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    okyanyou3

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    俺屍オカッパ&女18アンソロ みんな誰かの愛しい子 投稿

    紅より出でて



     まだ名を持たない少女が生まれ育った天界から地上に降り、世話役であるイツ花に手を引かれ、血族の住む地へと双子の兄と共に参じたその日。屋敷はしんと静まり返っていた。
     繋いだ右手が微かに震える。困惑して見上げると、眼鏡の奥、潤んだ目とかちあう。
     けれど。見られていると知った途端イツ花はにこりと笑い、「サ、皆さまお待ちですよ」彼女と彼女の兄とをせかした。
     手を引かれ進む廊下には、嗅ぎ慣れない匂いが満ちている。甘いような、酸っぱいような、重苦しいにおい。
     やがて。奥まった部屋の、閉じた障子の前に到着し。
    「いくのさま」イツ花の呼びかけは囁く程度だったが、室内に届けるには充分だった。「新しいご家族を、お連れしました」
    「入って」
     障子越しに聞こえたのは、若い娘の声だった。
    繋ぐ手をイツ花に解かれ、障子を開けられ、さあ、と優しく促されて。彼女と彼女の兄はおずおず敷居を跨ぐ。
     淡い陽射しと、香炉から立ち昇る煙とが部屋を満たしている。天井近くでは煙がくるりくるりと輪を描いていた。
     香でも消しきれない微かな――天界で育った少女と少年にとっては初めて嗅ぐ臭気が、部屋の中央、仰向けに寝かされる男から発せられていた。少女は兄と手を握り合う。繋ぐ手は、どちらも汗ばんで冷たい。
    初めて会う男が眠っているわけではないのは、幼い二人にも直ぐ解った。だって、これは違う。この固く閉じた目も、口も、鼻の孔の詰め物からじわじわ洩れ出してくる臭気も、コレが時来ればふわあと欠伸し起き上がるような、そんなモノではないのだ、と。暴力的なまでにつきつけてくるのだ。そう、きっと、これが。知識でだけ知る。これが。
    「ととさまだよ」
     声。自分たちに掛けられたものだと気づくのに、少しばかり時間を要する。
     ――白い、手。
     横たわる男の手。血の通わない、もう動かない、冷たい手。指。真っ白な、爪。
     ――その。白い爪に。
     ――赤い色が載る。
     死人の爪に紅を塗るのは、若い娘だった。自分よりひと回り大きな手を取り、丹念に爪を磨く。色褪せた爪が鮮やかな赤に染まってゆく。
     娘は髪も、目尻の腫れた目も緑色をしていて、金の髪と金の目の兄妹とは似ていない。けれど、額に埋まる碧の珠はお揃いだった。朱点童子なる鬼より掛けられた〝種絶〟と〝短命〟の呪いを示す、かの鬼を殺すまで親から子へ連綿と受け継がれる呪いを表す、血を同じくするものの、証。
    「あんたたち、よく来たね」
     紅を載せる娘は泣き腫らした目で笑い、額に碧の珠を佩いた死人へと微笑みかけた。「父(とと)さま」
    「新しい、家族が、来たよ。あたしの、弟と、妹が」
     白い爪。赤い紅(べに)。紅を塗る手。
     これが、彼女にとって最初の〝家族〟の思い出。

