利いたパンツも好んで穿くようになったんだ。……はは。この姿ってさ、きっと水心子の記憶にある、最後の僕なんだろうね。彼の中に遺っている、最高に可愛くて綺麗な僕なんだろうね。もし、その残り香を借りて僕がここに立つのだとしたら。塗炭の苦しみに藻掻きながら、彼を遠ざけた日々は正しかったのだと信じられる。よく頑張ったと、僕は僕の矜持をようやく褒めてやれるんだ。
     自力で起き上がれる。己の脚で傾かずに歩ける。視界は開け、目も霞まない。利き腕は動くし、指先の感覚は明瞭だ。胸を圧迫する呼吸苦も感じず、眠るのも困難な倦怠感もなければ、あれほど酷かった頭痛の影すら見当たらない。我が棲家のみの限定的な世界ではあれど。元気いっぱいの僕は毎日、引っ越し作業に奮闘する親友を応援していた。ピカピカに磨かれて、少しずつ息を吹き返す我が家。当時は狭い狭いと思っていたけれど、しっかり整理整頓を行えば、意外と余裕があるものらしい。……おかしいな? 僕のスペースの使い方が下手なだけだったみたい。水心子の作業場と寝所を置いても、小さなお人形のために遊び場が取れるなんて。それにあの子は誰に似たのか、お片づけは得意な模様。ひとつ遊んだら、ひとつ戻して、決して散らかしたりしないのだ。その性質は少なくとも僕の系譜ではないので、ご主人様との生活の中で自然と身に付けたのだろう。
     最低限の備え付けに加え、水心子と人形が住みやすいよう新たな家具が運ばれてくる。そのどれもこれもが懐かしい兄の手製で、それらも僕が有頂天となる大きな要因であった。わあ、あれから本格的に観用少女の調度品の製作を始めたんだ! いいなあ、僕の作品にも誂えてもらいたかった。あの子専用の家具は、さながらドールハウスに並べるミニチュアだ。
    「この机を……あちら側の壁へ移動したいんだ」
    「おう、任せとけ」
     助っ人に来た南泉と協力し、大きな作業台を水心子が動かしている。その間、小さな人形は長義に抱えられて不服そうな顔をしていた。まあね、足元でちょこまかしていたら危ないもの。たとえそれがご主人様を手伝いたい一心の表れでも。でもねえ、人様の前で不細工に口を結ぶのはやめておくれよ。曲がりなりにも僕の顔と一緒なのだから。
    「繊細でか弱い人形に、力仕事は相応しくないよ」
    「……………………」
     だから、俺たちはラグの毛足を整えよう。ブラシを手渡す先輩人形の華麗な口車に乗せられ、幼い人形は不満も忘れてせっせと手元の仕事に没頭し始める。ラグマットをふわふわに仕上げれば、ご主人様も大喜びだ。晴れた午後にする、一緒のお昼寝はさぞ気持ちがいいだろうね。
     おだて上手かつ、やる気を引き出すことに長けた甘言をするすると語る最高級の人形。改めて垣間見えた彼の魔性に身震いする。これが幼い人形への純粋な善意だから、あの子には良い影響となっているけれど。並の人間が絡め取られたら、あっさり道を踏み外しそうだよね。うわあ、こわいこわい。
    「ちょーぎ。お前はでけぇんだから、こっちを手伝ってくれても良いんだぜ?」
    「いやいや、俺は小さな後進の世話という大義を水心子くんから請け負っていてね。勤めはきっちり果たさなければ」
     ただし、長義の本意はとても明解で。力仕事から逃れるための口実に、あの子を構っているような気はしなくもない。実際、この場においてベビーシッターは大事な役割である。ふふ、しかし彼らは僕が知り合った頃から、この手の応酬を日常茶飯事としていたので。もう一度この通常運転が見られただけで嬉しくなってしまうのだ。
     水心子を気遣い、人形のことも可愛がってくれる素敵な僕の友人たち。ありがとう。これからも僕の親友と、僕の形見のことをどうぞよろしくお願いします。――あはは、僕が一番年下のくせに少々偉そうに願ってみる。それくらいしか僕にはできないし、いいじゃない。
