見渡す限り真っ白な、静謐なる銀世界。
そのはずだった山中には今や折れあとも生々しい木々が転がり、焼け焦げ踏み荒らされた汚泥の上にどす黒い血がぶちまけられていた。
それらを為した男は無言で辺りを睥睨している。僅かにはだけた外套の隙間から、激戦の名残りのように湯気が昇っていた。
「我が将」
声をかける者がある。男を『将』と呼ぶ彼は、男に仕える采配師だ。雪中行軍に耐えるため外套を着込んでいるが、この寒さは耐え難いようで、しきりと指先をこすり合わせている。
「獣の掃討が終わりました。ここ一帯はまあ安全でしょう。あ、これ、持っててください」
脈絡なく渡される椀について、男はじろりと見ただけで何も言わない。黙って報告を聞いている。椀の中では白い雪がきらきらと光っていた。
冬の早く来すぎたこの山に、餌にあぶれた獣の群れがあった。
彼らにとって幸運なことに、そしてヒトにとっては不幸なことに、山のきわに小さな集落――少量の家畜と、幾らかのヒトという、獣にとってのエサが住まう場所――があった。
集落を襲い、住人悉くを喰い尽くし栄養を蓄えた獣たちは、更に別の村へと牙を向けた。
並みの狩人では対処しきれなくなった獣を狩るため、帝都より兵が派遣された。その豪腕と炎でもって敵を殲滅する男と、その配下たち。
任は成功し、ヒト喰いの獣は物言わぬ骸となって積み上げられ、朽ちるのを待っている。
返答のない相手に報告を続けていた采配師が、持たせた椀を覗き込む。
「溶けましたね」
采配師はひょいと椀を取り上げる。火神を宿す男の周囲にはじわりと熱が漂い、椀の雪を溶かしていた。
主のいかつい形相などどこ吹く風で、采配師は即席のぬるま湯を手に兵の元へと向かう。いくつかの囲みに分かれた兵ら、そのうちのひとつに近づき、しゃがむ。
「ほらー、水だぞ。温かいだろ? 我が将からだ」
軽い。不自然なまでに明るい口調。
しゃがむ先には横たわる兵の姿。
囲む他の兵は、或いは笑い、或いは目を逸らし、或いは歪む表情を見られまいと顔を背ける。横たわる兵は傾ける椀から零れる水を受ける。一滴、ふたしずく。
動かなくなった兵を前に、采配師は少しだけ待って、それから腰を上げた。「温かくしてやれ」
「はっ」
下敷きにしたむしろが骸をくるりと巻く。中身の半分ほどが溢れ落ちていた腹も、それで見えなくなる。
采配師は将の元へ向かう。将は無言で真白い雪を睨んでいる。
別の兵がざくざくと雪をかきわけ「ウォプタル車の用意ができました」報告する。
「不要」
低い声。将のもの。
「我には不要。骸を乗せよ」
しかし、と迷う兵に、采配師が「命令通りに」と告げる。
雪中の行軍が始まる。夜より前に山を降りたいと、その歩みは速い。傷を負った兵も、歩ける者は必死で足を動かす。
将と采配師は、兵をしんがりで見ている。
将を。采配師は、見ている。
外套の隙間より細く立ち上る湯気を、毛皮で裏打ちされた靴の下じゃくじゃくとぬかるむ土を、何も言わず、己が火神を滲ませる男を。
采配師は前を向く。
獣の大半を相手取って傷ひとつつかなかった将と、兵の骸を乗せたウォプタル車を、見るともなしに見比べる。
どれほど隣を往く男が強くとも、ひとりで成せる範囲には限りがある。
この男の躰が、炎がどれだけ強くとも、敵の居場所をつきとめるにも、敵を戦場に誘い込むにも、散り散りになった敵を追跡し掃討するにも、兵の――他人の力と犠牲とが必要不可欠なのだ。
主が何を思い、真白い世界を睨み据えているのか。采配師にはようと知れない。
全てをひとりで成すことの出来ない我が身を振り返っているのか。
獣ごときで傷つき死ぬ兵の弱さに苛立っているのか。
もしも。
ひとりで全てを成せるようになったなら、この方は、何処へ往くのだろう――どこまでも白い景色の中、采配師はそんなことを考えた。
もしも。
主が、ひとりで為せることを『やりたいこと』に『やるべきこと』に定めてしまったら。そのとき己れはどうするのか。
そこまでは、思い至らなかった。