     春。ぽかぽか陽気の昼下がり。
     雪路(ゆきじ)は縁側でひとり寝そべり、ふてくされた様子で術の巻物を広げていた。頭の両脇で結った髪が薫風に揺れる。橙混じりの金髪はまとまりなく、彼女の機嫌の悪さを表すようだった。
     そう。〝雪路〟の名を与えられたばかりの少女は拗ねていた。目元は険しく、子どもらしい丸みを帯びた頬はぷくりと膨れている。広げた巻物にもほとんど目を遣っていない。
    「おや、自習かい。偉いね」
    「幾野(いくの)ねえさん」
     そんなところに声を掛けられて、雪路は慌てて身を起こす。ややバツの悪い顔になってしまったのは、相手が父親を同じくする実の姉であり、今月は雪路の訓練の師を務めている一族、幾野だったからだ。
     幾野は一族では成人扱いの齢八ヶ月で、外見も立ち振る舞いも大人びたものだ。長い緑髪をふたつに分け編んで垂らすのが、きりりとした印象を与える。
    いいなあ。姉の髪を見ながら雪路は思う。真直ぐな髪。自分もそのうち長く伸ばして、姉と同じに結おうと密かに考える。そうすれば、あちこち好き放題跳ねる自分の髪も、もっとマシな格好になるはずだ。
     姉は雪路の隣に腰を下ろし、にこりと笑った。緑の目が弧を描く。
    「襲(かさね)と貞行(さだゆき)は川に行ったんだろう。一緒じゃなかったんだね」
     一月年長の一族と、双子の兄の名に、雪路はぷいとそっぽを向いた。「だってつまんないもん」
     つまらない、と、幾野が首を傾げる。雪路は姉に向かいむきになって続ける。
    「にいさんも襲も、カエル投げとか、タニシ釣りとか、ばかな遊びしかしないんだよ。男の子の遊びってホントくだらない」
     だから自分は男の子の遊びに付き合わなかったのだ。決しておいてけぼりにされたわけではない。一緒に遊ぼうとしたら「女には関係ない」「ついて来るなよ」などと言われて悔しい思いをしたのでは、絶対にない。
     視界の端で、幾野が「おやおや」という顔をするのが見えた。雪路はぎゅっと唇を噛む。仲間外れの可哀相な子と思われては心外だ。
     雪路のささやかな虚勢を、幾野は見抜いただろう。しかし姉は指摘せず、「なら、雪路」親子ほどの齢の開きのある妹へと顔を寄せた。
    「姉さんと内緒の遊びをしようか」
     内緒、の一言に、雪路が目を丸くする。
    「ないしょ」
    「そう、内緒。襲にも、貞行にも。男の子には教えてあげない、女同士だけの」
     秘密を守ると約束するなら、雪路にだけ教えてあげるよ――どうする――? ひそやかな姉の言葉に、雪路の胸がどきんと跳ねる。秘密ごと。雪路と、幾野だけの。
    「守る」
    「ほんとうにかい」
    「本当、ホントだって!」
    「よし」
     幾野が微笑み、雪路の手を取る。「あたしの部屋においで。ばれないように、そうっと行くよ」
     屋敷内には他の一族もイツ花もいる。そのひと達にも内緒だなんて。鼓動は更に速まる。術の巻物慌ててを懐に入れ、雪路も立ち上がった。
     屋敷の廊下を姉妹して忍び足で進む。当主の部屋の前では息を潜め、水屋のイツ花から隠れるようにして広間を通り抜ける。そこまでは上手くいった。そこまでは。
    「ねえさん、早く、早く……あっ」
     気が急くあまり注意が散漫になったのだろう。広間を抜けたところで、雪路はやせぎすの男とぶつかりかける。頭ひとつ半高い位置からじろりと見下ろされて、目も逸らせず硬直する。
    「雪路か。訓練はどうした、〝火連花〟は覚えたのか」
     きつく整った面差しと同じくらい尖った口調で詰問されて、雪路はしどろもどろになる。
    「ノブさん」
     窮地を救ったのは幾野だった。
    「雪路はこれからあたしの部屋でね。そういうノブさんは? 貞行の指南、今日は休むように当主に言われてただろ?」
     ノブさんこと伸元(のぶちか)は、雪路の兄である貞行の訓練を見ている。〝ノブさん厳しいし超恐ええ!〟とは毎日打ち身青痣だらけの貞行の言で、余りの厳しさに当主直々に休息命令が出た位だ。
    伸元に術を教わったことのある雪路も同意見である。
     幾野が雪路の胸元を、たばさんだ術の巻物をぽんぽんと叩く。伸元は二人をじろりと眺めた。
    「来月は訓練を見てやれん。今の内やれることをやっておけ」
    「分かってるさ」
     幾野に手を引かれ、雪路は伸元の脇をすり抜ける。
     廊下の角を曲がり、幾野の部屋に辿り着き、襖を閉めた瞬間。
    「……ふ、」「……ふ、っふふ」
    「「あははは!」」
     姉妹は二人して笑い転げた。外に聞こえないよう押さえてはいるものの、若い娘らの声は明るく部屋に満ちてゆく。
    「あ…っぶなかったねえ!」
    「ノブさんにばれちゃうかもって、どきどきした!」
     幾野と雪路、顔を突き合わせてまた笑う。
    「ノブさん、顔恐いんだもん!」