    「…………? …………」
    「おや? ――ああ、うん。そうだねえ……」
     もすもすと夢中でラグの毛流れを均していたあの子が、また。不意に何かへ反応し長義の袖を引いた。大きな赤い目玉をぱちぱちと瞬かせ、銀色に縁取られた彼の水底を覗いている。それで会話が成り立つのだから、観用少女は不思議である。
     小さな人形が指を差す。その方向はやはり僕の立ち位置から少々逸れていた。――ただし、物言わぬあの子の声に耳を傾けていた、青い目の人形は違った。短い指先の示す方を辿るように顔を上げるが、瞳を寄越した先は……僕が立ち尽くす工房の中央。どこまでも清廉で澄み切っているのに、反して底知れなさを窺わせる深い青の宝石が。的確に僕の姿を捉えているように、見えた。少なくとも僕は、今まさに彼と視線が合致しているように感じられるのだ。
    「――――よし」
     ちょっと、試しに行ってみようか。そう言うと彼は、幼い人形の脇に手を入れひょいと持ち上げる。「んぅー?」と状況が掴めずに鳴いたあの子を腕に、迷いなく長義が僕の真正面へと迫ってきた。ずんずんと。ぶつかるんじゃないかというくらいに接近されて、そういえば僕は彼よりも拳ひとつ背が低かったことを思い出した。遠目では繊細な印象なのに、結構立派な体格をしている人形であるのだ。
    「長義、いったい何をしているんだ?」
     突然、部屋の中心に己の人形を立たせた長義へ、水心子が問いかける。僕にとっては脚の間にこの子を挟んだ奇妙な状態で。長義がどういったつもりでこんなことをしたのか、現在の心境は親友とまったく一緒である。なんだい、これ。
    「この辺りが『ぽかぽか』な気がするって、小さな彼がね」
     どうかな? と長義が幼い人形に話しかける。なんだなんだと大人たちに囲まれて、終始戸惑っていた人形が眉をハの字にして微笑んでみせた。へちゃ。おやおや、締まりのない頬っぺただこと。見上げた相手は長義だろうが、場所が場所だけにまるで僕を見つけて喜んでいるみたいじゃないか。
    「まあ、この部屋は陽当たりもいいし。ぬくい空気溜まりでもあるのかも、にゃあ」
     ふむ、と尤もらしい見解を南泉は述べたが、そうじゃないんだよと。小馬鹿にしつつ長義が鼻で笑う。何年もこの俺と連れ添っているというのに、観用少女心がわからないご主人様だ、などと。言いたい放題な彼であるが、その素振りすら一種の甘えであると知っている今、僕も水心子も刺々しい物言いにはらはらとすることはない。
    「あたたかい、は物の例えだよ。俺も小さなお人形くんの透明な言葉を、完全には言語化できないから」
     原因は不明だが、確かに俺もこの工房へ踏み入れてから奇妙な感覚がある。そう語りながら、長義は傍らの水心子の手首を掴む。問答無用にぐいと。不可視の宙空。ここに在るモノへ触れさせ理解を得ようと、親友の腕を操った。
    「ね、特にこの辺。不思議な感じがしないかい? ひとりでに胸が弾むような、嬉々とした喜びが溢れるような。それこそ、体の奥があたたかくなる感じ」
    『――あっ』
     思わず、声が漏れた。同時に慌てて口を塞いだが、その行為は杞憂だった。そうだった、僕は彼らの世界に干渉できないから。たとえ水心子の手のひらが、僕の凍えた心臓を掴んでいても。すっと指先に輪郭を撫でられると、感触もないのに彼の体温が伝播する、錯覚で、眩暈がしそうだった。びっくりして。吃驚し過ぎてそれこそ心筋が縮み、膨張し、ドクンと生きているがごとく戦慄いた。
    「……ほんとうだ、あたたかい」
     するすると。長義の誘導から外れた彼の手が、意志を持って僕を撫でていく。ねえ、視えているの? 実は皆で見えないふりをして、僕を揶揄っているんじゃないの? そう疑ってしまうくらいに。水心子は明確に僕の肩、首、頬骨を探り当て、最後に唇をなぞるように五指を這わせたのだ。つい、と熱くて、ざらついた職人の皮膚が薄い皮に優しく触れ、離れていく。僕の望みが呼び起こした幻想にしては、あまりに生々し過ぎる感覚で。遅れてワッと溢れ出した羞恥心に気が遠くなる。目と鼻の先に居る君のことが直視できない。逃げ出したい衝動にすら襲われた。でも、僕は一歩後退って耐えるのだ。こうして、線引きをしなければ酷い勘違いをしてしまいそう。
    「ふふ……私たちが賑やかにしているから、案外。羨ましがって覗いているのかもしれないな」
     仲間外れにされると、彼はよくむくれていただろう? 物寂しげに口の端を上げ、そのような思い出をぽつりと呟いた親友は。すぐに小さな人形のご主人様の威厳を繕い直した。「パパが遊びに来てくれたら、お前も嬉しいなあ」とかさ。抱っこを求める人形へ応じる動作もすっかり板について、君は片っ端から僕の憂慮の芽を摘んでいくのだ。

     そうだよ。水心子が息災で、皆と楽しそうに暮らしていて、あーあ、羨ましいったらないよ。何故、僕はその輪の中に居ないのだろう。彼の側に居ないのだろう。師範の道へ一念発起した君を手伝いつつ、どさくさに紛れて一緒に暮らす誘いをしてみたり。ことあるごとに「先生」と呼んで、照れる君へしたり顔をしてみたり。……絶対に面白いじゃないか!
     ずるいずるい。僕はどんどん思い出になってしまう。永遠に若造のまま、君との距離ばかりが大きくなる。いずれたくさんの弟子に囲まれて、満足そうに微笑むであろう水心子を想像するだけで嫉妬心が燃え上がる。ご主人様を盗られた観用少女の気持ちに、馬鹿みたく共感できた。――ああもう、世界で一番愛しい親友よ、弥栄に幸せであってくれ! けれど僕のこともずっと覚えていて! このくらいの我が儘は、早逝の慰めとして振り翳しても怒られまい。
    『…………せいかい。羨ましくて、つい長居をしてしまうよ』
     幻でも、君の体温で僕の心は温かく灯された。羨望に打ちのめされ、彼岸の己を思い知らされようと――もう。この魂が濁ることはないだろう。僕は貴方に忘れられたくないけれど、貴方の人生へ翳を落とす存在になりたい訳ではない。だからせめて、そっと。君と人形が歩む毎日の、その片隅でいいから。この工房で短い月日を生きた、とある駆け出し職人の残り香を。ふとした拍子に感じて欲しいのだ。
     ということで、しばらくは君の側をうろうろして、作業の覗き見をしたり、寝顔を眺めたり、人形の後をつけたりしても許してね。悪戯なんかしないよ。まあしたくてもできないのだけれど。それにほら、夜な夜な窓枠を揺らして驚かせていては、あの子は怖がって眠れなくなるかもしれない。
     歩幅をひとつぶん。後退ったこの場所から、僕はもうこの先へ踏み入らないと誓おう。水心子が微かな僕の命を手のひらへ感じた以上に、こちらは魂の燃え滓をうっかり灰塵にしかねないくらいの篝火を貰ったんだ。どうせなら、ずるずると長居をしたいもの。週に二度、親友の家へ通う日を待ち遠しく思っていたあの日と一緒。迎えが来るのが惜しくて、泊まりたいと駄々を捏ねて。兄と君を散々に困らせた。
     あまりに満たされてしまったら、ここに居られなくなるかも、なんて考えたら。足りないくらいが良い塩梅だろう。ごめんね神様。僕は当面、そちらへご挨拶へ伺う予定を立てられません。

     あれ、あたたかくなくなった? ――まあるい目玉をきょろきょろと動かして、人形が見えない父親を探している。マットのブラッシングを終え、今度はご主人様の邪魔にならないように、工房をあの子が歩き回っている。しかしもう少しのところまで迫った可愛い形見の子を、僕はそっと躱すのだ。