    「だよねえ、恐いよねえ」こーんな、と指で目尻をつりあげる幾野に、雪路はおなかを抱えて床を転がった。
     爆笑をようよう収め、姉妹は息を整える。本題はここからだ。
    「ねえさん」雪路は身を乗り出し、姉に顔を寄せる。胸はもう期待ではちきれそうだ。「内緒の遊びって、なあに」
    「そうさね」
     ゆるり、と。幾野が微笑む。
    「準備をするから、お待ちよ」
    「うん」
     見つめる雪路の目の前に、小さな箱が取り出される。漆塗りの蓋には蜆の浮き彫りが施されている。
    雪路は息を呑む。箱の中には、それはそれは美しいものたちが収まっていた。鮮やかに染めつけされた櫛があった。透明な石を幾つも連ねた簪があった。絹の小袋があり、丹念に手入れされぴかぴか光るやすりも、黒光りする鋏もあった。片隅には
    何やらよい香りのする袋がそっと収まっていた。
    「これ、ねえさんの」
     姉が優しく、誇らしげに頷く。
     幾野の白い手がひらりとはためき、白い乳鉢と小さな陶製の容器を取り出す。容器を傾けると、つんとした香りの、薄茶色の液体が乳鉢へと落ちてきた。雪路が見つめる前で幾野は乳鉢に絹布を浸す。白かった絹が色を吸い上げ、
    「うわあ……!」。
    信じられないくらい鮮やかな紅色が現れる。
    「さっきまで茶色かったのに、ねえ、どんな術を使ったの?」
    「ふふ、どうかねえ」
    恭しく左手を把られる。緊張と、弾けそうな期待。紅絹が、小指の爪に触れる。
     ゆっくり。ゆっくり。爪の付け根から先までが、撫でるように磨かれる。幼い爪が傷つかぬよう、扱いは何処までも丁寧だ。
     爪は艶めき、やがて。
    「……」
    雪路はもう声もない。透かす血の色で薄桃色だった爪が濃い紅色に染まってゆくのに、唯々溜息めいた感嘆を洩らす。紅絹が行き来する度にうすく紅色が重なり、鮮やかさを増してゆく。
    「きれいだろう」
     幾野が囁く。夢中になって頷く。姉の白い手がゆるゆる動く。爪は美しい楕円に整えられていたが、紅は載っていなかった。
    「こいつは〝爪紅(つまべに)〟でね、普段は使わない、〝とっておき〟にだけ付けるものなのサ。だから、今日のことは、内緒だよ」
     雪路はごくりと唾を呑み、うん、と答えた。特別なことを、何でもない日にしてしまう。それは多分悪いことで――とても、わくわくしてしまう。
    「さあ、出来たよ」
    一枚きり染められた左小指の爪は、特別の言葉に相応しく、うっとりするほど美しかった。貞行ご自慢の水切り用の石よりつるつるすべすべして、宝石のように輝いている。
     特別。特別な、日。
    「ととさまもしてたっけ」
     ふと呟いた言葉に、幾野の手が一瞬止まった。
     ああ――吐息が零れる。「そうだったね」
    「あんたたちが来る、特別な日だったからね」
     やわらかな声。優しい手。艶やかな、爪。
     女だけの秘密は、少女をときめかせるのは充分だった。
     但しそれから幾野は、雪路がどれだけ頼んでも爪紅を使ってくれなかった。〝あれは特別な日のものだから〟と笑うばかりで、姉自身の爪も血を透かす桃色のままだ。
    「姉さん、また紅をつけて」
    「だめ」
    「けちィ」
     雪路は唇を尖らせ、自分の爪を眺める。拳法家としての訓練が本格的に始まり、傷つかぬよう短く、丸くやすりがけされた爪を。子どもらしい丸みと、潰れては重なるたこ(・・)を持つ指は、決して美しいと言えない。けれど、爪紅さえ載せれば。あの、姉の唇のように鮮やかな赤色さえあれば。
    「あれば特別なんだよ」
     幾野は何時も通りの返答をし、術の手本にとたおやかな手をゆるり翻す。生まれる炎の気配に追従し、雪路も真似して呪を紡いだ。指先が熱くなり、ぱちん、と弾ける。
    「よしよし、上手い上手い」
    「〝赤玉〟くらい全然簡単だって」
    「頑張ったねえ。これなら今月には〝火連花〟も覚えられそうじゃないか」
     自慢げに上気する頬がつつかれて、「もうすぐさね」
     呟きに、雪路は幾野を見上げる。
    「もうすぐ、あたしは爪紅を差すんだよ」
     幾野の手が自分のそれに触れて、雪路はどきりとする。
    「襲の初陣の、日取りが決まってね。来月はあんたと貞行だけで留守番だ。しっかりイツ花を助(す)けて、自習も、二人だけでもちゃんとやるんだよ」
     ――爪紅を差すのは、特別な時。
     ――特別な。例えば、鬼の討伐に出向く日のような。
    「姉さん」
    「うん」
    「アタシが出陣するときにも、また、紅を差してちょうだいね」
     姉と同じように。
     幾野は雪路の背をぽんと叩き、「いいよ」と答えた。雪路は溢れんばかりに笑みを零す。
     楽しみ、と無邪気に頬を上気させる少女には、姉がそっと目を伏せた理由なぞ分かろうはずもなかった。