    「?」
    『どこにも行かないから、大丈夫だよ』
     背後では、とうとう力仕事に駆り出された長義が南泉に難癖を付け、それを水心子がどうどうと仲裁している。うん。とても平和な日常だ。眩しくて、つい目を眇めてしまう優しく尊い日常だ。いいな、いいなあ。鬩ぎ合う願望と誘惑を抑えて、引き寄せられる脚にぐっと力を込める。
    「きよまろ、おいで」
    「!」
     なんだか僕を呼んだ時よりも、かなり甘ったれた響きじゃないかなあ。鶴の一声ならぬ、ご主人様の一声で、くるりと回れ右に駆け出した人形が愛らしい。角をつるつるに磨いて、やわやわに揉みしだいた調子で紡がれた過去の名は、まったくの別物に生まれ変わったみたい。でも、墓前で悲痛に叫ばれるよりは断然、安心できるね。この名前はポケットを漁っても飴玉ひとつあげられなかった父親が、我が作品へ遺せた唯一のプレゼントだ。これからもたくさん呼んでもらうと良いさ。あの子が振り向く時、僕もまた君の呼ばうところへ振り返るのだから。
    『ふふ……』
     小さな背中がみるみる滲んで、暈やけて。はらはらと溢れたこの雫が床を汚すことはない。けれども僕が降らせたこの雨が、君たちを守る力となりますよう。……すっかり涙脆くなってしまったのは、僕も同じなんだ。お揃いだね、水心子。

       *

     コチコチと秒針が平坦なリズムを刻んでいる。長針は一周し、少し右へと傾いていた。窓から注ぐ陽光が伸びて、工房の半ばまでを柑橘の色に染めている。陽気な音楽を流していたラジオも、今は堅苦しいニュース番組へと切り替わり。それは小春日和に浮かれる鳥の歌声には不調和な、ノイズのように感じられた。
    「まちゅた……」
     約束の時間が過ぎ、おもちゃも片付けて主人を待つばかりの人形が、扉を不安そうに仰いでいた。「ぱぱ」の次に覚えた単語を口にしては、うろうろと落ち着きがない。右へ行ったり左へ行ったり、扉板に耳を当て向こうの様子を探ったり。それでも自ら出て行こうとしないのだから、幼い割になかなかの忠義者である。
     僕があの子の立場だったら、業を煮やして開けてしまうかも。親友を前に、僕の堪え性など濡れた紙より軟弱となる。どーして僕を放っておくの? と、詰め寄るくらいはやってのけよう。
    「…………ぱぱー」
     この子は心細さを覚えると、こうして父親を呼んでみせた。実際に何か変化が起こる訳でもないのだが、己を奮い立たせるおまじないのように扱っているのだろう。今みたく、ひとり遊びを言い付けられた時や、真夜中に尿意を覚えた時など。後者に至っては、ご主人様を起こしたくないからとひとりで歩き始めたものの、結局怖くなってしまうのである。手洗いへの短く長い道のり、星明かりは頼りにするにも心許ない。ぶるぶると震えているうちに漏らしては大変なので、カンテラを掴むことも叶わぬ僕は、怖じ気付く人形の背後に立って励ますようにしている。お前は勇気のある人形だ。お前の赤い瞳は、こんな暗闇などへっちゃらなのだと。
     聞こえないのは当然としても、僕が傍らに在るだけで漠然とこの子はあたたかさを感じるようなので。夜の寒さと恐怖に慄く肩へ、ほんの少し温度を分け与えるつもりで見守った。……まあ、人形が無事に小用を済ませてベッドに戻るたび、決まって水心子は起きているのだけれどね。「ひとりで行けたのか、えらいな」と半覚醒のまま毛布を捲り、懐で丸くなった人形を抱いて褒めている。
     昼も夜も関係のない僕は、身を寄せ合って眠る親友と人形をふわふわと浮遊しながら観察し、長い宵を明かすのである。梟の鳴き声と、夢でも忙殺されているらしい君の寝言。夜辺に活気付く獣が、庭先で元気に駆け回る。カサカサ、ガサガサ、潜むナニカで揺れる茂み。