     そんな。他愛もない場面を、雪路は何故か思い出していた。

     カビ臭い空気が熱く唸っている。
     重苦しく圧し掛かる天井は実際よりも近くに感じられて、今にも押し潰されそうで、床と天井の隙間では剣戟と絶命の叫びとが反響し耳にする者の視界までをも揺らしてくる。
     親王鎮魂墓、地下一階。連なる壁と柱に挟まれながら、雪路は顎から滴る汗を拭った。鬼の血のついた手甲が肌に触れて、硬さと生臭さに苦い物がこみ上げる。せっかく口に押し込んだ〝常盤ノ秘薬〟が今にも逆流しそうだ。
     それでも。野太い鬼の咆哮に、はっと顔を上げる。
    「……へいき、平気、だって、えの!」
     赤く染めた爪ごと、ぎゅ、と拳を握り、雪路は飛び出した。
     小柄な薙刀士相手に大槌を振り回す一つ目の鬼、その背中に不意打ちの飛び蹴りを叩き入れる。頑丈な布で巻いた足裏に、鬼の強靭な筋肉の感触が返る。通っていない。
    「こン、のおッ!」「雪ちゃん!」
     焦って拳を繰り出す雪路、その頭上でぶうんと空気が灼ける。鬼が振り向きざまに振り抜いた大槌が、雪路の金色の髪を何本か持っていった。背中にどっと汗が吹き出す。回避がもう半瞬遅ければ、頭まで砕けていただろう。
     派手な炸裂音が連続して響き、一つ目鬼とその周りの小鬼の体表で土埃が弾けた。視界の向こう側で、貞行が道中入手したばかりの〝ツブテ吐き〟を構えてふんばり、小鬼にこ突かれてふっとんでいる。大筒士なのに前に出るから、と、小言を言う余裕すらない。
     死。死ぬ。初陣で、地上に生まれてたったの二ヶ月で死んでしまう。そんな、そんなこと、なんて。
     自分の手。爪が、目に映る。赤い。鬼のどす黒い血に汚れた、紅で染めた、ずきずき疼くと思ったら指の肉が見えるところで折れていた、出陣前に幾野が染めてくれたのに――。
    「下がれ!」
     怒声。
    雪路の傍らを疾風の如く駆け抜け、伸元が槍を手に一つ目鬼へと肉薄する。穂先の描く弧に鬼の肉片が飛び散り、新しい肉に吸い込まれた。
     鬼の悲鳴がびりびりと耳をつんざく。鬼の分厚い筋肉を貫き、埋まる穂先をぐるりと半回転させ血肉を飛沫かせ、伸元が槍を手放す。伸びあがりざまに放つ拳が巨大な眼球をまともに捉え、丈八尺の巨躯は崩れおちた。
     伸元の鬼気に当てられたのか、残るは己れ一人だと気づいたのか、鬼の大将が矮躯を翻し逃げにかかる。その背に術が飛ぶが、倒すには至らなかった。両手に宝物を抱え、仲間の遺骸を捨て自分だけ助かろうとする様は、あさましいの一言に尽きる。
    追撃しなければ、と思い踏み出す足が、膝から折れる。床に蹲り呻く雪路に、薙刀士――襲が駆け寄ってきた。
    「大丈夫」
    「う、ん。にいさん、は」
     貞行は、と見回す目に、大筒を杖によろよろ立ち上がる姿が入る。堪えていた涙が零れそうになる。大丈夫、生きている。
    「情けない」
     吐き捨てる言葉に背中が冷えた。
     おそるおそる頭を巡らす先で、伸元がひどく険しい顔をしていた。滾る金色の目は、膝をつく雪路でも、撲たれた腹を手で押さえ〝泉源氏〟をかける貞行でもなく、暗い深い迷宮の先を睨んでいた。
    「ここで鬼を狩る。傷を治したら〝次〟を探すぞ」
     言い捨て、槍を手に背を向ける。鋭い気配はそれだけで全身で周囲を警戒しているのだと知れた。
     近くに来た貞行がこっそり囁いた。
    「恐えよな、ノブさん」
    「先月もこうだったよ」
     襲が小声で応える。雪路と貞行より一月早く戦場に出た襲は、戦にも伸元のひりつくような雰囲気にも幾分慣れている様子であった。
     ひそひそ声で襲が続ける。
    「この先に蜘蛛の鬼が出る場所があってね。そいつ、いくさの修練に丁度いいんだ。ノブさん、そこに行きたかったんだよ」
    けれど今の、初陣の子を二人も抱えた討伐隊ではどだい無理な話だ。迷宮は深く潜れば潜るほど鬼は強くなる。浅い場所で手こずっていては、鬼を狩るどころか生還すら覚束ない。
    「……弱いって、悔しいなあ」
     呟いたのは貞行で、頷いたのは襲だった。
     雪路は。爪の折れた指に治癒を施し。痛いことよりも、爪紅が台無しになってしまったことが悲しくて、ぼさぼさするのを一生懸命結いあげた髪も乱れて汚れてしまったのが悲しくて、しかし伸元の背を見ていると、それと口にすることも出来ず、滲む血を拭い黙って俯いた。