     こうして耳を傾けていると、夜通し作業に没頭した過日を思い出す。徐々に明めく空と、消えゆく星。大きな欠伸をして、もうひと仕事と珈琲を淹れに立ち上がり、黎明の光を眺めたものだ。
    『はいはい。水心子、来ないねえ』
     たびたび過去へ思いを馳せて、僕はぼうっとしてしまうため。むずがりながら、稚い眉間へ皺を寄せた人形の隣に屈み、同じ視線から扉を見やる。ここで壁を擦り抜け彼の様子を確認したところで、僕がこの子へ伝える術はないので。だったら「何故、お迎えに来ないのだろう」と疑問を抱く、その不満な気持ちに同調する方が建設的、かも。と、僕も非力ながらに考えたのだ。

     コチコチ。さらに十分ほど経過した、その時である。ついにドアへ凭れしょぼくれていた人形が、おもむろに開いた扉に押されころんと転がった。軽いし、頭が重たいからね。器用に一回転をして、見事に逆さまとなり。二つ折になった姿勢の股ぐらから、大きな目玉をこれでもかとかっ開いている。
    「――――おわぁっ! きよまろ、なぜそんなところに……」
     どれほど急いでいようが、水心子は建具を乱暴に扱わない。ゆえに押し出されたと言っても、惰性で転がるボール程度の緩い力だ。もちろんこの子は無傷であるし、それよりも。大好きなご主人様を認めた瞬間、ひっくり返った状態で上機嫌に囀り出すので、おむすびのごとく転がされたことは人形にとって些事らしい。先ほどまでの憂いなどとうにどこへやら、だ。
    「まちゅたっ! ――っ! ……――――っ、ちゅいちっちー!」
    「あーあー。待て待て、いま起こしてやるから……しかし、今日は特別おしゃべりの調子が良いなあ? ん、怪我はないか?」
     遅くなってすまないと謝りながら。ぺしょりと逆さまを保っていた人形を持ち上げ、地べたの塵を掃き上げた箒頭を水心子がはたいている。まめに掃除はしていても、土埃は日々溜まるものだ。僕もしょっちゅう床で寝ては、翌日に髪から埃を落としていた。
    「ちょうど南泉から電話が掛かってきて……。喜べ。どうやら、お前も食べられそうな新しいお菓子が、則宗殿から届いたらしいぞ?」
    「!」
     おや、お出かけの予定が立ったみたいだね。僕の工房に越したことで、南泉の家は少々気合いを入れた散歩の距離になってしまった。以前より頻繁にとはならなくても、何かとイベントを口実にする調律師の家へ彼らはお呼ばれされていた。もしくは、南泉と喧嘩をした長義が突発的に訪ねて来たり。――そういえば「やあ、いけすかないご主人様の頭が冷えるまで、俺を匿ってくれ」……鍵を閉めない僕の杜撰さを知ってか、便利な家出先にされたこと。幾度か。
    「お前の髪のメンテナンスがてら、遊びに行こうか」
     自ら手掛ける観用少女の前髪を、真っ直ぐに切り揃える彼の手腕は素晴らしい、が。この親友様は自力でこの子の髪型を整える自信がないと、再三ぼやいていた。その点、幅広く観用少女をトリミングできる南泉は強いのである。預かりの人形に混じって、僕もちょくちょく彼の散髪技術の世話になっていたからね。彼の腕前は信用できる。
     少々伸びたせいか、手触りがしっくりこないらしい。人形の襟足をさりさりと撫でていた水心子が、ラジオの電源を落とす。片手で窓を閉め、夕方になるとまだ冷えるから、と人形用のクローゼットからカーディガンを取り出して。あはは、すっかり増えたねえ、この子のお洋服。――うん? あれ、その毛糸。なんだか見覚えがある色なのだけれど。ねえねえ、それって僕が君の家に置き……いや、忘れっぱなしにしていたカーディガンじゃない? わあ、すごい。小さく編み直されている。それに、余り糸でベレー帽まで!