     一族が討伐に費やす時間は月のうちせいぜい十日、長くても十五日程度だ。それ以外には家人めいめい好き勝手に過ごす。黙々と武具の手入れをする者あり、ここぞとばかりに趣味の庭いじりに精を出す者あり、討伐から帰還したその足で外に遊びに出る者あり。
     〝種絶〟と〝短命〟、ふたつの呪いを解くことは一族の悲願。
     なれど、〝そのこと〟ばかりに捕らわれるなかれ。
     今はもう亡い誰かの言葉を口にしたのは、イツ花だったか今の当主であったか。
     とりあえず。かの言葉を体現するように、雪路は精一杯休みを満喫していた。
    「ええっと……ここが一で、こっちが二だから……、と……」
     襖を全開にし、外気と陽光とを存分に取り入れた自室にて、腹這いになった少女は組み紐に夢中になっていた。傍らに布を反故し作った色とりどりの糸を積み、特に選んだ幾つかを交叉させ編みあげてゆく。今指に巻くのはタンポポに似た淡い黄色だ。これを基調に色を重ねると、濃い緑髪を結うのに丁度好い紐ができる。
    「雪路―、着物の替え知らね……なんだよ、またそれか」
    「いいでしょ、別に。踏まないでよ。着物だったら穴空いてたとこ、かがっといたから。そこ」
     同室の兄が戻ってきても目もくれない。集中、集中。最近は単に色を交叉させるに飽き足らず、複数色で複雑な文様を描くことに挑戦し始めた。大変だが、完成の達成感はひとしおだ。
    「ありがとな。それ、二本ありゃ足りるだろ?」
     こうやって、と頭の両脇で握り拳を作る貞行を「うるさい」と一蹴する。「これは姉さんにあげる分。一等いいやつにするんだから、邪魔しないで」
    「そっちは分かったけどなあ。お前、自分用のもやたら組んだだろ。あんなにあって、いつ使うんだよ」
    「余計なお世話!」
     間違えるからあっち行ってと邪険にすると、双子の兄は肩をすくめやたら大袈裟な抜き足差し足で部屋を出ていった。
     全く。色とりどりの組み紐を並べ、今日はどれにしようかと悩む時間は至福のひとときなのに、男の子ときたらその喜びをこれっぽっちも知ろうとしないのだから。
     ――何時。使うんだよ。
     ――そんなに作ったって。二年も無いのに。何時。
    「……違うって」
     我知らず零れた呟きにはっとする。違う、とは、何に、誰に対しての言葉だったのだろう。
     組み紐を編む己が指を見つめる。先日戦いで折った爪は術で治した。但し雪路の手のどの爪も、以前よりも短く、指の先が見えるくらいに短く丸く切ってしまった。こちらの方が折れる心配をしなくていいから、という至極単純な理由からだった。
     格好悪い。
    四角い爪を見る度思う。諦めだって必要だと、雪路もちゃんと分かっている。くせっ毛がどうしても収まらず髪を伸ばすのを止めたことや。討伐の最中は顔を洗うのもままならないこと。それらと同じ。爪を伸ばせないのは仕方がない。
     姉の――幾野の爪を思い出す。すうと伸びた、薄い、美しい楕円の爪。紅く、貴石の如く艶めく爪。幾野の職は踊り屋だ。髪から指先にまで磨き上げた肢体は、戦いの最中でも見惚れるくらいにきらめいて見える。
     爪。自分の、雪路の爪。四角くて、厚くて、不格好な。それでも爪紅を載せれば艶々と紅めく――戦う内に鬼の血で塗り替えられる、姉の爪とは大違いの。
    「……あ」
     紐を組む手が止まる。二段ほど順番を間違えて組んでいた。あちゃあと呟き、糸を痛めぬよう注意して解き始める。
    ゆっくり、焦らず。
     呪われし一族でも、その程度の時間はあるはずなのだから。

    「俺たちには時間がない」
     一族が集まる広間で口火を切ったのは伸元だった。イツ花の用意した薄荷水に誰も手をつけないうちからの言葉だった。
    「俺たちは二年も生きられない。無駄なことにうつつを抜かす贅沢は許されないんだ。そうだろう?」
     言葉は当主に向けてのものだったが、視線は下座に座る雪路を、雪路の髪を結ぶ色鮮やかな組み紐を刺している。威圧感に雪路は目を逸らすが、腹の中では「誰にも迷惑かけてないし」「アタシの勝手でしょ」との気持ちが渦巻いている。隣の貞行が、雪路と伸元の間に割り込むように尻の位置をずらした。
     それで、というわけでもなかろうが。伸元が当主に向き直る。
    「無駄なことはしていられない。戦いでもだ」
    「それは、皆の前でする話かな」当主の。かすれた声が響く。皆より一枚余計に着物を掛けた姿は、穏やかで弱々しくもある。当主は息子である襲が白湯を勧めるのを手だけで断り、
    「ノブさん。それ、今、ここでしなきゃならない話かい?」
    「そうだ」
     伸元の返答には迷いがない。「どうせ後でも知れることだ」
     そうして。居並ぶ一族を睥睨し。
    「貞行と雪路。どちからを戦線から外して、一人に絞って経験を積ませるべきだ」
     雪路は唖然とする。戦いに出さない。それは、一族に〝必要ない〟と明言されたも同然ではないか。
     非難の声を上げたのは幾野だ。
    「二人ともまだ戦場に出たばっかりだ、これからが伸びる盛りだってのに、芽を潰すだなんて」
    「だから、だ」伸元の語気は強い。「若い奴が三人も討伐隊に居れば戦力は下がる。鬼にも勝てない。育つ時期に戦いの経験を積めないのでは意味がない。一人を削って他を強くするのが一番効率がいい」
     幾野の頬に朱が昇る。「だとしても、他に遣りようが――」
    「ノブさん」
     当主が。論争を遮る。
    「ねえ、聞いて。ノブさんも、幾野も、みんなも」
     当主は穏やかな態度を崩さず――「僕らは、死ぬんだよ」
    「僕はもうすぐ、ノブさんと幾野は……今年は越えられるかな。でも、そのうち皆死んでしまう」
    「そうだ」伸元が我が意を得たりとばかりに身を乗り出す。
    「だから、今出来るだけのことを、」
    「〝だから〟今、育てなきゃならないんだ。貞行も、雪路も、襲だって」
     きっぱりと。当主は言い切る。
    「僕らはこの子たちを残して死んでしまう。余裕なんてない。誰にも、戦えないまま大人になる贅沢を許してやれない」
     意見の真っ向対立に、伸元は一瞬絶句し、
    「だからって、お荷物抱えたままじゃ先へ行けやしない!」
    「経験を積めば〝お荷物〟じゃなくなるよ」
    「だからその余裕が、」
    「伸元」
     声は変わらず穏やかだ。まるで真綿を重ねて重ねたように。
    「一族の戦力を削ぐ者がいるとしたら――それは君だよ」
    「……!」
    「君の、どうしても鬼を自分の手で殺したいって願いを聞いて、君を未だに討伐に行かせている。その間、幾野は留守番だ。君は幾野の、君以外の一族の成長の機会を奪っているんだよ」
     強張る伸元へ、当主は告げる。
    「誰かを討伐隊から外せと言うなら、伸元、僕は君を外す」
     当主の口調は柔らかく、交渉の余地が見当たらなかった。
     伸元が立ち上がり、足音荒く広間を出てゆく。当主は「少し頭を冷やそう」と言ったきり、襲の手を借りて部屋へと戻る。気まずい沈黙の後貞行が席を立った。駆けていったのは伸元の方角だ。伸元は貞行の指南役だった。きっと追わずにおれない理由があるのだろう。
     残った雪路と幾野、どちらからともなく広間を片付ける。手をつけられなかった薄荷水はだいぶぬるくなっていた。
    「雪路」ほつり。名を呼ばれる。
    「爪紅の材料を採りにいこうか。あんたにもそろそろ作り方を教えなきゃね」
     あたしはあんたを残して死んでしまうんだから――と、姉は言わなかった。

     爪紅の材料は鳳仙花なる花だと、幾野は言った。屋敷の裏に山があり、そこに自生しているのだと。
    「とは言え、まだ早かったかねえ」
     山道をひょいひょい歩きながら幾野は苦笑する。「夏の頃に咲く赤い花でね、見ればすぐに分かるよ」
    「そんなに目立つの」
    「まあね。あと、触ると爆発するよ」
    「うっそだあ」
    「本当さね」
    「爆発するなら、どうやって花を摘むのよ」
    「おやおや、この子ったらいいところに気づいたね」
     軽口を叩き合う間に、ひらけた場所に出た。「此処に、夏になると鳳仙花が咲くのさ」――微かな暑気を含んだ風が、汗の滲む額を撫でる。もうすぐ夏だ。
    「ノブさんのこと、嫌わないでおくれよ」
     唐突な台詞だった。幾野は何ともいえない曖昧な顔だ。
    「真っ先に怒ったあたしが言うのもおかしいけどね。出来れば、悪く思わないでやっとくれ」
     姉の頼みであったのに、直ぐには頷けず雪路は俯く。手持無沙汰に弾く爪は短い。
    「ノブさんの方がアタシを嫌ってるし」
    「どうしてそう思うんだい」
    「だって」
     伸元は色鮮やかな組み紐を嫌っている。家にいる間、日毎に帯を変えることを、拳法家の雪路が爪を紅く染めるのを。
    「ノブさん、アタシの好きなものが嫌いだから」
     でも。「でも、アタシ、やめたくない」雪路は爪を握り込む。嫌われても、戦いに役立たなくても――姉に敵わずとも。雪路は美しい諸々を捨てられない。捨てたくない。
     ざあ、と、風が吹く。跳ねる金髪と、三つ編みにした緑髪が色違いの組み紐と一緒に揺れる。
    「雪路は爪紅が好きなんだね」
    「……姉さんは好きじゃないの」
    「どうかねえ」紅を載せずとも美しい爪で、姉は笑んでいる。
    「赤は、好きさ。火の色だ。あたしたちに足りない、火の色」緑の髪と目の娘は、金の髪と目の少女へと語る。「でもさ。紅そのものを好きになったことは、ないかもしれないね」
     羨ましい、と。雪路には聞こえた。
     美しい爪が、傾きかけた日を透かして艶めいていた。