    「あ、お前はまた写真を持ち出して……パパと遊んでいたんだな。――でも、」
     仕立て直された服の出来栄えに関心する僕をよそに。ラグマットへ放置されていた写真立てを拾った水心子が、腕の中の人形を諭すように叱っていた。もし蹴りでもして硝子が割れたら危ないとか、この写真は一枚きりだから大切にしなければならないとか。いやでも。そこに残る僕は、不意打ちで君に撮られた、ちょっと間抜けな顔だから。僕がカメラを手に入れた時の、試し撮り。一応、笑ってるけどさ、なーんか子どもっぽくて不本意なんだよ。恥ずかしいから処分してって、言ったはずなんだけどなあ。こんなところで物持ちの良さを発揮しないでよ。
    「――そろそろ花びらが落ちそうだ。きよまろ、次のお花は何にしよう?」
    「……?」
     サイドテーブルの定位置へ戻された写真立て、その右隣。シンプルな花瓶に活けた一輪のチューリップ。これは秋の終わりに、僕が花壇へ植えておいたものだった。そんなこと自分でも忘れていたけれど、案外放ったらかしでも元気に育ってくれたみたい。ちょうど今は花の盛り。色とりどりの蕾が、毎朝我先にと開花していることだろう。
     水心子の中で、僕はとびきり草花が好きだったという認識になっている。だからか、写真の傍らに花が絶えた日は一度もなく。ある時は華やかな薔薇を買い求め、ある時は自生する山百合を手折り、必ず僕へ届けてくれるのだ。君は図鑑を開いて花の名を調べ、律儀に僕へ知らせてくれるから。もう知ってるよー、なんて野暮なことは思わないのである。


    「ほら、パパに行ってきますをして」
    「ぱぱー」
     相変わらず、僕の立ち位置から微妙に逸れた場所に向け、人形が小さな手を振っている。それを見た水心子が「そこに清麿が居るんだな」と、いつも。ふたりして大真面目に、見当違いなところへ話しかけるのだから面白くて敵わない。僕にそっくりな見目のあの子も、近頃思うに、中身は親友によく似てきた気がする。ほら、集中すると唇が尖りがちになるのとか、特に。性格などもはや、半分以上は水心子譲りに違いない。その方がいいね、どこへ出しても恥ずかしくないお利口さんになりそうだ。
     彼らへ着いて行こうと試みれば、この家、この工房から僕も出られるのかもしれない。でも、夜になるとね。大好きな彼が、その日にあった出来事を写真の僕へ語りかけてくれるのだ。下戸の君がホットミルクにブランデーを混ぜ、カップを空にするまでの幸せなひとときである。
     ほのかに揺らぐランプの橙を囲み、すでにすやすやと眠る人形の寝顔を共に眺めながら。君たちの営みに耳を傾ける至福の余暇。常に凛とした彼も、稀に不安を口にする夜がある。そんな心の曇りを吐露する相手が、今も僕のまま、変わらずにいることが。嬉しくもあり、心配でもあった。大丈夫、君の選択は正しいよ。声に出せど、それが彼を勇気付ける日は永遠に訪れないと分かっている。もちろん悔しいさ。それでも僕は懲りずに毎夜、語り部の君へ相槌を返している。
     というわけで。今夜の話題の先取りをしてしまわぬよう。僕はここで留守番に務めるのである。手を振る我が子と親友の直線上、こっそり二歩ばかり横へと移動しつつ手を振り返した。あはは、僕はこっちだよ。
    『いってらっしゃい』
     パタンと閉まった扉。ひとりきりの工房。ほうと短息し、数秒数えてから窓を見やると。仲睦まじく手を繋ぎ、人形の歩調に合わせる君の後ろ姿がそこにあった。……けれども、寂しくはないさ。何もできない僕がすべきこと。それは帰宅した彼らへ「おかえり」を唱える瞬間を心待ちにしながら、穏やかに陽だまりの温もりへ融けること。
     それは純粋な願いだ。神様に許されようと赦されまいと、可能な限りは傍で見守っていたいもの。だったらせめて、彼らの枷にならぬよう僕は清らかでいないとね。エプロンの端を摘み、誰に捧げるでもなく深々と一礼する。華々しいアンコールには程遠いが、幕引き役者の後日譚を。どうか一日でも長く続けられますように。
     さらさらと砂金のごとく陽だまりの光へ同化した僕は、しばしの静寂へ意識を委ねるべく、ゆっくりと瞼を閉じた。

    Tale told at a later date.
    The end.
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