     日の暮れる前に帰宅した姉妹を出迎えたのは、軒先で涼んでいた当主だった。おかえり、と微笑む当主はまだ外にいる心算らしい。雪路たち以外の誰かを待っているのだろう。
    「坊主?」
    「鳳仙花には時期が早かったみたいでね」
    「ああ、紅にするんだ」
     当主はそっと肩掛けの前をかきあわせ、「僕が死んだら爪紅は要らないよ」
     幾野は目を伏せ頷いただけで、何故を問うたのは雪路だった。
    「赤は魔除けの色」当主が目を細める先で、今日の陽が沈む。
    「死出の旅に悪いものが迷い込みませんように、って。爪紅はそういう意味だと、僕は思う。今生で鬼を斬れなかったぶん、あの世で戦いたいからね。鬼が遠ざかっちゃ却って困る」
     だから、紅は君たちで使いなさい。
     当主の声は優しくて、幾野も彼の心を酌んだらしくて。何も分からず、分からないくせに「違う」と喚きたいのをひたすら堪えていたのは雪路だけだった。
     そののち当主は死んだ。遺骸の爪は白いまま荼毘にふされ、当主の座は幾野が継いだ。
     新当主が最初の仕事にしたのは次月の討伐隊の編成だった。薙刀士の襲、大筒士の貞行、拳法家の雪路、そして、隊長には槍遣いである伸元。
    「ノブさん……伸元には今月を最後に前線から引いてもらう」
     新当主の毅然とした物言いに、伸元は否やを返さなかった。深く頭を下げ、顔を誰にも見られぬよう隠しただけ。
     雪路は。雪路が大事なものを否定する男の背を、見ていた。

     爪を、討伐出発の前日に染めた。姉に教わった遣り方で丁寧に磨き、紅く色づける。
     白粉を刷き、唇にも紅を差し、髪を手製の組み紐でくくって討伐に臨む雪路に、伸元は顔を歪め「踊り屋にでもなったのか」と皮肉を飛ばした。向こうで貞行と襲が引きつっている。
     雪路はきっと顎を上げ、伸元の目の強さに挫けかけ、慌てて踏ん張りなおす。
    「これがアタシの戦装束なの」
    「ほう」
    「だ、だからコレで行くの。鬼に負けやしないから」
     伸元はまだ言い足りない様子だったが、「出発の刻限だよ」と幾野に急かされ渋々出発する。最後に雪路をじろりと睨み、「無駄なことを」と吐き捨てた。
     雪路は拳を握る。伸元は正しい。鬼の討伐に往くのに、化粧だなんて。どれだけ着飾っても鬼と己れの血に汚れるのに、顔を洗う暇もないのに。姉のように、爪を整えられないのに。
     それでも、彼女は。

     カビ臭い空気が熱く唸っている。
     親王鎮魂墓、地下三階。連なる壁と柱の間を、徘徊する鬼の合間を駆け抜け、討伐隊は巨大な土偶と相対していた。地下と思えぬ広い空間で、鬼は狭苦しそうに暴れ回る。巨体をあっちにこっちに振り回し、当たるもの何彼構わず打ち砕く。
    「これ、柱とかやばくねッ!」〝結界印〟を投げ攻撃を逸らす術をかけながら、貞行が怒鳴る。「百年大丈夫だったんだから、大丈夫じゃない、かな……っと!」答える襲は〝陽炎〟の術を使う。二重、三重に重ねた結界に惑わされ、土偶の腕はあらぬ場所に打ち下ろされた。
     拳を握り、雪路は土偶に背後から肉薄する。獲物を求め腕を振り回す鬼へ、「ふッ!」呼気と共に連撃を叩き込む。〝風〟を纏う拳が石の表面を僅かに砕き、こびりついていた大蜘蛛の体液が破片と一緒に飛び散る。
    「足を止めるな! 下がれ!」
     伸元の怒鳴り声に押され、後方へと跳ぶ。入れ換わりに伸元が前に出る。堪えていた息が上がり、酸っぱい唾がこみあげた。〝胡蝶の手袋〟を嵌めた手で口元を拭う。墓土の臭い。
    「雪ちゃん、攻撃は通った? もう一本〝力王水〟を――」襲が向き直り、目を丸くする。こんな時なのに貞行ときたら爆笑した。「おま、お前、その顔!」
    「分かってるって、ばあーか」
     雪路も笑う。手の甲は血と土埃と流れた白粉でどろどろだ。顔だってひどい有様だろう。
    「もう一回行くから! 〝陽炎〟よろしく!」
    「気をつけて」
     駆ける。駆ける。目の前で、土偶の一撃が伸元に入った。背の筋肉が盛り上がり、耐える。反撃の穂先が土偶の肩を砕く。アレは雪路には出来ない。鬼の重い一撃を、少女の身体は受け止めきれない。(だったら)
    「当たんなきゃ――いいだけ――!」
     横合いから土偶の脇腹をぶん殴る。単純な力では通らずとも、技の力を乗せれば打ち抜ける。
    「ノブさん、回復は」
    「貞行にやらせる、前に集中しろ」
    「うん、はいッ」
     削っている手応えはある。今はそれに賭けるしかない。此処に辿り着くまで、雪路たちも幾たびも鬼と戦った。その経験を信じるしかない。
    「ひどい顔だな」
     伸元の言葉に、雪路は一瞬息を止める。内容もそうだが、何より声に、戸惑いめいたものが混じっていたからだ。
    「お前は、戦いたくないんだと思っていた」
    「……化粧するから?」
    「……来るぞ!」
     両手を組んだ土偶が突進してくる。その質量で押し潰さんとしてくるのを、左右に分かれて避けた。土偶は小さな頭をふらつかせ、後方で援護する少年らへと巨体を向ける。
    「アタシ……は、あッ!」
     吼える。ぐりん、っと土偶が雪路へ向き直る。それでいい。後ろへ行かせるものか。
    「諦めないから……! 絶対にダメだってなるまで、全部!」
     土偶の向こうに伸元が見える。きっと、雪路の大事なものを大事だと思えない男がいる。
     雪路の爪は伸ばせない。髪は真直ぐにならない。白粉は汗で流れてしまう。爪紅の赤は鬼の血に取って代わられてしまう。それでも。
     土偶の突進に突っ込むようにしてぎりぎり脇をすり抜ける。一瞬あと背後で轟音が響き、爆風と壁の破片とが飛んできた。
    「……っつ、う……ッ」
     ごつん。頭に衝撃があって、視界が揺らぐ。大きな土くれが運悪く当たったらしい。攻撃は避けたのに、と悪態を吐く暇もなくよろめく身体を、長い腕が支えた。〝円子〟のあたたかさがじんわり沁み入る。
     伸元。
    「……結い紐を、落としたな」
     成程。視界が半分塞がっていると思ったら、髪を結ぶ組み紐が片方何処かへ行ってしまったらしい。
    「へーき」
     にやり、笑う。伸元の腕を支点に体勢を立て直し、懐に手を入れる。引き出す手の中には、新しい組み紐が、もう一本。
    「あるから。失くしたくらいどうってコトない」
     髪を素早く結び直す。視界が開ける。伸元と、目が合う。
     戸惑うような。呆れたような。理解できずもどかしいようなほんの少し、驚嘆したような。
     もしかしたら。伸元とは一生分かり合えないかもしれない。寄り添うにも、言葉を尽くすにも、二年の寿命は短すぎる。
     だからって。
     無駄だからって、諦めなきゃならない道理が何処にある?
     死化粧はみせかけだ。赤が魔除けになるかなんてほんとうは知らない。だとしても、雪路は爪紅を、紅を差した大切な誰かの手を愛おしいと思う。喩えその誰かが死んだとしても。
     爪紅は証だ。雪路が諦めていないことの。雪路が生きている間には解けないだろうふたつの呪いに、膝を屈したりはしないことへの。〝自分たちには為せないから〟〝無駄だから〟で、全部を諦めたりはしない――ちっぽけな意地が、そこにあるのだと。
    (紅はアタシの戦装束だ)
     美しい、戦いに役立たないものは、雪路の武器で鎧だった。
     〝種絶〟と〝短命〟の呪いを受けた彼女が、これが自分だと格好つけて笑うための。それがどれだけ無駄で、無様でも。
     これがアタシの選択だと、胸を張って笑うための。

     この月。一族はアガラ封印像を倒し、親王鎮魂墓深部への道を開いた。

     探していた赤毛の頭を庭先で発見し、雪路はにんまり笑う。
    「みーいつけたあッ」
    「ひゃっ」
     木刀を振るっていた小さな身体がひょんと跳ねた。
    「叔母上ですか。ああ、びっくりした」
     幾野の娘にあたる少女は、母親にも叔母にも似ていない火色の髪と目で苦笑する。母を亡くしてしばらくは塞いでいたが、少しは落ち着いたようだ。
    「何時もいつも鍛錬ばっかりでさあ。偶にはお洒落のひとつもしなよ」
     赤染めの爪をひらめかせ、形見の化粧箱が泣くよ、と言うと、姪は困った風に「叔母上が使うのが良いと思います」答えた。
    「私には必要ないものですし」
    「もー、何で早々に〝必要ない〟って決めるかねえ」
    「……私には、剣がありますから」
     誇らしげな視線の先には、あかがね拵えの太刀がある。少女の、一族に久々に生まれた剣士にのみ使える継承刀だ。
    「この戦闘バカっぷり、ノブさんの影響だな……ノブさんめ」
    「? ええっと、聞こえなかったのですが、何か」
     首を傾げる少女へ、なんでもないと手を振る。
    「でも、好いた相手が出来たときとか、交神のときとか、そういうときに化粧は役に立つよ。覚えておいて損はないって」
     力説する雪路だが、説得の効果はいまいちだった。まあ男神だけでもあれだけ弾数が揃っているのだし、着飾って迫るより刀でぶん殴る方がきゅんとくる性癖の持ち主だっているかもしれないが。
    「あの」おずおずと。少女が提案する。「今は必要ありませんが、何時か入り用になったら、そのときは叔母上のお力添えをお願いしますので」
    「ん。そうしなよ」
     はい、と頷く少女に心の中でだけ、アタシが生きてる内にね、と付け加える。
    「まあそれはさておき、せめて髪の手入れだけでも……あ! コラ、めんどくさいからって逃げんな!」
     どうか、と願う。あの日、羨ましい、と微笑んだ姉に言えなかったぶんまで、幼い少女に知って欲しかった。
     剣にのみ生きるのもいいだろう。唯、此処にも道はあると。短い爪に紅を載せる生き方もあるのだと。
     二年の命は迷うにも何かを為すにも短くとも、これが自分で選んだ道と格好つけて笑うことは叶うのだから。



    【紅より出でて・了】
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